【シニア記者が注目した不祥事・トピックス 2/13~ ホンダ・日産が経営統合計画を撤回/両社社長がそれぞれ会見し事情説明】
「日産自動車の経営再建はカルロス・ゴーンだったからやれたこと。私を含めて日本人なら、とてもやれなかった」――2006年頃だったと記憶しているが、トヨタ自動車会長と経団連会長を退任した奥田碩氏が筆者にそう言ったことがある。同業者から見ていても、日産の経営立て直しは難題だと感じていたのだろう。
「ホンダ・日産の経営統合交渉が破談」とのニュースを聞いて、奥田さんの言葉を思い出した。自動車産業を担当したのは日本工業新聞時代の1993年7月~96年6月までの3年間だが、当時も「なぜ日産の経営改革は進まないのか?」と疑問に思いながら取材していた記憶がある。果たして日産自動車は自力で経営を立て直すことができるのだろうか。
■20年以上も国内販売シェア右肩下がりの結果
筆者が日銀担当から自動車担当に着任した直前の1993年5月、日産自動車は神奈川県座間車両工場を2年後の95年に閉鎖すると発表した。その前年には、いすゞ自動車が乗用車開発からの撤退を発表するなど、国内新車販売市場にもバブル経済崩壊の影響が出始めていた時期だ。
さらに日米自動車貿易摩擦が始まり、1ドル=100円を切る水準へと円高が進み、自動車各社は海外生産拡大を進めるなど円高対策に追われていた。記者としては取材するテーマに事欠かない状況だったが、個人的には国内販売の動向に関心があった。
1995年にトヨタ自動車が13年振りに国内販売シェア(当時は軽自動車を除いた登録車の台数ベース)で40%を切ったことが印象に残っている。その時のエピソードは、筆者のブログに上・中・下の3回に分けて書いた。
●判断力と決断力―トヨタ自動車は国内シェア40%割れの危機をいかに乗り越えたか(2002-06-10)
当時、筆者が日産自動車に対してどう見ていたかも、ブログでは次のように書いていた。
「トヨタのライバルだった日産自動車は、70年代の半ばから労働争議問題が表面化して国内シェアの下落が始まり、私が担当していたころもまだシェアを落とし続けていた。バブル全盛の90年に、初代「セフィーロ」効果などで前年比0.1%シェアを回復したのを除けば、ほぼ20年間、シェアはまさに“右肩下がり”の状態だった」
「トヨタのシェア奪回作戦は、市場の流れから見て最も“理にかなっている”戦略であった。だからこそ、わずか5年でシェア40%を回復できたわけで、20年以上もシェアを落とし続け、最後は外資系メーカーに買収された(?)日産自動車とは決定的に違うところである」
■「10年経ったら壊れるクルマ」で新車販売は増えるのか?
国内新車販売台数は、バブル崩壊まではほぼ右肩上がりで増えていた。日産自動車としては、販売シェアが落ち続けていても業績は維持できていたこともあって、シェア低下に対する危機感があまり感じられなかった。
1992年に社長に就任した辻義文氏(2007年死去)が、記者との懇談の席で、こんな話をしたことがあった。「10年も経ったら壊れて動かなくなるようなクルマをつくれないものだろうか。そんなクルマができれば新車がどんどん売れるのに…」と。
本人は冗談のつもりで言ったのかもしれないが、日産のトップがそのようなことを言ったことに衝撃を受けたので、いまでも覚えている。「技術の日産」を標榜する自動車メーカーが壊れやすいクルマをつくりたいとは、冗談でも言うべきではなかった。販売不振の原因をどこか他人事のように語っているように感じたからだ。
三菱自動車が2000年のリコール隠し事件で経営危機に陥る遠因になったと筆者が考えているトップ人事を巡るエピソードを書いたブログ記事にも、日産自動車が絡んでいる。
●エピソード1:三菱自動車が20年前に作らせた自工会クラブ版カー・オブ・ザ・イヤーとは?
1994年の日本カー・オブ・ザ・イヤーを日産自動車の2代目「セフィーロ」が逃し、三菱自動車の新型スポーツ車「FTO」が受賞した。特別賞は、国内新車販売不振が続いていたホンダを救ったRV「オデッセイ」だった。
その結果を見て、自動車担当の経済記者で組織する自工会記者クラブで「自工会クラブ版カー・オブ・ザ・イヤー」をやることになった。ただ、あくまでも記者クラブの年末納会の余興としてで、真剣にクルマの性能評価で選んだ記者もいたかもしれないが、多くの記者は勝手気ままな基準で投票していた。
自工会クラブ版のイヤーカーには日産の「セフィーロ」が選ばれた。クルマとしての評価で選ばれたわけではないことを日産の広報部も判っていたはずである。それを辻社長にどのように報告したのだろうか。公式の社長会見の席で、辻さんからお礼の言葉があったときには驚いた。自分たちに都合の良いように解釈してしまうところは、今回のホンダとの経営統合交渉にも現れていたように思える。
鴻海―シャープのEVに日産が連携する可能性は?
冒頭の奥田さんの言葉は、森ビルが運営する社会人教育機関「アカデミーヒルズ」のセミナーで企業経営をテーマに講演した時に聞いた。講演後、10年振りに挨拶すると、筆者のことを覚えていてくれて、日産のカルロス・ゴーン氏の経営手腕について質問すると高く評価していた。
ルノーとの提携を主導し、ゴーン氏を社長として招いたのは、1996年に社長に就任した塙義一氏(2015年死去)である。筆者が自動車担当していた時は副社長だったが、取材する側の記者にとっても信頼できる方だった。塙さんも、日産の経営再建は自力では難しいと思って決断したのだろう。その判断は正しかったと奥田さんも認めていた。
2018年にゴーン会長が逮捕されたあと、日産自動車の経営は混乱し、コロナ禍の影響もあって業績が悪化した。ホンダとの経営統合はそうした状況を打開する狙いがあったと思われるが、交渉は破談した。やはり日産自動車の経営改革は一筋縄では進まないのか。

鴻海(ホンハイ)精密工業とシャープで共同開発したEV・外観

EV「LDK+コンセプト」・内部
先週末の2月19―21日に東京ビッグサイトで開催されていた展示会「スマートエネルギーWEEK」のシャープブースに、鴻海(ホンハイ)精密工業とシャープで共同開発したEV「LDK+コンセプト」=写真=が展示されていた。昨年9月に東京国際フォーラムで開催した「SHARP Tech-Day'24 “Innovation Showcase”」で初公開したのに続いての展示だった。
「“止まっている時間“はリビングルームの拡張空間に」をコンセプトに、後部座席が回転し、液晶シャッターが閉じることで車内がプライベート空間になる。こうしたEVの発想は、自動車メーカーからはなかなか出てこないだろう。
ホンダ・日産が経営統合の交渉を急いだ背景には、鴻海が日産株の取得に動いていたことが影響していたと言われる。「経済記者シニアの眼」では、佃均氏が「日産・ホンダが経営統合へ 併せて三菱が協業に合意 ビークルOS/SDVで日台韓の大連合を妄想する」(2025-01-27)を執筆しているが、EVコンセプトカーを見ながら、日産―鴻海―シャープが連携する可能性を筆者も妄想してしまった。

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「日産自動車の経営再建はカルロス・ゴーンだったからやれたこと。私を含めて日本人なら、とてもやれなかった」――2006年頃だったと記憶しているが、トヨタ自動車会長と経団連会長を退任した奥田碩氏が筆者にそう言ったことがある。同業者から見ていても、日産の経営立て直しは難題だと感じていたのだろう。
「ホンダ・日産の経営統合交渉が破談」とのニュースを聞いて、奥田さんの言葉を思い出した。自動車産業を担当したのは日本工業新聞時代の1993年7月~96年6月までの3年間だが、当時も「なぜ日産の経営改革は進まないのか?」と疑問に思いながら取材していた記憶がある。果たして日産自動車は自力で経営を立て直すことができるのだろうか。
■20年以上も国内販売シェア右肩下がりの結果
筆者が日銀担当から自動車担当に着任した直前の1993年5月、日産自動車は神奈川県座間車両工場を2年後の95年に閉鎖すると発表した。その前年には、いすゞ自動車が乗用車開発からの撤退を発表するなど、国内新車販売市場にもバブル経済崩壊の影響が出始めていた時期だ。
さらに日米自動車貿易摩擦が始まり、1ドル=100円を切る水準へと円高が進み、自動車各社は海外生産拡大を進めるなど円高対策に追われていた。記者としては取材するテーマに事欠かない状況だったが、個人的には国内販売の動向に関心があった。
1995年にトヨタ自動車が13年振りに国内販売シェア(当時は軽自動車を除いた登録車の台数ベース)で40%を切ったことが印象に残っている。その時のエピソードは、筆者のブログに上・中・下の3回に分けて書いた。
●判断力と決断力―トヨタ自動車は国内シェア40%割れの危機をいかに乗り越えたか(2002-06-10)
当時、筆者が日産自動車に対してどう見ていたかも、ブログでは次のように書いていた。
「トヨタのライバルだった日産自動車は、70年代の半ばから労働争議問題が表面化して国内シェアの下落が始まり、私が担当していたころもまだシェアを落とし続けていた。バブル全盛の90年に、初代「セフィーロ」効果などで前年比0.1%シェアを回復したのを除けば、ほぼ20年間、シェアはまさに“右肩下がり”の状態だった」
「トヨタのシェア奪回作戦は、市場の流れから見て最も“理にかなっている”戦略であった。だからこそ、わずか5年でシェア40%を回復できたわけで、20年以上もシェアを落とし続け、最後は外資系メーカーに買収された(?)日産自動車とは決定的に違うところである」
■「10年経ったら壊れるクルマ」で新車販売は増えるのか?
国内新車販売台数は、バブル崩壊まではほぼ右肩上がりで増えていた。日産自動車としては、販売シェアが落ち続けていても業績は維持できていたこともあって、シェア低下に対する危機感があまり感じられなかった。
1992年に社長に就任した辻義文氏(2007年死去)が、記者との懇談の席で、こんな話をしたことがあった。「10年も経ったら壊れて動かなくなるようなクルマをつくれないものだろうか。そんなクルマができれば新車がどんどん売れるのに…」と。
本人は冗談のつもりで言ったのかもしれないが、日産のトップがそのようなことを言ったことに衝撃を受けたので、いまでも覚えている。「技術の日産」を標榜する自動車メーカーが壊れやすいクルマをつくりたいとは、冗談でも言うべきではなかった。販売不振の原因をどこか他人事のように語っているように感じたからだ。
三菱自動車が2000年のリコール隠し事件で経営危機に陥る遠因になったと筆者が考えているトップ人事を巡るエピソードを書いたブログ記事にも、日産自動車が絡んでいる。
●エピソード1:三菱自動車が20年前に作らせた自工会クラブ版カー・オブ・ザ・イヤーとは?
1994年の日本カー・オブ・ザ・イヤーを日産自動車の2代目「セフィーロ」が逃し、三菱自動車の新型スポーツ車「FTO」が受賞した。特別賞は、国内新車販売不振が続いていたホンダを救ったRV「オデッセイ」だった。
その結果を見て、自動車担当の経済記者で組織する自工会記者クラブで「自工会クラブ版カー・オブ・ザ・イヤー」をやることになった。ただ、あくまでも記者クラブの年末納会の余興としてで、真剣にクルマの性能評価で選んだ記者もいたかもしれないが、多くの記者は勝手気ままな基準で投票していた。
自工会クラブ版のイヤーカーには日産の「セフィーロ」が選ばれた。クルマとしての評価で選ばれたわけではないことを日産の広報部も判っていたはずである。それを辻社長にどのように報告したのだろうか。公式の社長会見の席で、辻さんからお礼の言葉があったときには驚いた。自分たちに都合の良いように解釈してしまうところは、今回のホンダとの経営統合交渉にも現れていたように思える。
鴻海―シャープのEVに日産が連携する可能性は?
冒頭の奥田さんの言葉は、森ビルが運営する社会人教育機関「アカデミーヒルズ」のセミナーで企業経営をテーマに講演した時に聞いた。講演後、10年振りに挨拶すると、筆者のことを覚えていてくれて、日産のカルロス・ゴーン氏の経営手腕について質問すると高く評価していた。
ルノーとの提携を主導し、ゴーン氏を社長として招いたのは、1996年に社長に就任した塙義一氏(2015年死去)である。筆者が自動車担当していた時は副社長だったが、取材する側の記者にとっても信頼できる方だった。塙さんも、日産の経営再建は自力では難しいと思って決断したのだろう。その判断は正しかったと奥田さんも認めていた。
2018年にゴーン会長が逮捕されたあと、日産自動車の経営は混乱し、コロナ禍の影響もあって業績が悪化した。ホンダとの経営統合はそうした状況を打開する狙いがあったと思われるが、交渉は破談した。やはり日産自動車の経営改革は一筋縄では進まないのか。

鴻海(ホンハイ)精密工業とシャープで共同開発したEV・外観

EV「LDK+コンセプト」・内部
先週末の2月19―21日に東京ビッグサイトで開催されていた展示会「スマートエネルギーWEEK」のシャープブースに、鴻海(ホンハイ)精密工業とシャープで共同開発したEV「LDK+コンセプト」=写真=が展示されていた。昨年9月に東京国際フォーラムで開催した「SHARP Tech-Day'24 “Innovation Showcase”」で初公開したのに続いての展示だった。
「“止まっている時間“はリビングルームの拡張空間に」をコンセプトに、後部座席が回転し、液晶シャッターが閉じることで車内がプライベート空間になる。こうしたEVの発想は、自動車メーカーからはなかなか出てこないだろう。
ホンダ・日産が経営統合の交渉を急いだ背景には、鴻海が日産株の取得に動いていたことが影響していたと言われる。「経済記者シニアの眼」では、佃均氏が「日産・ホンダが経営統合へ 併せて三菱が協業に合意 ビークルOS/SDVで日台韓の大連合を妄想する」(2025-01-27)を執筆しているが、EVコンセプトカーを見ながら、日産―鴻海―シャープが連携する可能性を筆者も妄想してしまった。

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