東北大震災の1周忌が終わり、私は黙祷した後に天皇陛下の追悼の辞を拝聴しながら、あの忌まわしい時間に想いを馳せておりました。
あれから1年も経ちながら被災地の状況は目に見えて変わっていない。あのガレキはなぜ今もそこにあるのだ、と。人は国難だといい、絆を見せる時だといい、頑張れ!といいます。私が思わず「何が絆だ、偽善者達奴!」と。
今頃になって、あの原発、がなぜこのような被害と絶望をもたらしたのか、をTVや雑誌から知るようになりました。そこに見えてきたのはなんといっても東京電力(東電)の対応と反応の鈍さ、それから政府首脳と周辺政治家達の愚かさでした。東電は簡単にいえば無責任な企業だったのであります。彼らは原子力発電が人を(精神まで)殺す、ということまでは考えが及ばなかったのでありましょうか? 愚かといってこれほど愚かなエリートはおりません。
同じ人災でも、当初は政府の動きが鈍く総てがそこから始ったものだと思っておりましたが、政府首脳達のコミュニュケーション不足や官僚どもの危機意識が鈍いことを考慮しても東電の動きの方が遥かにお粗末なものだったようです。政府が彼ら大手企業の驕りや狡さに怒り告訴しないのが未だに不思議でなりません。考えてもご覧なさい、東北地方、とりわけて福島原発周辺の住民は故郷を失ったのですよ。これは恐ろしい現実なのです。
アメリカ政府は大地震の時から原発の情報を寸刻みに入手し、丹念に調査していたそうです。それもメルトダウンを察知して在住アメリカ人を80k圏外に逃げ出すようにまで指示していました。私はもちまえの祖国愛から「卑怯者奴」と怒りました。しかし80kは大袈裟であっても、それぐらい深刻であったのです。また日本政府には援助まで申し出ていたそうですが、政府はこれを断った。フランスからの協力も断った。断った挙げ句が未曾有の大事故、巨額な損害はいうに及ばず、罹災に遭った人は半世紀足らず放浪の暮らしを強いられることになったのです。こんな馬鹿げた政府はないし、こんな悪魔的な企業もない。こんな連中を黙認している国民はどうかしているのではないでしょうかね?首をひねって「困った、困った」というだけでは救いなんか絶対にないではありませんか。
なぜあの時、菅直人氏は米仏の専門家を抱き込んで一緒にことの解決を計らなかったのか?なぜ米国の協力を素直に受けて後に責任の半分を押し付けなかったのか?この人達は結局、政治戦略というものを知らないのですね。たわけ者です。
ご存知でしょうが「スピーディ」という英語の綴りを合わせた最新型コンピューターは原発がメルトダウン(これは既に始っていたそうです)した翌日から放射能が流れている方向と濃度を示していました。東電はこれを告知しなかったし、保安委員もしなかった。政治家達も始めは存在すら知らなかったが、細野議員は後で知って、しかしながら「国民が同様するから」と知らせなかったそうです。酷い話です。そしてあろうことか、原発が爆発した時点で退避を勧告した方向が「スピーディ」が明示した危険区域の方向ですからこれはもう喜劇です。失態ではなく犯罪です。このことについて後に細野議員が「レポートを受け取った時点で東電側がパニックを避けるために・・」と語りましたが、この人達は護送船団方式でお互いが肩を叩きあって慰め合っているのではないかな?
で、いつものように過激なことをいいますが、この担当者達は全て裁判にかけるべきですね。リーマンショックを惹き起こした銀行役員は全部、今でも刑務所にいます。そう、社会を混乱に巻き込んだリーダー達はアメリカ同様に、首相も取り巻き議員も、東電幹部もまとめて全て告訴し、裁判にかけるべきですよ。原発暴発事件は人災なのですから、ことの善悪を問わなければ被災者は勿論、心ある人は納得できないでしょうし、こういう「仕方ない」という根拠のない責任逃れは(特にリーダー達には)あってはいけません?第一子供が莫迦にします。小沢一郎が根拠明白ながら世間が煩く責任を追求するのであれば、暴発に慌てふためき無策のまま時間を費やして大事故にしてしまった責任者達こそ遥かに罪が深いはずです。
こういう責任問題をあきらかにさせようともしない「日本の体質」とは何なのでしょう、遥かに罪深く、悪質なはずなのにマスコミも一般も関心を示さない。いや全く理解に苦しみます。もうナアナア社会は止めてもらいたいものです。
このように人ごとながら悲憤慷慨するのは、福島原発でいわれなく犠牲になった人々がいて、罹災者は未だに悲惨な状態で辛抱を強いられているからであります。これは福島県のみならず、宮城県しかり岩手県しかりでして、急いでこしらえた仮設住宅は本当に仮設で総てが間に合わせ状態、寒さ対策など十分にできているわけではないこと。グアムにきた被災者の一人が「中にはよくできた住宅もありましたが、業者は急がなければいけないという言い訳を利用して酷い小屋を風が吹くように建てていきました」と語っていました。東北人はノホホンとしているように見えながら本心は悲鳴だったのです。哀れなのは「それが酷い代物でも(奉仕でしてくれているという有り難さがあって)文句をいえない後めたさがあった」、ともいっていました。これまで真正直に税金を払ってきた市民に何の後めたさなどありえましょうか、東北人の実直さが哀れに思えました。
市役所は業者にまともなお金を支払いながら、酷い小屋を造るのを黙認し、それを納品させていたのですからこれも立派な犯罪です。そこに住まざるを得ない住民の心の中、虚しさや怒り、不安や不条理を政府や東電、役人はどのように考えるのでしょう?除染も含めて殆どが「アナタ任せ」のあり方は尋常な姿ではありません。役所に任せれば「総てを平等にしなければならないから」、という言い訳ばかりで全く人情など入りこむ余地がないといいます。こういう非常事態であっても役人体質は変わらない、まさにたわけ者達です。
おそらく幹部以外の普通のまともな東電社員と家族の多くはきっとその事に気を病み、肩身の狭い気持でいるはずです。政治家やその家族の中にも「こういうことではいけない、気が済まない、申し訳がない」と忸怩とした思いをしている人が必ずいるはずです。
そして無論、彼ら直接関わっていなかった人達に責任はありません。が、真に正義や義憤を感じるのであれば驕りを捨て去り、政治家であれば卑怯者や責任逃れの議員や官僚を殴り倒すほどの気概と信念をもち、社員であれば首を覚悟で本社役員に抗議をして、捨て身で迷惑をかけた人々の世話に献身して頂きたいものです。そうでないと正直者が惨めな想いをするという世の中を助長させることになります。国難とはまさに総ての国民がなにがしかの形で、そういう悲嘆に明け暮れる人々を金銭的には無論、精神的にも貢献しなければ救済の余地がない状態をいいます。悲惨が深い、ということなのです。まさに国家国民としての真偽が問われているのです。
最初に述べましたようにガレキ処理はどうすればいいのです?放射能処理はどのように片付ければいいのでしょう?万事人任せ,政治家任せではラチが開かないのは自明のことです。
大多数の国民は保身の塊、ミーイズムに犯されているので自己犠牲を申し出ることをためらうのでしょうか。インタビューすると「真に気の毒で言葉がありません。せめて私にできることがあるなら何か役立ちたい」思い入れたっぷりの芝居をします。しかし、「ではガレキを引き受けてあげませんか」というと即座に「それは困る」とにべもありません。石原都知事のように「あるべき姿を」自然にいいだし実行するリーダーは少ないようであります。またリーダーをせっつき、悲惨な状況を一緒に分かち合うように、と隣人に呼びかける運動もないようであります。
傷みを分かち合うことを面倒に感じる、惜しいと感じる、という風潮は時代がそうしたのだ、と人はいいますが、私は時代の所為ではないような気がします。戦争に負けて、日本人であることを恥じるようになって以来「武士の情け」「惻恁の情」という日本人の美質を失しなってしまったからではないか、と思うのであります。
かつては国という共通の意志と価値の元に生命を捨ててでもそれを護ろうとした人々が我が国には沢山おりました。国民の共通した喜びの根源はいい国作りがあってこそ、であります。その頃の国民は他人に同情し、そのために命を捨てることさえできたのです。美しい生き方を大切にしていたのです。その共通の価値観を失った今、我が国は未曾有の国難すらひとごとにしてしまうほど似非国民になってしまったように見えます。
もし、そうだとすればあの大震災から何も学んでいなかったということであり、災害で命を亡くした犠牲者は文字通り犠牲者で終わってしまいますね。これではいけないのです。天災と謙虚に受け入れ、今後に活かしていけば亡くなった方の霊魂も浮かばれるのでありましょうが、どうもそういう話になるとヒステリックになる人がいて、天からの啓示を小馬鹿にします。そして相も変わらぬ「自分さえよければいい」という日本的な慣習に潜り込みます。救われませんね、これでは。
せめて罹災者がその傷みを癒される迄、傷みや哀しみを分かち合いましょう。ガレキ処理のことだって、身勝手な小市民だけが国民の声ではないはずです。心を伴った一人々々が発奮して有志同士を集め、できる助けは是非行動に移しましょう。市民一人々々の発言や行動がやがて大きな運動に発展してく様を何度も海外のネットで見て来たはずです。そしてそれが今、この時なのです。関係者の無責任を糾弾し、真から怒り、この世的な政治家の政治遊戯に翻弄されない、あるべき姿に向かって変革を始めていきたいものです。