関ヶ原の合戦の後、西軍に組みした宗是は徳川方から追われる身となり、京都・大坂・江戸と逃亡生活をしていたが、政宗は過去に幾度となく宗是に助けてもらった恩に報いるために、宗是の消息を探しだして仙台に匿った。その時の記録の一部が和久家の古文書に記録されているのを発見した。
(政宗公深くこれを徳とし、太閤薨じて後、宗是を仙台に招き大変厚く待遇し黒川郡大谷邑に領地2千石を賜うてもって湯沐(恩恵を受ける)に給す。宗是大谷邑に邸宅を築いてまさにこの地を永住せんとす。政宗美女2名を連れてきて宗是の世話をするようにいう。しかし宗是固辞して受けず。政宗これを聞き慇懃(インギン・真心がこもって礼儀正しいこと)なり。
この記録によると、政宗は宗是を仙台に招き過去の御恩に報いるために、大谷邑に2000石の領地を与えられた。宗是はみなり沢に邸宅を築いて、この地を永住の場所にしようと思った。政宗も宗是を陰ながら支援して、奥女中の中から美女2名を選び、宗是の世話係としてみなり沢に派遣した。しかし、宗是既に齢80近い老人にて、家臣のなかにも幾人かの女性がみなり沢に棲んでいたので、あらぬトラブルを防ぐために政宗に丁寧に断っている。
この記録は宗是のみなり沢での生活の一端を物語るもので、非常に貴重な古文書である。
写真・残間家の前からみなり沢に行く道路、この道路を山から切り出した木材等馬車で仙台まで運んだ。和久一族にとっての重要な生活道路だった。