cafe 製作。その途上。めぐまれた工務店

2015年09月15日

オリンピックという容れ物

ギリシャの丘に松明がともり、高く掲げた青年のその周りに集う若者たち。
真っ青な地中海の空。澄み渡る空気。ジリジリと照りつける太陽。競技者の誇示と威厳。張り詰めた緊張感。そこには競技場のトラックが、観客席が、大勢の群衆が固唾を飲んで見守る一瞬があるだけ。

金融危機もなければ財政破綻もない。理想もなければ失望もない。競うべき事実はタイムではなく観客の声援なのです。
オリンピックはもうやめたほうが良いですね。クーベルタン男爵の理想はとうに潰えて、あるのは国際オリンピック委員会という既得権益にしがみつき、骨の髄までしゃぶろうという醜い輩の剥き出しの、しかし巧妙に隠された欲望のみ。
だからこのオリンピックの周辺では醜い欲得のデスレースが札束をひるがえして、鍋の底を叩いたような阿鼻叫喚がけたたましい狂想曲をかき鳴らすだけ。 

開催都市の獲得レースから始まって、そこに飛び交うのは本質的には札束のみ。さすがにオリンピックのエンブレムで巨大なお金が動く、ということはないでしょうが、しかり、 そして競技場の箱物の選別からその工事の受注合戦、差配するお国の妖しげな連中の委員会という名の欲望の電車。国立競技場だけで二千億円からのお金が動き、周辺の整備やその他の会場の整備費、放送権、広告費、そしてその先にあるのは談合の二字。四年に一度のお祭りは、大人のお金の利権のお祭り。競技者までもそれはすでに職業と化したお祭りなのです。

しかしその中にあって、ザハ氏の設計は一種掃き溜めのツルと言ってもいいような気がします。 あの「生牡蠣をどろっと垂らしたような」競技場の設計案はあれだけを見ても何もわからないわけで、その全体像が何かしらあるはず。設計者の意図も、この時代にあのような建築物を建てる意味がきっとザハ氏の中には明確にあるはずです。それを是非とも聞いてみたい。
彼女がこの時代の先鋭的な類稀なる建築家であることは疑いの余地はありません。いたずらに工事費のことのみがクローズアップされて 面白おかしく揶揄されて、政治家までが口を挟むに至っては何をか言わんや。さてもさても。

餅は餅屋。餅屋の頭の中を銅工屋がつついてもなにも出てこない。ガウディの「聖家族教会」の最初の設計図を見せられた時も、銅工屋は口をあんぐりと開けたに違いない。まるで生牡蠣のように。





comohouse at 12:51│Comments(0) 思いは遥か 

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