2017年08月19日
家づくりの本懐
武士に本懐があるように、建築会社にも本懐があるはずです。では、家づくりの本懐とはいったいなんでしょうか?
家づくりの本懐は、偏に「お客様の大いなる満足」であり、さらにはご近所の皆様がこの家が建つことによって、出現することによって何とは無し(この家があることが)嬉しくなる、喜びを感じる、そうした家づくりを実現することこそが建築会社の本懐といえば言えるのかもしれません。




私たちにはそのような家づくりができるのでしょうか?これまでいったい何棟そのような幸せの家づくりを実現することができたのでしょうか?
建築会社にも成熟があります。ただ華やかなだけではなく、そこにこの家があるだけで許される、そのような建築を目指してきたのですが、この度は施主様のご理解を得て、また一つ峠を越えることができたのかな、と、ほんの少しですが私たちにも安堵の得心が得られたような、(であれば良いのですが、、、)どうでしょうか?
さて、弊社のオリジナルドアー。作れそうでなかなか作れない。まずはこのドアの特性をご理解いただけなければ作るに作れない。家づくりは普通にキレイで破綻していなければそれ以上(もしくはそれ以下?)を求めるお客様は稀です。
それ以上のドアづくりは、まず皆様がそれ以上のドアに思いをはせていただくことが前提になります。それ以上のドア作りとはそれは想像力で補う世界なのかもしれません。ですから、それ以上のドアはお客様の感性によって左右され、私たちの作るドアを楽しんで、それが欲しかったと言ってくださるような、そんな心を通い合わせる努力が必要になります。しかし、それにもかかわらず、何人かの方々が私たちの「あのコモハウスのドア」がいいとおっしゃってリクエストしてくださいます。(慌てて付け加えますと、それ以上、という言葉はそれ以下を見下しているわけではなく、それ以外というニュアンスに近いかもしれません)
それは私たちにとってはとても得難い注文なのですが、時間も精神も極限まで張りつめた労働だけに終わるとなんだか全身の力が抜けてしまう。
しかもこれが、作り始める瞬間まで迷いがある、という厄介な代物。新築住宅で、普通にキレイなだけでいい、そう思っていらっしゃるかもしれないお客様に私たちの手作りのドアを提示して本当に喜んでくれるでしょうか?(こんな汚らしいドア、と非難されやしないだろうか?)確信はどこにもない。しかし、まったくもって確信がないわけではなく、だからこそじゃあ作ろうか、と重い腰を上げるのですが、それでも私にはどこかで最初から確信がある、ような気もするのです。
ドア作りにも、実は物語があります。ドアはすでに開かれている。ドアはドア。心のドア。感性の、喜びの、想像力としてのドアがある。そう思っていただけると、建物はまたべつの相貌をおびて立ち上がってくるに違いないのですが。
家づくりの本懐は、偏に「お客様の大いなる満足」であり、さらにはご近所の皆様がこの家が建つことによって、出現することによって何とは無し(この家があることが)嬉しくなる、喜びを感じる、そうした家づくりを実現することこそが建築会社の本懐といえば言えるのかもしれません。




私たちにはそのような家づくりができるのでしょうか?これまでいったい何棟そのような幸せの家づくりを実現することができたのでしょうか?
建築会社にも成熟があります。ただ華やかなだけではなく、そこにこの家があるだけで許される、そのような建築を目指してきたのですが、この度は施主様のご理解を得て、また一つ峠を越えることができたのかな、と、ほんの少しですが私たちにも安堵の得心が得られたような、(であれば良いのですが、、、)どうでしょうか?
さて、弊社のオリジナルドアー。作れそうでなかなか作れない。まずはこのドアの特性をご理解いただけなければ作るに作れない。家づくりは普通にキレイで破綻していなければそれ以上(もしくはそれ以下?)を求めるお客様は稀です。
それ以上のドアづくりは、まず皆様がそれ以上のドアに思いをはせていただくことが前提になります。それ以上のドア作りとはそれは想像力で補う世界なのかもしれません。ですから、それ以上のドアはお客様の感性によって左右され、私たちの作るドアを楽しんで、それが欲しかったと言ってくださるような、そんな心を通い合わせる努力が必要になります。しかし、それにもかかわらず、何人かの方々が私たちの「あのコモハウスのドア」がいいとおっしゃってリクエストしてくださいます。(慌てて付け加えますと、それ以上、という言葉はそれ以下を見下しているわけではなく、それ以外というニュアンスに近いかもしれません)
それは私たちにとってはとても得難い注文なのですが、時間も精神も極限まで張りつめた労働だけに終わるとなんだか全身の力が抜けてしまう。
しかもこれが、作り始める瞬間まで迷いがある、という厄介な代物。新築住宅で、普通にキレイなだけでいい、そう思っていらっしゃるかもしれないお客様に私たちの手作りのドアを提示して本当に喜んでくれるでしょうか?(こんな汚らしいドア、と非難されやしないだろうか?)確信はどこにもない。しかし、まったくもって確信がないわけではなく、だからこそじゃあ作ろうか、と重い腰を上げるのですが、それでも私にはどこかで最初から確信がある、ような気もするのです。
ドア作りにも、実は物語があります。ドアはすでに開かれている。ドアはドア。心のドア。感性の、喜びの、想像力としてのドアがある。そう思っていただけると、建物はまたべつの相貌をおびて立ち上がってくるに違いないのですが。
comohouse at 22:46│
│思いは遥か