280 新たに残間家のルーツを考察する(1)

 大郷町史によるとこれまでの残間家のルーツは平家の落ち武者であると言い伝えらててきた。

壇ノ浦の戦い・・・
平安時代の末期の元暦2年/寿永4年3月24日1185年4月25日)に長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で行われた戦闘。栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦いである

 この戦いで敗れた平家の落ち武者が、当時奥州の大谷邑まで落ち延びて来たとは考えにくいし、たとええ落ち延びてきても、大谷邑で土豪として600町歩の山林を有するまで勢力を広げることは難しいであろう、しかし、これまでは、平家落人説を覆す新事実が出てこなかったので、昭和55年に編纂された大郷町史にも落人説が書かれている。この根拠は残間家に家伝で長年伝承されて来ただけのことで残間家文書には記録がない。

「壇ノ浦の戦い」の画像検索結果写真・・壇ノ浦の戦い・義経の八艘飛び

 今年の初めに名古屋の板谷さんからルーツが宮城の多賀城周辺であるとのメールを頂いた。初めは信じられなかったが、詳しくメールで板谷さんの先祖の経緯を聞いてみると、板谷(残間家)のこれまでの平家落ち武者説とは違って、西暦1187源頼朝の奥州征伐からの歴史の流れからすると合致することが多いのである。

奥州合戦・・・
文治5年(1189年)7月から9月にかけて、鎌倉政権奥州藤原氏との間で東北地方にて行われた一連の戦いの総称である。この戦役により、源頼朝による武士政権が確立した。また治承4年(1180年)に始まる内乱時代(治承・寿永の乱)の最後にあたる戦争でもある。

279 板谷の休み松

 休み松は黒川郡史によると、「東成田から利府への通路(板谷街道・古代前期東山道)にあり行く人此の樹下に憩ふ故に此の名あり高さ2間樹齢四百年」とある。また「奥州名所図絵」によると、勿来の関より奥の山道は数十町ほど険しい嶺の間を通る山の切り立つ険しい難所、道は折れ曲がり、馬に頼るような道でした。

 大郷文化財題号にも「勿来の関より道は険しくなり、胸付きの急斜面や崖ぶち、馬の背のような細道が曲がりくねって休み松少し手前までが登り路できつい。」と書かれていた。

 休み松に至ると北方の谷間が開け、3~4百メートル先からは板谷の渓流に沿って比較的平坦な道になり,鶉崎(黒川郡最初の郡下が置かれたところう)の関屋の清水に到ると険阻な道だったとも書かれている。

 この県道の板谷道は昭和44年頃に小型車が擦れ違いできるような道路に拡張され、平成3年にダム建設が始まり、板谷道に代わる新県道が造られ、勿来の関の川沿いの板谷動は途中から分断されてしまった。

 

278 板谷の地名の由来

 板谷はアイヌ語でもイタ・ヤと呼び「板のような丘」という意味だそうです。確かに成田地区は山が多く、それも小高い丘のような地形ですが「板のような丘」とはどのような地形なのか想像できません。ちなみに郡境の利府はアイヌ語で「リフ(リッフル)」で高い岡という意味だそうです。

 残間家の前の道路は、現在は大型車両が頻繁に走り近くの山は大きく削り取られ昔の面影をしのぶことができなくなっています。
  
 応永年間(1394ー1428)の室町時代の「留守旧家」「余目文書」に板谷の地名が記録されています。
 この記録からすると、黒川郡や大崎地方から宮城郡に来るのに国府中山の板谷を通り「そうの関」に至ったことがわかります。また戦国大名大崎氏と留守氏が争った時にも、板谷街道を通って大崎軍が国府に攻めいったと「留守旧記」に記録されています。

 この街道は古代の東山道で平安時代には奥大道と呼ばれていた道とかんがえられます。小生が中学時代に成田地区から通う同級生に「なんだ山の中」などと言って馬鹿にしたことがありましたが、改めて大郷町の歴史を考えると、成田板谷街道こそ大郷で最も早くから開けた地域だったということが解りました。
                                                     新黒川郡誌より
 
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