わいせつの概念 「悪徳の栄え」事件 最高裁昭和44年10月15日大法廷判決
S44.10.15 大法廷・判決 昭和39(あ)305 猥褻文書販売、同所持
判例
S44.10.15 大法廷・判決 昭和39(あ)305 猥褻文書販売、同所持(第23巻10号1239頁)
判示事項:一 芸術的思想的価値のある文書と猥褻性
二 文書の部分についての猥褻性と文書全体との関係
三 憲法二一条二三条と公共の福祉
四 法律判断で無罪を言い渡した第一審判決を事実の取調をすることなく破棄し控訴 裁判所がみずから有罪の判決をすることと刑訴法四〇〇条但書
要旨:
一 芸術的・思想的価値のある文書であつても、これを猥褻性を有するものとすることはさしつかえない。
二 文書の個々の章句の部分の猥褻性の有無は、文書全体との関連において判断されなければならない。
三 憲法二一条の表現の自由や同法二三条の学問の自由は、絶対無制限なものではなく、公共の福祉の制限の下に立つものである。
四 第一審裁判所が法律判断の対象となる事実を認定し、法律判断だけで無罪を言い渡した場合には、控訴裁判所は、改めて事実の取調をすることなく、刑訴法四〇〇条但書によつて、みずから有罪の判決をすることができる。
参照・法条:
刑法175条,憲法21条,憲法23条,刑訴法400条
内容:
件名 猥褻文書販売、同所持 (最高裁判所 昭和39(あ)305 大法廷・判決 棄却)
原審 東京高等裁判所
主 文
本件各上告を棄却する。
理 由
弁護人大野正男、同中村稔、同柳沼八郎、同新井章の上告趣意第一点について。
論旨は、原判決が、文書の猥褻性と芸術性・思想性とはその属する次元を異にする概念であり、芸術的・思想的に価値の高い作品でも、刑法一七五条の猥褻罪の適用の対象となる旨判示し、本件「悪徳の栄え(続)」を猥褻の文書にあたるものとしたのが、刑法一七五条の解釈適用を誤り、憲法二一条および二三条に違反するというのである。
しかし、右論旨は、左記(一)ないし(五)に記載するところにより、理由がないものといわなければならない。
(一)原判決が、刑法一七五条の文書についての猥褻性と芸術性・思想性との関係について、当裁判所昭和二八年(あ)第一七一三号同三二年三月一三日大法廷判決(刑集一一巻三号九九七頁)(いわゆるチヤタレー事件の判決)の見解にしたがうことを明らかにしたうえ、猥褻と芸術性・思想性とは、その属する次元を異にする概念であり、芸術的・思想的の文書であつても、これと次元を異にする道徳的・法的の面において猥褻性を有するものと評価されることは不可能ではなく、その文書が、その有する芸術性・思想性にかかわらず猥褻性ありと評価される以上、刑法一七五条の適用を受け、その販売、頒布等が罪とされることは当然である旨判示したことは、原判決の記載によつて明らかである。そして、所論の点について、前記大法廷判決は、右回趣旨の理由のほか、なお、「芸術といえども、公衆に猥褻なものを提供する何等の特権をもつものではない。芸術家もその使途の遂行において、差恥感情と道徳的な法を尊重すべき、一般国民の負担する義務に違反してはならないのである。」と判示しており、当裁判所も、また、右各見解を支持すべきものと考える。そして、右各見解によれば、芸術的・思想的価値のある文書であつても、これを猥褻性を有するものとすることはなんらさしつかえのないものと解せられる。もとより、文書がもつ芸術性・思想性が、文書の内容である性的描写による性的刺激を減少・緩和させて、刑法が処罰の対象とする程度以下に猥褻性を解消させる場合があることは考えられるが、右のような程度に猥褻性が解消されないかぎり、芸術的・思想的価値のある文書であつても、猥褻の文書としての取扱いを免れることはできない。当裁判所は、文書の芸術性・思想性を強調して、芸術的・思想的価値のある文書は猥褻の文書として処罰の対象とすることができないとか、名誉毀損罪に関する法理と同じく、文書のもつ猥褻性によつて侵害される法益と芸術的・思想的文書としてもつ公益性とを比較衡量して、猥褻罪の成否を決すべしとするような主張は、採用することができない。
(二)刑法一七五条は、文書などを猥褻性の面から規制しようとするもので、その芸術的・思想的価値自体を問題にするものではない。けだし、芸術的・思想的価値のある文書は、猥褻性をもつていても、右法条の適用外にあるとの見解に立てば、文書の芸術的・思想的価値を判定する必要があるであろうが、当裁判所がそのような見解に立つものでないことは右(一)において説示したとおりであるからである。原判決が、「現行刑法の下では、裁判所は、文書が法にいう猥褻であるかどうかという点を判断すれば足りるのであつて、この場合、裁判所の権能と職務は、文書の猥褻性の存否を社会通念に従つて判断することにあつて、その文書の芸術的思想的の価値を判定することにはなく、また裁判所はかような判定をなす適当な場所ではない。」と判示したのは、措辞に妥当を欠く点がないではないが、要は、裁判所は、右法条の趣旨とするところにしたがつて、文書の猥褻性の有無を判断する職責をもつが、その芸術的・思想的価値の有無それ自体を判断する職責をもつものではないとしたのであつて、なんら不当なものということはできない。
(三)以上のような考え方によると、芸術的・思想的価値のある文書でも、猥褻の文書として処罰の対象とされることになり、間接的にではあるが芸術や思想の発展が抑制されることになるので、猥褻性の有無の判断にあたつては、慎重な配慮がなされなければならないことはいうまでもないことである。しかし、刑法は、その一七五条に規定された頒布、販売、公然陳列および販売の目的をもつてする所持の行為を処罰するだけであるから、ある文書について猥褻性が認められたからといつて、ただちに、それが社会から抹殺され、無意味に帰するということはない。
(四)文書の個々の章句の部分は、全体としての文書の一部として意味をもつものであるから、その章句の部分の猥褻性の有無は、文書全体との関連において判断されなければならないものである。したがつて、特定の章句の部分を取り出し、全体から切り離して、その部分だけについて猥褻性の有無を判断するのは相当でないが、特定の章句の部分について猥褻性の有無が判断されている場合でも、その判断が文書全体との関連においてなされている以上、これを不当とする理由は存在しない。したがつて、原判決が、文書全体との関連において猥褻性の有無を判断すべきものとしながら、特定の章句の部分について猥褻性を肯定したからといつて、論理の矛盾であるということはできない。
(五)出版その他の表現の自由や学問の自由は、民主主義の基礎をなすきわめて重要なものであるが、絶対無制限なものではなく、その濫用が禁ぜられ、公共の福祉の制限の下に立つものであることは、前記当裁判所昭和三二年三月一三日大法廷判決の趣旨とするところである。そして、芸術的・思想的価値のある文書についても、それが猥褻性をもつものである場合には、性生活に関する秩序および健全な風俗を維持するため、これを処罰の対象とすることが国民生活全体の利益に合致するものと認められるから、これを目して憲法二一条、二三条に違反するものということはできない。
原判決が、本件「悪徳の栄え(続)」のうち原判決摘示の一四個所の部分を右訳書の内容全体との関連において考察し、右部分は、性的場面をあまりにも大胆卒直に描写していて、情緒性に欠けるところがあり、その表現内容も非現実的・空想的であるうえに、その性的場面が、残忍醜悪な場面と一体をなし、あるいはその前後に接続して描写されているなどの理由で、いわゆる春本などと比較すると、性欲を興奮または刺激させる点において趣を異にするものがあるが、なお、通常人の性欲をいたずらに興奮または刺激させるに足りるものと認め、これらの部分を含む右訳書を刑法一七五条の猥褻の文書にあたるものとしたのは正当であり、したがつて、原判決に所論憲法の違反があるということはできない。
同第二点について。
論旨は、まず、原判決が、「本件の争点は本訳書の猥褻性の判断のみにかかわり、訴訟記録並びに原審(第一審)において取り調べた証拠により直ちに判決をすることができるものと認められるから、同法(刑訴法)第四〇〇条但書により更に判決する。」と判示し、第一審判決が犯罪事実の存在を確定していないのに、なんら事実の取調をすることなく第一審判決の認定判断をくつがえし、無罪の判決を変更して有罪の判決を言い渡したのは、当裁判所昭和二六年(あ)第二四三六号回三一年七月一八日大法廷判決(刑集一〇巻七号一一四七頁)その他同旨の各判例に違反し、かつ、憲法三一条、三七条に違反すると主張する。
よつて、右論旨を検討すると、所論引用の判例のうち、昭和三三年二月一一日の第三小法廷判決(刑集一二巻二号一八七頁)を除く、その余の各判例の判旨は、所論のとおりであり、いずれも法律判断の対象となる事実そのものの存否について争いがあり、それさえも認定されていない事案についてのものである。しかるに、本件第一審判決によると、その理由の冒頭に公訴事実を掲げ、次いで、「当裁判所において取り調べた証拠によれば、右公訴事実のうち、『悪徳の栄え(続)―ジユリエツトの遍歴―』と題する単行本(以下単に「本件訳書」という。)が、刑法第一七五条にいう『猥褻ノ文書』に該当するかどうかの点を除く、その余の事実は、概ねこれを認めることができるのであるが、以下猥褻の文書の意味、要件、判断基準等の諸点につき、本件訳書の猥褻性を判断するに必要な限度で順次当裁判所の見解を明らかにするとともに被告人等の本件所為が、いずれも罪とならない理由を説明する。」と判示しており、記録を検討すると、第一審が適法に取り調べた証拠により右公訴事実は猥褻性の判断を除きすべて十分にこれを認定することができ、ことに、被告人らは、第一審公判において猥褻性の点を除き公訴事実を認めているのであるから(原審が破棄自判した場合において掲げた証拠の標目参照)、本件は、右各判例がいう「第一審判決が被告人の犯罪事実の存在を確定せず、無罪を言い渡した場合」に該当しないものといわなければならない。したがつて、右昭和三三年二月一一日の第三小法廷判決を除くその余の所論引用の各判例は、法律判断の対象となる事実そのものの存在については争いがなく、それが認定されている本件には適切ではないといわなければならない。
これに反し、右昭和三三年二月一一日の第三小法廷判決は、法律判断の対象となる事実そのものの存在については争いがなく、それが認定されている事案について、第一審判決が被告人の犯罪事実の存在を確定せず無罪を言い渡した場合に、控訴裁判所がみずからなんら事実の取調をすることなく、第一審判決を破棄し、訴訟記録および第一審裁判所において取り調べた証拠のみによつて、ただちに被告事件について犯罪事実の存在を確定し有罪の判決をすることは、刑訴法四〇〇条但書の許さないところである旨判示しているのであるから、前記原判決の判断は、右判例に相反するものというべきである。しかし、法律判断の対象となる事実そのものの存在について争いがあり、それが認定されていない場合には、その事実の存否について当事者に争う機会を与え、事実の取調をして、判決をすることが直接審理主義、口頭弁論主義の原則に適合するものであることはいうまでもないが、法律判断の対象となる事実が認定されており、裁判所の法律判断だけが残されている場合には、事実について当事者に争わせ、事実の取調をする意義を認めることができないから、このような場合には、改めて事実の取調をするまでもなく、刑訴法四〇〇条但書によつて、控訴裁判所がみずから有罪の判決をすることができるものと解するのが相当である。そこで、同法四一〇条二項により、右判例を変更し、原判決を維持することとする。
したがつて、右判例違反の論旨は理由がなく、原判決に訴訟手続上の違反があるものとは認められないから、その違反があることを前提とする右違憲の論旨も、その前提を欠き、理由がないものといわなければならない。
なお、右論旨に関連するその余の論旨は、左記(一)および(二)に記載するとおりであるが、その各項において説示するところにより、いずれも理由がないものといわなければならない。(一)論旨は、原審が、本件「悪徳の栄え(続)」の猥褻性を判断するにあたり右文書に対する社会一般人の読後感あるいは
それへの影響の有無、程度につき事実の取調をしなかつたのは、前記昭和三一年七月一八日の大法廷判決等に違反すると主張する。
しかし、現行法の下においては、文書が猥褻性をもつかどうかは、裁判官がその文書自体につき社会通念にしたがつて判断するところに任されていて、この判断は法律判断というべきであり、前説示によれは、本件においてば、第一審判決が犯罪事実の存在を確定している場合であると認むべく、原審は、第一審裁判所が取り調べた証拠によつてただちに判決することができると認めるならば、さらに事実の取調をすることなく有罪の判決を言い渡すことができるし、もともと、右のとおり、文書が猥褻性をもつかどうかは、裁判官が社会通念にしたがい判断するところに任されているのであるから、裁判官が、社会通念がいかなるものであるかを知るために、一般人の読後感等を知ることは好ましいことではあるが、それは、あくまでも参考としての意味をもつに過ぎないものである。したがつて、右判例違反の主張は、その前提を欠くものといわなければならない。
(二)論旨は、原審が、(イ)文書の猥褻性の判断につき、第一審裁判所よりさらに明確に相対的猥褻の概念を認めながら、猥褻性を認めるについて関連がある社会的事実である文書の出版および販売方法、読者層の範囲やその程度、階層等につき公開の法廷で直接事実の取調をせず、また、(ロ)文書のうち猥褻性ありとされる部分と文書全体との関係について、いわゆる全体説の立場を採りながら、文書の猥褻性の判断の前提となる事実である文書の芸術性・思想性の有無、程度、作者の問題を取り扱う真面目な態度等につき、公開の法廷で直接事実の取調をしなかつたのは、それぞれ、猥褻性の判断について適法な証拠によらず、ないしは適正な手続を経なかつたものであつて、憲法三一条および三七条に違反すると主張する。
しかし、原審は、本件において猥褻性の判断にあたり相対的猥褻の概念による立場を採つておらず、また、前説示のとおり、本件においては、第一審判決が犯罪事実の存在を確定している場合と認めるべきであるから、原審は、第一審裁判所が取り調べた証拠によつてただちに判決することができると認めるならば、さらに事実の取調をすることなく有罪の判決を言い渡すことができるわけである。したがつて、右各憲法違反の主張は、その前提を欠くものといわなければならない。
同第三点について。
論旨は、原判決が、文書の個々の章句の部分の猥褻性は、文書全体との関連において判断すべきものであるとしながら、本件「悪徳の栄え(続)」について、その芸術性・思想性、作者・訳者の執筆態度、原判決摘示の一四個所の部分の位置関係などについて、なんらの判断も示していないこと、および本件「悪徳の栄え(続)」が猥褻性をもつものであるとしたのは、刑法一七五条の解釈適用を誤つたものであるというのであるが、右後段は、論旨第一点に関連して既に判断したところであり、右前段は、単なる法令違反の主張であつて、刑訴法四〇五条の上告理由にあたらない。
よつて、同法四〇八条により本件各上告を棄却することとし、主文のとおり判決する。この判決は、裁判官下村三郎の補足意見、裁判官岩田誠の意見および裁判官横田正俊、同奥野健一、同田中二郎、同色川幸太郎、同大隅健一郎の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。
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判例
S44.10.15 大法廷・判決 昭和39(あ)305 猥褻文書販売、同所持(第23巻10号1239頁)
判示事項:一 芸術的思想的価値のある文書と猥褻性
二 文書の部分についての猥褻性と文書全体との関係
三 憲法二一条二三条と公共の福祉
四 法律判断で無罪を言い渡した第一審判決を事実の取調をすることなく破棄し控訴 裁判所がみずから有罪の判決をすることと刑訴法四〇〇条但書
要旨:
一 芸術的・思想的価値のある文書であつても、これを猥褻性を有するものとすることはさしつかえない。
二 文書の個々の章句の部分の猥褻性の有無は、文書全体との関連において判断されなければならない。
三 憲法二一条の表現の自由や同法二三条の学問の自由は、絶対無制限なものではなく、公共の福祉の制限の下に立つものである。
四 第一審裁判所が法律判断の対象となる事実を認定し、法律判断だけで無罪を言い渡した場合には、控訴裁判所は、改めて事実の取調をすることなく、刑訴法四〇〇条但書によつて、みずから有罪の判決をすることができる。
参照・法条:
刑法175条,憲法21条,憲法23条,刑訴法400条
内容:
件名 猥褻文書販売、同所持 (最高裁判所 昭和39(あ)305 大法廷・判決 棄却)
原審 東京高等裁判所
主 文
本件各上告を棄却する。
理 由
弁護人大野正男、同中村稔、同柳沼八郎、同新井章の上告趣意第一点について。
論旨は、原判決が、文書の猥褻性と芸術性・思想性とはその属する次元を異にする概念であり、芸術的・思想的に価値の高い作品でも、刑法一七五条の猥褻罪の適用の対象となる旨判示し、本件「悪徳の栄え(続)」を猥褻の文書にあたるものとしたのが、刑法一七五条の解釈適用を誤り、憲法二一条および二三条に違反するというのである。
しかし、右論旨は、左記(一)ないし(五)に記載するところにより、理由がないものといわなければならない。
(一)原判決が、刑法一七五条の文書についての猥褻性と芸術性・思想性との関係について、当裁判所昭和二八年(あ)第一七一三号同三二年三月一三日大法廷判決(刑集一一巻三号九九七頁)(いわゆるチヤタレー事件の判決)の見解にしたがうことを明らかにしたうえ、猥褻と芸術性・思想性とは、その属する次元を異にする概念であり、芸術的・思想的の文書であつても、これと次元を異にする道徳的・法的の面において猥褻性を有するものと評価されることは不可能ではなく、その文書が、その有する芸術性・思想性にかかわらず猥褻性ありと評価される以上、刑法一七五条の適用を受け、その販売、頒布等が罪とされることは当然である旨判示したことは、原判決の記載によつて明らかである。そして、所論の点について、前記大法廷判決は、右回趣旨の理由のほか、なお、「芸術といえども、公衆に猥褻なものを提供する何等の特権をもつものではない。芸術家もその使途の遂行において、差恥感情と道徳的な法を尊重すべき、一般国民の負担する義務に違反してはならないのである。」と判示しており、当裁判所も、また、右各見解を支持すべきものと考える。そして、右各見解によれば、芸術的・思想的価値のある文書であつても、これを猥褻性を有するものとすることはなんらさしつかえのないものと解せられる。もとより、文書がもつ芸術性・思想性が、文書の内容である性的描写による性的刺激を減少・緩和させて、刑法が処罰の対象とする程度以下に猥褻性を解消させる場合があることは考えられるが、右のような程度に猥褻性が解消されないかぎり、芸術的・思想的価値のある文書であつても、猥褻の文書としての取扱いを免れることはできない。当裁判所は、文書の芸術性・思想性を強調して、芸術的・思想的価値のある文書は猥褻の文書として処罰の対象とすることができないとか、名誉毀損罪に関する法理と同じく、文書のもつ猥褻性によつて侵害される法益と芸術的・思想的文書としてもつ公益性とを比較衡量して、猥褻罪の成否を決すべしとするような主張は、採用することができない。
(二)刑法一七五条は、文書などを猥褻性の面から規制しようとするもので、その芸術的・思想的価値自体を問題にするものではない。けだし、芸術的・思想的価値のある文書は、猥褻性をもつていても、右法条の適用外にあるとの見解に立てば、文書の芸術的・思想的価値を判定する必要があるであろうが、当裁判所がそのような見解に立つものでないことは右(一)において説示したとおりであるからである。原判決が、「現行刑法の下では、裁判所は、文書が法にいう猥褻であるかどうかという点を判断すれば足りるのであつて、この場合、裁判所の権能と職務は、文書の猥褻性の存否を社会通念に従つて判断することにあつて、その文書の芸術的思想的の価値を判定することにはなく、また裁判所はかような判定をなす適当な場所ではない。」と判示したのは、措辞に妥当を欠く点がないではないが、要は、裁判所は、右法条の趣旨とするところにしたがつて、文書の猥褻性の有無を判断する職責をもつが、その芸術的・思想的価値の有無それ自体を判断する職責をもつものではないとしたのであつて、なんら不当なものということはできない。
(三)以上のような考え方によると、芸術的・思想的価値のある文書でも、猥褻の文書として処罰の対象とされることになり、間接的にではあるが芸術や思想の発展が抑制されることになるので、猥褻性の有無の判断にあたつては、慎重な配慮がなされなければならないことはいうまでもないことである。しかし、刑法は、その一七五条に規定された頒布、販売、公然陳列および販売の目的をもつてする所持の行為を処罰するだけであるから、ある文書について猥褻性が認められたからといつて、ただちに、それが社会から抹殺され、無意味に帰するということはない。
(四)文書の個々の章句の部分は、全体としての文書の一部として意味をもつものであるから、その章句の部分の猥褻性の有無は、文書全体との関連において判断されなければならないものである。したがつて、特定の章句の部分を取り出し、全体から切り離して、その部分だけについて猥褻性の有無を判断するのは相当でないが、特定の章句の部分について猥褻性の有無が判断されている場合でも、その判断が文書全体との関連においてなされている以上、これを不当とする理由は存在しない。したがつて、原判決が、文書全体との関連において猥褻性の有無を判断すべきものとしながら、特定の章句の部分について猥褻性を肯定したからといつて、論理の矛盾であるということはできない。
(五)出版その他の表現の自由や学問の自由は、民主主義の基礎をなすきわめて重要なものであるが、絶対無制限なものではなく、その濫用が禁ぜられ、公共の福祉の制限の下に立つものであることは、前記当裁判所昭和三二年三月一三日大法廷判決の趣旨とするところである。そして、芸術的・思想的価値のある文書についても、それが猥褻性をもつものである場合には、性生活に関する秩序および健全な風俗を維持するため、これを処罰の対象とすることが国民生活全体の利益に合致するものと認められるから、これを目して憲法二一条、二三条に違反するものということはできない。
原判決が、本件「悪徳の栄え(続)」のうち原判決摘示の一四個所の部分を右訳書の内容全体との関連において考察し、右部分は、性的場面をあまりにも大胆卒直に描写していて、情緒性に欠けるところがあり、その表現内容も非現実的・空想的であるうえに、その性的場面が、残忍醜悪な場面と一体をなし、あるいはその前後に接続して描写されているなどの理由で、いわゆる春本などと比較すると、性欲を興奮または刺激させる点において趣を異にするものがあるが、なお、通常人の性欲をいたずらに興奮または刺激させるに足りるものと認め、これらの部分を含む右訳書を刑法一七五条の猥褻の文書にあたるものとしたのは正当であり、したがつて、原判決に所論憲法の違反があるということはできない。
同第二点について。
論旨は、まず、原判決が、「本件の争点は本訳書の猥褻性の判断のみにかかわり、訴訟記録並びに原審(第一審)において取り調べた証拠により直ちに判決をすることができるものと認められるから、同法(刑訴法)第四〇〇条但書により更に判決する。」と判示し、第一審判決が犯罪事実の存在を確定していないのに、なんら事実の取調をすることなく第一審判決の認定判断をくつがえし、無罪の判決を変更して有罪の判決を言い渡したのは、当裁判所昭和二六年(あ)第二四三六号回三一年七月一八日大法廷判決(刑集一〇巻七号一一四七頁)その他同旨の各判例に違反し、かつ、憲法三一条、三七条に違反すると主張する。
よつて、右論旨を検討すると、所論引用の判例のうち、昭和三三年二月一一日の第三小法廷判決(刑集一二巻二号一八七頁)を除く、その余の各判例の判旨は、所論のとおりであり、いずれも法律判断の対象となる事実そのものの存否について争いがあり、それさえも認定されていない事案についてのものである。しかるに、本件第一審判決によると、その理由の冒頭に公訴事実を掲げ、次いで、「当裁判所において取り調べた証拠によれば、右公訴事実のうち、『悪徳の栄え(続)―ジユリエツトの遍歴―』と題する単行本(以下単に「本件訳書」という。)が、刑法第一七五条にいう『猥褻ノ文書』に該当するかどうかの点を除く、その余の事実は、概ねこれを認めることができるのであるが、以下猥褻の文書の意味、要件、判断基準等の諸点につき、本件訳書の猥褻性を判断するに必要な限度で順次当裁判所の見解を明らかにするとともに被告人等の本件所為が、いずれも罪とならない理由を説明する。」と判示しており、記録を検討すると、第一審が適法に取り調べた証拠により右公訴事実は猥褻性の判断を除きすべて十分にこれを認定することができ、ことに、被告人らは、第一審公判において猥褻性の点を除き公訴事実を認めているのであるから(原審が破棄自判した場合において掲げた証拠の標目参照)、本件は、右各判例がいう「第一審判決が被告人の犯罪事実の存在を確定せず、無罪を言い渡した場合」に該当しないものといわなければならない。したがつて、右昭和三三年二月一一日の第三小法廷判決を除くその余の所論引用の各判例は、法律判断の対象となる事実そのものの存在については争いがなく、それが認定されている本件には適切ではないといわなければならない。
これに反し、右昭和三三年二月一一日の第三小法廷判決は、法律判断の対象となる事実そのものの存在については争いがなく、それが認定されている事案について、第一審判決が被告人の犯罪事実の存在を確定せず無罪を言い渡した場合に、控訴裁判所がみずからなんら事実の取調をすることなく、第一審判決を破棄し、訴訟記録および第一審裁判所において取り調べた証拠のみによつて、ただちに被告事件について犯罪事実の存在を確定し有罪の判決をすることは、刑訴法四〇〇条但書の許さないところである旨判示しているのであるから、前記原判決の判断は、右判例に相反するものというべきである。しかし、法律判断の対象となる事実そのものの存在について争いがあり、それが認定されていない場合には、その事実の存否について当事者に争う機会を与え、事実の取調をして、判決をすることが直接審理主義、口頭弁論主義の原則に適合するものであることはいうまでもないが、法律判断の対象となる事実が認定されており、裁判所の法律判断だけが残されている場合には、事実について当事者に争わせ、事実の取調をする意義を認めることができないから、このような場合には、改めて事実の取調をするまでもなく、刑訴法四〇〇条但書によつて、控訴裁判所がみずから有罪の判決をすることができるものと解するのが相当である。そこで、同法四一〇条二項により、右判例を変更し、原判決を維持することとする。
したがつて、右判例違反の論旨は理由がなく、原判決に訴訟手続上の違反があるものとは認められないから、その違反があることを前提とする右違憲の論旨も、その前提を欠き、理由がないものといわなければならない。
なお、右論旨に関連するその余の論旨は、左記(一)および(二)に記載するとおりであるが、その各項において説示するところにより、いずれも理由がないものといわなければならない。(一)論旨は、原審が、本件「悪徳の栄え(続)」の猥褻性を判断するにあたり右文書に対する社会一般人の読後感あるいは
それへの影響の有無、程度につき事実の取調をしなかつたのは、前記昭和三一年七月一八日の大法廷判決等に違反すると主張する。
しかし、現行法の下においては、文書が猥褻性をもつかどうかは、裁判官がその文書自体につき社会通念にしたがつて判断するところに任されていて、この判断は法律判断というべきであり、前説示によれは、本件においてば、第一審判決が犯罪事実の存在を確定している場合であると認むべく、原審は、第一審裁判所が取り調べた証拠によつてただちに判決することができると認めるならば、さらに事実の取調をすることなく有罪の判決を言い渡すことができるし、もともと、右のとおり、文書が猥褻性をもつかどうかは、裁判官が社会通念にしたがい判断するところに任されているのであるから、裁判官が、社会通念がいかなるものであるかを知るために、一般人の読後感等を知ることは好ましいことではあるが、それは、あくまでも参考としての意味をもつに過ぎないものである。したがつて、右判例違反の主張は、その前提を欠くものといわなければならない。
(二)論旨は、原審が、(イ)文書の猥褻性の判断につき、第一審裁判所よりさらに明確に相対的猥褻の概念を認めながら、猥褻性を認めるについて関連がある社会的事実である文書の出版および販売方法、読者層の範囲やその程度、階層等につき公開の法廷で直接事実の取調をせず、また、(ロ)文書のうち猥褻性ありとされる部分と文書全体との関係について、いわゆる全体説の立場を採りながら、文書の猥褻性の判断の前提となる事実である文書の芸術性・思想性の有無、程度、作者の問題を取り扱う真面目な態度等につき、公開の法廷で直接事実の取調をしなかつたのは、それぞれ、猥褻性の判断について適法な証拠によらず、ないしは適正な手続を経なかつたものであつて、憲法三一条および三七条に違反すると主張する。
しかし、原審は、本件において猥褻性の判断にあたり相対的猥褻の概念による立場を採つておらず、また、前説示のとおり、本件においては、第一審判決が犯罪事実の存在を確定している場合と認めるべきであるから、原審は、第一審裁判所が取り調べた証拠によつてただちに判決することができると認めるならば、さらに事実の取調をすることなく有罪の判決を言い渡すことができるわけである。したがつて、右各憲法違反の主張は、その前提を欠くものといわなければならない。
同第三点について。
論旨は、原判決が、文書の個々の章句の部分の猥褻性は、文書全体との関連において判断すべきものであるとしながら、本件「悪徳の栄え(続)」について、その芸術性・思想性、作者・訳者の執筆態度、原判決摘示の一四個所の部分の位置関係などについて、なんらの判断も示していないこと、および本件「悪徳の栄え(続)」が猥褻性をもつものであるとしたのは、刑法一七五条の解釈適用を誤つたものであるというのであるが、右後段は、論旨第一点に関連して既に判断したところであり、右前段は、単なる法令違反の主張であつて、刑訴法四〇五条の上告理由にあたらない。
よつて、同法四〇八条により本件各上告を棄却することとし、主文のとおり判決する。この判決は、裁判官下村三郎の補足意見、裁判官岩田誠の意見および裁判官横田正俊、同奥野健一、同田中二郎、同色川幸太郎、同大隅健一郎の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。
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