【シニア記者が注目した不祥事・トピックス 1/17~ フジテレビ港社長の会見に非難囂々/広告停止相次ぐ異常事態で再会見】


テレビカメラなどを制限して1月17日に行われた
フジテレビ港浩一社長の記者会見を伝える日経新聞記事


千葉 利宏  フジ・メディア・ホールディングス傘下のフジテレビジョンの社員が、男性タレントの女性に対する性加害問題に関与していたとの週刊文春の記事が波紋を広げている。米国の有力株主がフジ・メディアHDに対して第三者委員会の設置を求めるなど、メディアとしての信頼を大きく揺るがす事態となっている。

 かつてフジサンケイグループの日本工業新聞に1984年4月から2000年12月まで在籍していた筆者としても気がかりな事案である。日常業務でフジテレビとはほとんど接点はなかったので、テレビ業界の実態を知っているわけではないが、スポンサー企業のCM出稿取りやめなどでフジテレビの経営が打撃を受けると、グループ全体に悪影響が及ぶのも避けられないだろう。

 インターネットメディアの台頭で、新聞の発行部数は減少の一途を辿っている。古巣の日本工業新聞も2004年3月に産経新聞の100%子会社になったのを機に題字を「フジサンケイビジネスアイ」に変更したが、2021年6月30日付けを最後に休刊した。テレビ業界の先行きも明るいとは言えないだけに、果たしてフジサンケイグループの行く末はどうなるのだろうか。

■財界主導で誕生したフジテレビ
 最初にフジサンケイグループの歴史を整理しておこう。(以下、敬称略)

 新聞の発祥は、大阪の実業家で東京タワーの建築主としても知られる前田久吉(1893―1986年)が、1933年に工業系専門紙として大阪で創刊した「日本工業新聞」である。その後、第二次世界大戦で物資が不足してきた1942年の新聞統合令によって、関東地区の経済紙が「日本経済新聞」に、関西地区は「産業経済新聞(産経新聞)」に統合・集約された。産経新聞が「創刊○○年」という場合は、日本工業新聞の創刊年から数えた数字である。

 ラジオ・テレビは、今年で100周年を迎えるNHK(日本放送協会)が1925年にラジオ放送、1953年にテレビ放送を開始した。戦後になって民間放送が始まり、1952年に文化放送が開局し、社長は当時の財界四天王と呼ばれた国策パルプ工業(現・日本製紙)社長の水野成夫(1899―1972年)が就任した。1954年には財界が中心となってニッポン放送が開局し、日本経営者団体連盟(日経連、現・経団連)専務理事だった鹿内信隆(1911―1990年)が代表取締役専務として参画した。

 その後、文化放送とニッポン放送に、東宝、松竹、大映の映画3社が加わって、1957年にフジテレビジョンを設立。初代社長は水野成夫である。

 さらに水野は、東京進出で経営が悪化していた産経新聞を1958年に前田久吉から買収し、社長に就任。この年に財界から出資を集めて日本工業新聞社を設立し、「日本工業新聞」を復刊した。この当時の日本工業新聞社は資本関係では産経新聞の子会社ではなかった。

 1961年にニッポン放送の社長となった鹿内信隆は、水野の後を継いで1963年にフジテレビの社長に就任。1968年には産経新聞の社長にも就いて、ポニーキャニオン、文化放送、サンケイビルも加えた「フジサンケイグループ(FCG)」を設立し、1969年にFCG議長としてグループ全体を掌握した

■産経新聞出身の政治家・森喜朗元総理
 フジサンケイグループは、日本の財界の意向を強く受けて生まれたメディアグループと言える。産経新聞の論調は一般的に“右寄り”と評されるが、経緯を考えれば、そのような論調になるのも当然かもしれない。ただ、筆者が在籍していた当時、編集幹部からは「他のメディアが“左寄り”なだけで、産経は“中道”だ」と聞かされていた。

 産経新聞出身の政治家では、第86代内閣総理大臣を務めた森喜朗(1937年―)が有名だ。2012年に政界を引退し、その年の12月に日本経済新聞で「私の履歴書」を掲載し、新聞社に入社した経緯についても詳しく書いている。

 森は、石川県根上町(現・能美市)で、祖父、父と町長を務めた庄屋の家に生まれ、早稲田大学でラグビー選手だった父の影響で、高校時代はラグビーを始めた。大学は早大をめざしたが、成績が悪く、父の後輩だったラグビー部監督に頼み込んで体育局の推薦で早大商学部に入学した。

 しかし、ラグビー部では体力・技量で練習に付いていけずに4か月で挫折。退学も考えたようだが、同郷の早大生から雄弁部を紹介されて入部する。2年上に自民党で参院議長となった西岡武夫、1年上に自民党参院会長の青木幹雄、2年下に元首相の小渕恵三(1937―2000年)がいた。

 話は脱線するが、2001年に日本ではIT国家戦略「e-Japan戦略」が始まった。戦略会議の議長だったソニー会長(当時)の出井伸之(1937―2022年)が早大時代から仲が良かった小渕の急逝を受け、同窓である森からの頼みで議長を引き受けたとのエピソードを筆者に語ったことがあった。

「e-Japan戦略の舞台裏を語る「IPv6に向けたインフラ整備を」(2006-01-09=BCN掲載)

 森は早大雄弁部で政治家を志すようになり、そのステップとして新聞記者を志望した。ただ「私の成績で新聞社に入るのは相当困難なことも事実であった」と自覚していたようで、雄弁部の活動を通じて知り合った自民党議員に相談すると、産経新聞の水野成夫社長を紹介してくれた。国策パルプ本社で水野に会うと「わかった。君がお国のために頑張っているのは感心なことだ。産経の担当者に話しておこう」と言ってくれたという。

 その頃の産経新聞は経営再建中。担当者からは「新卒を採る予定はない」と言われたが、「天下の水野成夫がうそをつくとは何だ」と噛み付いた。入社試験を受けられることになったが、「入社試験も受けない」と言い張ったという。結局、入社試験は受けたが、白紙の答案に「天下の水野社長は前途有為な青年をつぶしてはならない」と書いて提出。1960年4月に産経新聞には入社したが、配属先は日本工業新聞の重工業部だった。

 森は、新聞社には2年しか在籍せず、取材で親しくなった井関農機専務の井関昌孝の紹介で政治家の秘書に転身。1969年12月の衆院選挙で初当選し、議員活動をスタートした。新聞社時代に企業経営者との人脈を築き、井関に紹介してもらったウシオ電機創業者の牛尾治朗(1931―2023年)が日本青年会議所会頭として選挙応援してくれたとのエピソードを語っている。
(以上、敬称略)

■筆者が入社した当時のフジサンケイグループ
 森さんは、日本工業新聞が主催する経済人とのイベントなどに招待すると、ちょくちょく出席してくれる義理堅いところがあり、筆者も新聞社時代に挨拶させてもらったことがある。

 ただ、筆者の場合は、森さんのように志しを持って新聞社に入ったわけではない。東京理科大学建築学科の4年になって研究室が決まると8月までに卒論を仕上げ、11月から卒業設計に取り掛かって2月までに提出して卒業というスケジュールだったので、じっくり就職先を選んで就活を行う余裕もなかった。

 卒論提出後に、たまたま大学の就職課に張り出されていた日本工業新聞の求人票を見て問い合わせると、地方支局は産経新聞がカバーしていて日本工業新聞は「転勤がない」というので、入社試験を受ける気になった。結果は補欠合格ということで、内定をもらっていた住宅会社を断り、1984年4月に日本工業新聞に入社した。

 入社した当時、産経新聞の題字は「サンケイ」だった。入社するまでサンケイ新聞を読んだことがなく、東京・大手町の古ぼけたサンケイビルしか知らなかった。ところが、入社式は新宿区河田町にあったフジテレビの大きなスタジオで行われ、フジサンケイグループの鹿内信隆議長があいさつ。その後、グループ研修を受け、最後に箱根彫刻の森美術館に連れて行かれ、巨大なメディアコングロマリットであることを知って驚いた。

■クーデターで鹿内家をグループから追放
日本工業新聞の名刺 翌1985年には、フジテレビ副社長だった鹿内春雄氏(1945―1988年)が、ニッポン放送、フジテレビ、産経新聞の会長に就任してフジサンケイグループの2代目議長となった。グループのシンボルとして“目ん玉マーク”を制定し、その浮かし彫りの付いた名刺=写真=が筆者にも配られた。

 春雄氏は、フジテレビで経営手腕を発揮して業績を伸ばしたので、世襲批判のようなものは聞かなかった。FCG議長として積極的にメディアミックスを進めていくと思われていたが、1988年に42歳の若さで急逝。信隆氏が一時的に議長に復帰したが、1990年に逝去したため、日本興業銀行(現・みずほ銀行)出身で長女の娘婿になった鹿内宏明氏(1945年―)がFCGの3代目議長に就任した。

 しかし、グループ内にはメディア業界での実績のない宏明氏が議長就任したことに反発があったようだ。フジテレビ社長、ニッポン放送社長を経て産経新聞社長になっていた羽佐間重彰氏(1928―2023年)と、1988年にフジテレビ社長に就任した日枝久氏(1937年―)が協力して、1992年に宏明氏を解任した。

 当時、筆者は日銀記者クラブに在籍していた。クーデター直後に編集幹部に呼ばれ、「大手銀行首脳に会ったときに、今回の件を聞かれても一切、答えるな。しかるべき人間が説明に伺うとだけ言えば良い」と言われたことを覚えている。

■若年層強いが、視聴率は低迷中
 フジサンケイグループの末端に17年ほど居ただけの筆者が見聞きしたのは、これまでに書いた程度のことである。生成AIを使えば調べられそうな内容を長々と書いたのは、過去の人間関係からフジサンケイグループの現状が見えてくるのではないかと思ったからだ。

 財界主導で形成されてきたメディアグループに鹿内家が君臨するようになり、1992年のクーデターで鹿内家を追放した日枝氏が、それから30年以上に渡ってフジサンケイグループの代表であり、フジ・メディア・ホールディングスの取締役相談役として実権を握ってきた。

 日枝氏(88)は、森元総理と同じ年の早大同窓で親しいと聞く。フジ・メディア・ホールディングス会長の嘉納修治氏(74=フジテレビジョン会長)、同社長の金光修氏(70)、フジテレビジョン社長の港浩一氏(72)と、首脳陣には70歳以上がズラリと並ぶ。

 東洋経済新報社発行の会社四季報を見ると、フジ・メディア・ホールディングスのコメント欄には2017年から最新版の2024年まで次のように書かれている。

 「若年層強い。視聴率は低迷中。音楽、通販、不動産など多角経営を推進」

 日本は2008年から人口減少時代に突入し、少子高齢化で若年層人口が減ると同時に、SNSの普及でテレビ離れが進んできたことを考えれば、若年層に強いコンテンツを作っても視聴率が低迷するのは当然だろう。そうした状況から抜け出せないにも関わらず、経営陣の顔触れはほとんど変わっていない。

 個人的には、日枝体制になってから、人材採用も実力主義ではなく、縁故採用などが増えている印象があった。クーデターで実権を握った人間にとって、自分の言いなりになる人間で回りを固めたいとの意識が組織全体に働いているように感じた。

■マスメディアとしての公共的な役割を果たすには
 「2005年にライブドアの堀江貴文氏がニッポン放送の買収計画に成功していれば、テレビとネットメディアの融合が進み、その後の状況が変わっていたのではないか」―筆者の昔の同僚からはそんな声も聞く。堀江氏がメディア事業をどのように変革しようとしていたのかは知らないが、一気に状況が変わっていた可能性はあっただろう。

 ただ、マスメディアを運営するうえで難しいのは、私企業であっても社会において公共的な役割を担っているという点である。1988年に日本美術協会が創立100周年を記念して設立した「高松宮殿下世界文化賞」にフジサンケイグループは深く関わってきた。建築を専攻した筆者は、建築部門で受賞した丹下健三氏(1993年)や安藤忠雄氏(1996年)のインタビューを任されたことがある。

 今回のような問題が起きて社会からの信頼が失われれば、その影響は計り知れない。皇族の冠が付いた世界文化賞の運営業務は真っ先に切られるのでは?と心配する声も聞く。こうした事態を回避するためにも、経営陣の大幅な刷新は避けられないのではないか。問題は、これからの経営改革を誰が主導して行うのかである。社内・グループ内の人間か、外部の人間か。いずれにしても相当に厳しい対応に迫られることになると思われる。


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