366 菅原一族が残していったもの

 大和の国菅原邑が発祥の地とされる菅原一族は、源頼朝と共に平泉を攻め、その戦功として黒川郡を拝領した。大谷邑(現大郷町)を領地とした菅原一族については「田代文書」の中にみあけ邑(現大郷町味明)に領地を所有したとの記述があり、この古文書からすれば間違いなく菅原一族が大谷邑を領地としていたことが立証できる。
 昭和55年発刊の「大郷町史」に次のように興味深い記録が残されている。昭和45年頃町では町史編纂のために町内の遺跡を調査していた。土橋二渡神社で風化した碑面を調査中に、偶然土中から大きな石を見つけ掘り起こして洗い出してみたらその石に「正安元(1299)年、菅原一族供養」と刻まれた板碑を発見した。
 この板碑は高さ126㌢、幅20㌢の供養塔婆で上部に大般若経の一節を刻み、下に建立の由来を記している。この板碑は、菅原一族が先祖の供養碑として建立したものであるので、正安元年までは同一族が大谷邑に君臨していたことを示す貴重な板碑である。
 この他にも町内の山崎御堂返り、高橋氏宅内と山崎沢屋敷の高橋宅内にも同様の板碑が建立されている。これらの板碑から菅原一族が大谷邑に君臨していたことが分かるが、菅原一族はこれらの板碑を残して鎌倉時代の後期に、その痕跡を消し去るのである。
 菅原一族の本家は関東の方に帰って行ったと思われるが、その菅原一族の支流で大谷邑に領地を拝領した分家の一族は、それぞれの領地の地名を字として、地域に根を下ろし土豪として勢力を拡大していったのである。その中の一族が板谷氏(残間)であり、成田の山間部に腰を下ろしその地の利を活かして800余年に渡り延々と家名を現在まで引き継いできたのである。「大郷町 残間一...」の画像検索結果

365 残間一族の謎・板谷一族と菅原道真

鎌倉時代の相続の仕組み・・親は子供の一人一人に所領を与えるのが普通だった。これが鎌倉期の社会制度の大きな特色で、東国武士のもつ広大な所領を、農民の抵抗を排除して、安全・確実に維持するために生み出された制度であった。分割相続によって、一族が所領を分割支配する制度であったとも言える。
 このように一族が所領内の各地に、分散割処したために、次第に独立せいが強められ、やがて居住地の地名を字としてなのるようになった。宮城郡の留守氏の場合、一族が17家に分かれ、余目氏(岩切)、宮城氏(苦竹)、村岡・菅谷(利府)等称した。
 大谷邑も分割相続という点で例外ではなく「田代文書」に菅原某が子息政光にみやけ村(大郷町味明)を譲り渡したとの記録がある。当時の羽生村、土橋村、成田村なども一族の者にそれぞれ分与したものと考えられる。
大谷村の領主菅原一族は何処から東国に来たのであろうか、菅原氏は元々は土岐氏と称した古代以来の名族でその支流は数多く、大和国を中心に機内はもとより、北陸,山陰、九州等の各地に広く分布している。有名な菅原道真の家が、この菅原一族の宗家であったとされる。鎌倉時代の大谷邑の領主も菅原道真の流れを組んでいたとは、
そしてその一族の板谷氏(残間一族)に継るとは面白い新たな発見である。「菅原道真」の画像検索結果
写真・・菅原道真
   大郷町史参考・・柴修也

364 残間一族の謎に迫る(2)

 前回の名古屋の板谷氏のメールを基に下記のような仮説を年代順に考察してみた
1189年(文治5年)源頼朝の奥州征伐、同年平泉の藤原氏を滅ぼし多賀国府に鎌倉御家人を地頭に命じて、こ     の信領地の統治に当たらせた。
 この戦いに板谷氏の先祖菅原氏が従軍して、その戦功により頼朝から宮城県の黒川郡の所領を拝領した。黒川郡の支配者になった菅原氏は、郡内の村ごとに子供たち一人一人に領地を与えた。板谷氏の先祖も菅原氏の一族で、大谷邑成田に所領を父から貰い領地の経営に当たった。
 鎌倉中期になると大郷町内の品井沼を中心として、開発が進み当時の土木技術をもってしては開墾不可能な吉田川沿岸のみが残され新たに分与すべき耕地や支配する農民を獲得することができなくなり、既存の農地や農民支配をめぐって菅原一族の間で血みどろの争奪戦が開始された。 
 その争いに敗れた菅原氏の本家は黒川郡のみあけ村(現大郷町味明)から、発祥の地である関東に戻り、大谷邑の板谷氏は独立して自分の領地を拡大していった。この時代に菅原氏から領地の地名を字として板谷と名乗るようになった。

地頭・・職務の内容は公田の管理、租税の徴収、警察裁判関係、幕府からの命令を領内の御家人に伝達することまたは農業生産を盛んにするように援助することなどが重要な仕事とされた。
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