2023年09月26日
秋でもないのに、、、
すっかりご無沙汰してしまいました。
な、なんと、二ヶ月ぶりの更新とはあな恐ろしや。(笑)こんなこともあるんです。
いやあ、忙しかった。とんでもなく忙しかった。こんな忙しい思いはもうたくさん、ってくらい忙しかった。
盆休みもなく、青春を返してくれッ!ってちょっと厚かましい話ですな。てへへ。
しかし、人間忙しいのが幸せか?暇を持て余してごろっと横になり、手のやり場に困ってハナクソをいじくるのが幸せか?
もう若くはないのだから。充分にシニアな私は幸いなことに好きな仕事がある。
わたしたちの会社はチョット変。いや、かなり変。😆
建築会社は家を建てたいと思うお客さんの忠実な僕しもべ。客が右向きゃ建築屋も右を向く。嗚呼、それなのに、わたしたちコモハウスは左を向いて天として恥じない。わたしたちにはわたしたちの建築がある。
住まいはもっと美しくなる。信じてもらえるだけの執念をうちに秘めて。わたしたちはわたしたちの執念を研ぎ澄ますしか道はない。
しかし、美しい住まいを求めるのなら、コモハウスは決っしてお客さまを裏切らない。

2023年07月23日
住まいは世につれ、、、外装もまた、
しかし、世は外壁にはつれない。笑
わたしが建築に携わり始めた頃、外壁といえば「モルタル下地スタッコ吹きっぱなし」か「こて抑え」または「リシン吹き付け」たまには「タイル張り」なんていう家もありました。
それが何時からか外壁といえば「サイディング張り」。猫も杓子も「サイディング」サイディング。
サイディングだけは好きになれなかった。サイディングの外装もアメリカから来たのでしょう。アメリカの場合は横貼りのデザインが多く、かてて加えてそのデザインには窓のケーシングや破風の化粧板やら玄関ドアとドア周りの化粧枠などがセットになって彼らなりの伝統の美意識の延長にあったのですが、日本ではただその表づらだけをいただいてこの一枚だけで外壁なら楽チン楽ちん、オマケに手間要らずで安上り、こんな良いことはない。
しかもご時世はバブルの建築ブームの真っ盛り。
この不幸な建築様式が日本中を覆い尽くしてわたしたちはこの景観を一掃するのに百年はかかる。
しかもご時世はバブルの建築ブームの真っ盛り。
この不幸な建築様式が日本中を覆い尽くしてわたしたちはこの景観を一掃するのに百年はかかる。
それでも唯一手掛けたのは「ラップサイディング」。大甘に見てラップサイディングなら、ま、許せる?^_^
それからいく歳月が流れました。珪藻土、漆喰、そしてスペイン漆喰「パヴィスタンプ」へ。
ウェスタン・レッドシダー、国産の杉板貼り。
そこからはあまり変化もなく、乙女の姿しばし留めん。
元々スペインが大好きで、フラメンコにハマってオレー!
スペイン風の家を建てたいとは思わないけれど、スペインの光と影ならぬ、人生の光と影をどう建物に投影するか?
と、そんなことばかり考えているのです。
人生は出会い。サヨナラだけが人生さ。
素材もまた人しれぬ出会いと、そこで触れ合う感性がわたしたちの住まいづくりを左右する。
今回はこの外壁に貼った岐阜(飛騨)の名も無い縦張りの杉板がすべてを決定づけたと言って言えなくもありません。
良い素材との巡り合い。ありがたい。
先日、送ってくれた岐阜の山元の材木問屋さんがひょっこり訪ねてきました。
「これはいい杉材だねえ。どこの杉?」と聞くと、
「いえもう、厚みと巾で挽ける材を探してきただけですが、でもこれ、ホント、良いですね。同じものを持ってこい言われても出せないですね」
「そうか、氏より育ちだね」
さて、その杉板にリボスのタヤ・エクステリアでお客様がコツコツと塗装を施しました。
漆喰は毎度おなじみのパヴィスタンプ「ローブル」色。玄関庇は同じく「グラファイト」色。
軒先の鼻隠しは杉の厚板にウッドロングエコで仕上げ。
玄関ドアは未だ仮ドアで「ベニヤ仕上げ?」にダークレッド塗装です。アッチャ!
玄関のドア枠もこれから現場塗装になります、乞うご期待!
玄関ドアは足場を外してから取り付けますが、こちらもオスモで現場塗装。
やれやれでんな!
2023年07月15日
夏の建築、あれやこれや
一気に暑さが増したこの一週間でした。
お天気に右往左往されずに仕事が進められるのはありがたいことですが、突然の夏は迷惑でしょうか?笑
さても仕事はコツコツコツコツ。コッツウォルズに負けるなまけるな。
外壁は細かい部位を除いておおむね終了です。
左官壁は西洋漆喰パヴィスタンプの「ローブル」色と「グラファイト」。
実はもう一色、西側のロフトの窓の周りに「タバコ」も使っています。
これがなんだか「深窓の令嬢」か?
細かい内部の造作が進みます。
これはこれはの連続ですが、千里の道も一歩から。
大工が頑張る。
2023年07月08日
あれからほんとうに一年。
あれから一年。
一年経ってもわからないのは、誰も国民がこの不自然な暗殺事件を疑うこともなく、警察発表をただただ信じるその心根。
えっ!おかしくないの?
手術を担当した奈良医大福島教授と奈良県警の司法解剖の結果が真逆だというのに、可笑しいとも思わないの?あんなちゃちなおもちゃの拳銃で正確に、シロートが、喉を撃ち抜けるの?6発とも計12発とも言われる山上銃から出た安倍さんのご遺体に残された二発とも一発とも言われる銃弾以外の10発はどこにいったのか?なぜ奈良県警は総動員で現場検証をシラミツブシにやらなかったのか?
その後山上被告が表舞台から忽然と姿を消し、一切その動静が明かされないのはなぜなのか?
奈良県警は共犯?日本政府は共犯?真犯人はダレ?
2022.8.28 建築の作法無作法 BLOG より
「はてしない日本の闇」
「気が重い毎日。
日本はもうダメかもしれない。自虐史観、 ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム。
日本の戦争犯罪を「罪」として、これでもかこれでもかとその「罰」を問うた占領軍。その前に世界を植民地にしてやりたい放題の悪行を重ね続けた欧米こそ戦争犯罪の罪の重さにひざまづくべきではないか。
世界は腐りきっているけれど、しかしそれは世界ではなく、欧米が腐りきっているだけのこと。日本人はバカだけど腐ってはいない。欧米人は利口かもしれないけれどそれはただの腐った市場。コロナに騙された日本人はこの先何処に行くのだろうか。 安倍さんの暗殺事件から四十九日。衝撃的な事件もその闇の深さに思いを巡らす事すらなく、山上が犯人と信じて疑わないわたしたち日本人の平和ボケしたオツムはいったいどうしたものだろうか。
事件から1、2時間足らずで山上の身辺が洗いざらいリークされ、まだ安倍さんの死が確定される以前から山上の自白を検証もせずマスコミに流す奈良県警。もしかするとお前たちも共犯者ではないのか?
しかも今現在、山上は鑑定留置で精神状態を検証するために病院に入れられ、わたしたちの前に一切現れない。そんな不安定な精神が疑われる山上の供述をなぜ次から次とマスコミに垂れ流したのか?何らかの意図が働いたのではないのか。
なぜ疑うこともなく山上単独犯と決めつけたのか?
真の犯行グループは他にいるかもしれないではないか!映像を見ると一発目は山上は自分の顔の辺りの高さでぶっ放し、二発目は腰の辺りか胸の高さでぶっ放している。狙いも定かに確かめず、そんなテキトーな体勢で正確に的を射ることができるだろうか?しかもあの見るからに貧弱な手製の銃で。
ケネディ大統領暗殺事件を彷彿とさせる安倍元首相暗殺事件の闇。
いったい誰が仕掛けたのか?
普通に考えれば、警察もマスコミも政府さえも黙り込ませる力を日本に振るえる国は?
日本に自虐史観を植え付けた、あの戦争は日本が悪かったと思い込ませた自虐史観。
事実は闇のなかで眠っている。
真実は闇のなかで喘いでいる。
真実は闇のなかで喘いでいる。
わたしたちは未だにそんな覚束ない国の有様に甘んじていなければならない。
わたしたちの国はいつか自立することがあるのだろうか?
いつかほんとうの独立国として立ち上がることがあるのだろうか。」
2023年07月07日
あれから一年。日本の闇 。
どんなに叫んでもこの闇は微動だにしない。この国に限らないけれど、長い歴史の中で育んできた既得権益を連中は全力で死守する。臭いものには何枚でも蓋をする。これでもか、これでもかとみっともなかろうが恥も外聞もかなぐり捨てて臭いものに蓋をする。もう匂わないだろうと思っても、それでもこの不可解な暗殺劇は消すことのできない匂いがあたりに薄っすらと立ち込めてくる。一年経つとその輪郭が少しは見えてくる。驚くような輪郭が見えてくる。この深い闇にはあの国とこの国が噛んでいるのだと。
恐ろしいのはこの国が絡んでいるということ。
わたしたちはもうお天道様に顔を上げて歩けない。正直を笑えない。卑屈に、いつでも貧乏たらしく、こそこそと路傍の端を歩くしかない、そんな国民性をわたしたちは永遠に受け入れたということ。
泣きぬれて、泣きぬれて、もうここより他に出ていく場所はない。それは監獄。
去年のブログから再び再録します。
2022.7.20
「今年の夏の到来は例年にくらべて早かった。梅雨があっさりと姿を消すと怒涛の夏がやってくる。そう、ヤーヤーヤー!と。
なぜか今年は蚊が少ないですね。事務所の裏に大きな木がそびえて、そこら辺が鬱蒼としているせいで毎年夏は裏の玄関をあけると蚊に悩まされたものですが、それが今年はほとんどいない。
悪党がはびこると流石に蚊も怖気づくのかおかげさまで南向きのデッキ側のドアをあけ、北側のドアをあけていると風がとおってこの上なく涼しい。おまけにキンチョーまで炊くとああ、日本の夏。
しかし、気持ちよく涼んでばかりもいられない。明るい夏の日差しの裏にどす黒い闇がよこたわっている。
ネットのニュース配信を眺めていると、元総理の暗殺事件が静かに隅に追いやられ、統一教会の闇と犯人に仕立て上げられた悲しい男の不幸な人生がクローズアップされてまるでワイドショーの絶好の餌場、この路線で突き進めと大号令がかかる。
安倍元首相暗殺事件はほんとうに山上の単独犯行なのか?共犯者はいないのか?共犯者がいるかもしれないという疑いをこんなにも早い段階で排除する根拠はなんなのか?なぜ犯行の一時間後には元海上自衛官という二十年前の経歴のみ明らかにされたのか?それは警察発表なのか?しかも間髪をいれず、統一教会との関連と親の破産まで調べ上げて、これも警察発表なのか?それだけあれば充分だとばかりにこの断片で他の可能性を一切排除するこの出来すぎたストーリー。
すくなくとも今日までの報道では、共犯者の存在を疑う報道は一切ない。
つまり、これは、共犯者がいるということなのでしょう。
ケネディ暗殺事件とおなじくらいに真犯人がほかにいる。
しかしメディアとは何でしょうか?わたしたちはメディアを信じてよいのでしょうか?メディアはそれほど信頼できる正義の持ち主でしょうか?
メディアに勝る嘘つきがこの世にあるでしょうか?
世界一の嘘つきがメディアであることは間違いないでしょう。
わたしたちは常にメディアの暴力に翻弄されている。
メディアがイエスといえばノーが正しい。メディアが赤といえば黒が正しい。メディアがあいつが怪しいといえばほんとうに怪しいやつは他にいるということ。
テレビのコメンテータという職業人をよ〜く見てご覧なさい。あの顔、あの佇まい、あの下品な言動。そのすべてが良心とはほど遠いところにあることに気が付きませんか?
ひとの心は顔にでる。テレビの画面を通してみるとそれがさらにいっそうはっきりと見えてくる。
わたしたちはこの怖ろしい暴力を忘れてはならない。」
追記:
2022.7/18 のツイッター記事から。
若狭勝氏
私の検事としての経験上、山上容疑者が事件直後から動機をペラペラしゃべるのが引っ掛かる。一般論では本当の動機を隠し、違う動機を話す犯人が多い
2023年07月04日
あれから一年。「不可解な暗殺事件」
早いもので一年前の7月8日。安倍元総理の暗殺事件。
一報を聞いたのはスマホのニュースでした。
お昼を食べ終わった休憩中だったかな。えっ?という衝撃?なぜだ?
続報が知りたくて、後は仕事が手につかなかったですね。
あの不可解な暗殺事件は未だに真相も、解決も、事件の全体像もおぼろげで、まるで一国の元総理の暗殺という一大事が歪められ、歪曲化され、いびつな姿のまま今に至っている。それは、私たちの国の姿こそがいびつに歪み、腐敗し、死臭が漂うかのように宙ぶらりんに吊るされて漂っているということ。
これは一年前の事件の直後の気持ちの整理がつかないままに書き記したブログですが、今もこの時の疑問がそのままの姿で寸分違わずここにある。何も変わらない。何も明らかにされていない。
ただ私たちの不幸がますます露わになるばかり。
「金曜日のお昼にネットで一報を聞いてから、辛い5時間でした。
安倍首相の暗殺事件は大変つらいものがありました。
おそらく多くの皆さまが同じ思いで固唾を飲んで見守ったのではないかと思います。
この警備の甘さは信じられないけれども、銃声と煙が上がってからの警護要員の信じられない体たらくと緊張感のなさが悔しさを通り越して腹立たしささへ覚えます。
これが例外ではなく、普段からこの程度なのでしょう。
これが例外ではなく、普段からこの程度なのでしょう。
多くの不自然な経緯を見ると、それはさらに疑問がわきます。
最大の疑問は反対側から道路を渡って近づいてきた不審な鞄を提げた犯人をなぜ誰も止めないのか?
道路を半分渡り終えて銃を撃ったとすると、道路が6m道路だとすると半分で3m。さらににそこから1m以上は離れている演説台の上の安倍首相。その距離4m強か?
4m以上の距離から精度のあやふやな手製の銃で、しかも歩きながら、または立ち止まったとしてもコンバット・スタイルで射撃する余裕はなく、そんな普通なら興奮した状態で発泡したとしてシロートが当てることができるのか?
確実に狙撃して目標を撃ち殺すことができるのか?(それができたのです?)
2回発砲して、1回で弾が2発出るとも6発出るとも錯綜した情報があります。いずれにしても1回目の銃弾はどこに飛んだのか?1回目はなにも当たらなかったのか?そうした大事な情報がなぜ出てこないのか?
1時間も経たずに犯人の名前が知れ、20年も前の古い経歴(海上自衛官)だけが明らかになり、住所が特定され、警察が急行し、マスコミまでが駆けつける。そこにはご苦労にも爆弾まである。
救急搬送された安倍総理のヘリコプターが病院に着き、そのヘリの様子をマスコミのヘリコプターが待ち構えたようにさらに上から捉えている。
警備はザルでもその後の経緯は完璧にこなされている。水も漏らさぬ事後処理の手際よさ。
さっそく動機が明かされて、政治的な動機ではなく、安倍首相の言動に腹が立った?
宗教がらみの怨念があった?
普通は動機など、これだけの大事件であれば慎重に捜査を進めるだろうに、なぜか奈良県警は事件から二時間三時間で犯人の自供を疑うこともなくべらべらとマスコミに開示する。
まだ安倍首相の安否もわからないというのに、まるで事件は一件落着?
私たちはこの不可解な暗殺事件をどう捉えるべきなのか?
事件後のこの後処理の不自然すぎる手際の良さはなにかを思い出させないだろうか?
犯人はほんとうに単独犯なのか?
他の可能性を排除してはならない。
ご遺体から凶器の銃弾は発見されなかった?銃弾が見つからないと犯人の手製の銃から放たれたのかどうかが確定できない。もしかすると他の銃からではなかったのか?それすらわからない?
少なくとも銃弾は安倍首相の下から撃ち込まれていて、懸命の回復処置にあたった担当医は首に二箇所の銃弾の跡があった。それは5センチくらい離れていた。傷は心臓にまで達していた、と、その日の会見で述べています。首から撃ち込まれた二発の弾丸は、おそらくはやや下から撃ち込まれたはずで、それがどこでどう曲がって首より下の心臓を傷つけたのか?
しかも、翌日の正式な死因の発表では首に一箇所と左の上腕部に一箇所の計二発であった。左腕の上腕部の損傷が決定的な死因であった。と。
緊急手術にあたった医師の首に2箇所に銃槍があったと、さらに記者に聞かれてその傷は5センチほどのずれがあったと明確に答えているのです。その時、のちほど致命傷の銃槍と発表された左上腕部の銃槍の件は全く触れられていなかった。
わたしたちは騙されてはいけない。
寸分たがわぬ新聞の見出し。
偶然?
いいえ、偶然なんかではありえない!
「重大な事件や事故に偶然はありえない」フランクリン・ルーズベルト
つまり、すべては仕組まれている。
非業の死を遂げられた安倍総理大臣のご冥福をお祈り申し上げます
楊海英:
安倍晋三元首相という世界的なリーダーが暗殺された。官邸は速やかに国民に追悼などを指示し、半旗を掲げるべきではないか?外務省は在外公館に世界各国要人の弔問と追悼に対応するよう指示したか?こんな冷淡な扱い方でいいのか?
インドではモディ首相が7月9日を喪に服す日と定めました。
ブラジルではボルソナロ大統領が7月9日から三日間を国をあげて喪に服すと決定しました。
アメリカだってホワイトハウスを始め、すべての公館で半旗を掲げるとしました。
国連では15カ国の常任理事国の会合で全員が立ち上がって黙祷を捧げました。
で、わたしたちの国は?」
2022年7月10日 当ブログ「不可解な暗殺事件」より
2023年06月30日
夏の家、冬の家
春すぎて 夏来にけらし白妙の 衣ほすてふ 天の香具山
「もうすぐ夏」
例年の梅雨明けは七月のいつ頃でしたか?七夕の頃は梅雨明けかしら?
しかし、雨は降っても日本のあの独特の蒸し暑いジメジメした、不快の極みのような梅雨はもうなくなりましたね。
いつごろからこんなに爽やかな?梅雨がやってくるようになったのでしょうか。つらつら思うに、田中角栄さんの日本列島改造論がその大きな節目であったのではなかろうか。もちろん角さんがブルトーザーのように日本列島を隅々まで耕して地形を作り替えたわけではありません。
ではありませんが、日本が大きく変わる転換点のその象徴が角さんだったのかもしれない。
ではありませんが、日本が大きく変わる転換点のその象徴が角さんだったのかもしれない。
それまではあちこちにあった沼や沢や切岸や、昼なを暗い暗渠のような地形が姿を消して、光に姿を晒し、蛭やウジや藪蚊が私たちを悩ますことが無くなってきた。こうした未開の環境が確実に日本のあの圧倒的な不快の季節、梅雨の正体だったのかもしれない。
あの不快さも今や懐かしい過去の思い出。
家づくりも隔世の感があります。
寂しいのは、住まいの質が構造に追いつかない。住まいの質、とは何だろう?
家づくりは自分探しの旅。そう、ふしぎ発見、というわけです。
建築費も高くなりましたがこの三十年間上がらなかったのが諸悪の根源?建築費も上がらなければ給料も上がらない。
変わらないのは家づくりにかける情熱。住まいは深い想像力の彼方、考えて考えて、乾坤一擲、結局は人間力。己を鍛え、思考を鍛錬し、叩いて叩いて住まいの核を抉り出す。
そんな難しさもお客様には分からない。いや、分かってくれるかもしれない。きっとわかってくれる筈。
パズルのように組立てていくその先に、住まいの骨格が顕になる。
もうすぐそこに美しい住まいはある。
住まいはもっと美しくなる。
あの不快さも今や懐かしい過去の思い出。
家づくりも隔世の感があります。
寂しいのは、住まいの質が構造に追いつかない。住まいの質、とは何だろう?
家づくりは自分探しの旅。そう、ふしぎ発見、というわけです。
建築費も高くなりましたがこの三十年間上がらなかったのが諸悪の根源?建築費も上がらなければ給料も上がらない。
変わらないのは家づくりにかける情熱。住まいは深い想像力の彼方、考えて考えて、乾坤一擲、結局は人間力。己を鍛え、思考を鍛錬し、叩いて叩いて住まいの核を抉り出す。
そんな難しさもお客様には分からない。いや、分かってくれるかもしれない。きっとわかってくれる筈。
パズルのように組立てていくその先に、住まいの骨格が顕になる。
もうすぐそこに美しい住まいはある。
住まいはもっと美しくなる。
2023年06月01日
住まいはもっと美しくなる
かっては「旧築提案」をキャッチフレーズに展開したコモハウスですが、旧いものと新しいものの融合がわたしたちの家づくりの大きなテーマでした。
とはいえ一歩間違えて、この提案が独りよがりになりがちで、充分に意図が伝わらない懸念もあるにはあったりして。笑😆
古材を使い、新しい素材さえも古びて表現するのが大好きなわたしたちはそのことをお客さまにご理解いただくのがこの「旧築提案」の究極のテーマであり、住まいづくりのおおきな課題でもあるわけです。
とはいえ一歩間違えて、この提案が独りよがりになりがちで、充分に意図が伝わらない懸念もあるにはあったりして。笑😆
古材を使い、新しい素材さえも古びて表現するのが大好きなわたしたちはそのことをお客さまにご理解いただくのがこの「旧築提案」の究極のテーマであり、住まいづくりのおおきな課題でもあるわけです。
わたしたちの家づくりはこの二十年間少しも変わらない。恥ずかしいくらいに変わらない。しかし、時代は少しづつ変わってきた。エイジングなどが大手を振って外を歩く。わたしたちにはあたりまえの表現だったエイジングが今ではどのお店でも取り入れられて「古びたもどき」があそこにもここにもそれらしくあってちょっとこちらが恥ずかしくなるのです。
とはいえ「旧築提案」は本来住まいづくりの方法論に過ぎません。「新築提案」はどこの建築会社でもあたりまえの話し。
わたしたちは古(いにしえ)の建築にこそ敬意をはらい、住まいが新築では決っして到達し得ない地平線を目指して旅立つことの深い意味をもういちどおさらいしたい、と考えたのです。
だから、あえて、「住まいはもっと美しくなる」と大上段にふりかぶりたくなるというわけなのです。
さて、住まいはほんとうに美しくなるのでしょうか?
住まいはほんとうに、「もっと」美しくなるのでしょうか?
😁
2023年05月19日
ハチャメチャな世の中
何が日本をそうさせる?
コロナ五類移行後も相変わらずマスクを外さない日本。しがみつくマスク。マスクはとっても安全。ボクは、死ぬまで君を離さないぞ!
やれやれ。
可哀相な子どもたち。生きる屍。子どもたちはマスクをはめる世界しか知らない。素顔で、口角泡をとばし、大声で唾を吐き散らしながら生活する自由を知らない。去勢された人格に慣れ親しむしか術はないのか?
あなたはそんな子どもを見て寂しくはないのか?哀れにならないのか?すでに自分が哀れだから、子どもを憐れむ余裕はない?これが新しい生き方?
いつか子どもが恋をして、初めてのキスをするとき、まずおもむろにマスクを外し、初めて見る彼、彼女の素顔にドキドキしながら、あれ?こんなはずじゃ?
これは喜劇だろうか?それとも深い悲劇の底から沸き上がる不可解な感情だろうか?
初めて見る彼女の唇は、まるでコロナのように、、、かもしれない?
飛鳥の昔から万葉集に歌われたあの恋のもつれは永遠に失われたのかもしれない。マスクが人間のもつ愛の機微をしずかに脇へ押しやり、人間はただ子どもを作る機械に過ぎない。
ほどかれて 少女の髪に結ばれし 葬儀の花の花言葉かな
さて、コロナのお次は LGBT 法案だそうです。トイレは男女共用で、男と女の境界も消え、コロナで失われた人格を LGBT が埋めていく。ジェンダーレスの世界では恋のときめきはすでに不要。
何が善で、何が悪かの境界も、ここでも消えていく。
それは仕組まれた罠なのだろうか?
わたしたちはどこへ連れて行かれようとしているのだろうか?
濁流に すてきしもゆる曼珠沙華 紅きをなんの生贄とせむ
わたしたちには幸福も不幸もない、そんな茫洋とした薄気味悪い世界が口をあけて待っている。
※短歌二首は寺山修司氏の作です。
2023年04月30日
ボブ・ディランと伝説
人の凄み、そうした存在に遭遇した時に感じるであろう驚き、感動、戦慄。それはとても言葉にできない。実は想像さえできない。言葉にできないことを今無理にも書こうとしてはたと手がとまる。
四月十六日、日曜日。東京公演の最終日。物々しい警戒があるわけでもなく、大聴衆が集まったわけでもなく、会場の外の電光掲示板と云おうか、このご時世では大きなデジタル・スクリーンに映し出されたツアーの広告が他の広告と入れ替わりながら映し出されていく。
大音量でもなく、程よい音量でミスター・タンブリンマンが会場のビルの内外で流れているので、そうか、これからボブ・ディランのコンサートが始まるんだと改めて気づかされ、人ごとのようにも思われたりする。
だがしかし、ボブ・ディラン。
私にとっては二度目のボブ・ディラン。もう二十年も前に見たディランもやはり三月だったか四月だったか? 時代は変わる。ディランが歌ったように、シニカルに時代は変わってしまった。変わり果てた時代は、ではわたしたちが望んだように変わったのかと言えば答えはNOだ。60年代の夢は見窄らしく風に吹かれているのだろうか?
いや、それも違う。わたしたちは少しくたびれ果てたが、今でも夢がある。今でも変わらぬ夢がある。
それを、風に逆らっても高く掲げて運びつづけ、前を向いて歩いていく。
四月十六日、日曜日。東京公演の最終日。物々しい警戒があるわけでもなく、大聴衆が集まったわけでもなく、会場の外の電光掲示板と云おうか、このご時世では大きなデジタル・スクリーンに映し出されたツアーの広告が他の広告と入れ替わりながら映し出されていく。
大音量でもなく、程よい音量でミスター・タンブリンマンが会場のビルの内外で流れているので、そうか、これからボブ・ディランのコンサートが始まるんだと改めて気づかされ、人ごとのようにも思われたりする。
だがしかし、ボブ・ディラン。
私にとっては二度目のボブ・ディラン。もう二十年も前に見たディランもやはり三月だったか四月だったか? 時代は変わる。ディランが歌ったように、シニカルに時代は変わってしまった。変わり果てた時代は、ではわたしたちが望んだように変わったのかと言えば答えはNOだ。60年代の夢は見窄らしく風に吹かれているのだろうか?
いや、それも違う。わたしたちは少しくたびれ果てたが、今でも夢がある。今でも変わらぬ夢がある。
それを、風に逆らっても高く掲げて運びつづけ、前を向いて歩いていく。
追記:
今回のツアーは2021年から続くワールド・ツアーの一貫で、その名も「Rough and Rowdy Ways」ツアー。コロナ・パンデミックとともに始まった今回の世界ツアー。ポスターにはドクロの男が手に注射器を持ち、背景には黒い影が、首をくくった男のうなだれ、ぶらさがる様子が描かれています。
ディランは何事かを語っているようです。