初めまして。一年漕手の佐藤歩と申します
過去に先輩方が、とても気合の入った文章を書いてらしたので、今回の執筆にあたって、質の良い原稿を書かなければならぬと大変悩みました。受験勉強の名残ですね。高い評価を得られる、よく考えられた構成の、理路整然としていて構造化された長い文章を書かねばならぬ。そのような強迫観念にさいなまされた結果、ブレーンストーミングを行い、放置し、放置し、そろそろ編集担当の先輩からの連絡が来るかと思った締め切り三日後の本日23:55、「深夜テンション」にまかせて書いてしまってもよいのではないかと思ってしまいました。
私が読んだことのある小説の中で、登場人物が小説家であったり、あるいはあとがきなどで執筆時の笑えるエピソードをたくさん紹介してくれたりするものがありました。時雨沢恵一さんによる「キノの旅」シリーズなどが良い例でありましょう。「キノの旅」シリーズはとても良いです。作中では、キノという主人公がエルメスという名前の付いた二輪車とともにいろいろな「国」を旅します。この「国」というのはその世界に点在していて、城壁などで囲われて、互いに離れて存在しているという設定なのですが、それぞれの「国」において独特な文化や法律やポリシーが存在します。これが良い風刺となっていて、私たちの住む現実世界に対する批判的思考の醸成に役立つのです。
ところでその時雨沢恵一さんによると、締め切りを過ぎてからが執筆の本場であったような気がします。せっかくなので締め切り前に作っていた文章をここに紹介させていただきましょう。
「小学校ではミニバスをしました。(病弱貧弱により全く続かず)
母親は僕が走ることができるように様々な工夫を凝らしてくれました。
たとえば、アルミ缶を真上から踏みつぶすゲームを」
これは私の「運動ができなかったエピソード」を紹介した後に、いかにして私が苦難を乗り越え、ボート競技に片足を突っ込むことになったか(実際には沈練で両足をボートコースに突っ込むことになったが)を綴るための「つかみ」でありました。いかにもな流れでしたがなにかお行儀が良くてつまらない。全然書き進めていけるきがいたしませんでした。「良い子」はわたくしには向いておりません。
さて、わたくしが執筆を急いでいる理由がもう一つございます。わたくしの好敵手:H君であります。身長は同程度、体躯は彼のほうが立派で、重いバーベルを持ち上げることに関しては私は一切かないません。ローイングエルゴメーターにおいてもさすがの馬力で力強い漕ぎをみせてくれて、なかなかにたくましい男でございますがなんと彼、すでに原稿が出来上がっているとのことでした。ボートでもランニングでも、後ろから追いかけてくれる人がいると速度が上がるのですね!
以下簡単に来歴を紹介させていただきましょう。
高卒後、就職し、訓練の一環として「端艇(カッター)」に乗る。
三年間なんとか務めたが退職し、2年間大学受験勉強。
共通テスト(過去のセンター試験、共通一次)受験後に急遽外大に志望を変更し、無事二次試験を突破し入学。
です。
私は小学生のころまで病弱で、運動とも縁がございませんでした。所属していたクラブは特別音楽クラブ(合唱クラブ)、演劇クラブ。本をこよなく愛し、休み時間では常に本を読んでいる。たまに気が変わって校庭に出てみても、スタミナのない僕はすぐに鬼になり、そしてずっと鬼でありました。そして入学した中学校。剣道部に入部したものの、貧相な運動神経と相まって授業のソフトボールでは「女子枠」でした。チーム分けの時に女子としてカウントされていたということです。部活では、パイプ椅子の上で舟をこいでいる顧問の傍ら和気藹々と木刀を振り回していた私ですが、2年生になったときに転機が訪れます。顧問の先生が変わったのです。
新しい顧問の先生の気合の入り様といったらもうすさまじく、バドミントン部の顧問であった彼はすぐに道着と防具を購入し、誰よりも大きな声を出して練習に参加するようになりました。諸兄方にとっては当たり前かもしれませんが、「集合する際は走る」「きついときは大きな声を出す。」「汗をかいた分だけ強くなる」という彼の言葉は、最近物忘れがひどくなってきた僕でもいまだに覚えております。ひょんなことから「体育会系」に目覚めてしまった私は、高校入学後、仮入部においてキビキビとした雰囲気を感じる事の出来た硬式テニス部に入部いたしましたがなんとしたことか、普段の活動は正反対でした。先輩方に敬意を払わず、ランニングはおしゃべりタイム。運動している時間よりも帰り道でおしゃべりしている時間のほうが長かったのではないでしょうか?1年と持たず退部する事となってしまいました。
なぜか入れてしまった進学校でしたが現実はそう甘くはなく、2年生の時には勉強をあきらめてしまいました。体育祭実行委員会の活動と、「ゴミ箱の制作」に打ち込む日々、定期テスト前にみんなが教室で追い上げているときには一人寂しく校舎のすみの階段でスマートフォンでゲームをし、模擬試験で白紙解答を提出しては職員室に呼び出される日々。大学に行って成し遂げたいこともなく、つきたい職業なんておもいつきもしない僕に突然、父親からある書類を渡されました。
「公務員でパイロットを目指すことができる、高卒でも応募できる仕事がある」
という募集要項でしたが期限が残り一週間。特に考えることなく応募した僕は、腐っても進学校の生徒であったからか一次の学力試験を突破し、それまでの人生で一番全力で体力を出し切った二次の身体試験も突破、慌てて志望動機を作り上げてなんと三次試験の面接も突破し、いざ就職することとなりました。
1年間は京都にある学校で、法律や一般業務について学びます。全寮制、12人部屋、朝6:30起床の10:00就寝? 同じ釜の飯を食べ、大浴場でともに入浴し勉強と訓練にいそしむ日々。今までの生活とは全く異なる刺激あふれた新天地で私は「ジュースじゃんけん」のおもしろさを知りました。そんなわけで私は艇庫において一番「皿洗いじゃんけん」への参加率が高いでしょう。たとえ自分の食器がコップ一つであっても、果敢に先輩方に挑戦していく私の姿勢を同期たちには見習ってもらいたいものです。
眠くなる法律の授業、教官が怖い小型艇の訓練、寒くても行う起床後上裸体操。そのなかでも特に魅力的であったのが端艇訓練です。なかまと力を合わせてロープを握って艇(重さ1トン)を下ろし、重いオールを張り、声を合わせて漕ぐ。全員でタイミングを合わせることができれば他の艇より遠くまで行くこともでき、下手であれば途中で引き返すこととなる。
私は後者でした。島を回りたくても直前で引き返し、常に他の艇の艫を見ている。そのくやしさは長らく私の心の奥底で眠ることとなります。
無事に訓練を終了し学校を卒業した私は、今度は宮城にある分校に通うこととなりました。全寮制で個室を与えられ、パイロットになるための座学にいそしむ日々。仲間となじめず、勉強の難しさに苦しめられた私は徐々に部屋にこもり、スマートフォンでのゲームに没頭するようになりました。前の学校においても誰よりもランニングが遅く、自転車も遅かった私は分校でも誰かとスポーツをしたり、自分でランニングをすることはなく、甘いものを食べてベッドでごろごろしていた私は、高校卒業時にやっと越した体重60kgを優に超え、70kgに達しておりました。そんな僕はとうとう心のバランスを崩し、実家で2か月ほど休養を取ることとなります。
実家に帰った私は、「家にこもって運動をしなかった」ことへの反省から、自転車に乗って遠出をするようになりました。前後にサスペンションがつき、前のギアは3段、後ろのギアは6段のマウンテンバイク(オフロード走行禁止のシールがはってある)に乗ってちんたら9時間漕いでみたり、立ち寄った戸塚のマクドナルドの受付のお姉さんのスマイルにアてられたり。そしてスピードと長距離に惹かれた私はロードバイクを購入し、職場復帰後には運動を初めて半年で?食事制限なしに7kgの減量に成功します。すっかり自転車に取りつかれた私は、職場では雑用しか任されないのをよいことに毎週末は100km以上仲間と自転車に乗り、通勤の往復25kmも自転車に乗り、1か月に800kmは自転車に乗っている日々でした。来る夏季長期休暇、私は親の反対を押し切り仙台から神奈川まで400kmを自転車で走破いたしました。かかった時間は仮眠含めて33時間。仕事終わりの19:00頃に直接職場を出発し、日付的には翌々日の朝4時に実家着。人生で初めて自転車の上で寝落ちしてしまったり、那須塩原のコンビニの駐車場で夜、寒さに震えているところに親切なご婦人からハッカ飴をいただいたり、実家まで77kmを残した東京で右ひざを壊し、残りの行程を左足で漕ぎ切らねばならなくなったりと、その後しばらく自転車を見るのも嫌になってしまうような大イベントでした。大変な思いをして到着した実家をその日の午後には離れることとなったのです。家族の一人が当時大流行した感染症に感染したことが判明しました。
急遽新幹線の切符を取って仙台に帰った私は、休みを取った約一週間を持て余すこととなりました。自転車になんて乗りたくない。せっかくの夏休みにスマートフォンばかりいじっているのももったいない。そこで私は思いつきました。「君は自転車がなかったら何もできないんだろう?」と言われたくない。実際仙台は冬には必ずと言ってよいほど雪がふるため、車を所持していなかった私は通勤方法を模索する必要がありました。そこで私は、超短期帰省の疲れが取れた夕方に、近所を小走りで徘徊しました。遠くまで走ってしまえば帰ってこれる自信がない。そんな私は大通りの大きな交差点の間の歩道を何度も何度も小走りで往復し、2時間くらいがんばって初めて距離を確認して、10kmを超えていることに安堵した後にコンビニに逃げ込む。死にかけの私にとってファミリーマートの甘い「〜ミルク」シリーズは何にも代えがたい幸せでした。帰宅したら泥のように眠り、起きて気づくと既に昼、そして夕方に小走りをしてまた昼まで眠る。そんな日々を数日繰り返した私は、休み明けに、極限まで荷物を減らして職場まで走りました。12.5km。歩いたとしたら3時間。もしものことを考えて4時に出発した私ですが6時過ぎには到着してしまいました。しかしお尻はパンパンでろくに歩けず、帰りも走った私は家の前の交差点での信号待ちではももの前の筋肉がやられてしまいたってもいられず、膝を痛めたりかかとを痛めたりと一時は走ることを断念したものの、人生においてはじめて10km以上走ることができるようになったのでした。そして迎えた冬、静まり返った朝の5時、シンシンと雪が降り積もる中長靴で走破する時間は静謐なひと時でした。
が、その頃の私はパイロットになるモチベーションを失っておりました。パイロットになるためには、覚えないといけないことが膨大にあります。気体各部の部品の名称や役割、法律の細かい規定、わけのわからない気象。それでもパイロットの勉強に復帰しようと決意した僕ですが、上司から「協調性の欠如により航空機に乗り組むすべての職員にさせることはできない」と言われてしまい、協調性のない僕はさっさと退職を決めてしまいました。
さあこまった21歳。特に資格もなく学歴もなく実家に帰った私は、学歴と資格と職業をもとめて大学受験を目指すこととなります。直前に実家の犬を亡くした私は、「ペットのための救急車のシステムを構築したい」とのおもいから獣医学部を目指しますが、「ペットって倫理的にあまりよろしくない気がするから、そのようなペットの飼育を助長したくない」と、以前からあこがれていた医学部へ志望を変更。1年間努力した物のさすがにハードルは高く、浪人2年目へと突入します。前年までの勉強のかいもあり、順調に勉強を進めていた私ですが共通テストでは特に理系科目においておもったほど良い点数が取れず、しかしまだ死力を尽くせば二次試験で挽回できるかもしれないという中で大きな問題に直面します。
二次試験の問題を解く気になれない。答えを見ればおそらく理解できるし、他の問題を解くときに利用できるようになるはずなのにその小さな労力さえ払う気になれない。さあなぜか。答えは簡単。そこまでして医者になる気がなかったということでした。僕はおそらく、「労なくして医者になれるならなりたい」というあこがれのような気持ちしかなかったのでしょう。世の中の風潮に流されすぎてしまっていたともいえます。あるいは年齢を重ねてしまったので、将来を確約された進路を取りたかったのでしょう。しかしそこは流石の「協調性のない私」であります。医者となったところで上司に嫌われて、結局退職する未来が虹よりも鮮明に見えてしまいました。さあこまった。僕は何に興味があるのだろう。
その時の僕の、面白くもない理系の授業の合間の癒しのひと時は、英語の先生と英語で話したり、ロシア語を勉強していた先生にロシア語で話しかけてみたり、そういったことでありました。しかし今の時代外国語を学ぶ意義はあるのだろうか、翻訳ソフトで十分なのではないだろうかと思った記憶力のない私は、たくさん英語での会話に付き合ってくれた、比較言語学を専攻していた件の英語の先生と相談したところ、「言語コミュニケーションにおいて必要なのは記憶力ではなく理解力だ」と言われ外大について調べたらさあおもしろい。医学部に関しては全くと言ってネット検索しなかったのに、ひたすらYOUTOBEで「〜語 会話」と検索する日々。どの言語が聞いていて魅力的かを、外大の専攻言語の27言語と照らし合わせてひたすらあーでもないこーでもない。ここにおいて後期試験では外大を受験することが確定しました。
しかし私の人生、そうは簡単には問屋が下りない。調べていくうちに後期試験で受けることができるのは国際社会学部であることが判明します。二次試験の科目は英語だけだが僕がやりたいのは言語文化学部の超域コース。転学部はできても、最初の2年を無駄に過ごすのは何とももったいない。ここでおどろきの事実が判明します。なんと外大がウェルカムなことか。完全に理系として科目を選択して共通テストを受験した私ですが、外大の前期試験に何の問題もなく出願できるのです。そこには大きな決断が必要でした。ここで外大受験を決めてしまえば医学部を受けることができない。しかし医学部を受験して落ちたところで、本当にやりたいことをやれるわけでもない。
私が大学に入ってやりたいことは二つありました。一つ目は、「第二外国語で学友とお話をすること」二つ目は、「運動部で楽しむ事」。なので志望大学の部活を調べていました。ここで私の人生を変える大きな出会いがありました。この先一生忘れることはできないでしょう。
外大のボート部のプロモーションビデオです。
勘違いをしていた私は、部活のことをサークルのようにとらえていました。様々な部活を兼部して楽しい毎日を送ろうと考えていた矢先に見つけた動画が外大ボート部の大艇の動画でした。恐ろしいほどに息の合った動きをするオールを見て私は今までの自分に恥じ入りました。何が兼部だ。何が楽しもうだ。カッターに乗ったことがある僕には、そのconcordia がどれほどの努力の結晶であるかの想像がつきました。くすぶっていた種火は一気に天を焦がし、外大に入って、不完全燃焼で終わったボートをやり遂げるのだ。そのために私は勉強するのだ。そう決めました。
私は出願用紙を提出し、二次試験20日前にして初めて世界史の問題集を買い、お気に入りの外大ボート部のプロモーションビデオ3種類ほどを何度も何度も聞きながら受験勉強をこなし、晴れて東京外国語大学言語文化学部モンゴル語学科の合格をいただくことができました。危ない綱渡りでした。
それからというもの、ボート部の先輩方が主催してくださったzoom説明会にはすべて出席し、3/26日開催の、ドーナツ食べ放題の、初めての試乗会こそ逃したもののほか全ての新歓イベントに参加し、晴れて4/6に新入部員第一号となることができました。
そのような経緯で入部した私はまず、スイープへのあこがれがあります。両腕と全身を使って一本のオールに魂を込め、そして大人数で艇を進めていく。そこに醍醐味を感じる私は、「シングルに乗ることができるという技量の高さの証明」や、「二人で息を合わせてこぎを作っていくダブル」という魅力とは別に、花形であるエイトへの切望がとめられません。
ましてや、最近は「人数不足により」エイトを出せないでいた。Zoomなどで男子漕手が女子漕手よりも少なく、そもそも3人しかいないと聞いてしまったときは不安を隠しきるっ事ができませんでした。入学式の際のビラ配りに無理やり参加してみたり、部活体験会では積極的に一年生に話しかけてみたりしていましたが、先輩方の「戦略的な」努力によりなんと11人も入部する事となり大変驚いております。
今回のボート大会が雨で中止となってしまい、ボート部員として最大限モンゴル語科のメンバーに施していた指導が不発に終わってしまったというかなしみから、来年度はそれを口実に上級生レースを開催させ、再来年度にはそれを先例として覇業レースの復活を夢見ている私ですが、それと同じくして、外大ボート部でエイトを出し、スイープの波を外大ボート部に作り出したいと願っております。
諸先輩方、どうか引き続きのご支援ご鞭撻をよろしくお願いいたします。
2025.6.18 午前2:26 佐藤(あ)

