浅見光彦が34歳になりました。これがどれほど凄い事かは、
長年浅見シリーズを読んできたファンにしか判らないでしょう。
浅見光彦最後の事件と銘打った本作は、歴史の陰に隠された、
浅見家とアリシア家の4世代にも渡る、固い絆の物語でした。
著/内田康夫。

34歳の誕生日を控え、浅見家に浅見光彦34歳の誕生日を
祝う誕生パーティーの招待状が届きました。発起人は本沢千恵子
バイオリニストとして活躍する彼女は、同じくバイオリニストの
ドイツ人アリシアに、浅見への仲介を頼まれていました。

浅見本人には寝耳に水の誕生パーティーでしたが、既に大々的に
招待状など送られているので、招待に応じる事にしました。
場所は浅見にも縁が深い軽井沢。豪華なホテルに過去の事件の
錚々たるヒロイン達が集い、互いに話に花を咲かせていました。
その中には、浅見が最も会いたかった、稲田佐和もいました。

アリシアは祖母のニーナから、日本で日本人に渡した
フルトヴェングラーの楽譜を返して貰うよう頼まれていました。
そしてそのボディガードとして、浅見を名指ししてきました。

アリシアの祖父の実家は実業家、祖母はビスマルクに連なる
政治家の家系。何故ドイツの名家の人間が自分の名を──?
そこには浅見家とアリシアの曽祖父達、また陰で協力していた
多くの人の、70年にも及ぶ固い絆、運命が隠されていました。

永遠の33歳の浅見光彦が34歳になったという時点で既に
驚きですが、その誕生パーティーでのヒロインの集合は、
想像するだに壮観です。浅見ファンへのサービス、お祭りムードが
高まり、本作が特別な作品だと強く認識させてくれます。

100人以上いるであろうヒロインの中で、浅見には
稲田佐和だけが別格でした。作中で内田センセの浅見の事件簿を
読んだという初対面の登場人物にまで、佐和が浅見の本命、
恋人だと認識されてしまっているのだから恥ずかしいですね。
浅見33歳、佐和20歳という年の差は意外です。かつて数々の
女子大生を、完全に子供扱いして恋愛対象から外していたのに。

軽井沢の草西老人、不等辺三角形の正岡家という、
過去作品のキャラが重要なヒントを与える役割をするところも、
シリーズ集大成という雰囲気を盛り上げます。、
それは恰もそれらの作品を書いた時に、ここまで計算して、
組み込んで作っていたかのように思わされます。

しかしそれが明白に、完全に後付であるところが、
内田センセの凄いところです。頭の中で勝手に話が動いていって、
自分はそれをレポートするように文章にしているだけ、
そんな書き方をしていた人だと、文章を読んでいて良く判ります。
内田センセの頭の中では、彼らが生きていたのでしょう、

目的の楽譜を誰から返して貰えばいいかも判らずに日本に来た
アリシアですが、祖母ニーナの少女の頃の記憶と浅見家の
縁が結び付き、丹波笹山の忌部老人を捜し当てます。
珍しい名字だから少女達の印象に残ったし、複数の人が
あの人の事ではと見当がついたのでしょう。これが鈴木とか
佐藤というありふれた名字だったら、見付けようもありません。

90歳にもなる忌部老人は、矍鑠として、工作員をしていた
青年の頃の能力、精神、意志を少しも失っていません。先人への
敬意に溢れた、内田さんのこういう老人キャラは、魅力的です。

忌部の組織は謎のままです。殺人も厭わない狂信的な勢力に
忌部自身の家が盗聴され、浅見共々命を狙われさえします。
忌部はアリシアに楽譜を返しますが、それは盗まれてしまいます。
が、浅見の機転で、本物はコピーを取ってありました。

その楽譜を携え、ニーナの招待に応じ、アリシア、千恵子と共に、
大の飛行機嫌いの浅見が、ドイツまで飛行機で飛びます。
楽譜を届け、アリシア一家に大いに歓迎された浅見は、
アリシアの父の会社の日本人社員のガイドでドイツ観光をします。

その過程で、浅見は思わぬ兄・陽一郎の足跡を知ります。
嘗てある湖で日本人が殺され、その捜査に態々今の浅見と
同じ年頃の陽一郎が来ていたのです。その被害者の出身地は
登戸。先日神戸で殺された女性と、忌部の息子を騙った男も
登戸に近い。登戸という地名が、浅見の脳に刻み込まれます。

フルトヴェングラーの楽譜は、アリシアと知恵子が口を揃えて
「滅茶苦茶」と表しました。同じようなテーマが延々と続き、
リズムも不思議、何かの暗号になっているのではと考えた浅見は、
その単調なリズムに“もしや”と閃くものがありました。
この暗号は素晴らしいです。音楽に造詣がないと思い付きません。

暗号を解いた浅見は、浅見の祖父とアリシアの曽祖父達が、
何を守ろうとしていたのかに気付きました。日本に帰ると
忌部は浅見に思いも寄らない提案を持ちかけてきます。
全てが運命付けられていたような、仕組まれ、老人達の
掌の中で踊らされていたようなものだったと判りました。

ヒトラーによる頽廃芸術の弾圧、現在は明治大学の敷地内である
登戸の軍事施設、秩父宮さまの訪独といった歴史的事実を
散りばめながら、日本とドイツを股に掛けた、第二次世界大戦の
闇の歴史を塗り替える、壮大な物語が繰り広げられました。

先日、残念ながら内田先生はお亡くなりになりました。本作の
執筆時点でも既にご高齢だった為、誰もが避けられない、
いつか来るその日に備え、これを書いておいてくれたのでしょう。

ヒトラーの恐怖政治の中、身の危険を顧みず、日本とドイツで
秘密を守り続けた人々の友情には感嘆の溜息が出ました。
それらの人々に中てられ、風来坊の浅見も大きな覚悟を決めます。

結果までは書いていなかったけれど、あの浅見光彦が、とうとう
身を固めたであろう事は想像が付きます。ファンの誰もが
気を揉んでいたその事にも決着を付けてくれました。
浅見光彦の最終回と呼ぶに相応しい作品だったと思います。