「仙台藩 慶長の...」の画像検索結果慶長11年(1611)10月仙台藩沿岸部を襲った地震・津波は、甚大な被害を与えた。政宗も藩を上げて復興に尽力したが、復興に必要な物は沿岸部に住む人々及び城下の人々の屋敷の再建である。そのためには多くの木材を必要としていた。

 当時和久は政宗から大谷邑に2000石を拝領していたが、その殆どは山林でコメの収穫は望めなかった、領地の経営はかなり苦しかったのではないだろうか、しかし地震、津波の大災害は700町歩を有する和久にとってこの上もないチャンスで、領民達の屋敷再建のために木材はいくらあっても足りないくらいで、毎日のように沿岸部,更には地震のために倒壊した屋敷の再建のため城下への木材運搬の馬車が連なったことだろう。

 しかし、これら木材を切り出すには和久の家来では大谷邑の農民たちを指揮することができず、和久は古くから大谷邑に棲み、かつては土豪として山林700町歩を所有し、地域の実力者である残間藤右衛門に木材伐採の指揮権を与えた。

 藤右衛門は和久の期待に応えて、かつての自分の配下だった地域の農民をまとめて、木材の切り出しに尽力した。それと同時に、これまで公然と行われてきていた地域住民による御林の盗伐を厳しく取り締まった。住民にとって盗伐は黙認されていたのが藤右衛門によって厳しく取り締まられ、役人に捕まり罰金等の処罰を受ける王になった。住民の憎しみは直接役人の先頭に立ち取り締まりをする藤右衛門に向けられた。