2004年11月13日
油井正一とジャズの歴史。
「スイングジャーナル」2003年11月号に執筆したもの。
油井さんとお話ししたことは2度しかなかったのですが、最も尊敬するジャズ評論家なので、気合いを入れて書きました、
油井さんとお話ししたことは2度しかなかったのですが、最も尊敬するジャズ評論家なので、気合いを入れて書きました、
●油井正一とジャズの歴史
「ジャズ」と呼ばれる音楽はいつ、どのようにして発生したのか? そしてジャズはどんな道筋をたどって20世紀を代表する音楽になったのか?
きわめて基本的かつ根源的なこの問いに対する解答を求める人に、僕は「油井正一の『ジャズの歴史物語』(スイングジャーナル社)を読めばそれがわかります」と、自信を持って答えたい。おそらく『ジャズの歴史物語』という本は、アメリカ人によって書かれたどんなジャズ史よりも明晰に、「ジャズ」の発生と発展についての考察が記述された書物であるはずだ。これだけ見事なジャズについての洞察が日本人によってなされたことを、われわれはもっと誇りに思っていい。かつて平岡正明は「日本に竹内好がいることが魯迅の幸福であるように、アメリカの黒人ジャズメンは日本に油井正一がいることを幸福と思わなくてはいけない」(『スラップスティック快人伝』所収「ソウルフルな油井正一」)と書いた。まさにそのとおり!
日本における「ジャズのゴッドファーザー」として、油井正一は多方面にわたってジャズの普及と啓蒙に尽力した。雑誌での批評や紹介、ラジオ番組の構成と解説、レコードの企画や監修、コンサートの企画・構成・司会、ファン組織「ホット・クラブ・オブ・ジャパン」の運営、日本人ミュージシャンの海外への紹介…。油井正一の、八面六臂としか言いようがない活動のおかげで、日本はおそらく世界一のジャズ受容国となったわけだ。そしてその啓蒙・普及活動には、「油井ジャズ史観」と呼ぶべき強固な裏付けがあった。
膨大な量のレコードを聴いて培われた耳のよさ、個別の事象から本質を抽出する論理的思考力、アメリカ史や黒人史の深い知識、そしてジャズに対する無私の愛情。江戸落語や講談を思わせる粋な文体で、ジャズの魅力と本質をきっぱり・すっきりと語る油井正一の文章には、読者に自分の頭がよくなった、と思わせてしまう、すぐれた評論特有の力がある。もちろん、頭がいいのはこちらではなくって油井正一の方、なんだけど…。
大正7年(1918)、横浜に生まれて神戸で育った油井正一は、中学生の頃に童話作家の巌谷小波(さざなみ)に師事するほどの早熟な文才の持ち主だった。慶應大学に入学後は「6年間を映画と探偵小説とジャズで過ごした」(本誌1959年8月号「ボクの若かりし頃」)というから、戦前のモダニズム文化にどっぷりと浸かった青春時代だったわけだ。ジャズ喫茶に入り浸り、テディ・ウィルソンやベニー・グッドマンのSPを集め、美人歌手ナン・ウインに憧れてファンレターを書き綴る、という日々。油井正一が最初に商業誌に書いたジャズ評論は、「ヴァラエティ」昭和14年(1939)10月号に掲載された、ヘンリー・アレンやミルズ・ブルー・リズム・バンドについての記事だったそうだ。
やがて対米戦争が始まり、油井正一は陸軍将校として対空レーダーを操作、東京空襲のB29爆撃機と渡り合った。「ニューヨークを占領したらすぐにナン・ウインに結婚を申しこまにゃならん。せめて将校になっとかにゃならん」と思って頑張ったのだ、と、本人は書いているけど、いくらなんでもねえ。
そして敗戦。家業の絹布問屋を継いで商才を発揮した油井正一は、「朝鮮動乱に便乗して大金を握ったり調子に乗って大相場を張ってスッカラカンになったり」(前掲「ボクの若かりし頃」)という激動の時期を送り、昭和28年(1953)に店を倒産させてしまう。専業のジャズ評論家としての彼の活動が本格的に始まったのは、それ以降のことだった。
というわけで、油井正一がSJ誌に登場した時期は、昭和30年(1955)11月号と、ジャズ・ファンとしてのキャリアの割には意外と遅い。「権威について」と題されたその記事は、バリー・ウラノフの著書『ジャズへの道』を批判的に読んでウラノフの事実誤認や認識不足を具体的に指摘したものだ。「結局たよりになるのは自分の耳以外にないことを認識すべきだ。ウラノフの権威に圧倒される必要は毫もない。『俺はこう思う』という議論が湧きかえるとき日本のジャズ愛好家のレベルは一段と向上すると思う」と結ばれるその文章は、もしかしたら「ウラノフの本を超えるジャズ史は自分が書くのだ」という、ひそかな決意表明だったのかもしれない。
以後、油井正一はジャズ評論家として先に述べたような大活躍を開始する。SJ誌に彼が書いた記事のタイトルをいくつか列挙しておこう。「テクニックについて」(1956年1月号。「技巧は表現の一手段である」という、実にまっとうな技術論を展開した内容)・「コールマン・ホーキンスの悲劇」(56年8月号)・「5000円で買えるベニイ・グッドマン」(57年2月号)・「カウント・ベイシー論」(58年1月号)・「『スタン・ゲッツの芸術』の意義と価値」(60年1月号)・「ジャズに新しい世紀は来たか? オーネット・コールマンの音楽」(60年7月号)などなどなどなど…。また、ジャズ史についての最初の著書『ジャズの歴史』(東京創元社)が発行されたのは57年のことだった。
そして、『ジャズの歴史物語』の元となった連載「ジャズの歴史」が開始されたのは67年7月号。72年10月号まで続いたこの大河連載と、それに大幅な加筆訂正・整理を施して出版された『ジャズの歴史物語』こそが、「油井ジャズ史観」の全面展開であり、ここで提示された視点は、いまだに色あせない説得力と妥当性を持っている。
「ジャズとラテン音楽」と題された連載「ジャズの歴史」の第一回は、「ジャズはラテン・アメリカの音楽の一種である」という刺激的なテーゼから始まっている。カリブ海の島々からニューオリンズというカリブ海沿いの国際都市へ、という音楽を含む「黒人文化」の流れを重視し、その上、それをジャズへと転換させた「受け皿」として「クリオール」というニューオリンズ特有の階層(スペイン人やフランス人と黒人の混血で、白人同様の身分を保証された階層)が南北戦争後に没落した、という事実を設定し、そのことを豊富なエピソードを挙げて実証してゆくさまは、たとえようもなくスリリングだ。
社会の動きと連動した立体的なダイナミズムを常にジャズ史の中に見据え、ダンスや芸能といったエンターテインメントの重要性を訴え、宗教問題、アメリカの人種問題、戦争の影響などについてもきっちりと目配りを怠らず、ジャズは時代が下ると「黒く」なる、という、いっけん逆説に聞こえる真実を看破し、しかし全体の「乗り」はまったく教条的でも観念的でもなく、ディレッタントのアマチュアリズムを終生保ち続けた油井正一は、ジャズというアートの、理想的な理解者であり享受者であり啓蒙家だった。
オーネット・コールマンのデビュー直後に、ブルース以前のフィールドハラーとの共通性を指摘し、アルバート・アイラーにカリブ海音楽への先祖帰りを聞き取り、マイルスの『ビッチェス・ブリュー』を「歴史を揺るがす傑作」と発表直後に断言し、山下洋輔トリオを結成当初から熱烈に支持し、と、いわゆる「過激なジャズ」についても、油井正一は「歴史」との関連性をきちんと見据えて的確な評価を下した。そして、その一方で、青年期からのアイドルであるビックス・バイダーベックについて書く彼の筆致は、恋をした少年のように初々しいのだ。
長年のジャズ啓蒙活動を評価されて、油井正一は晩年に勲四等を受章した。それはもちろん喜ばしいことであるけれど、真に油井正一を誇りとして讃えるべき国は、「ジャズ共和国」という国土なき国、であるはずなのだ。
「ジャズ」と呼ばれる音楽はいつ、どのようにして発生したのか? そしてジャズはどんな道筋をたどって20世紀を代表する音楽になったのか?
きわめて基本的かつ根源的なこの問いに対する解答を求める人に、僕は「油井正一の『ジャズの歴史物語』(スイングジャーナル社)を読めばそれがわかります」と、自信を持って答えたい。おそらく『ジャズの歴史物語』という本は、アメリカ人によって書かれたどんなジャズ史よりも明晰に、「ジャズ」の発生と発展についての考察が記述された書物であるはずだ。これだけ見事なジャズについての洞察が日本人によってなされたことを、われわれはもっと誇りに思っていい。かつて平岡正明は「日本に竹内好がいることが魯迅の幸福であるように、アメリカの黒人ジャズメンは日本に油井正一がいることを幸福と思わなくてはいけない」(『スラップスティック快人伝』所収「ソウルフルな油井正一」)と書いた。まさにそのとおり!
日本における「ジャズのゴッドファーザー」として、油井正一は多方面にわたってジャズの普及と啓蒙に尽力した。雑誌での批評や紹介、ラジオ番組の構成と解説、レコードの企画や監修、コンサートの企画・構成・司会、ファン組織「ホット・クラブ・オブ・ジャパン」の運営、日本人ミュージシャンの海外への紹介…。油井正一の、八面六臂としか言いようがない活動のおかげで、日本はおそらく世界一のジャズ受容国となったわけだ。そしてその啓蒙・普及活動には、「油井ジャズ史観」と呼ぶべき強固な裏付けがあった。
膨大な量のレコードを聴いて培われた耳のよさ、個別の事象から本質を抽出する論理的思考力、アメリカ史や黒人史の深い知識、そしてジャズに対する無私の愛情。江戸落語や講談を思わせる粋な文体で、ジャズの魅力と本質をきっぱり・すっきりと語る油井正一の文章には、読者に自分の頭がよくなった、と思わせてしまう、すぐれた評論特有の力がある。もちろん、頭がいいのはこちらではなくって油井正一の方、なんだけど…。
大正7年(1918)、横浜に生まれて神戸で育った油井正一は、中学生の頃に童話作家の巌谷小波(さざなみ)に師事するほどの早熟な文才の持ち主だった。慶應大学に入学後は「6年間を映画と探偵小説とジャズで過ごした」(本誌1959年8月号「ボクの若かりし頃」)というから、戦前のモダニズム文化にどっぷりと浸かった青春時代だったわけだ。ジャズ喫茶に入り浸り、テディ・ウィルソンやベニー・グッドマンのSPを集め、美人歌手ナン・ウインに憧れてファンレターを書き綴る、という日々。油井正一が最初に商業誌に書いたジャズ評論は、「ヴァラエティ」昭和14年(1939)10月号に掲載された、ヘンリー・アレンやミルズ・ブルー・リズム・バンドについての記事だったそうだ。
やがて対米戦争が始まり、油井正一は陸軍将校として対空レーダーを操作、東京空襲のB29爆撃機と渡り合った。「ニューヨークを占領したらすぐにナン・ウインに結婚を申しこまにゃならん。せめて将校になっとかにゃならん」と思って頑張ったのだ、と、本人は書いているけど、いくらなんでもねえ。
そして敗戦。家業の絹布問屋を継いで商才を発揮した油井正一は、「朝鮮動乱に便乗して大金を握ったり調子に乗って大相場を張ってスッカラカンになったり」(前掲「ボクの若かりし頃」)という激動の時期を送り、昭和28年(1953)に店を倒産させてしまう。専業のジャズ評論家としての彼の活動が本格的に始まったのは、それ以降のことだった。
というわけで、油井正一がSJ誌に登場した時期は、昭和30年(1955)11月号と、ジャズ・ファンとしてのキャリアの割には意外と遅い。「権威について」と題されたその記事は、バリー・ウラノフの著書『ジャズへの道』を批判的に読んでウラノフの事実誤認や認識不足を具体的に指摘したものだ。「結局たよりになるのは自分の耳以外にないことを認識すべきだ。ウラノフの権威に圧倒される必要は毫もない。『俺はこう思う』という議論が湧きかえるとき日本のジャズ愛好家のレベルは一段と向上すると思う」と結ばれるその文章は、もしかしたら「ウラノフの本を超えるジャズ史は自分が書くのだ」という、ひそかな決意表明だったのかもしれない。
以後、油井正一はジャズ評論家として先に述べたような大活躍を開始する。SJ誌に彼が書いた記事のタイトルをいくつか列挙しておこう。「テクニックについて」(1956年1月号。「技巧は表現の一手段である」という、実にまっとうな技術論を展開した内容)・「コールマン・ホーキンスの悲劇」(56年8月号)・「5000円で買えるベニイ・グッドマン」(57年2月号)・「カウント・ベイシー論」(58年1月号)・「『スタン・ゲッツの芸術』の意義と価値」(60年1月号)・「ジャズに新しい世紀は来たか? オーネット・コールマンの音楽」(60年7月号)などなどなどなど…。また、ジャズ史についての最初の著書『ジャズの歴史』(東京創元社)が発行されたのは57年のことだった。
そして、『ジャズの歴史物語』の元となった連載「ジャズの歴史」が開始されたのは67年7月号。72年10月号まで続いたこの大河連載と、それに大幅な加筆訂正・整理を施して出版された『ジャズの歴史物語』こそが、「油井ジャズ史観」の全面展開であり、ここで提示された視点は、いまだに色あせない説得力と妥当性を持っている。
「ジャズとラテン音楽」と題された連載「ジャズの歴史」の第一回は、「ジャズはラテン・アメリカの音楽の一種である」という刺激的なテーゼから始まっている。カリブ海の島々からニューオリンズというカリブ海沿いの国際都市へ、という音楽を含む「黒人文化」の流れを重視し、その上、それをジャズへと転換させた「受け皿」として「クリオール」というニューオリンズ特有の階層(スペイン人やフランス人と黒人の混血で、白人同様の身分を保証された階層)が南北戦争後に没落した、という事実を設定し、そのことを豊富なエピソードを挙げて実証してゆくさまは、たとえようもなくスリリングだ。
社会の動きと連動した立体的なダイナミズムを常にジャズ史の中に見据え、ダンスや芸能といったエンターテインメントの重要性を訴え、宗教問題、アメリカの人種問題、戦争の影響などについてもきっちりと目配りを怠らず、ジャズは時代が下ると「黒く」なる、という、いっけん逆説に聞こえる真実を看破し、しかし全体の「乗り」はまったく教条的でも観念的でもなく、ディレッタントのアマチュアリズムを終生保ち続けた油井正一は、ジャズというアートの、理想的な理解者であり享受者であり啓蒙家だった。
オーネット・コールマンのデビュー直後に、ブルース以前のフィールドハラーとの共通性を指摘し、アルバート・アイラーにカリブ海音楽への先祖帰りを聞き取り、マイルスの『ビッチェス・ブリュー』を「歴史を揺るがす傑作」と発表直後に断言し、山下洋輔トリオを結成当初から熱烈に支持し、と、いわゆる「過激なジャズ」についても、油井正一は「歴史」との関連性をきちんと見据えて的確な評価を下した。そして、その一方で、青年期からのアイドルであるビックス・バイダーベックについて書く彼の筆致は、恋をした少年のように初々しいのだ。
長年のジャズ啓蒙活動を評価されて、油井正一は晩年に勲四等を受章した。それはもちろん喜ばしいことであるけれど、真に油井正一を誇りとして讃えるべき国は、「ジャズ共和国」という国土なき国、であるはずなのだ。
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この記事へのコメント
1. Posted by VENTO AZUL 2004年11月17日 10:21
村井さん、はじめまして!
いつも著作を読ませてもらってます。
油井正一氏の「ジャズの歴史物語」は植草さんの著作とならぶバイブルでした。
アスペクト・イン・ジャズでの名解説が懐かしい。
村井さん自身の新作の予定はないのでしょうか?
現代ジャズシーンを様々な角度からユニークに語った本がでるのを、待ち望んでおります。
いつも著作を読ませてもらってます。
油井正一氏の「ジャズの歴史物語」は植草さんの著作とならぶバイブルでした。
アスペクト・イン・ジャズでの名解説が懐かしい。
村井さん自身の新作の予定はないのでしょうか?
現代ジャズシーンを様々な角度からユニークに語った本がでるのを、待ち望んでおります。
2. Posted by 村井康司 2004年12月21日 06:43
ひゃああーすみません!
コメントついてるの見逃してました!
ええと、わたくしの本は、予定はずっとあるのですが、本人の怠惰と無能のために伸びております。
2005年内にはなんとかしますので、よろしくお願いします。
コメントついてるの見逃してました!
ええと、わたくしの本は、予定はずっとあるのですが、本人の怠惰と無能のために伸びております。
2005年内にはなんとかしますので、よろしくお願いします。