544 和久家に伝わる宗是大谷邑(大郷町)みなり沢での生活

 関ヶ原の合戦の後、西軍に組みした宗是は徳川方から追われる身となり、京都・大坂・江戸と逃亡生活をしていたが、政宗は過去に幾度となく宗是に助けてもらった恩に報いるために、宗是の消息を探しだして仙台に匿った。その時の記録の一部が和久家の古文書に記録されているのを発見した。

(政宗公深くこれを徳とし、太閤薨じて後、宗是を仙台に招き大変厚く待遇し黒川郡大谷邑に領地2千石を賜うてもって湯沐(恩恵を受ける)に給す。宗是大谷邑に邸宅を築いてまさにこの地を永住せんとす。政宗美女2を連れてきて宗是の世話をするようにいう。しかし宗是固辞して受けず。政宗これを聞き慇懃(インギン・真心がこもって礼儀正しいこと)なり。

 この記録によると、政宗は宗是を仙台に招き過去の御恩に報いるために、大谷邑に2000石の領地を与えられた。宗是はみなり沢に邸宅を築いて、この地を永住の場所にしようと思った。政宗も宗是を陰ながら支援して、奥女中の中から美女2名を選び、宗是の世話係としてみなり沢に派遣した。しかし、宗是既に齢80近い老人にて、家臣のなかにも幾人かの女性がみなり沢に棲んでいたので、あらぬトラブルを防ぐために政宗に丁寧に断っている。
 この記録は宗是のみなり沢での生活の一端を物語るもので、非常に貴重な古文書である。
みなり沢に行く写真・残間家の前からみなり沢に行く道路、この道路を山から切り出した木材等馬車で仙台まで運んだ。和久一族にとっての重要な生活道路だった。

543 和久家書状 忠三郎(蒲生氏郷)の偽書

 和久家に残る古文書、宗是が葛西・大崎一揆の際に政宗が一揆を扇動するような行動に出た旨を秀吉に注進した元政宗の家臣が居た。秀吉はその疑いを晴らすように上京する様に政宗に命じた。秀吉の祐筆である宗是は政宗を助けるために同人宛に出した書状が次の書状である。

 「天正18年12月、蒲生氏郷より、政宗別心のよし注進によって、宗是また政宗に書状を出す。その概要は、政宗、小田原に参陣して、忠節をよそおったが、それは、太閤殿下を欺いたことで、現在、政宗が心変わりした。小田原の残党と組んで逆心したという。このようなことは雑説で、会津の牢人どもの成すことと思が、その犯人を至急逮捕して、しかるべき処分されたい。
 良覚院が下向の時、くれぐれも申し出でることが肝要である。政宗は絶対に彼らの言に迷わされてはならぬことである。関白様はこのようなことは少しも信頼されないから安心しかるべく。
  天正18年12月15日                     宗是より

  政宗へ伊達政宗と戦国時代>政宗が煽動? 大崎・葛西一揆 - 宮本義己 ...


542 伊達政宗に和久宗是の友情

 政宗は遠国(当時は会津若松)に居住しているため、ともすれば中央(京都・大坂)の情報の掌握が遅れる。そのために中央の動きに対処もまた遅れるために、たびたび秀吉からあらぬ疑いを掛けられる原因ともなった。
 これを見かねた宗是は疑いを晴らすために、その都度秀吉にとりなし、更には自分の屋敷隣に政宗の屋敷を世話し擁護した。また秀吉へのお土産物まで、自費で調達してやっている。当時の秀吉への進物(お土産)は、現在の私たちの想像を遥かに超える桁違いの莫大な金額である。
 ところが政宗亡き後の伊達家の公文書(伊達治家記録等)は、この事実とは大きく相反することが記録されている。政宗が宗是に出した自筆の書状は、孫の白安の時代に献上の名目のもとに、伊達家に没収された。また、信安(宗是の孫)が父是安の碑石を建立したところ、その碑石銘を改刻せよとの厳命があった。
 これらの事から推測して、伊達家では意識的に真実を伏せようとしたものであろう。伊達家の基盤が確立するに及んで、眼前の利害しか考えられない伊達家の重臣たちは「政宗の名誉にかかわる」と判断して真実を意識的に歪曲したものと思われる。
 
 これは宗是の子孫が和久家に伝わる古文書から判断して書いたものであるが、政宗が和久宗是に秀吉の祐筆という立場を利用して中央の情報を密かに政宗に流して、政宗の苦境を助けたことが後世に伝わることを防ぐために真実を隠した。しかし、和久家とすれば、家に伝わる古文書からする「歴史的事実」を隠蔽せずに、正確な記録を残して欲しかったのである。
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