2017年05月02日

アメリカ事情、トランプ政権100日

 「またかい」と言われそうでなんですが、トランプのことから・・・。昨日の彼の蜜月100日間の感想演説を耳にしました。その自画自賛、軽薄なコメント、子供みたいな物言いにうんざりしたのは世界の頂点に立つ米国に期待があるからでした。彼を評価するのは一点、シリア爆撃だけ。しかしそれも中東に自由主義を定着させたい、という広義の攻撃ではなく「子供が毒ガスで殺されたから」という弱者救済のようなイメージしか残しません。彼は弱者を救っているようで物事の本質が見えていないのでしょう。また、こんなことしか思いつかない、というのがビジネスでしか物事を見ることができない者の弱さなのでしょう。

 アメリカの悲劇は自由と法律で人を縛ってきた結果、米国的ダイナリズムと世界観が擦れてきたことです。政治の最高峰、ビジネス界の超トップという人物達が大統領をしてきた結果がこれですから結局、大げさに持ち上げなくても所詮、結局は人間が人間を動かす、という基本原理は変わらないということですね。警告を無視してミサイルを発射した北鮮を罰することができなかった中国に、何らのペナルティが課せられないことを見てもトランプという器がどれほどのものか、がわかります。
 北鮮のミサイル射撃を阻止できなかった米国は少なくとも平和を守る保安官ではない、ということがわかりました。西部劇では先に銃を抜いたら即座に射ち返します。相手の弾がどちらに飛ぶか、どのような武器であるかは問題ではありません。西部劇を見すぎた私は今回の摩擦にそう期待しました。北鮮が、ミサイルを失敗(失敗しなくとも)したが、米国の警告を無視したのは事実でした。しかし何事も起こりません。トランプにはその気が無かったからでしょう。であるから世界はこれを米国の脅し(と受け取ります)を跳ね返した北鮮に今後は注目が行くでしょう。大国アメリカの武力に屈せず堂々とミサイルを撃って見せたのですから当然ですし、北鮮はさらに精度のいいミサイルを作って弱小テロ軍団に売りつけるでしょう。
 極端ではなくトランプは、北鮮、とりわけて金首領とその取り巻きをこの際殲滅させるべきだったのです。そう進言した武将もいたと察しますが、今や数代にわたる米国大統領は威厳を国民に見せることに執着するだけで本来持つべき「米国の責任が何であるのか」に見放されているようです。
 本来、米国、韓国、日本、それに自由主義を愛する諸国連合VS北鮮をはじめとする中国、シリア(それに寄り添うロシア)など反米諸国との争いがこの摩擦の発端でした。それがどれほど難しい課題であるかは国連安全保障理事会の様子を見ればわかります。その結果、米国に屈しなかった北鮮と中国は、今後ますます米国を中心とした自由主義国家を牽制し、可能な限りそれら諸国を分断していくでしょう金と武力でもって。パワーのない者には世間はついていかないことを彼らは熟知してるからです。そしてこれは大戦争へ向けた不幸な手打ちになるような気がしてなりません。うやむやの手打ちの後には必ず大戦争が起きるのはヤクザ世界だけではなく歴史も証明しています。
 これらに関わる日本の政界についてはもうコメントのしようがありません。「冷静に対処する」とは誰に向けて言っているのか、「厳重抗議」はどのような意味合いがあるのか、コメントする菅官房長官の苦痛に満ちた表情は自主的な行動を取れず、縛りとなっている憲法改正も能わず、「撃ったら撃ち返す」という自衛の原則も口にできず、何の選択肢もないまま自分の手足を縛っておきながら、強盗に「泥棒はいけないのですよ」と命乞いしているようなものです。これに抗議すらできない野党の政治家は主体性すらないのだから犬猫と変わりません。

 我が国は73年前に戦争で大敗しました。負けたのは残念ですが戦前以上の栄華に復興させています。それでも我が民族が負け続けていると感じるのは国という名前ではなく、自身の精神力を見失い、本当の意味での「誇り」というものが何であるかがわからなくなっているからです。トランプと似たようなものです、あまりにこの世的な価値観しかないのです。グアムで戦死された高品中将がその直前に大本営に向けて「彼らを誇りに思って欲しい」と遺書を遺しています。日本的精神が廃れ物欲に満たされている限りその本当の意味はわからないでしょう。実に無念です。  


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Posted by kenhagaguam at 14:37

2016年12月28日

年末のご挨拶

 いよいよ年治めが近づきました。
 皆様もさだめしご多忙のことでしょう。
 グアムでも年末には大掃除をする習慣があるそうです。

 さて、日米両国大統領によるハワイの慰霊行事が終わり、そこで「祖国の為に殉じた兵士」に心からの尊敬と感謝の言葉が交わされていました。知らなかったのですが、その日、攻撃隊の一人(飯田さんという名前の中佐だったか)が被弾し、空母へ戻れないことがわかって、部隊を引き連れ帰路の航路まで誘導して後、彼一人引き返して自爆突撃した話がありました。米軍は驚くことに、そして感動を覚えるに、その敵兵の慰霊碑を建立したそうです。そこが米人の懐の深さですね。またミズーリに特攻した兵士を水葬したそうです。彼らにとってもそこまで信念をもって忠実にことにあたる兵士はとっても偉いのであります。
 私がグアムで慰霊祭をやりたいから、と許可を求めに行った際に彼ら米政府の役人は「これまで日本側から申し出がなかったのが不思議だった」といっていましたが、それまでは希望する者がいても、かつての敵国で(我が先人の)慰霊祭を行う、という行為よりも地元島民と米軍の顔色が気にかかっていたから行動出来なかったのでしょう。ですから一概に「その気がなかった」とは言い切れません。ただ臆病者、腰抜けだったのです。グアムの米軍も島民も前の大戦の善し悪しは別にして「国の為に生命を投げ出す行為は美しいこと」と思っています。その気持が底辺に宿っているからこそ日本軍兵士の慰霊祭も、また鎮魂神社建立も受け容れてくれるのです。この受け容れ行為は我が国民も同じです。我々にも赦しの心があるからです。異なるのは「国の為に生命を投げ出す行為は美しいこと」という感情がないことです。ここら辺のメンタルの違いが日本が成長できない大きな隔たりでしょうか?
 このハワイ慰霊では何度も「寛容と和解」を繰り返していました。私は米国に住んでいるからそれを感じることが多々あります。しかしながら我が国民は大戦に従軍した兵士(とりわけて英霊)を心よく思っていません。未だに祖国を守る為に生命を懸け散華した兵士に感謝する素養がありません。護国神社、靖国神社へ行きません。戦争を憎悪する余り、これに参加した将兵すべてに責任があり、諸悪の根源と勘違いしている者がおります。戦時〜団塊世代にそういう人が多いのはその所為です。戦後教育がそう仕向けたのですが、それにしてもそこから脱却し、あの時代、あの世相、あの国際情勢を俯瞰の目で捉え考える気運が未だに育っていないのが不思議であります。
 国家国民のために犠牲になられた英霊のお陰で今ある平和があるのですが、米人のように素直に「国の為に生命を投げ出す行為は美しいこと」と道徳や思想面からだけではなく、精神面から教育し直していく必要がありますね。その誇りが無い限り我が国はいつまで経っても成人国家になり得ません。大切なのは経済大国ではなく精神立国だからです。台湾の人の方がそのことをよく知っています。

 今年もメールなどでご迷惑をおかけしました。長文なので根を上げた方もおられるでしょう。失礼しました。
 とはあれ、毎年思うのは年の瀬であります。僅か1日の違いながらこうも気が安らぎ、そして引き締まるのはなぜでしょう?人間とは不思議な生き物ですね。
 本来であればお世話になった方へメールではなく賀状をお送りするのが大人としての筋でありますが、移住してからその習慣がピタと止まりました。お陰で下手糞な字をさらすことがなくなったのですが負い目の気持は変わりません。
 どうか佳い新年をお迎えください。来る一年が飛躍の年でありますようにお祈りします。

 芳賀健介  

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Posted by kenhagaguam at 14:18

2016年12月08日

真珠湾攻撃の日

 今日は真珠湾攻撃の日、つまり大東亜戦争が始った日です。ここグアムはその3時間後に始りました。国会議員の下地幹郎さんはその真珠湾へ慰霊祭の為に参列されています。
 さて、安倍総理がそのハワイ真珠湾に米軍戦没者の慰霊に行く、という話についてですが・・。これは賛成も反対もなく、かつての敵国の将兵を公式に慰霊するのは大切なことであって、おそらく陛下も同じことをどこかで思っておられるかも知れません。愚か者はこれを謝罪、と決めつけますが謝罪もなにも祖国防衛の為に闘った兵士を慰労し讃え、哀悼するのは(どこの国であれ)国民であれば当然だと思います。ここグアムでも「我が英霊の慰霊祭を挙行したい」と申し入れて許認可を求めたら「これまで日本人が言い出してこなかったのが不思議だった」と皮肉をいわれましたが、ことほど左様に彼らでさえ(敵味方に関わらず)国家の為に散華した将兵を尊敬する気持に変わりがないのです。それを恥とも思わない感じないのが我が国民です。
 安倍さんはしかし総理になってから隣国の反発を配慮して靖国神社を参拝していません。また韓国に慰安婦問題の謝罪として10億円もの資金を供出しています。嘘を真実と認めたのです。真珠湾での慰霊はパフォーマンスと思いたくないのですが、やはりそこに矛盾とおためぼかしを感じざるを得ません。
 とはいいながらこれは国民の多くが心に潜めている似たような感情でしょう。思っていても口にも表情にも出さず、できれば穏便に金銭で解決するか距離をおいておきたい、という風に。ですから安倍さんだけを責めるわけにもいきませんね。ただ、こういう姑息なで自己保身の配慮がいつしか大いなる誤解を招き、他国や自国民へ影響する事だけは忘れてはいけません。前の大戦はこういうお国事情と「貴方任せ」の無責任が惹き起こした、という事実を知っておくべきですね。

 これから本格的な寒さ到来です。どうかお元気でいらしてください。  

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Posted by kenhagaguam at 13:40

2012年10月19日

つい先ほどまで東京に行っておりました。


 町を歩いた印象は、全ての本屋の棚に尖閣問題から竹島までおびただしい解説書や情報雑誌、中国、韓国の裏話から嘘八百の歴史書暴露から、日本の国防まで置いてありまして、これまでのように○○賞の作家の本、経済のハウツウもの(これで成功した者がいない。いれば出さないのでして)、経済人や学者や博識者によるウンチクもの、強引なこじつけで現代に結びつける歴史上の人物もの、おびただしい程の漫画、銀蝿がたかりそうなエログロナンセンスもの、けばい表紙の種々雑多の雑誌が当たり前でありましたが、今回ばかりは従来のそれとは大違い。中国、韓国、北朝鮮の恥知らずな行動に対してどれほど国民が関心を持っているのか、あるいは知ろうとしているかがわかります。国家の権利、国家とは何か、を知るのは大変大切ですね。
 さりげなく書いておりますが、これは一種の革命なのです。というのも、これまで我が国は余りに左翼に傾斜する余り、日本という国家のあり方、その根本となる国防のことを知らなさ過ぎたから、中国や韓国のお陰で一気に日本人の国防意識が目覚めたという感じです。不思議な現象で、尖閣や竹島が話題になった途端、共産党や社民党が一気に沈黙した。やはり左翼は日本という国の象になじまないのでしょう。馴染むわけがありませんが。
 さて、沖縄にいる海兵隊がまたぞろ一般人を強姦したようです。懲りないのですねえ。それで沖縄県民が、あのオスプレイ搬入時の意趣返しのように吠えまくっております。元々アメリカや本土人嫌いが多い沖縄人ですから暫く火の手は収まらないでしょう。私はこの際、中国、韓国への影響も考えて一挙に米軍に代わって自衛隊が国土防衛に務めればいい、と思っています。米軍は日本軍の手伝い、というか協力部隊ですね。丁度今と逆の立場です。我々国民が国防意識に目覚めたかどうかの試験にもなります。
 日本人の手で祖国を防衛する。航空権も地上権も米国ではなく日本が握る。沖縄の地位協定見直しなどいりません、どうせ守る意志のない協定など破棄して、我々が協定を作成し米国に合意させるのです。これまでのように「国土を守って頂いているから」、という卑屈な甘えではなく、共産圏の暴圧の楯となるべく土地を米国に貸してやるのだから従え、という迫力を見せるのです。そしてそれが国としての矜持なのです。
 とまれ、どのような面白い発想であれ、これは成立しません。国民の祖国愛の意識の低さもさることながら、憲法を変え、それを実質的に活用できるのには遥かな時間を要するからです。ですから本屋にいくら反左翼、反隣国を煽る雑誌を並べたところで残念ながら頭でっかちの役立たずを生み出すだけ、という気がするのです。折角の機会だけに口惜しいのですが、それだけ国民は愚かであった、ということです。

 それと気がついたのが赤坂、六本木周辺のコンビニなどで働く支那人が多いこと、というか夜間などは全部が彼らでした。これは問題です。もし彼らが何事かを結託して反日運動でも起こしたらどうするのでしょう?まあ、支那人であれ学生諸君は素直な感じであったから不審は感じませんし、学校で学ぶことが楽しいと感じている人に悪者はおりません。かつての孫文、蒋介石もそうでありました。(わかります、これは皮肉っているのですよ)
 ともあれ、「仕事がない」と嘆いている若者よ、仕事はいくらでもあるではないか、仕事がないのではない、やる気がないのだ。今は世を忍ぶ仮の姿だと思って、好むと好まざるとに関わらず仕事に就くべきだ。なぜ問題を起こしている支那人をわざわざ雇わなければならないのか?人種差別ではなく、先ずは日本人ありきではないでしょうか?
 しかしなんです、実に情けない風景でありました。
  

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Posted by kenhagaguam at 15:21

2012年07月28日

(無題)

 今月初旬にロスとサンフランシスコに行きました。どちらも肌寒く、シスコは長袖に上着がないと身体が芯から冷えるようで、まるで初秋のような旅でした。米国へ行く度に感じることは(都会は)とにかく人の流れが激しく、人は物であって物が言える動物という扱いであります。今回の旅行で気づいたのが夥しい数の中東系とインド、そして隣国からの訪問者でありました。かつて見渡せばすべて我が同胞であったものがここ数年で完全に様変わりしています。機内のオーディオもまた韓国と中国用のバイリンガルがあるものの、日本は日本の映画だけ。まあ淋しい限りでありました。
 これはつまり、国際関係がどうのこうの、といったところで所詮世界が注目するのは「その国の体力」つまり経済力だけということなのです。技術がどう、文化がどう、と手前味噌で海外と比較しても誰も尊敬しないし意味も為さない、ということです。外国は日本と同じ温度差や教養、文化を共有する気持がない、ということなのであります。
 これは畢竟、これまで戦後から我が国を支えていた誇りや名誉がほとんど外国に浸透しておらず、たゆまぬ努力によって得た技術と幸運によって支えられていた爆発的な経済力のみが注目されていた、ということなのかも知れません。
 この爆発的な経済力の発展はなにも我が国に限らず、かつては西欧で、近年では米国、そして敢行や中国、さらにインドも同じようなものでして、やがて行き詰まり衰退していくかも知れません。いやもう既に少しずつひずみが見え始めています。
 日本は自動車、電気製品のほとんどを独自の発想、丁寧な技術によって新商品を世の中に続々と産み出してきました、その時点で我が国が世界に注目され羨ましがられもしました。今では隣国の電気製品の勢いが盛んでありますが、すべてそういう過去の実績をそのまま踏襲した結果であって、度肝を抜く程の商品を輩出していません。ですから経済力とは独自の発想、丁寧な技術とは別次元の、むしろ今的、この世的な次元での
国力をいうのでしょう。
 しかしそれにしても世界の国家それぞれが他国を見る目は冷徹で強烈です。弱者に対しては容赦のない懲罰を与え、枠外に追いやります。そして強者同士、互いの国力や世論を勘案しながら牽制し、虚報を流し、弱点を見いだしてそれを突破口に相手の旨味をほじくりだして自国の糧とすることにまるで躊躇しません。
 弱者は決して自虐的になってはいけません。そういう甘い感情を些かでも見せれば、同様の弱小国に侮られ、さらに容赦のないいいがかりをつけられて身ぐるみ剥がされます。
 これは歴史なのであります。かつて西欧で起きた産業革命も、世界大戦も、戦後の資本主義運動も全て、そういう強烈かつ冷徹な損得、弱肉強食の理論、理念から成り立っているのであります。我が国があの戦争に巻き込まれたのはそういう事情があったからです。今でもそうですが、我が国の政治、とりわけて外務、国際関係は戦前から致命的な欠点をもちながら一向に治る気配がない。そのことが更に国家を惨めなサンドバッグにしているのではないでしょうか。
 かつてはマイナリティ、あるいは三国人といはれていた国の人々がロスの町を闊歩するのですが、しかしさはいうものの、そこはやはりにわか成金でして、言葉の障害もあり、習慣の違いもあり、さらに品性もあって見た目はあからさまに「お登りさん」でありました。こういう「お登りさん」が大挙して米国に入り、我が物顔に自国での生き様を押し通している間にそれが、この国に慣習になっていきます。そしてそれを規制するために夥しい数の法律が生まれ、それを支配する悪徳弁護士が雨後のタケノコのように増え続けるのです。義務を法律が課すようになると国は崩壊していくという、その実例がまさにこの国なのであります。米国は確実に精神的に病んでいます。そして我が国も。

 義務のことで気になったことですが、米軍が持ち込むオスプレイのこと。米軍の戦術に必ずしも賛成しておりませんが、彼らのやり方は受け入れ側の我が国に、知識と経験があれば当然のこと、と納得がいきますが実際はそうではない。それを思うと我が同胞は全く身勝手ですね、これは原発や東北大震災の時に似ていて、やたら絆とか国難といいながら結局身を切ってその解決に当ろうとはしない。誰かがやるだろう、でも自分はやりたくない、という卑しい根性が根付いてしまっている。オスプレイも反対するだけで対案を出さない。自国を自分の力で守ろうとはせずに、金で困難を解決する癖がついてしまったので今でもそのトラウマにとりつかれ、脱却できないのが現状ですね。どうしたらいいのでしょう?  

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Posted by kenhagaguam at 16:21

2012年06月08日

「俺はどうすればいいのだ?」トイレ悲哀物語り・・・の巻き

 日頃何気なく使っているのがトイレであります。「なにげなく」というのはこればかりは至極当り前のように毎日世話になっているし、またどの国に行っても必ず目の付く所にあるほど暮らしになくてはならない場所であるからです。
 驚くことに、これは原始時代から弥生、ギリシャ、ローマ、さらには中世、戦国の時代でさえ必ずあり、これを使わない者は野蛮人とさえ思われていました。豚は同じ場所で用を足しますし、猫も犬も訓練すれば同じ場所で用を足します。グアムは極めて文化的に近い島ですからトイレも水洗で日本がこれを取り入れた頃とほぼ同時期にそれが一般化されていました。
 しかしなんであります。文明の進化というのは時には迷惑なもので、進化が余りに早いと人民がその早さについていけなくなり、メディアが盛んに煽り立てる商品などは疑うことなくそれに追従し信じてしまうのであります。文明の利器にめざとく、それに遅れることを恐れるからであります。そう、世間体が気になるのであります。
 私のような老いた者に携帯電話の機能を説明しても、これはただの持ち歩きのできる電話機以外のものではないので、下手にあれやこれやと機能が付いていると逆に面倒になってしまいます。それよりは簡単明瞭で文字が大きくよく聞こえ、そして操作が統一画一化されているのがいい機械なのでありますが、文明は敬意を表してくれません。文明とは年寄りにとって親切ではないのであります。
 グアムに日本の様々な機能がついたトイレが一般の目(といってもホテルからですが)に触れた時、それはそれは大騒ぎになったものでした。なにしろ便座に座るやいなや大きな音がして用足しの出ばなを挫き、座所は妙に温かく、しかも肛門を洗浄する、という異常なぐらいに親切が行き届いていたからでありました。「なんだいこの機能はよ〜」という感じです。
 社員の一人、大自然をガイドしている若者のアリザーがなんの偶然か初めてそのトイレに入った時、えもいえぬ恐怖を覚えたといっていました。まるで宇宙戦争にでてくるような違和感のある雰囲気の中にお馴染みの洋式便器がある。そこまではいいのです。さて用足しをするか、と便座に座った途端に何もしない(出ない?)のにザーと大きな音がして、これは壊れているのかな、と思いつつ、と見ると便座の横にイラスト入りでなにやらの説明書きがありました。 
 このザー音は擬音でして、外の人に自分の用足しの様を連想させない、という配慮でして、なんとも莫迦らしい発想だけれど気は利いている、という日本人気質そのもの。アリザーはこれを止めるべくズラリ並んだボタンを眺め、その一つを押してみたら、ややあって便器の中から棒が出て来ていきなり噴水し始めました。なにが起こるのだろうか、と覗き込んでいた彼はそれが小水のように思えたらしく、思わず大声を挙げそこから飛び出ようと思った。思ったのですが、そこは彼もいい年齢の大人ですからして、ひたすら流れ出ている噴水を見ながら青年は思ったのです「これは何かのジョークではないか」と。と同時にこのような不幸な現場に居合せた自分が非常に恨めしくなり、なんとかこの場をごまかそうと考えたのでありました。
 噴水はチューチューと出ています。どうやらそれは真水のようで不潔ではなさそうだ、であるならこれをなんとしても止めなければならない。止めないとそこら辺がびしょ濡れになり、必ず監視員がきて俺を罵るであろう、「この田舎者」といって。これはまずい、なんとしてもこの場をなんとか取りつくらなければならない、と思う切なさ辛さで胸をつまらせながらアリザー青年は、間違ったボタンを(間違ってはいないのですが)押したことを深く後悔するとともに「では止めればいいじゃないか」と瞬時に思いつき、迷うことなくその隣のボタンを押したのであります。止めればいいのですが、この青年にもう少し考える機能があればことを大きくすることがなかったのです。さてはて時すでに遅し後の祭りでありまして、今度は肛門洗浄ならぬビデ用のボタンを押してしまいました。前方に勢いよく飛び出す噴水の方です。普通は一度停止ボタンを押してからでないと機能しないものですが、この時はどういうわけか(青年が動転していたからか)続いてビデの噴水がビューと飛び出て来たからたまりません。全身棒のように立ちすくむ青年めがけてビュービューと飛び出し水浸しにします。こうなると青年は完全に舞い上がってしまい。ついには恥を覚悟で外に出て助けを求めました。真面目な青年ですから彼は決して現場から逃げたりしません。でありますからビュービュー飛び出す温水を見ながら「オーマイガッド」を連呼し続けていたのでありました。ゴッドがくるわけがないですね?急いでやってきた管理人がこれを見て「オーマイガッド」と叫んだそうですから、チャモロ人は困ると「オーマイガッド」を叫ぶようです。いつの日からか、神様が面倒臭がって相手にしなくなったのがわかるような気がします。

 しかしなんですね、モダンテクノロジィというのは時々余計な配慮をするものでありますね。そりゃあ、私だって発明したり工夫したりして物事がスムーズにいくのが大好きでありますが、ただ行き過ぎは時に相手を混乱させます。先だって定期検診のために行った東京の病院は新築、快適な環境で一見して病院とは見えないほど、モダンなたたずまいでした。患者に余計な緊張を与えないのです。ただ困ったのがトイレでありました。なんでも最新式のトイレは用足しを終えた後、流すのに所定の所へ手をかざすだけで流せるそうです。こういう事情に素人の私、知っているわけがありません。用を足してさて流そうとバルブやボタンを探すのですが見当たりません。そこにあったのがソーナーシステムのいわゆる手かざし水洗でした。「おそらくこれであろう」と手をかざすのですが流れません。何度やっても流れないのであります。これは正直焦りましたね、あの青年と同じ心境です。「オーマイガッド」です。さんざん悪態をついた後、私、しばらく便所に閉じこもりました。逃げ出すわけにいかず、さりとて大声を出して救援を求めるのには勇気がいります。汚物が流れていないからであります。こういう状態は身体によくありません、特に精神状態に酷く悪い。検診にきて精神が病むのはよろしくないのであります。
 青年であれば笑い話し「よくあることさ、俺って運が悪かっただけだものね」で済みますが、私はいい大人です。ただでさえ日頃から小言辛兵衛(こごとこうべい)のように口うるさいのですから世間のしっぺ返しが恐ろしい。色々と悩んだ末に覚悟してセキュリティを呼びました。無論、「誰かが流すのを忘れたらしいが、どうやっても流れないんですよ、迷惑な話ですねえ」という言葉を添えてね。そこらへんが年の功といいますか小狡いのであります。で、しばらくするとおばさんセキュリュティがやってきて、(おばさんですから少しばかり色気が残っておりまして私は極度に萎縮しました)「どれどれ」という感じで中を覗き、やがておもむろにくだんのソーナーにサッと手をかざします。と、どうでしょう、見事に水が流れていくではありませんか。ただ手を一瞬かざせばよかっただけでした。長い間手を添えていてはいけないのでありました。なんと申しますかこれは一種の奇術のようでありました。「まったく、今の若者は考える力がないものだから、こんな簡単な、ちょっと手をかざすことすら満足に出来ないのよ。書いてあるじゃない、手をサッとかざして下さい、って。少し考えればわかりそうなものなのにね」とおばさんが聞こえよがしに呟きました。私、心臓が凍りつきました。

 まあ私のように和式便器に馴染んで育った者にとって、洋式便器はまさにアメリカ文明の輝きのようなものでありました。若者には和式の心地よさなどわかりようがありませんから昔話は意味がない。ただ、この洋式便器という現代文明の粋のような異物は我が大和民族に強烈な革命をもたらしたものでした。 
 とまれ、その逆に、洋式便器から和式便器にチャレンジしなければならないアメリカ青年の場合はどうなのでしょう。ハンバーガーの国から刺身の国を訪れた青年のトイレ体験物語り、それが今回の主題です。
 あれは私が未だニューヨークに居た頃のことでした。親しくしていた日本人の友人の亭主がアメリカ人、大柄でハンサムな、にやついた風貌のイタリアンとでも申しましょうか結構いい男でした。さる大手のアメリカの広告代理店に勤めていて、結婚後初めてワイフの里帰りに付き合いました。個人の人権及び秘匿義務によって密封していましたが、話してもいいほど古い話になりましたから話してしまいます。
 彼女の実家は今とは文明の開きが大き過ぎる埼玉県の浦和市(現在のさいたま市)で周辺は田畠に囲まれていました。初めて電車に乗り、タクシーを使ってど田舎に来る、お互い初対面のまま緊張した雰囲気の中、家族の前で早速自己紹介をしあった後にアメリカ青年はもよおしはじめて「お手洗いはどこですか?」、と聞こうとしたが、緊張感があってなかなか言い出せません。しかしそこはそれ愛妻が雰囲気を察して早速手洗いを教えます。つまり便所のことです。日本人は(私の家では)これをお手洗いとかご不浄とか申しました。日本語は奥が深く美しいのであります。便所などと下品な言葉使いをするのは低層階級が多いのであります。
 それはさておき、アメリカ青年はきっと度肝を抜かれたことでありましょうよ、余りにも単純かつ難しい形をしていた便器ながら、さて、これをどのように使えばいいのか想像すらつかない有様でした。
 さて、愛らしいワイフはなかなか亭主が手洗いから出て来ないので心配になり、外から声をかけるのですが返答がありません。酷く心配になってきて真顔になって扉をドンドン叩くと中から亭主が汗びっしょりとなってころがり出てきました、それもようやくズボンをたくし上げた、という状態で。「どうしたのか」と聞くと使い方がわからない、と答えます。で、「それでどうした」と聞き返すと彼がジュエスチュアーで「このようにした」と答えます。純粋無垢ないい男ですからその時もきっと額に汗を流しながら真剣な表情で応えたのでしょう。
 便所に入ったまましばらく思案した挙げ句、覚悟を決めて、まず下着を全部脱ぎ、それから便器をまたいで仰向けに横たわります。仰向けですぞ。それから・・ま、後は想像しましょう、どれほど惨めな思いをしていたかを考えると可哀想で泣けてくるからです。その時、大和民族は奇麗好きだが決して合理的ではない民族だな、と彼はきっとそう思ったに違いありません。
 腹を抱えてしばし笑っていた彼女は急に亭主がいとおしくなって、これまたジュエスチュアーで和式便器の使い方を教えたそうです。これは当然です、ただし面白がって教えていたので一つ大きな勘違いがありました。これが後日に大きな事件へと発展していきました。
 和式トイレのトラウマになってしまったアメリカ青年の数日間の日本旅行はつまる所、洋式便器発見の旅となっていました。観光なんかどうでもいいのであります。彼はデパートに行くと必ずトイレの下見をしたそうです。旅で駅に着くと直ぐさま便所の中身を確認し、洋式便器でなければ断固使わないで我慢をしたそうです。こういう健気なさ、と申しますかいじましさが彼の魅力でして、だから私は彼の大ファンなのでありました。
 さて、とある田舎町のこじゃれた喫茶店。青い目をしたハズバンド君を見ようと彼女の友人たちが集まりました。いってみれば、失礼ながら物見遊山のノリです。かの青年はイタリアン風貌ですからこれはオーラーみたいものがありました。いい男なのです。しかも謙虚で英語を丁寧にしゃべるので今日(きょうび)の阿呆タレとは見た目、内容ともに異なっております。
 とまあそこまでは格好いいずくめで結構なのですが、トイレの話がここで入るのであります。つまりローカル喫茶店の便所(手洗いではありません)のことです。アメリカ青年はしばしいい気分で話の渦中にいたのですがそろそろともよおしはじめました。こういうのを間が悪いといいます。
 さきほど確認したショッピングセンターの洋式便所まではかなり歩かなければなりませんし、愛らしいワイフにそこへ行く理由をいうのも煩わしい。で、喫茶店のトイレを使うことになります。そう、不幸なことに和式でした。その頃の日本の風景はといいますと、洋式便器が丁度入れ替わり始めた時代で一般家庭はおろか、巷の駅やレストラン、喫茶店にまで流行が及んでおりません。いわんや少しばかり郊外に出ますと洋式風など思いもつかない状態でした。しかも飲食店にはトイレが一つしかないのが普通でしたからこの喫茶店もトイレは一つしかありません。
 さて、アメリカ青年、ワイフが教えてくれたように(というか既に慣れた)スタイルでしゃがみ込もうとします。今もって私が合点できないのは、彼は正面の壁に向いて座るのではなく、扉に向かって座ったそうです。愛らしいワイフ、どちらを向けばいいのかまで教えていなかったのですね、可哀想に。
 であるからして彼は当然のようにして扉に向ってしゃがみ込みます。便器に○○隠しがあるのに想像ができなかったのかなあ、どっちが正位置なのか聞かなかったのなあ? こういってはなんですが、大和民族そのものの私なんぞは自慢ではありませんが、昔から立ったり座ったりしているので(落ち着きが無い、と家内はいいますが)そこそこに足腰が強いのでありますが、そこはそれ、彼らはとどのつまりが、洋式便器が進歩的だ、なんぞと偉そうなことをいい軟弱な運動しかできないカウボーイ民族ですから腰を屈めるだけで相撲取りのようにどっしりと座ることができません。ですからこの日もフットボールのスクラムのようにちょいと腰を屈めて前かがみになって力んでいたのです。ローカル喫茶店ですから店内はもちろん、テーブルも椅子もそしてトイレもきちんと狭く作られています。であるからしてアメリカ青年の身体が思うように収まりきれておりません。両手を扉について懸命に空間を作っていたその刹那、愛らしいワイフの友人の女性がノックもせずにその扉を手前にいきなり勢いよく開いてしまったのでありました。今でもその情況を想像するだけで、私、寒気がするのであります。なんというおぞましい瞬間だったことでありましょう。大男が扉のあちらの方からこちら目指して、いきなり相撲の立ち会いのようなスピードと圧力、しかも下半身まるだし状態で飛び出してきたのですから、その様を想像するのも恐ろしい。そこに居合せた数十人の女たちが一斉にどこに目を凝らすか・・貴方、想像できますか? 私、言葉を失うのであります。そして思うのであります「いやあ、俺でなくてよかったなあ」と。
 こういう悲劇は枚挙にいとまがありません。人間というのは文明を追求し過ぎるが余り、またそれを阿呆な庶民が懸命になって我先にと飛びつくが余りに、荒唐無稽な話は途絶えません。
 くだんのアメリカ青年のことを笑ってはいけません。今でも我が日本民族の老女の中には使い勝手がわからずに洋式便器の上にまたがっているかも知れないではありませんか。想像するのも恐ろしい光景ではありますが、「秘すれば麗しき哉」、ともいいますからそれはそれでいいのであります。がしかしまあ臭い話ではありました。  

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Posted by kenhagaguam at 16:04

2012年04月21日

しおについて・・・の巻き

 「しお」、について書きます。しおどき(潮時)のことではありません塩のことです。

 この間、社員と雑談している時に、社員(チャモロ人)の親族が亡くなったことから、その葬式のことが話題になりました。こちらではビューイングといって一般参会者に死者を見てもらう習慣があります。
 チャモロ人の公式な葬式は、死後7日間は教会でミサを行い、8か目に親族によるビューイング(通夜みたいなものです)があり、9か目に一般参加によるビューイング(葬式)があり、その後に埋葬します。教会と墓地が離れていれば、信号無視によるパトロールカーの先導によって参会者がその後に続くなが〜い列ができ、運悪くその列に遭遇すると、信号ならぬ葬式列を長時間待つことになります。埋葬した後は、今度は9日間の喪に服す期間があり、こうして伝統的な葬式が終わります。でありますから、運悪く、親族に不幸が続けてあるとおよそ一か月はお休みとなるわけです。親族がほぼ毎月2人なにかのことで亡くなり続けて、ついに1年が経ってしまった、という小話があります。こうなると親族のお陰で毎日が日曜日となり、それを楽しみにしたりする怠け者がでてきます。
 この時の話題は、社員の一人のジーン(責任あるポジションにいる中年の男性です)がたまたま親族の代表ということで、ある日、彼の伯母さんが亡くなったことから彼がそのビューイングを仕切りました。ビューイングというのは通夜のようなものですから早朝から葬式の直前まで、亡骸が置かれた教会へと、色々な関係者がひっきりなしにやってきて、親族にお悔やみをいいながら開かれた棺桶の死者を接見します。これがビューイング(見る)という儀式です。その手に触れたり頬に頬を寄せたり接吻(キス)します。この行為によって親しさや関わりがわかる仕組です。その後は$20ぐらいからの「御霊前」を親族にあげて儀式的なことが終わります。それから一般客(客といっていいのかどうか?)は外に用意してある「精進おとし」を頂きます。基本的に酒類は出ません。出ると余計なことを言い合っている間に死者を笑い者にしてしまう恐れがあるからです。これは冗談です。この料理は伝統的なチャモロ料理(といっても大袈裟ではありませんが)のバーベキューや赤飯(色付けがしてありまして)、フライドチキン、とかまあそういう感じの食品がずら〜と並びます。断言しますが、美味かった体験は一度もありません。

 さて、ジーンの話。このビューイングが一般参会者になった日、彼がふとその伯母さんの手をみて驚きました。その胸の上で合掌した手に、あってはいけないはずの指がついていたのです。彼は確認のためにその指を改めました。たしかに指がついています。縫い合わせているわけではありません。この伯母さん、彼が子供の頃にちょっとした事故を起こして右手薬指の第二間接から先をなくしていました、ですから「指のない伯母さん」と呼ばれていたのです。
 彼は彼の父親と他の親戚に確認をしてもらいました。なにしろ葬式ですから人目もあって緊張しています。ですから見間違いということもあります。(あるわけはないのですがね)親族があらためて確認すると、なるほど指が付いています。私は「なるほど」と簡単にいいましたが、親族にすればこれは衝撃です。とんでもないことです。親族から見る遺体は確かに伯母さん(にそっくり?)ですので、指があってはいけないのです。 
 習慣で死後7日間は霊安室に安置するので亡骸は変形しています。だから一族はそのことに不信感をもたなかったのです。
 そこで彼らがまずしたことは、本当に亡くなっているのかの確認でした。その後に分かったのは病院の冷蔵庫付き霊安室に間違いなく安置されていたこと、でした。そして、その時に病院には当時二つの遺体があり、両方が同じ日の同じ時間で亡くなったということ。さらにこういうのを偶然というのですが、亡くなった二人は年齢も性別も同じだった、ということです。つまり病院側が間違えて遺族に渡したのか、それとももう一つの遺族が間違えて引取ったのか、いずれにしても伯母さんはどこかに行ってしまっていました。
 
 少し余談になります。
 チャモロ人は東洋人と白人の混血です。1562年以前は純粋な民族でしたがスペイン戦争以降植民地にされてしまい、純粋でなくなりました。アメリカ人という人種がいないのと同じです。私がグアムで初めてチャモロ人と会った時、瞬時に子供の頃に夏休みで田舎へ行った時のことを思い出しました。真っ青な空と真緑の林、そして畠と小川が延々と続く田舎の思い出です。母が畠で働く人に挨拶をしたら、ぬ〜っと、鬼顔のおじさんが顔を上げました。野良着がよく似合う大柄な人でした。恐かったのですが、そのおじさんが笑顔で応対してくれたのを覚えています。グアムで初めて会ったチャモロ人、その時の雰囲気がおじさんによく似ていました。優しい民族なのです。

 さて、こういう強面の人たちですが、チャモロ人の一族というのは必要に応じて強烈な団結心を発揮します。早速、もう一つの、というより本当の遺体を見つけるべく手分けを始めます。最初に書きましたが、グアムでは死後7か間は霊安室に置かれているので誰も確認をしておらず、したがって引取った時点で、相手側も式次第を進行させているはずであります。もし相手が遺体を偽物(こういう書き方は的をえませんが)と気づかずに葬式し、そして埋葬してしまったら全てが後の祭りになります。死者を掘り返すのは聖書にないからです。
 ジーンの一族は焦りました。列席者は何事が起きたのか知りません。ただ分かっているのは急いで棺桶のフタを閉じたので、すぐに埋葬しなければならない事情でもできたのかな、ということだけでした。無論、いい想像など湧いてきようがありません。
 彼らは考えました。とのかくこの遺体を病院へ返そう、と。まあ返したところで引取るとは思えませんが、そう思ったのです。ちょうどその頃、病院側も責任を感じたのでしょう。相手側の責任者を突き止め、すぐに葬儀を停止するように伝えました。もちろん、相手側もビックリ仰天でしたが、これをすぐに疑いました。「これには何か裏事情があるな」という感じです。つまり葬式代が安過ぎたので再請求、とか徴収するのを忘れていた、などのつまらん理由です。こういうのを下衆の勘ぐりといいます。
 そこではすでに葬式も済ませ、パトロールカーが到着してこれから出発というタイミングでしたから葬儀委員長としてはこのまま早く終わらせたい、の心境であったに違いありません。今の民主党みたいに早くことを終わらせたい。終われば後で何をいわれようと責任はないのだから・・、という感じです。病院側が一言「済みません、亡骸を間違えて渡しました」といえばいいのですが、そこはそれ威厳と信頼という重みだけで生きている人達なので率直にはいい出せません。東電の幹部と原発保安委員みたいなもので、実際は何も知らないのに知ったかぶりで事実を伝えず形式ばった物言いに終始し、人を煙に巻くのと変わりません。それに、埋葬が終わっていれば「どうしようもなかった」と自分に言い聞かせることができます。無責任な話ですが、こういう時人間というのは愚かなことをしでかします。常識というのは平常の場合の平常心の時に使う言葉です。原発や北朝鮮のミサイル発射の際に見せた政府のうろたえかたを観ればわかります。 常識にとらわれながら、実際は平常心も非常心も持つことができない特別な生き方をしてきた人たちだから、「どうしようもなかった」という自分に対する言い訳でことが済みます。
 この時の葬儀委員長は、できればこのまま何事も起きずに済んでしまいたい、と希望していました。すでにパトロールカーが先導して前を走り、後続に参列者の車が続きます。それもえんえんと続くのです。
 一方のジーンの一族。どうしたものかと思案を続け、いぶかる参列者に「すみません、本人と間違えました」などと本当のことをいえる状況にないまま、ただ立ち尽くすだけでのみっともない状態でした。まあ、参列者は外へ出て、あのたいして美味くもない精進料理をパクついていましたから、その点問題はありません。なにしろ彼らは陽気なのです。
 ジーンは考えました。直接相手側の委員長と「話をするのがベストである」、と。私の社員は立ち停まって考えてみる、という薫陶を日頃私から受けているのでこういう時に能力を発揮します。そこで病院から受けた電話番号をすぐにかけます。その時、相手側の委員長はそろそろ墓地へ入りかける矢先でしたから無視もできたのですが、習慣というのが邪魔をします。そう女房からの定期電話、という習慣です。彼はその女房が後の車に乗っていることを忘れ思わず受話器をとります。そして瞬時に総毛立つことになるのです。
「もしもし、あんた、あんたのお母さんの死体はここにありますよ。それはオイラの伯母さんです」と簡単明瞭に事実を告げられた委員長、気絶しそうになったそうです。

 それからが一悶着。どこでどのように遺体を交換すればいいのか、まずそのことで双方が悩みました。墓地で交換するのは行くのが面倒だし、といってこちらの教会にくるのにはかなりな時間がかかる。一番喜ぶのがポリスで、勤務時間の延長割り増しに思わず笑顔が出てしまいます。というわけで結局あの病院へ持参し、そこで交換しよう、ということに落ち着いたのです。
 病院はいいのだけれど、そして彼らに責任があるのだけれど、問題は安置する場所がすでに満杯状態だったそうです。かりに双方が同時に到着してくれれば時間的に駐車場を使って交換すればいいのだから安置する時間が省け助かりますが、お互いが違う方向から来るのでどうしても距離的に時間がずれる。ですからとりあえずは病院に安置しなければなりません。
 最初に着いたのがジーンの一族で、彼がいうのに「棺桶付きだから病院へ運び込むのにエレベーターが使えず、止むなく狭い階段を皆して引き上げるしか方法がなかった。それで棺桶から亡骸を出してシーツにくるんで声を出しながら運び上げました」とのことです。いやはや大変な葬式になってしまいました。大粒の涙ではなく、大汗をかいたのは初めてだったそうです。
 このようにして前代未聞の遺体交換が無事終わりました。ジーンが最初に確認したのが指の有無でした。「なかった〜、よかった〜。」という感じです。
 それからは、遺体をビューイングする時は必ず指先を最初に見る習慣がついて「困った」といっていました。今ではその癖が私と社員達に移ってしまい、教会でビューイングする際、必ず「あったか?」「あった、よかった」が合い言葉になっております。

 さてようやく「塩」の話です。
 日本では通夜、葬式と不浄の儀式の後、自宅に戻って家の玄関先で塩を撒いたり、身体にふり付けきます。アメリカにはそういう慣習がないそうです。
 それを聞いて塩を撒く、というのは日本的な儀式だけか、と思っていたら、チャモロ人は夜遅くジャングルなどから戻った時は直接家に入らず、しばらく外で時間を稼ぐそうです。大体5分ぐらいは外にいるのです、女房が恐いからではありません。ジャングルに潜んでいるタオタオモナという霊がついて来る可能性があるので家にそのまま入ると一緒に入って中で悪さをする、というのが迷信としてあるからだそうです。
 塩の話をすると、即座に女性社員が、子供が夜泣きやむずかっていうことを聞かない時は、家の中の四隅に塩を撒く、といいました。霊が住み着いているのを祓う、という理由からです。実際に効果があるそうで、チャモロ人の間では常識です。彼らの慣習に「塩を撒く」、というのがあるのが面白いですね。
 日本は塩をお祓いの儀式でよく使います。さきほどの葬式に不浄の身を清める、という意味の塩もあれば、商売人の店先に塩を盛っているのを昔はよく見たものでしたが、それはお祓いやお浄めよりも邪悪が忍び込めないようにする「おまじない」のようなものだったのでしょうか?
 相撲でも土俵に塩を撒きます。儀式のようになっている、この土俵に撒く塩の意味を考えたことがあります。土俵が不浄だとすれば、なにが不浄なのだろうか、何を浄めるのか、と考えたことがありました。そしたら怪我をしないようにお祓いをしているのだそうです。
 戦後、ここグアムでは戦争に勝った米軍の兵隊が余興でレスリングの試合をよく行っていたそうです。日本のプロレスの黎明期に登場した力道山はその雰囲気の中から生まれてきたことはプロレスファンであれば誰もが知っております。
 グアムでは海兵隊が主体ですからその身体つきも半端ではありませんし、腕力も飛び抜けて強烈だったそうです。その割に頭が軽いのは、これは今も変わりません。
 しかしその彼らをして、どうしても勝てない伝説のレスラーがチャモロ人の中にいたそうです。その頃のチャモロ人は日本人と似た様な体格ですから1.5メートルほどしかなく、痩せていて腕力は普通の大人にすら及びません。が、この伝説のチャモロ人レスラーが一度リング上に立つとこれが強い。滅入っちゃ矢鱈と強かったのであります。なにしろ彼が余りにも強いから、相手の莫迦でかい海兵隊レスラーが可哀想に思えたそうです。
 このチャモロ人レスラー、滅茶矢鱈と動き回るところが、今でいう大関「鶴龍」、昔でいう「舞の海」みたいな軽さと俊敏さではありましたが、全くの非力だったそうです。 
 しかしこのチャモロ人は強い、無茶強いのであります。その頃軍の中で強豪といわれた連中が片端からやられ、向う処敵無し状態だったそうです。余りに強いので「これは軍の面目にかけてもやっつけなければならない」と軍人たちはいきりたちます。少しばかり人種差別の気分もあったのでしょう、オリエンタルをぶっ潰せ!という感じですね。 
 しかしいきり立っても勝てません。勝てない物は勝てないのです。何か不思議な魔力があるように、そこにいるだけで相手が萎縮してしまったそうです。往年の横綱「双葉山」を極端に痩せさせた、という感じでした。
 米軍の陸軍選抜隊を編成してきても勝てず、したがって次第に軍隊の威信をかけて、幹部連中が真剣にこの事態を見過ごすわけにいかなくなり、米国本土から凄腕を寄越したほどになりました。
 こういう緊張感が一番いけませんね。奇妙な緊張は必ず物騒な騒動が起き、そして必ず弱者が痛めつけられる、そういうシーンをこれまで何度となくアメリカ映画で観てきました。アメリカ人はこういうところが幼稚にできているようです。力まかせに相手をねじ伏せる、というのはいけません。幼稚が理性に勝るから戦争が起こるのです。
 しかし、力まかせでは、どうしても勝てそうにないことがわかってきて、米軍の将校(もうこの頃には将校までが出庭ってきています)が親しいチャモロ人の爺さんに尋ねました。将校の中にも年功が物をいうことがありまして、熟年者の知恵とは謙虚なだけに物事の理というものから問題に立ち向かおうとします。私の憧れです。
「この次の試合でもし、我が方の兵隊が敗れるようなことがあれば、ひょっとして恐ろしいことが起こるやもしれない。チャモロ人に対して迫害が懸念される。なんとか彼を敗ることが、いや、引き下がらせることはできないだろうか?」と聞きました。
 それを聞いたチャモロ人の長老が差し出された缶ビールを飲み干して、はたと膝を打つと「そりゃあそいつにはガイタオタオという精霊がついているんだな。だから尋常の力やテクニックではかないっこないのさ。先ずはガイタオタオを追い払うしかない。」「こうしてはどうだろうか?」と秘策を授けます。以下は、もし貴方にも思い当たることがあれば使うとよろしいでしょう。伝統、というものは洋の東西を問わずに意味があるものですから、ここは謙虚に使えるものは取り入れたいものです。
 長老がいいます。「試合が始る前に、あいつに気づかれないように塩をリングに持ち込み、こっそりリングの四隅にばら撒くのさ。そうすれば精霊がリングに入れなくなり、従って力が出なくなる」仲間を裏切ることをいう悪い奴め、と長老をののしりたくなります。しかし裏切りは世の常、政治家を見ていればわかります。
 さて試合の日、軍人レスラーのマネジャーになった件の将校が、相手が入場する前にそそくさと大盛りの塩をリングの四隅に撒きます。儀式に見えたのでこれをいぶかる観客はおりません。そして試合が始ります。
 それまでどのような相手、強豪といわれたレスラーをものともせずに戦い、叩きのめしたチャモロレスラーでしたが、この日はどうしたわけか戦闘に心が伴っておりません。試合直前にぎんぎんに冷えた生卵を何十個と飲み干したような感じで、顔色がさえず、たえず腹具合を気にしています。ですから弱みにつけこむ弁護士よろしく、相手の弱点を見つけては散々に傷みつけます。すでに闘争心を失っているチャモロレスラーですから、抵抗する気力も失せて、ついに惨めな姿で負けてしまいます。精霊がリングに入り込むことができなかったから負けたのだ、とそれを観ながら長老が呟いたそうです。
 塩の話が本当かどうか、それは体験者の言葉を信じるしかありません。私がいえることは、精霊というのは実際、自分の心が呼び込む霊魂のことではなかろうか、と。
 他人恃みではなく、自分が克己した時、きっと精霊が自信をつけてくれるのではないだろうか、とまあそう信じるようになりました。信じれば巌も突き崩せます。
 さて、このチャモロレスラーの名前を調べましたが見つかりませんでした。そこで彼には名誉あるリング名「チャモロ・オブ・なめくじ」とつけたらどうかな、とジーンに相談したところ、「なめくじ」はグアムにいないということで、話が進まない。
 そこでそのリング名のいわれを説明するのに大変貴重な時間を過ごしてしまいました。 
  
 話の潮時がやって参りました。「なめくじ」のいわれに合点がいかない方はご連絡ください。  

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Posted by kenhagaguam at 08:00

2012年03月31日

こんな風で・・・の巻き

 もし、少しでも「この国はこんな風でいいのかな?」と感じると、にわかに恐ろしく不安な気持になります。我々は他人の善意や公平や信義に寄りかかって毎日を送っておりますが、実際には昔のいい意味での旧い慣習にぶら下がっているだけで、実際にはとりたててなんら努力をしているわけではありません。それまでの慣習がまだ少し暮らしの中に生きているだけであります。しかし一度事変が起きれば、貧富の差にかかわらず、その人間がいきなり豹変して物品を買い占めてもっとも困っている人に譲る、つまり他者優先の美風はうしなわれます。これは経験しました。一方で品薄状態の商店に行儀よく列を作って順番を待つ被災者があれば、他方では順番を待った後、後先構わず必需品を買い占める者がいる、という。悲しいことに我々は、外国人が褒めるほどの自浄能力や研磨、錬磨を常に陶冶しているわけではないようであります。それまでそれを育み知らしめ、社会を支えてきた熟年層の大人が年々減少しているせいなのかも知れません。道徳を小馬鹿にする者がいて、それを叱る大人が少なくなってずいぶん経ったような気がします。
 確かに日本人はこれまで多くの災害を経験し、その都度すさまじいほどの技術力でそれを跳ね返してはきましたが、実際には、その頃はまだ財政に余力があって、その支援の下で罹災地の人々の復旧への情熱と粘り強さがその都度奇跡的な復活を遂げてきただけです。しかし、それ以外の市井の人たち、つまり私たちですね、当事者以外はその都度、僅かばかりの同情代を払ったぐらいで、目立つ協力や協調はしてこなかったのであります。気持ちはあっても罹災者たちに直接関与することはしなかったし、また、できなかった。もちろん、グアムのような外国に住む者や僻地に住む日本人も同じです。災害に巻き込まれた人と、遠距離にいた人ではその衝撃度の温度差があるのは仕方がないことであります。

 今回の大惨事は、その規模が大きかったので市民は大慌てし、遠距離の者たちはなにがしかのお金を施し、時々奉仕活動をして自分を慰めるしか工夫がありません。被害者の痛みまで分け合うことは叶いません。だからじっと時の過ぎ行くのを待つしか無いのです。これが今我々のできることのすべてで、いくら「絆」とか「頑張れ!」などともって廻った言葉を使っても、なんら慰めにならないことは大人であれば誰でもわかります。しかしそういわなければ納得がいかない、自分に納得がいかないのです。何もできない己を誤摩化すために「絆」といっているだけのように感じます。「絆」は自分が一歩踏む込んだ時に結ばれるのです。しかし我々は自分勝手に生きていくことを「個人の自由」と勘違いして言葉遊びする習慣が身に付いてしまっているので、この遊びに気づいていません。
 気づいておれば、我々日本人に「絆」が定着しているのであれば、被災地にある450万トンの瓦礫を国民全員で引き取ることができるはずです。しかしいまだに巧くことが運んでおりません。大臣が各地方に出庭って行って、民間に「お願い」するのはみっともないし筋違いでもあります。大臣は「お願いしなければ首長は真面目に聞いてくれない」と考えているのかも知れません。大臣たる者が「お願いする」というのでは市民団体の懇願要請と変わりません。この政党が政党の体を為していないのはこの点に尽きます。これは国が市民に頼むことではないのです。こんなことまで政府がお願い参上しなければならないとすれば、普通の国民はこの国に威信も誇りも期待も持てなくなります。
 この瓦礫処理は日本人全体の問題です。あの昨年の大震災で天啓を受けたように、これまた大いなる天からの啓示だと私は感じております。日本人とは何か、どうあるべきなのか、を試されているように感じるのであります。我々はこの震災を個人としてどう受け止めるべきか、そしてどのように対応するべきか、を試されているのです。
 瓦礫のことですが、放射能が含まれようが含まれまいが国民全員がそれぞれの持ち場で少しずつ引き取ればいいではありませんか。何を恐れるのでしょう。
「絆」とは連帯のことで一蓮托生することであります。であればなおのこと放射能で苦しむ被災者と同様の苦しみを体感してこそ絆といえるのです。囲いのこちら側からいくら同情を装ってみても、決して他人の痛みを体感できるものではありません。被災者と共に汗を流して片付け奉仕することは尊いことですが、それができる自分は運がいい・・というだけで、本当の意味での被災の苦しみからの解放にはなっていない、そのことをよく知っている人がそこで奉仕する人たちです。しかもその奉仕者が激減しているといいます。
 なぜ国民一人一人が被災者に同情し、その気持ちの重みにもなっている瓦礫を引き取ってあげることができないのでしょう?マスコミの漏らす放射能の恐怖に煽られて、たいした知識もない癖に「福島の人は可哀相だけど自分の所は子供がいるから勘弁してくれ」というのは自己保存、自己保身以外なにものでもありません。今や日本全体が放射能の被害者となり、であるから各地方では原発を続けるべきか否かを熱く議論していますが、その現場にいる人のことを全く見落としているようです。被災者たちが悩み苦しんでいるその鼻先で、我々のような囲いの外の者は同情を装いながら自分のことばかりを考えています。これは一蓮托生どころか「自分さえよければいい」という究極の立場に追い込まれた兵士の心境と同じであります。否、その兵士の中には己の生命を投げ出して他者を護った人もいるのですから、戦時中においてそれですから逃げる者はそれ以下の人ということになります。

 なぜこの瓦礫の処理はスンナリといかないのでしょう。瓦礫を引き受けるのは迷惑だ、と考えている人がいるとすれば、それはもう亡者の集りということになります。情けは人のためならず、とか明日は我が身、というではありませんか。そういう、人の心の温もりの交流があってこそ単一民族の結束が稔ります。が、寂しいことに、現実的に国民の多くは亡者となっております。自分を知らず、自分をもたず、自分の使命すら忘れている亡者です。
 この問題は、志をもった一般国民一人一人が集まって、大きな集団を伴って村や町や市や県に嘆願に出向き、黙ってひとごとのように見過ごせないからなんとかしろ、と押しつけ、役人がダラダラと言い訳したら「お前はそれでも人間か?他人が苦しんでいるのに傍で見過ごすつもりなのか」と脅かせば済む事なのであります。瓦礫処理にかかる経費や埋め立て場所は思いやりがあればどうでもなることであるし、それこそ政府や東電に責任を持たせればいい。言い訳や出来ない理由を理詰めにいい出す人間にはその気がない、ということを経験で学んだ人は多いはずです。それが反対派の人間の心根なのかも知れません。「自分や家族さえよければ他人などどうでもいい」という。

 他人が苦しむのを見過ごせない気分、それが惻隠の情というものです。それこそかつて日本社会を公平無私で支えて来た武士たちの気概だったのですが、こういう高邁で高潔な気分を武士が自ら卑しめ貶めてから日本の風土は変わりました。こういう気高い心は、実際は現在の日本や欧米庶民の価値観とはだいぶ異なります。それに気付いている戦前産まれの人たちは「ちがい」を感じ苛立ちながらもずっと何もいわずに時をおくってきました。不満や不安を感じながらも自分の考えに自信をもてず、唯々諾々と物質主義が渦巻く世間という風に振り回されているのですね。金と物、そして地位と権利がこの世のすべてであるような錯覚をもっているのが世間の風です。このような子供じみた、およそ人の価値や生き方とは関わりがないことに世間は夢中になっている。
 物欲のコンプレックスや自己満足というのは戦前の人には馴染みの薄いものだったそうです。人それぞれが足る事を知っていたからだともいいますが、我々は戦争に敗れてはじめて世間の広さと自由というものを体感し、と同時にそれまで社会の基本となっていた助け合い、隣組、公僕、聖職などという共通の価値観を軽んじるようになってしまったのかも知れません。
 欧米の価値基準に強引に合わさざるをえなくなった戦後から今日に至るまでずっと、日本人精神や文化と西欧の拝金主義の矛盾や欺瞞にとりつかれて、やがて日本的な公平感や情緒や慣習や伝統や信義や美しさがわからなくなり、日本人であることに自信さえもてなくなってきたようであります。
 古き良き日本の慣習や伝統、文化を知っている人たちがこの世から少しずつ消え失せる前に、取り戻し再生させなければならないことが沢山あります。ノスタルジアで満足しない日本人の真実の心を取り戻す時がきているようです。  

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Posted by kenhagaguam at 20:41

2011年12月23日

彼らは命知らずだ・・・の巻き

111223  一昨日、たまたまグアムの米軍上陸戦を俯瞰するアサン展望台で上陸戦の話をし、その中で夜襲をしかける日本兵に閉口したアメリカ兵が、思わず日本兵のことを「命知らずだ」と驚嘆し、なぜ日本人はこうも「自己犠牲を厭わないのだろう」、と不思議がっていた、という話をしました。このことはアメリカ軍記にも書かれている有名な話です。私はそこで「なぜだと思いますか?」と居並ぶ皆さんに問いかけたのです。
 するとそのグループの中に日教組に所属しているというおばさん教員がいて「それは軍国主義が強制的にやらせた結果で兵隊の意志ではなかった」と応えました。たまげましたね。そういう見方に従えば兵隊も犠牲者の一人で、全て国家の責任だ、となります。国家はつまり軍隊でありそれを支持した政府が悪い、とそう結びつけたがります。国民が支持した政府であることを見落としています。彼らの思考によりますと、軍国日本は不平等、強制と服従という図式が色濃く洗脳されていて、兵隊も国家の操り人形ということになります。これは皮肉なことに現在の共産主義国家中国であり北朝鮮を象徴しています。
  国家のエゴを強引に押し通そうとした結果として戦争があるならば、まさに勝者も敗者もその責任があり、正義などあるわけがありません。いわんや国家が滅亡するようなことを望む国民などいるわけがありません。「望まないから戦争に突入した」のだ、とまでは考えが及びません。勝者敗者に責任があるのであれば常識的に考えて戦後偉そうに振る舞った連合国も実は正義の側ではないはずです。そして彼らも口を揃えて「だから戦争はなくなればいい。戦争をするのはいけないことだ」とこれまた真しやかにいいます。いわゆる欺瞞ですね。この「戦争などなくればいい」というのは非常に意味深な言葉でありまして、一見して誰も反論ができないようになっています。そして戦後このかた、この僅か一行の言葉のために国民は罪悪感と自責の念と、そして自虐史観に悩まされて来たのであります。
「戦争は罪悪であり地獄」(グアムの元副知事マイケル・クルーツと元メリッソ村市長バック・クルーツ)であって決して二度とあってはいけないのは誰もが痛感していることで論をまちませんが、その一言で「あの戦争」を語ることにフタをし、タブーにしてはいけません。戦争話を恐れていては未来の国造りはありえませんから。「ラ・マンチャの男」の作家デール・ワッサーマンは「不条理と思われることに対抗するには不条理の側に立たなければいけない」と書いております。戦争罪悪論を声だかに叫ぶのは構いませんが、そのあちら側で哀しみに耐えている英霊がいることを忘れてはいけないのであります。戦争の善し悪しを面倒くさそうに見聞するより、国家の永続を信じ、遺志を継ぐ者が後に続くことを信じて戦場に赴いた英霊、そして帰還兵の赤心のことを無視軽視してはいけないのですね。
 そういう事実を理解し教養にし、伝えていくことは子孫にたいしてとても大切なことなのですが、なぜか事実も真実もよく吟味することなく、夏風が通り過ぎるように平然とやり過ごしてしまうのが、また我が国民の特徴なのであります。

  先ほどの展望台での話しの続きです。おばさんはそこにいた少年達のことを指差して「この話に興味がないのではないか」、と暗に話を止めさせようとしていました。すると両親達が異口同音に「続けて欲しい、是非子供にきかせたい」と明解に応えてくれました。おばさんは罰が悪そうにしゅんとなってしまいました。
  あらためていうまでもありませんが、当時の兵隊さん達には個人の意志というものがありました。無論、命令は絶対でしたが、その命令を自分への義務と感じさせる、より強い意志があったのです。それを忘れてはいけません。今は残念なことにそう覚悟する人が少ないようですが、そこのところを吹っ飛ばして考えるから誤解が産まれるので、兵隊さん達は決してロボットではなかったのです。人というものは、同じ犠牲という表現でも、あえて望んで犠牲になることがあるものです。自らを殺してでも他者をなんとか生き延ばそう、という気力というか気魄があるものなのです。これは東北大震災の時に福島の原発の中で戦った自衛隊隊員や消防隊員、それに東電に雇われた名もなき下請け業者も同様です。「自分がやらなければ誰がやるのだ!」という精神と同じです。

 かつて兵隊さん達の胸に刻まれた強い意志、これまで紹介すらされなかった心根と心情、それら全てが戦後65年もの間、我々戦後世代が一度も教えてもらっていなかった意志でありました。生命を惜しまず身を呈して示してくれた行為とは一体なんなのでしょう。どうしても理解できない犠牲的精神とは一体どこから産まれて来るのでしょう。
 実はそれが祖国愛だったのです。そう国家のこと。長く繋がっている歴史、伝統、文化や日本人そのもの、今ある我々日本人の存在を活かし続ける価値観の全てが国家に埋め込まれ、しみ込んでいるのですね。「祖国愛」美しい響きではありませんか。
 そのことを正直に語ってくれたのが生還兵の老人達で、私の父や尊敬する叔父貴達もいっていました「それは全てが真心から発する素直な気持、愛国心、祖国愛だよ」と。
 戦争に従軍した多くの兵隊さん達は、純粋な情熱、護国護持のため、という心意気で戦線に赴いたそうですが、それを「教育がそう洗脳したから・・」と決めつけるのはよろしくありませんね。
 その当時の世界と日本は喧噪な世相の中にあって心穏やかな状態でなかったし、また、世界情勢、勢いと風が戦争やむなしの方向へ走り出していたのですが、その頃の兵隊さん達の気持には「国家の護持」のために戦うことをいとわない、という激しい忠誠心が根強くあったのですね。そういう心音を理解しようとしないから「あの戦争」が見えなくなってしまうのであります。まさに「真の狂気とはあるべき姿を見ず、あるべきことの為に闘わないこと」(「ラ・マンチャの男」デール・ワッサーマン)でしょう。

 戦争は残酷な政治的最終手段であります。その戦争の原因は色々あって、同じ扱いはできません。当時のドイツしかり、ソ連しかり、そしてアメリカしかり、そして今の北朝鮮しかりです。しかしその下で戦場に赴く兵士は既に選択肢が残っていないのが現実であります。自由を選ぶことのできない兵士にとって自分が国家国民にできることは何か、と迫られれば祖国護持を祈念してその身を楯(防波堤)に使うことでしょう。戦死するとは、そして、戦争を生き残るとはかくも尊いことなのであります。
 海兵隊の猛者連中に「日本人は恐れ知らずだ」といわしめ、深い畏敬の念を抱かせ恐怖をもたらした感動とはなんだったのでしょう?それは「身を賭しても護るべき国が我にある」ということでしょうか。司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」の中で正岡子規が「淳さん(真之)、国を滅ぼしてはいけん、美しい文化をなくしては絶対いけん」と病床で血を吐くように語った言葉に象徴されるように、戦前までの普通の日本人は「身を賭して護るべき誇りある国」を持っていたのですね。それが羨ましい。
 ここグアムでの戦争でも最後の決戦に挑む夜半、猛将といわれた高品彪(北マリアナ地区師団長、中将)が大本営に突撃の許可をもらいながら最後に共に闘う部下達のことを言い残しております。「どうかここで散って逝く彼らのことを誉めてやっていただきたい、称えてやっていただきたい、そして誇りに思ってやって欲しい」と。
 太平洋で戦死した150万の英霊は「我一人になりとも太平洋の防波堤とならん」といって死地に赴いたそうです。その彼らのことを「誇りに思う」人が現在どのくらいいるのでしょう。少なくとも日教組のおばさんには絶対わからない心根であるから納得しないでしょうし、ね。それが戦後の教育だったのです。「わからず知らず、そして知ろうともせず」というのがそれです。戦争は理屈理論で成り立つだけでなく情緒や感情、名誉というものもあるのだ、自己犠牲を厭わぬ尊い犠牲をあえて求めた者がいたのだ、といってもきっと納得しないのでしょう。哀れな人達であります。
 戦争の語りが終わった時、日教組のおばさんは肩を落しておりました。彼女の傍らで大人達が偲び泣く様を見、そして中に子供達が混じっていることに驚いたからであります。英霊達の戦いぶりに感動する人がいることに衝撃を受けたからでしょうか?わかりません。  

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Posted by kenhagaguam at 15:56

2011年11月15日

「しあわせ」について・・・の巻き

 昔縁があってフジテレビの番組女性プロデユーサーと親しくさせて頂いた時期がありました。イベントを絡めて世界物番組を企画していた頃でした。
 ある日なにかのきっかけで「しあわせ」ってなんだろう、という話題になり、そのプロデユーサーが「夕食を摂っていたら子供が『ママ、おいしいね?』というの。だから『仕合せね』といったら『仕合せだね』と応えた。私は○○君に『仕合せとはこういうことをいうのね』といったのよ」と笑顔でいいました。微笑ましい話ですね。
 仕合せを感じる事が少なくなりました。また仕合せを考えることも少なくなりました。逆に不幸せなことは山ほど考えられます。不思議なことです。

 この歳になって今更「幸せ」を語るのはとても気恥ずかしいですね。面頭向かって「あなた、今幸せですか?」と聞かれたら思わず相手の顔を見てしまうでしょう。「なんですか、それ?」って感じです。最近変な人間が巷を徘徊しているので特に敬遠されるでしょう。でも、でもこの頃考えるのですね、幸せとはなんだろうか?ということを。 
 
 幸せにも幾種類かの感覚と感情がありまして、例えば字で書くと「仕合せ」。これは自分が他と関わって味わう感情でありますね。まあ大抵の場合、人間は身内や他人との擦り合わせや寄り合わせによって関係が成り立ちますから協調し調和していくことが大事であります。この協調しあっていくことによって素朴に感じるのが仕合せ感でありまして、他人を喜ばす行為が小さな喜びとして自分の心を和ませ、気分を明るくさせます。その仕合せが自分の幸せになります。
 「幸せ」はそういった自覚、自分自身のこと。目的を達成した時の喜びや、過去を振り返っての今の安堵感、あるいはふつふつと湧いて来る喜び希望。軽くて純粋な幸せ感は毎日誰にでも必ず起きるものです。その幸せ感を得る為の努力は要りません。それは正に根拠のない楽観のようなもので、自分が「ああなんというひと時だろう、幸せだなあ」とそう感じればいいだけのことです。幸せとはそれだけのこと、単純な発想で感動的で、そして不思議なことに強い影響力をもっています。横井庄一さんはその死の床に着く前に「自分は望んでそうしたのではないから、これでよかったと思う」と自身の波乱に富んだ人生を振り返ってそう述べています。横井さんの幸せは生きながらえて感じた充実感であったことでした。周囲の人も共感を覚えたそうです。
 幸せを感じるっていいですね。自分の幸せ気分が周囲の人に伝わり、人もまた幸せな気分になります。小さなことが小さな社会を明るくし、ヤル気を起こさせ、そして人々に希望を感じさせます。
 幸せになるのに条件はありません。誰もが幸せになれます。
 幸せを感じるのに遠くへでかける必要はありません、勿論お金も要りません。
 幸せは遠くにはなく、直ぐそこにじっと潜んでいて、気づいてくれるのを待っています。手元に何もなくても希望を感じればそこに幸せが宿ります。
 幸せはいついかなる場合でも、今この瞬間にも感じることができるし、それをじっくりと味わうこともできます。
 幸せは誰にでもどんな人にでも、どんな時にでもふとやってきます。
 幸せ感は、自分がそうなることを願うよりも他人が幸せになることを願った時のほうが遥かに大きくそして感動的です。
 幸せは大きく願えば大きく、小さく願えば小さく応えてくれます。
 幸せを感じ取ることができる人はそこに神の慈しみを感じることができます。
 だから幸せを感じたら他人にもお裾分けしてあげましょう。

 しあわせ・・ふと考えます。今自分は幸せなのだろうか?仕合せとはなんなのだろうか、と。犬も猿も牛も馬も鳥もイルカも象も仕合せを感じとることがあるのでしょうか?そういえば夕陽が落ちる様を見て猿がうっとりと見とれていた、という説があります。私が飼っていた犬「団五郎」は、秋の日の木漏れ陽が紅葉に当る様をじっと見とれ笑っておりました。犬にも美意識があるのでしょうか?

 今の世相、その混乱の極み、世情不安、軽佻浮薄という現象は日本だけではありません。政治がおかしいのも日本だけではありません。前の大戦ではその不安と欲望が鬱積して戦争へと突っ走っていきました。日本だけではありませんでした。
 こういうなんとなく世相や社会が暗然としている時、幸せを意識するのには、ゆったりと昔の自分を振り返るほどの余裕が必要なのかも知れません。あるいは高望みをせず、足る事を悟った瞬間にふと感じるものかも知れません。
 欲しかったものを手に入れたり,好きなチームが優勝したり、観たかった映画を観る事ができた時も幸せに満たされます。こういうのはシアワセ人の部類になります。
 今ある幸せ、私達はそれを大切にしなければならないかも知れません。今ある幸せ、そこから本当の意味で幸せが実感できるのかも知れません。

 小さな幸せを大事にし、大きな幸せを他人にプレゼントしたいものです。  

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Posted by kenhagaguam at 16:39

2011年08月18日

ありがとう、といえる人・・・の巻き

たとえば買い物帰りに店をでる時、ありがとうございましたと店員がいいます。
たとえば買い物をしてお金を支払う時店員に、ありがとうといいます。
たとえば買い物をして欲しい物がない時、済みませんが、と店員に聞きます。たとえば買い物をして欲しい物がない時、ごめんなさい、と店員がいいます。

天気予報の番組で、雨が降るかもしれないから折りたたみ傘を用意しておいた方がいいですよ、と予報士がいいます。
電車が停車する時、車掌が「危ないですから戸袋に手を挟まれないようにお気をつけ下さい」と注意します。
毎日節電の目標をいい、その結果をニュースで流します。
毎日ニュースで放射能の値を知らせています。
聞く人がいなくても、それが大切なことでなくても、少しばかりの気配りをしていまいます。

日本人は誰にでも「ありがとう」をいいます。
日本人はどういう状況でも「ありがとう」という言葉を忘れません。
日本人は相手が悪くても「ごめんなさいね」といってから会話を始めます。
日本人は自分の責任でなくても「ごめんなさい」といってから理由を述べます。
日本人は人にものを尋ね協力してもらう時「済みませんが」といってから必要な要件をいいだします。
日本人の会話の中には相手の立場を考える言葉がいっぱい滲み出ています。
日本人は人に気配りを忘れず他者を優先する民族でした。

通りがかかりの人に道を聞く時、アメリカ人は「失礼ですが・・」と言い出しますが日本人は「済みませんが・・・」といいます。

アメリカ人は道の通りで他人と顔をあわせると目で「こんにちは」といいます。
アメリカ人は町のどこかで他人でも目が合うと「ハイ」といいます。
アメリカ人は知っている人も知らない人も顔と目があうと微笑みを交します。
アメリカ人は紹介し合う時、握手を交します。
アメリカ人は別れる時、微笑みながら「グッドバイ」と手を上げます。

日本人とアメリカ人はどこかが似ていてどこかが完全に異なります。
日本人がアメリカ人を好きなのは陽気で屈託がないところです。
アメリカ人が日本人を好きなのは礼儀正しく横柄でないところです。
日本人がアメリカ人を尊敬するのは「いいと思ったこと」はとことんやり抜く根性です。
アメリカ人が日本人を尊敬するのは「物事を丁寧にねばり強く」最後までやる抜く誠意です。
日本人がアメリカ人を嫌うのは自分本位で物事を強引に利益誘導することです。
アメリカ人が日本人を嫌うのは自分の意見を率直にいわずにわかったような装いをすることです。

日本人もアメリカ人も相手を認め、相手を尊敬し、そしてそういう人になりたい、と願うことが多々あります。自分にないものがそこにあるからです。
いい日本人でありたいものです。  

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Posted by kenhagaguam at 08:00

2011年08月17日

音について・・・の巻き

 音について書きます。音楽についてです。前に「音は人の琴線に触れ、心を打つものです・・・」と書いたことがありました。それに少し付け足しをします。

 昔、そうもうかなり昔になってしまいましたが、若かりし頃の夢、結婚してからの私の家族の理想像とは、夕餉を家族皆で摂りながらそのバックグランドミュージックにクラシックを流すことでありました。
 真っ赤な夕陽が青空を染めて、その夕陽の長い影が茶の間のガラス越しに忍び入る頃、ぶらりんと垂れ下がった傘の下から照らされる電灯の下で、女房が時間をかけたお袋料理を食卓に並べ、私を頭に家族が卓を囲み黙々と食事をとる。先ずはその日話しを話題にし、更に思い出話しや自慢話、失敗談などを楽しく交す、その耳元にショパンかモーツアルトの、あるいはブラームスあたりの柔和な音楽が静かに流れている、という風景でした。いい夢でした。

 しかしその夢はついに一度として叶うことはありませんでした。まあ家族の団欒は期待通りでしたが、クラッシックミュージックはなく、食卓の前にはテレビがあって、番組の、がさつな、低俗な、あるいは殺莫とした映像が飛込んでくるのであります。音響すさまじいコマーシャルは砂利タレ(これは古いのだそうで)が騒いでいるだけでよく聞き取れず、何を売りたいのかもよくわからず、通俗番組では何が面白いのか嬉しいのか、明日の命も知れぬ、タレントと称する軽薄な連中が、ただギャアギャアとわめき散らしているのであります。こういう雰囲気の下では食事を優雅に美味しくいただこう、というのは無理な話でありまして、そしてこれが、まあ、我が家の現実なのでありました。

 しかしなんです、夢というのははかないものでありますね。そしてこれは全て私に原因があるのであります。先ず、父親として威厳がないこと、これが一番いけません。次に家にいる時の格好はみすぼらしい、というかだらしがない、これがさらに権威を失墜させておりまして。さらに、薄給の癖に威張り散らしてばかりいる、これは家内からみるとただのぐうたら亭主なのでありまして尊敬など期待薄、さらに好みというと戦争映画かアクション映画ばかり・・・、ここまでくると下がありません。
 というわけで団欒にクラシック、等と言い出せば、世迷いごとと家族から総スカンを食らうのが見えているのであります。
 しかしなんであります。いいたくはありませんが、ロックかなにか知らないが、わざと乞食のような成り振りをして、世の中をスネたような若者が大声で喚き散らし、楽器をかきむしる姿は醜悪そのもので、何がいいのか美しいのかがわかりません。こんな連中と比較される情けなさ・・、つくづく感じるのは夢のはかなさなのであります。

 その昔、NYに居た頃、大学のオートラニー博士や仕事上のボスであったコーカスさんの夕餉に招かれ、そこで感動したのが、いつも静かで穏やかなクラッシックが流れていたことでした。そのゆったりと流れる音曲の邪魔をしないように私も声を上げずに小声で会話を交していました。音楽よりも声がデカイと品が下がるからであります。私の夢は他人が実現していたのでありました。

 オートラニー先生はブルックリン大学演劇部の学部長で東京の上智大学で能楽を教えておられました。日本人に能を教えるのですからたいしたものです。 
 こういうことをいうと「下品な輩がなにをいうか」と蔑みの目でみられますが、私も能が大好きでした。能の謡曲、その謡とお囃子の流麗な調和の妙に日本古来の美学を感じてならなかったからでした。
 いつも心に思うことですが、日本人は大昔から美しい音の世界を創造していたこと、その中に身を置いて暮らしていたこと。知らず間に音色の美しさを体感していたことであります。羨ましいと申しますかこの世的ではありません。

 能の音曲一つをみても明らかなのですが、そこには楽譜というものがないのでありまして、音符はなく謡の文字の間に朱色で調子を書き入れただけなのです。ですから演奏方(囃子方)はシテという演者の声の調子や抑揚に併せるようにして音を刻んでいきます。これが不協和音であったりして実に見事に音の世界を創造していくのです。当然のことながら、舞台に上がる全ての者が共通の美的センスと実力を持っていなければ心を震わせる程の音の流れの美しさ、その調和と不調和、間合いと空白を表現することができないでしょう。洋楽でいうところのテンポでありハーモニーなのですが、能の音曲はもっと人の呼吸に近い、もっと自然の音色に近い、もっと心臓の鼓動に響くような不思議があるのです。こういうと大袈裟ですが、正にそこに神的なもの、神秘が舞い降りているようにすら感じるのであります。こういう恐ろしいほどに完成された音の世界を14世紀(室町時代)には創造していたのですから誇りです。

 今、日本が一番必要なものは、心静かに穏やかになれる時間、この世的な煩わしさとは異次元の美の世界なのでしょう。いい歳をしながら些かも救いらしいものを表現できない菅直人総理やその周辺の政治家の所為で、醸し出された不快で不安で不協和な社会現象に直面している今こそ美しい心の世界に触れておきたいものです。美しい世界に触れている限り、きっと人間の美しさや尊厳を失しなわないような気がするからであります。
 不思議なもので、我が家の食卓は騒然としておりますが、ふと心を平明にしてみると、あの能楽師の奏でる音色、鼓や大鼓や横笛がじわじわわやわやわと滲み出てきて心の舞台で合奏するのであります。つまり私、仕合せなのであります。
 きっといい音楽とは生涯の記憶となって、死ぬまで骨に響き生きる喜びを奏でてくれるのでありましょう。いい音楽に触れたいものです。  

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Posted by kenhagaguam at 08:00

2011年03月30日

国家がなにをしてくれるのではなく・・・の巻き

日本という国は本当に不思議な国ですね?
 此の度の「東日本北陸大災害」で犠牲者を最小限に押さえることができたのは日頃の訓練の賜物であって、そのこと事態は有り難いことだと思いました。
 この災害で世界を感動させたのは、正に被害に遭った人々のとった行動、態度から日本人は酷い災害に遭っても忍耐し、軽挙妄動しない」「彼らはきちんと列に並び、決して我欲をむき出しにしない」「お互いが助け合いながら行動し、譲り合って非常事態を乗り越えようとしている」というのが目立ちました。勿論、災害の被害を間接的ながら受けている関東一円の市井の人達、省エネや品薄に絶えている人も(外国人の目には触れないけれども)当然のことながら含まれているのでしょう。しかし、これは今さら特出した日本人の美徳ということではありませんね。これまでもそういう品格は備わっていて、そういう品格に乏しい民族からみれば珍しく、であるからして外国人が一目置いていたのでありましょう。

 しかし被災地の人々の忍耐と辛抱とは裏腹に、遠隔にいる日本人の中には商品を買い占め、放射能情報におびえて露骨な反応をし、また圏内であるからと、荷物やガソリンを満載にしながら車を放り出して逃げたドライバーがいると聞きます。それがあると助かる同胞が直ぐ傍に居るのにも拘らず・・・にですよ。愚かというか無責任というか、自分勝手というか、情けないというか・・まあこれもまた日本人なのですね。外国人の知らないもう一つの日本人、いってみれば彼らのメンタリティに近い人々ですね。
 あれほど被災者に同情し、憐憫の気持ちをもっていたにも拘わらず、イザ自分の周辺が騒がしくなってくると自己保身、自己保存の癖がでてしまう。人というものはそういう本性なのかも知れませんが実に情けない。この種の人は日頃から人類皆兄弟のようないい方をし、他人の不幸に同情し、貧者を同志と勘違いし、権利と平等に目くじらを立てる。そして損得に敏感で、損することを非常に恐れる普通の人、つまり「隣の芝生」が気になる人なのであります。
 でもちょっとばかり世間が騒然とし、世相が不安になりそうな情報が流れると、根拠があってもなくても心が浮立つ人でもあります。情報の根源を確認することなく我先に走りだす人なのでもあります。

被災地と被災者への救済のこと・・・
 もう2週間以上になるのに被災者への救済、先ずは最低限の食料、医療、燃料が充分に届いていない所がある、という問題。これは物理的なことよりも政治の問題だと思いますね。早い話が、孤立している被災者はヘリコプターで救出すればいいし、救援物資も同様な手段があります。減りで調査し救出しているのをTVで見ましたが圧倒的に数が少ない。日本中には数千という民間も含めた航空手段があるのですから救出はともかく救援物資ぐらいは順次運び込めたはずです。政治が悪い。
 それとこれまで、これまで何度も災害体験をしてきたのにも関わらず、被災者へのケアがまるでできていないのはどういうことでしょう。私達は連日TVで報道される被災者のケアのことよりも、報道されていない見えない部分の被災地と被災者のことの方により興味をもっているのです。(もっとも世間は原発の方に関心が集中していますが)被災者達は心配なのです。時々刻々と生命の危険が脅かされている現状、言葉よりも言い訳よりも、先ずは動ける者が動く、許認可云々をいっている場合ではないケースも多々あるはずです。TVや自衛隊が入る事のできる地域なのに救援物資が届いていない状態、理由は山ほどあるのでしょうが、理屈では人の生命は救えません。今は戦車なども導入しているようですが、とにかく手段手法を選ばずに助けに行ってあげて欲しいですね。
 あの最悪の現場でそれぞれが懸命に努力協力しているのに、後方援護が現場に反映されていないのは政治家の責任以外にありません。被災地へのアクセスがうまくいかない、といいますがこれもどうも物理的なことよりも命令系統とシステムが充分でないからではありませんか?今の情況こそ、小手先でもいいから早く悲惨な状態から安心を感じるほどの物心両面の支援が必要なのです。

何が怖いのか・・・
 もう一つ、現在は被災地が広範に渡っている関係から避難者がテンデンばらばらに避難場所に収容され、そこでとりあえずの毎日を送っておられます。評論家が「いずれもとのような町並みに復興するのには数年かかるだろう」、と言い放ちます。多くの評論家はまるで他人事のように冷静で、復興に時間がかかることが当たり前、とネガティブ、悲観的な物の見方をしています。 なぜそれが希望に溢れた復興であるようにいえないのでしょう。嘘はいけませんが、被災者に必要な言葉は「頑張ってね」「見捨てませんよ」ではなく希望と楽観材料なのですね。言葉ではなく実際的に救いを感じる目的や目標が必要なのです。そしてそれを提示し、助けることができてこそ弱者を労る心根なのです。小さな集まりを大きな形に変えて行くこれこそが政治の力なのです。
 一時も早く救済しなければならない、のは「1日の食料が僅かだから」、「燃料がなくてひもじい思いをしているから」、「年寄りが可哀想だから」、という以上に心配するのは、やがて襲って来る恐怖が持続する「トラウマ」のことです。
少しでも早く心に光明を投げることができれば、それだけ「後々まで影響するトラウマ」から脱却することができます。でるから早くして欲しいと願うのであります。
 毎日TVで見る悲惨な現場、遺児や子供を失った親の嘆きは、今日ある哀しみであって、私達は明日に忘れる現象です。残酷ないい方ですが、被災者からすれば、他人は直接被害を受けた打撃や哀しみや失望、絶望はわかりにくいものです。「頑張って!」とエールを贈る言葉と「頑張ります」という罹災者の言葉の重みは天と地の開きがあるように、です。安易に忘れることができるTVのこちら側の我々とは違って、被災者、罹災者はあの災害がこれからもずっと重くのしかかってくるはずです。その精神的苦痛がトラウマとなって繰り返されるのです。であればこそ、災害に遭わなかった幸運な者は、黙して随所に労りを見せる愛情が必要です。そして希望を発信し、提供する優しさが必要なのです。

惜しげ無く奉仕せよ・・・
 忌憚のないことを申せば、実業家、政治家の中で巨万の富みを得ている人は、キリストの教えではないけれどこの際「持っている者は惜しげ無くそれを施せ」です。困っている人達に直接財産をはきだせば、公僕の人、としての値打ちが残るというものです。
 大物政治家、歴代首相、党代表はお手本でどしどし資産を困っている方へ(直接行き渡るように)放出して頂きたいですね。これまで無税で散々浄財奉納金を溜め込んだ創価学会などの宗教団体も喜捨してもらいたい。新聞購読料などで荒稼ぎした共産党、社民党などの政治団体もどしどし寄付してもらいたい。そして先ずは鳩山ファミリーに手本をみせてもらいたいですね。小澤一郎さんについては?と政治に詳しい友人に尋ねましたら、氏は係争中だから資金に関して勝手なことはできないのだ、といわれました。手腕を見たかっただけに残念です。
 どんな大金を抛っても失うものはありません。いつか必ずそれよりももっと大きな見返りがあるでしょう。志さえ無くさなければ何も怖いものはないではありませんか。
 勿論、この際ですから国際援助金(ODA)も取りやめ、民主党も政府も、持ち出している永続しないようなあらゆる法案を撤回して、この際は出来る限り迅速に国家危急の災害に対処してもらいたいものです。潤沢な資金支援と迅速な対応と被災者と自治体、中小企業の救済が必要とされています。そう、これは他人に期待するのではなくて、目の前の大火事を見て震えて逃げ出すような、あるいは人任せにするのではなく、この際、自分自身が、周辺が、社会が、政治が、国家が何をすべきか、できることは何かを考えだし、即断即決し行動しなければならないのではないでしょうか。
 国家は非常の助けにならない、というトラウマが国民の側に身に付けば国は滅びるでしょう。となれば今が好機、このこと(災害)はまさに天啓なのかも知れません。  

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Posted by kenhagaguam at 13:48

2011年02月14日

騙されやすい日本人・・・の巻き

 この頃の中学生はずいぶんとマセて(といっても思春期の、というのではなく)いるようでして、時としてこちらが考えてもいないような事を考えている事が多々あります。
 こんな事を書き出すのは、三男の愚息が学校の作文で投稿した内容が、こ生意気に憂国の私情をさらけ出していたからでありました。憂国ですよ。こまっしゃくれた子供です。
 上の息子達は口を揃えて「自分の頭の蠅も追えない癖して、よく熟慮もせずに生意気な奴だ。これは世間から誤解を受ける、右翼だと莫迦にされる」と心配し批判してきました。年端もいかぬ弟が、文章をとって継ぎ足したようなことを自分の意見のようにいい、考え、口にするのは先人に対しても失礼である、とまあけんもほろろ、けだし当然のことでありました。
 私はしかし、こうも思いました。思いつきであろうが(この愚息は思いつきで物はいいませんが)なんであろうが、13、4の年頃でさえ不安を感じる現体制はそれでいいのか、と。子供に批難されるような社会は尋常ではない、ということであります。哀しみは深いのであります。

 さて、日本人についてであります。
 アメリカに居る長男が、最近の日本のことを心配してこんなことをいっていました。「明治維新の革命や日露戦争時には『民族存亡』といった危機があったから国全体が統合して家を守ろうと尽力した。いまの日本はその時代とは全く異なり、アメリカナイゼーションと資本主義のマインドコントロールに翻弄され自滅に向かっている社会になりつつあるようだ。日本はただの肥えた豚同然です。今の日本社会における危機感とは個人の収入のレベルであり、国のプライドという感情なんてどんどん希薄化しています。」とまあ手激しい。20そこそこの若きサムライが吠える一番のポイントは、我が同胞は手前の心配ばかりしていて、自分が喰えるかどうか、自社が儲かるかどうかが気がかりで、それが国家の危機であるかのように錯覚し、不安をマスコミが煽り立てているようで気味が悪い。我々が見抜かなければならないことは、そしてその不安を解消する為には何を成すべきか、ということが大事なのではないか、という事。息子はそのヒントに「特にアメリカ国民の結束力の強さを目の当たりにしながら生活していると、隣近所に棲んでいても互いに相容れない閉鎖的な日本人というものに国民的結束力なんてもはや存在するのだろうか?」と結束力に疑問を感じているようでありました。結束できない癖に人の足を引っ張り、少しばかり血気盛んな者を見ると愚弄し足を引っ張る。その癖に仲間達の権益に関わる利益「村の掟的結束」だけはちゃんと保守している。日本人とは真にもって不思議な人種なのであります。

 どうして同胞は上手に結束ができないのでありましょう?
「国家の品格」の著者で有名になった藤原正彦さんは週刊新潮の「管見妄語(かんけんもうご)」のエッセイの中で「日本人はお人好し民族である」、と喝破しておられます。「海外でスリにあいやすい、釣り銭をごまかされ、レストランでは食べていないものまで請求されても確かめないし、騙されたとわかっても『みっともないから大騒ぎしない』」と書いてありました。私の経験でいいますと、グアムで食事(ツーリスト相手が多い店)をすると勘定書にチップ10%がご丁寧に付け足して書かれております。もし、クレジットカードでの支払いを申し出るとその署名用の受け取り紙の合計金額にチップまでがご丁寧に加算されていて、更にその下にチップ書き入れ空欄があるのです。知らずにいると、ついそこにチップの数字を書き入れる。カード払いにせよ現金払いにせよチップ加算の総額に更に別にチップを支払ってしまう、という二重払いをしてしまう。少額であればまだしもグループだとチップだけで何100ドルにもなります。つまり巧く騙せれば倍額チップが入り込むことになります。これは大変紛らわしいし詐欺まがいになってしまうのでオーナーに確認したことがあります。するとオーナーいわく、元々チップを払わない(習慣がある)客に問題がある、と客の所為にしました。ウエイトレスの楽しみは、客がこのトリックに気づくか気づかぬか、にあって、間違えて二重にチップを支払ってしまった客に注意をする気などハナからないようです(誤解を与えるようだから申し添えますが、誰もがそうである、とは断定しません。中には良心的な人もいるはずですから)。なんという事でしょう。そうまでして金が欲しいのか、と憤慨してしまいます。このことを遊びに来るゲストに注意すると、彼らは笑ってこういうのです。「いいですよ、チップぐらいのことは」とつれない返事。日本人は金持ちなのです。騙されることを金持ちの特権ぐらいに思っているのでしょうか?そういう風だから外国人に莫迦にされるのです。
  藤原さんは、「駄目もとで騙してみよう、ばれたら勘違いといえば彼らは納得してくれるから」、といいます。更に「企業でも、日常的に約束反故や違反、詐欺にあい、違法コピーや技術を盗まれ、国家ぐるみで脅かされ集団で提訴されると要求した通りの金額で和解しようとする」と続けます。昨年5月にアメリカ政府も絡んで散々叩いたトヨタ車のリコール運動とバッシング事件もそうでしたが、自国企業の可愛さ余っての叩きまくりの結果がやらせと偽造であることが判明、これを大袈裟に取り上げた張本人と政府からはなんの謝罪もないし日本のマスコミも政府も黙認で終わり。嫌疑が晴れて「やれやれこれでよかった」と胸をなで下ろしている関係者の素直さにびっくりです。
まあここまで他国に愚弄されても反抗しない企業や民間人は大人なのか莫迦なのか、ここが見えにくいところですね。日本で通用する謙虚さと謙譲は他国では愚かでしかないことが未だわからないのか、と義憤に燃えます。
 中国は、日本というしなやかだが中身の薄い経済大国を脅かしが通用する阿呆な連中よ、とせせら笑っている事でしょう。「経済が総てだ」と偉そうにいう経済学者と大企業社長の決めつけたような言葉(これも実は脅かしですが)に寄りかかって、経済さえしっかりしていれば決して他国に侮られることはない、などと呑気に構えていた国民の方に問題があるのでしょう。
 経済が重要であることは当然のことでありまして、もしこれがなかりせば、戦後の日本は言語を絶する悲惨な国家と成り果てていたでありましょう。経済は体力ですからここまで体力をつけることができた先人の血と汗の努力、国家再興への情熱はどれほど感謝しても、し足りません。と同時に(ここが大切なのですが)経済の力と両輪を成す国家意識、国体護持という精神的な部分がありますが、こういう生活の基本ともいえる、国のあり方について今は完全に見落としてきている事に目覚めなければそれこそ天変地異がいつ起こっても不思議はありません。
 まあ、例の尖閣諸島の中国、北方四島のロシアなどに(日本企業の思惑としがらみがあってか)メントウ向かって「お前ら出て行け!」といえない国家の代表達ですからお人好なのか愚かなのか、見えにくいところでありますが、僅か66年前には、その国家の存亡に生命を投げ捨てた英霊達がいた事を思うと、時代の、というか人間の質の変化に驚くばかりです。哀しくて胸が張り裂ける思いがするのは憂国の士だけでなのでしょうかね。

 これだけはいえます。かつて我々の先人達は国家ぐるみで、頑固で強烈な愛国心をもっていました。愛国とはそれを支える国民があって存在する国、という意味です。前首相の鳩山氏の腰が抜けた座右の銘、「友愛」のように、他人の善意に寄りかかっただけの、気の抜けたサイダーのような軟弱なお題目と較べて迫力と気魄が違います。「かつて日本は、列強並みに他国を脅し騙し狡猾を企んだりもした。」(藤原さん)のがかつての日本でした。これは日本が突出していたのではなく、当時の(そして今も)世相であり世界情勢であったのであります。ですから日本は間違ってはいなかったのです。ただ世界情勢全体を俯瞰する度量がなく、視野が狭く、理性的ではなかったところと選択手段に大きな勘違いがあった処に問題があったのです。ああそれと、海外を俯瞰し分析するという勉強不足もありました。
 今はその方向が逆転して、現代の平和ニッポンの象徴のような政治家達、その思想の範囲はせいぜい日本国憲法そのものでして、「諸国民の公正と信義に信頼し」て「われらの安全と生存を保持しよう(憲法の前文)」と他国のそして他人の善意に全幅期待信用し、自分の家の安全や家族の暮らし方まで任せ、委ねるのを最良の策と考え、ひと目を気にしながら戦後このかたずっと放任していたのであります。
 委ねられた相手の諸国民は、日本的な情緒や伝統や文化をもった民族ではありませんから、少しでも自国の利益を獲得することにやっきとなっている。過酷な競争の中で生き抜く為には他国の仕合せなどどうでもいいのが国家のあり方なのであります。他国のために(直接戦争であれ経済戦争であれ)国家を沈没させるわけにはいきませんから政治力が問われる、とは正にこのことなのです。
 私は決して「だから残酷になれ、冷酷に対処せよ」などといっているのではありません。自国の権益、自国の領土、国の文化と伝統を守る為には自らを厳しく律し、と同時にこれを狙っている隣国に対しても厳しく対応せよ、他国の善意などに期待し寄りかかっては危険だよ、とまあそういいたいのであります。言葉の応酬があり、それ以上はエスカレートをさせないようにしている政治は、本当は言葉遊びをしているだけかも知れません。とうに見透かされているのです。釣り銭を誤摩化され、アイデアを盗まれ、領土さえどうなっているのかわからなくなってきている今の日本。現実に目を奪われるだけで、真実の世界から目をそむけているのかも知れません。恐ろしい時代が待っているような不安を覚えます。ひょっとして、必要に応じた武力を調えておく時期がきているのかも知れませんよ。
 こういう不安定な時代を迎えている状況に期待されている新日本人的精神とは何でありましょう?中学生ではありませんが、お知恵を拝借したいところであります。  

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Posted by kenhagaguam at 11:34

2011年01月27日

島の掟・・・の巻き

 いきなりでなんですが、デストロイヤーという覆面プロレスラーをご存知ですか?
 60年代から上の人は実際彼のレスリングをブラウン管の中に見たし、50代でもTV番組「噂のチャンネル」でコメディアンとして一世を風靡していたのを覚えているはずです。
 デストロイヤー(駆逐艦)の正式なリングネームには「ザッ・インテリージェント・センセーショナル」と冠がつきます。日本では「覆面の大魔王」と恐ろしいタイトルを付けていました。勿論、魔王どころか立派なインテリで博士号を二つも持っている本物のインテリージェントなのであります。彼の正式な名前(本名)はディック・ベイヤー。では、彼の素顔は・・、これは私も知りません。何度も一緒する機会があったのにも拘わらず、素顔を見た事がありません。いや魅せた事がありません。不思議な人であります。

 そのデストロイヤーさん(さん、付けは照れくさいので以後は略します)からスカイプ(PC電話)がありました。彼の家があるバッファロー市へボストンに住む次男が遊びに行き、その時悪戯で前触れもなくかけてきたのでした。その時のこと。スカイプというのは便利なもので昔から理想としていたテレビ電話ですから相手の顔を見ながら話すことができます。無論、相手もこちらの顔を見ながら話すのです。PCのあちら側から聞こえてくる嗄れ声のデストロイヤー、声からは些かも歳を感じさせません。では顔は、というとそれが画面に映ってこないのです。後で息子に聞くと、彼は外出時(空港とか日本人観光客の多い場所、特にナイアガラフォール)では必ずといってよいほど覆面を被っているのだそうで、息子が記念に写真を、というと「ちょっと待ってね」と流暢な日本語で断り、あのお馴染みの白地に赤い縁取りをした覆面を被るのだそうです。変わっているようですが、これが80過ぎても年齢を感じさせない現役心なのかも知れません。彼の同年代の、あの懐かしい面々、力道山、ルー・テーズ、フレッド・ブラッシー、ジェス・オルテガ、エンリキ・トーレス、カール・ゴッチ、キラー・コワルスキー等々、もう鬼籍に入った人ばかりですが、デストロイヤーはしかし健全です。いやプロの凄みなのでしょう?覆面姿のデストロイヤーには年齢がないのです。いつまでも昔のままなのです。そうイメージを定着付けさせるところが凄いですね。

 このデストロイヤーとの付き合いが始まったのは彼が日本のテレビに度々ゲストとして招かれていた頃の事で、私が変梃な通訳をしていた時のことでした。その頃の彼は既に引退して久しいので彼のことを知っているジャリタレは現役時代の彼を知りません。ですから控え室で待機していた時、ジャリタレが私に「あの人、怪我でもしたのですか、顔の所に」と聞いて来たほどでした。プロレスはマニアックな人にしか通用しなかったのであります。
 彼と一緒にいた時に(無論覆面付きで)気づいたのですが、彼は日本語を流暢に喋ることができるのです。日本に10年以上住んでいたし、超インテリであるから日本語を修得するのにさほど時間はかからなかったでありましょう。しかし、デストロイヤーは一度として(私にも)日本語を話さないのです。彼は話せます、ということは当然のことながら日本語を聞く事も充分できます。つまり私達が会話していること総てがわかるのであります。こういのって怖いですね。知っているのに知らぬ顔をしている、って。それにペラペラ喋るこちらの軽薄さ、までがバレてしまうのでありますからして。

 さて、そのデストロイヤーになぜ「貴方はあえて日本語で喋らないのか?」と聞いた事がありました。日本で暮らすには英語より日本語で会話する方がズンと楽だからです。すると彼は暫く考え込み、それからゆるりとこんなエピソードを語ってくれました。
 それは日本のテレビ局と番組契約し、しばらく東京に住むことになってからのことであります。当然のことながら外国人の本能で、異国へ居住すると決めた時からその国の文化や慣習を学習することが(上手にコミュニュケーションする意味でも)重要になって参ります。元々レスリングで度々日本へ来ていたので日本語が少しはわかります。「ダマレ」「ダイジュブネ」などと試合中に声をかけるのを覚えている人がいるぐらいです。
 彼の日本語修得は異常に早く、1年も経つと簡単な会話ができるようになりました。その時、周囲の日本人は大声で笑い「おい、日本語が巧いじゃないかい」ともてはやしたそうです。よく見かけるでしょう、町中で外国人が「はい、おはよ」なんて口にすると大変です、「まあああ、貴方、日本語お上手ねえ」といっておべんちゃらをいいます。相手が喜ぶのを面白がるのは悪趣味ですね。私はアメリカで「Hi, How are you」といって誉められた事は一度もありませんよ。
 さて、やがて番組の打ち合わせも日本語でわかるようになると「彼はもう日本人だぜ」と笑顔で受け入れてくれ、難しい言葉は何度も繰り返して教えてくれたそうです。そして数年経つと彼はもう立派な外タレとなり、どこでも日本語で会話をするようになる。「デス(彼をこう愛称していました)、もう日本人並みだねえ」と応え、彼のことを外国人として見なくなったそうです。「とても誇りに感じたよ」とその頃を思い出しながらデストロイヤーはポツポツとそう呟きました。
 とまあ、そこまではよかったのです。である時、どこかのロケ先で仕事の終わった後に新規番組のことが話題になった。まあ、おんぼろ宿屋のふるびた畳敷きの大広間を想像してみて下さい。 
 撮影が終わってひと風呂浴びて、浴衣かドテラを着たままトックリ片手にいい気持で夕餉を頂いていたのでありましょう。酒に酔い、撮影終了の安堵感で満たされた室内には艶ぽい女給がここかしこにはべる・・・という感じだったのでありましょうか。(そういう所へはいきたいな。)
 つまらん失敗話に腹を抱えて笑うことしばし、やがてそれにも飽きてきた頃に、誰が思い付いたのか話題が番組作りに入ります。色々な人が様々なアイデアを持ち出していた時、ふとデストロイヤーの存在に気づいた誰かが彼に意見を聞いてきたのです。その時、彼がなにを話したのか、思い出すことができないのだそうです。ただ別に難しいことや批判がましいことではなく、ごく当たり前の常識的な発想を述べたのだそうです。そう、他の誰もが考えそうな・・・そんなことを日本語で語りだしたのであります。
 するとどうでしょう。それまで満面笑みをたたえていた年輩の者が急に不快な表情をし、すっと起ち上がり席をたったのです。居合せた者も気まずそうな顔になり、無論笑顔などみせずに顔を背けた、おそろしい静寂が辺りを漂い、何か面倒なことが襲ってきそうな雰囲気が誰の表情からも窺えました。
 デストロイヤーはその瞬間に何かまずいことをいったのだ、と後悔しました。しかし何が「まずいこと」なのか知らないので謝りようも弁解のしようもありません。ただそこに存在していることだけでも悪いような気分になったのですが、かといってその場を立ち去るには更なる勇気を必要としました。「日本人全部が敵に成った」と錯覚するほどの雰囲気だったのであります。
 その時以来、デストロイヤーは日本語を話すことに躊躇するようになったのです。外国人は日本語がわからないからこそ面白く、いい人物なのであって、並みの日本人よりも日本語が上手なのは掟に背く事になることに気づいたのでした。それを「島の掟」といいました。これは日本語という言葉の問題ではなく、日本人の輪というか集まりの中にある暗黙の結束、ということなのであります。他所者が立ち入れない結束というのがあるのであります。コミュニュケーションを積極的に図ろうとしない、人との交わりを積極的にしない民族性、いつもコソコソと裏で打ち合わせをしているような不気味な結束、こういう陰湿な結束がある限り、日本人は決して国際人にはなれないのであります。

 掟には幾つかの理屈が要ります。物事を上手に動かす為の手段として、規律とか規則とかを合議の上でそれを作りそしてそれを全員が守る、これも掟、というか決まりみたいなものです。
 そしてもう一つ、長年培って来た村社会の仲間意識による互助関係と利権が絡む怪しげな空気、従わない者、従わせたくない者を排除する集まり、不愉快なことが生じたらそれと堂々と戦うことを避け、むしろ肩を叩き合って互いを慰め合う、あうんの呼吸、暗黙の了解が優先する集まり、これも掟であります。それが「村の掟」です。
 この話にハタと気づいたのが、家内が勧めてくれた筒井良隆さんの著「熊の木本線」にでてくる村の掟の話。著書には主人公が偶然訪れた村落の葬式、遠慮する彼を村人全員で迎え入れ、仲間の一人のような扱いをしてくれる。その席上で(相手が嫌な顔をするといけないからという配慮で)求められるままに伝聞の村歌を唱った、その時村人全員が腰を引いて露骨に嫌な顔をした、というストーリー。主人公は無論、なぜそうなったのか、がまるでわからないのです。
 もっともこれと似た話は日本どころか、グアムにもあるほどだから、おそらくアジアの田舎にはよくある風景かも知れません。人が住み着き、人が群れ集まりだすと必ずそこには親しみが芽生え集団となり、やがて目にはみえない結束というものが作られ、損得勘定が発生し、他者に対して見えないバリアーを張り巡らすものです。少しばかりアカデミックであれば彼らはお互いが住みやすくなるように、と規律や規則を考えだし、これを守るための役割を決めます。しかしこれがあると、かえって規則が邪魔になってくる集団もあるのです、で彼らは権益を守るために公の規則を排して自分達流の社会と規律を構成していきます。これが「村の掟」となります。3流映画に時たま出て来るシーンの一つ、田舎のバーとか寂れた町中へ、孤狼の風来坊や都会のカップルが入って来るシーンを、あのシラ~とした雰囲気を。動物よりも人間の方が怖い生き物なのであります?

 掟のいいところは全員が一丸となって価値観を共有できることです。さらにその価値観を維持する為にこれを侵害する者を一丸になって排除したり差別したり、閉め出すことができることできることです。つまりこの組織に加盟しておれば身の回りの暮らしに政治的な配慮が要りません。その替わり、組織の決めたことに不満や疑問があっても反対ができません。個人の匂いが介入してはいけないのが原則だからです。
 掟は古参の者を中心に暗黙の了解と利権によって成り立ちます。ですから正義といってもこの世的な正義、彼らが「そうでなければならない」というものであって、彼らが「こう」と決めたもの以外は余程の圧力と屁理屈がなければどのような良識や情義があっても通用しません。頑固なのです。公式の組織ではないので、暗黙の秩序を維持する為に、威圧と排斥はこの掟を死守する意味で非常に大切なツールであって、もし何者かが掟に不満や疑問を抱き、あるいは不平をいえばすぐさま「村の掟」を使って心理的な迫害を与えます。完全に消え去るか大人しくいうことを聞くまでそれは続きます。ですからそれはどういう理由でもいいのです。理由がなくても(不愉快という)感情があれば仲間が結束してそれを実行できるのです。だから掟が重要なのです。

 こう書いてきて、フト思いが走ったのが戦前の陸軍首脳のこと、彼らが造った掟のことでありました。日露戦争から続いた日本軍の中国大陸との関わりと太平洋戦争への導入の過程で、陸軍はノモンハン(中―露国境)で戦争を仕掛け大敗しますが、その頃から始った「陸軍の掟」は、「独善と驕慢なる無知と底知れぬ無責任」(半藤一俊利著「昭和史」)によってしっかりと構成されていきます。陸軍の創造した組織は日本政府の中にもう一つ政府があるようなもので、唯我独尊の極みでありました。彼らの内輪の軍人が起こした戦争(事件)誘発という大問題の責任者はマアマア、ナアナアで済ませ、正論をもって反論する幹部には容赦ない前線送りという陰湿ないびりだしによって恐怖を与えました。「陸軍の掟」にしなだれがかって、彼らの言いなりの記事を書いたのが当時の大新聞、毎日や朝日で、彼らの中にも掟がありました。ですからこれは日本人的な発想なのかも知れません。掟は空気みたいなものですから言い出しっぺの責任者はおりません。空気ですから高気圧や低気圧があるのです。そして常に酸素不足がちです。
 掟というのは仲間内の結束ですから、それは組織というよりもただの雰囲気であって、見たり聞いたり触れることはできません、ただ感じることはできます。不信感を抱いてそれを質すにも相手が見えません。抗議をするにしても相手がいません。しかし無視すると変な圧力を感じます。それが視線であったり無愛想な態度にでたり、あるいは露骨に顔を背けたりします。あるいは突然移動を命じられたりします。デストロイヤーが感じた豹変とはこのことです。

 掟には自ら求めて入ることはできませんし要領の悪い者は論外になります。ですから腹の座った正義漢は間違いなく彼らの標的にされました。陸軍の場合は親米英派の将校、天皇の側近あるいは海軍将校の悪口を一杯いっていれば大体が受け入れられました。要は掟仲間が好まない風潮や習慣や集まりや人物が標的なのであります。その癖彼らは絶対的権威に極端に弱い、高級官僚やインテリジェンスに弱いのであります。陸軍大臣は天皇陛下に対して子供のようであった、と目撃者談があります。子供のように幼稚稚拙、という意味であって従順素直という意味ではありません。むしろ全く逆で、「陛下の赤子」を装っていたのでありました。当時、彼らが陛下に差し出した報告書がどれほど出鱈目で真実でなかったかの記録が沢山あります。嘘ばっかりを報告をしていたのです。狡猾だったのです。彼らこそ真の戦争犯罪人なのです。

 デストロイヤーの場合、日本語は審査基準ではなかったのです。だから掟に入りたければただひたすら謙虚さを装って、エヘラエヘラと笑っていればよかったのです。プロレスラー、デストロイヤーであれば良かったのです。そうすれば彼らは彼をいつまでも下に見、いい気持になって彼に「おいデス、日本人とはだね」とかなんとかいって、偉そうに講義をし続けていたことでありましょう。そうすれば劣等感の痛み、根拠のない優越感の不安から一瞬でも目をそむけさせることができたからでありました。弱点に気づかれないで済んだからであります。
 デストロイヤーはインテリジェントだから、排除される前に掟の壁に気づいたのでありました。知り過ぎるといけない、変えようとしてはいけない、仲間と思ってもいけない、かれらの世界に入ろうとしてもいけない、勿論反論など絶対にしてはいけないという壁に気がついたのであります。いわば外国人の目で、掟が欺瞞の世界に見えたのです。欺瞞とは人の目をあざむくことです。始末が悪いのは、その欺瞞の世界の正体を暴かれるのを恐れて時々笑顔を見せることがあります。これで多くの善良なる民は勘違いを起こすのです。「ああ、自分の思い過ごしだった」と。

 デストロイヤーが今もって覆面をするのは、掟に入れなかった負け惜しみではなく、むしろ陽気な世界の人物、正体がわからない謎ばかりの人物として、いつまでも人を喜ばせ、楽しませたいからなのでありましょう。皮肉なことに今となってはその逆に、我々の方が、掟を拵えた為に壁を造り、今もって彼の正体を知らず、誰と話しているのかさえわからないのであります。
 奉仕活動で地域の住民に愛されているデストロイヤーは生活においても心においてもリッチな人です。人々が仕合せを感じるのは、心においてリッチな人が周辺にいることです。そして大夢や希望が人の心に感染して人々をリッチにしていきます。彼らは「島の掟」など決して作らないし考えようともしないでしょう。それが正常だからであります。  

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Posted by kenhagaguam at 17:43

2010年12月31日

今年も御世話になりました

 お元気でいらっしゃいますでしょうか?

 色々なことがあった1年でありました。
皆様にはどのような365日でありましたでしょうか?
まだ後少し残りがありますが、最後の一歩が大切なのだそうです、
油断して足を踏み外すからであります。

 どうか稔りある新年でありますように心からお祈りします。
来年は沢山面白い話をしましょう。

 様々な支援を感謝して。


トレッキングガイド達です。アサンにて
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Posted by kenhagaguam at 23:30

2010年11月29日

音は心を磨くのだ・・・の巻き

 前に言葉について感じていることを書きました。この稿では音の不思議について書きます。
 私はヘタクソなのにカラオケが好きです。家内も好きな方で昔、東久留米に居た時はよくカラオケに二人で行き、何時間も歌いまくったものでした。勿論、相手の歌を聞くのではなく、ひたすら己の美声を楽しむためであります。私は謙虚ですから生意気なことや理屈はいいません。ですから好きな曲は必ず楽譜に目を通しておく、などと人前ではいいません。「この人はプロだな」と相手が臆してしまうからであります(これ、冗談なのですが、これをまともに受け取られると前に進めませんのでよろしく)。カラオケに行くと時々上手な人に出くわします。悔しいから「音符を読めないくせに」とか何とか、欠点でもあるかのようにいいつらね、自分の慰めになるように腐します。悔しいので欠点を見つけるというのは、つまり皮肉れているからであります。音符が読めようが読めまいが上手な人は沢山いて、この頃は腐すのも面倒になってきて素直に認めることにしました。相手が上手なこと、そして自分がいつまでたってもヘタクソなこと、をです。

 カラオケはいいですね?とにかく大声を出すので喉にも身体にもいい。酸素が走るので呼吸にも血流にもいい。とにかく自分の美声に酔えるのだから精神的にもいいのであります。この頃は安でのカラオケ屋が沢山あるので予算を考えて唱う必要もないからいいですね。
 カラオケといえばその昔、日本テレビの仕事をしていた頃のことでありました。
 当時「世界びっくり大賞」という番組制作に携っておりまして、番組収録を終えると制作プロデユーサーとスタッフ、そして出演したタレント達と食事に行き、そのままカラオケに立ち寄ります。その頃デビュー当時の「うっちゃんなんちゃん」とか山田邦子さんなどに勢いがあり、こういうタレントに三波春夫さん、南田洋子さん、星由里子さん、小林幸子さん、近江俊朗さん、金田正一投手、ガッツ石松さん、山本直純さん等々結構多彩な方が混じっていました。番組プロデユーサーの顔の広さとジャンルを超えて集めた結果でした。ま、おそらく読者はこういう顔ぶれと名前には記憶がないでしょう。それでいいのです、遥か昔のことでありますから。ただこういう時代があったのだ、ということでよろしいのです。

 さて、カラオケで感動した話を2題。
 三波春夫さんはカラオケが大好きだそうで、地方にでかけるとよく場末のカラオケバーなんかに入っては他人の歌を唱う、のだそうです。勿論、取り巻きやスタッフが一緒の場合もあればたった一人ということもあるそうです。ある晩、店に入っていたら、客の誰かが自分の持ち歌を唱っていた。酒が入っていた所為でしょうか、その素人客は余り上手ではなかった。ご本人にいわせると「ひねりというかこぶしが薄い」と感じたようです。まあ三波さんも長い地方公演の終わり、千秋楽を終えてほっとしたのでしょう、付け人相手にいわずもがなの一言をいってしまったが故に周囲の客が騒ぎだした。騒ぐと行っても天下の演歌歌手、三波春夫の行く店でありますから場末で酔っぱらい達が屯す場所ではありません。美女とやりて婆がわんさかといる常連相手の店なのであります。
 三波さんは外出する時は、あの派手な顔とキンキラな衣装など着て歩きません。昨今の目立ちたがりやのジャリタレとは違うのであります。ちゃんとサングラスをつけ、ベレー帽を目深に被り、高級だけれどその場に似合わないトレンチコートなどを引っ被っております。ま、これだと却って目立つのですが場所が場所だけに仕方がありませんね。
 さて、騒いだ客は何を勘違いしたのか三波さんの付け人に向って「ではお前が唱ってみろ」とまあこう駄々をこねたのであります。すると三波さん「私がやりましょう」というとスクット立ち上がり、マイク片手にあの「ちゃんちきおけさ」を唱ったのであります。当然のことながら周囲は唖然、呆然、ただ聞き入るのみ、といったところでありました。ま、笑えるのはこの歌い手が本物の三波春夫だということにそれでも誰も気づかなかったところです。中には「いいねえ、アンタ、それ本物よりも巧いよ。歌手になっても喰って行けるよ!」と励ます人もいたそうで・・・。

 私が三波さんに感動したのは、番組でパネラー(意見感想をいう人)出演していた関係で、毎年年末になると恒例の年忘れパーティにご一緒していた時のことです。
 ゲストの挨拶で三波春夫さんは自ら中国大陸から引き揚げてきたこと、そして韓国では大変に世話になったことなどを、しんみりと語りはじめ、一同聞き入っていたその時、フト思いついたように韓国民謡の「アリラン」を音吐朗々と唄い始めたのであります。カラオケではありませんぞアカペラ(音楽抜き)なのであります。「アーリラン、アーリラン」という調子で楽しそうに唱います。いやはや驚きましたね、その声量といい響きのいい音声といい、居合せた一同、まさに「ビックリ仰天」でありました。本物の歌手、そして本物のエンターテイナーとはこういう人のことをいうのでしょうか、私はこれでも在米中に結構プロの歌手と知りあい、そのステージなども拝見してきましたが、その美声はニューヨークのメトロポリタン・オペラハウスで堪能した歌手の美声より遥かに豊かな快感と情感を脳裏に焼き付けることができました。三波さんのことを国民的歌手と称するそうです。いつもにこにことして穏やかな三波さん、一度ここグアムで是非唱って頂きたかった。オリエンタル歌手の奥深い美声にきっと酔ったことでしょう。

 それから山本直純さんのこと。この名を聞いてピンとこない人が増えているようです。素晴らしい方だっただけに残念であります。この山本さん、もっとも得意としていたのが「男はつらいよ」でありました。そう、寅ちゃんで有名な「男のつらいよ」の作曲者であります。だから何かと言うと直ぐに「男はつらいよ」なのであります。これは山本さんから直接お聞きした話ですが、山本さんの同期生であった今や世界のオザワといわれて久しい小沢征爾さんに「俺は日本の歌謡界に残るからお前は世界へいって活躍して欲しい」と言葉を交わし送り出したそうです。2人共日本が誇る音楽家であります。お二人の先輩に岩城広之さん、その上には黛敏郎さんという作曲でも指揮者でも超一流の音楽家がおられます。日本という国はこの業界でも一流が多いのです。
 
 この山本さん、私がいると必ずバーに誘ってくれます。飲んべえなのか、それとも時間潰しが目的なのか、当時業界の名物プロデユーサーといわれた梅沢勝哉さんと必ずどこかへ飲みに行きます。まあ、飲むというよりダベリに行くのですね。(梅沢さんは「恐妻家だからだよ」といっていましたが、この方も恐妻家だからわかるのかも知れません)
 ある収録が終った夜のこと。スタジオ近くのこじゃれたバーに立ち寄り、収録の四方山話をした時のことであります。山本さんは決して場所柄をわきまえぬような振る舞いをしません。いつも陽気で周囲の人も巻き込むほどに話好きな方です。その日は収録がうまく運んだこと以外に、何か特別にいい事でもあったのでしょう、バーの真ん中にドンとあったピアノの前に座るといきなり曲を奏で始めます。幾つか知った音楽のフレーズを奏でると、やがて「男はつらいよ」の主題歌を自らピアノを弾き、そしてボソボソと唄ったのでありました。いい感じでありました。哀感が漂っておりました。なんというかしみじみ唱われると哀愁のようなものを感じましてね。陽気になるどころかしんみりとした気分になったものです。男はつらいのです。そう男であれば誰も彼も・・・。

  音楽といえば音、音には色があるそうです。音色とはよく言ったものですね。
つまり次は、我々現代人がいかに音に疎くなってしまったのか、鈍感になっているのか、という話題であります。その時代、学生運動が過熱するまでのその時代、日本という国はゆったりとしていて、クラッシックが町中や公共の場、校庭などに流れていたものです。
 プロというのは格段に秀でたものを持っていて、それが必要な要素と触れ合うと微妙な化学反応を起こし、やがて想像を絶する偉大な能力を産み出すものらしいですね。プロの凄みはそれを携えているそのこと事態に気付かないことです。かつてはそういう強烈な個性をもったプロと接触する機会があったお陰で少なくとも音楽に関心を深めることができました。
 私がニューヨークに居た頃。恩師であった神戸出身の北村光庸先生は音楽、それもオペラ、クラシック畑の教諭でしたから音楽一般について教わる事が多かったです。最初に楽譜を習ってから・・・と書きましたが「音符を読めて始めて歌が唱える」という堅苦しい注文をつけたのがこの先生でした。
 この先生とコンサートに行くと公演の最中に涙を流すのであります。弱りました。先生は「音には色があるんだ。その色を楽しめてこそ音楽の深さがわかるものだよ、君」といわれましたが、残念なことに色盲の私はそれが見えません。
 先生は「ミュージックには色気もシャレもジョークもあるんだよ、それがわかれば立派なミュージシャンだ」ともいっておられました。深いですねえ、音楽の世界は。楽譜を見ているだけでそれがわかり、それだけでも楽しくなる、のだそうです。ただ子煩い音を出し、変梃な声、しわがれた声、がなり立てる声がないとミュージックでないと思っている音痴が多い昨今、音の本当の美しさを継承する人はいるのでしょうか?本物の音楽というのが次第に廃って行く原因はどこにあるのでしょうかね?演奏会場の問題、プロを養成するのに多額の費用がかかること、も確かに大切な要因ではありましょうが、私はそれよりも音に対してそれを聴き分けることの出来る耳、音色に反応できる感性をもった観客を産み出すことの方が大事だと思っております。本当の音楽を演奏しそれを聴くプロの観客がいなければ、それは単なる音楽ごっこみたいなもので、それでは音楽が可哀想です。つまり偽物ミュージシャンで巷が溢れ出します。
 これは演劇などのライブステージにも共通していることですが、演者を育てるのは技術よりも優れた観客の批評によるのであります。ということは観客一人一人、日常から本物に触れる機会を持っていないと秀と愚を見分ける力量が育たない、ということになります。そしてそれはなにも特別な訓練や環境を必要としないで、ただただ世の中の騒然としたざわめきや騒音の中からきちんと響いてくる音を探しだす心と情感を露に鍛錬すればいいだけのことです。人は誰でもがいい観客であるのですから、要はアートを身近に感じる素養の有無だけが大切なのですね。
 北村先生はクラッシック音楽の場合、その楽団の中で演奏している一つ一つの楽器の音色を探し出せ、といっていました。耳を削ぎ澄ます工夫だそうです。するとその楽器の置かれている意味とハーモニーがみえてくる、というのですね。先生はレナード・バーンスタインというアメリカ最大の指揮者の下で学んだ人ですから先生流の「音」には一言、うんちくがあるのです。これって、何も音楽に限らず、人を鍛錬するのにもいいですね?多くの声の中からきちんと聞こえてくる人の声を聞き出す、というのは。  

 音の世界。よくいうではありませんか、昔の風景は音から始まる・・・と。
 朝の牛乳配達の自転車と、牛乳箱に入れるとパタンという音。遠くで電車が走っている音、サンダルを引きずるように歩く年寄りと犬の鎖、大人の靴音。家内では布団を畳んでいる音。夕刻時に干しておいた布団をパンパンと布団たたきで叩く音。豆腐売りのラッパ、犬の泣き声、雀の喧嘩、今思えば、時に煩く感じたあの音も、もう遥か昔の懐かしい思い出になってしまいました。こういう音を味わった人はそれだけで人生に豊かな時間を体感しているのですから歳をとるのはそう悪いことではありません。

 世相がかしまく、世間が小賢しいことに振り回されてくると心の中の穏やかさが損なわれ、気持ちが落ち着かなくなってきます。冷静を務めようと思いながら我欲が表に浮き出てきます。音といえば喧噪でしかなく、音楽といえばかしましいだけ、都会から、音が醸し出す情緒というものを味わう機会が次第に減って参りました。寂しいことです。

これは戦後しばらくしての日本の風景です。

台所のまな板から聞こえてくるサクサクトントンという(母さんの)音
居間から聞こえるケラケラハハハと笑う(子供たちの)音
書斎で本のページをめくるサラサラという(父さんの)音

音には風情がある。
音には情感がある。
音には愛情がある。
そして、人にも音がある・・・。  

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Posted by kenhagaguam at 18:18

2010年11月24日

支離滅裂への道

 柳田法務大臣が失脚しました。彼の発言の裏には官僚がこしらえた台本通りに読み上げたのだから(自分の所為ではないのだ)、といいたげな発言がありまして、人間55才にもなって自分の置かれている立場がわからないのに呆れました。彼を選出した管総理に責任がある、ということですが、何と申しましょうか、誰かれというのではなく、昨今大人の癖に子供のように振る舞い、戸惑い、言い訳する社会人がよく目につきますね。これは教育の所為だけではなく、日本の社会全体が未だ「幼い気分」から脱却していない証拠なのでありましょう。こちらの方が深刻であります。
 民主党政権のハンドリングは(世界の濁流に呑み込まれ)あがいている世相そのものだとは思いませんか?こういう悲惨な情況を外からワイワイ非難できる立場の自民党はきっと救いを感じていることでしょう。敵失を指摘していれば株があがる。でもその自民党によって、政治不信へ向かっていったことにどれほどの代議士が気付き責任を感じていることでしょうか。族議員と地方の行政者との癒着、官僚が代議士をあざ笑う風潮、至るところに見られる不公平といびつな優遇と優待、アメリカに依存しておきながらアメリカを把握し協調できない軟弱な外交。そのどれをとっても解決できないで、やがて世間の失笑をかい同時に信頼を失っていったのが自民党でした。これに嫌気がさして脱党した代議士は立派です。少なくとも自己主張を体現できるカードを手に入れたのですから。

 民主党はしかし完全に馬脚を現しましたね。柳田大臣よりも遥かに危機感を抱いたのが仙谷氏の「暴力装置の自衛隊は・・・」という発言。彼、そして彼の同志に共通した国防(というか日本という国家)に対しての潜在意識が露骨に表れています。彼は自衛隊が嫌いなのです。そこら辺りの女々しいおばさんの発言、戦争を誘発するかも知れない自衛隊の存在に対しての脅威、という意味合いとは遥かに異なって、(日本の)軍隊が嫌いなのです。彼らは護国を標榜する菊と刀の論理が嫌いなのです。それと武力を共有しているアメリカが嫌いなのです。 
かつて学生時代に体験した反米親中という思想から一歩もでていない、つまり単なる左翼主義者だったのです。ひねくれ者なのであります。こういう集団が日本の有様だ、と友好国に誤解されるのが恐ろしいのであります。
 それにしてもなんですね、こうあからさまに自衛隊が否定されてしまうと身の置き所がなくなって困ります。つまり我々は亡国政治家による非愛国的な政治の下で生殺与刹の権利を左翼の手に渡しているようなものではありませんか?そしてなにが不幸といって、自民党や脱党した代議士がそのまま仙石氏を泳がせていることであります。世間も相変わらず緊張感をもたずノホホンとしている。益々不安になりますね。
 考えてみれば、彼らの真意を探ればボロボロと本音と作為が見えて来ます。あの尖閣諸島、北方4島への対応がどうみても日本人の利益にならないのに、言葉で逃げる、言葉でかわす、屁理屈をいって相手をへこます、これはまるで左翼の常套手段ではありませんか。
ですからこういう場合は、左翼の連中を中国政府と同じ目線と雰囲気で置き換えてみると容易にその目標となるものが見えます。いってみれば共産国家中国は日本という国が嫌いで、であるからその目線でしか日本人を捉えない。一方的であり変質的でありますがこれは仕が方ない。我々も同じようなものでしょうから。 
 
 しかしいえることは、前の尖閣諸島への不法侵入や中国漁船による巡視船攻撃の時に見せた様に、中国を恐れて擦り寄り、彼らの主張を容認し、自国政治、国民に不利になるように導いているかのような印象を与えているのはどうしてでしょう?管総理自らが考えや言葉を失い、その場を取り繕う姿に失望すると共にそれが民主党の姿であるような気がし、愕然としたものであります。つまりこの人達はこれまで国内の台所政治こそが政治の総てのように思いつき、なにか事ある度に自民党を突いて来ただけだったのでありました。金持ちを憎み、貧乏に大袈裟に同情してみせるような政治こそが大衆政治であるかのように錯覚していたのでありましょう。大人でなかったのです。
 早い話が、教育をとっても国民、とりわけて「将来に向けての人創り」は子供に現金配布や無償教科書を与えることが重要な手段なのではなく、自力を失ってしまった、あるいは失いそうになっている原因をこそ考えるべきであったのです。ただただいかにして誇りをもてる国民にできるかを真っ先に考え教えるべきであったのであります。自民党が金銭癒着で動きが取れなくなった時こそいい機会であったはずです。自民党の中にも努力した政治家が沢山いました。安倍総理は「美しいニッポン」と提唱しましたが、すでに「美しさが奈辺にあるのか」も知らない国民には十分なメッセージではありませんでした。人民達の「喰った、喰わない」という大事ではあっても次元の低い話題(台所民主主義)ではない、もっと未来を予感させるような、国民が国家を愛し歴史に誇りを持てるような、日本人でよかった、と思わせるような指針を示すべきであったのです。壮大な理想国家を示すべきだったのであります。

「自衛隊は暴力装置だ」と公然といわしめるような政治家に政治をさせてはいけません。そこには国家護持のために連日生命を張って活躍している隊員への思い遣り、愛情というものが微塵も感じられません。同時に仙石氏の目線の先には、かつて護国護持を信じて死んで逝った兵隊(一般国民)の悲哀に関心などないのかも知れませんね。ただ帝国主義国家に騙された哀れな犠牲者ぐらいにしか思えない、ただ憎きアメリカ人の青い目ばかりが気になっていたのでしょう。長い間(露骨な社会主義者であるという)存在を知らしめまい、と意識を穴蔵に押し込めていたような人ですから決して失言などというものではありません。「暴力・・・」という言葉の裏には自衛隊に対する憎しみと嫌悪しかなかったのでありましょう。そう、一般大衆の多くがそうであるように、です。
 仙石氏は自衛隊が、ひいては彼らが護ろうとする国家国民が嫌いなのでありましょう。かつて日本にはこういう人物に天誅を与える右翼的な考えをもった人間が多々おりました。戦後66年の太平な世の中ではこういう過激な人間はもうでてこないのかも知れません。だから政治家は生命がけで考えることなく、物をいわず、行動しないようになりました。そう政治はゲームの一つになったのであります。とても残念です。  

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Posted by kenhagaguam at 18:17

2010年10月01日

黙して語らず、語らずして理解されず

 戦争で酷い目にあったことから国民は、過度の愛国心を感じると、それがそのまま偏狭なナショナリズムをひき起し、やがて他国と摩擦を起こしかねない、と皮膚感覚のようにそう思っているようです。確かにそれはその通りで、他国、隣国に思いやりを持たぬ様な国家は国際間で顰蹙をかい信頼を損なっていきます。無論、隣国の北朝鮮や中国のように武力や資源力という圧力を誇示して信頼を蹴散らす国家もありますが、いずれ雪だるまのように大きくなり過ぎて自滅してしまうのでしょうし、それを望みます。
 
 私は国民が「国としての誇り、民族の誇り」を軽んじ過ぎると、いつか必ず他国と摩擦を起こし、やがて知らぬ間に自滅していくだろう、という別な予感をもっております。自国民族に誇りを持てぬ民は国の存在も含めて自虐的になり、やがて敵国に媚び迎合し、いつしかその文化や伝統という形態だけを残して吸収されてしまうものです。歴史がそれを証明しております。
 戦後65年という年月は国家や民族性という、その国、国民にとって大切かつかけがいのない価値を、無意味で危険で不愉快な存在に貶めてしまいました。国家を語るのを避けるのは、かつて我が国が太平洋戦争に突入したことに端を発し、敗戦後の惨めな境涯と体験から得た教訓のようでありました。それからの我が国、我が国民(とりわけてその代表たる政治家)は国家について語ることを恐れ、民族について触れることを避けてきました。いわばトラウマのようなものであります。これは戦前・戦中世代が、あるいは戦後の団塊世代までが完全にこの世からなくなるまで続くのかも知れません。つまり私はそのトラウマから解放された日本の姿を見る事ができないことになります。
 しかしながら僅かとはいえ、純粋かつ情熱的な国民の中には、いかに国家の尊厳を無視する風潮があろうとも(あるいはさせようという圧力があっても)憂国の至情を押さえ難く、じっと身を屈して目立たぬように努めてさえ、じんわりと湧いてくる憤怒を押さえることができないでしょう。個人よりも民族に屈辱を与えられることをもっとも堪え難い、と感じるのは多少武士(もののふ)の心をもっている人であれば実感できるものであります。

 いうまでもなく、ここで取り上げるのは沖縄県三重山郡の尖閣諸島を巡る中国と我が国の領土の領有権のことであります。
 この事件、ここ数年来の異常ともいえる経済上昇の上げ潮に乗り、東南アジア諸国を経済力で押さえつけ、欧米諸国を睥睨するようになった中国。横柄であります。かつて日本経済が世界で1〜2位を競っていた時は、我が国は(敗戦国家という事情もあって)彼らほど尊大ではありませんでした。謙虚さが美徳、教養があったからでありました。しかし遺憾ながら、その日本の経済力も次第に影を潜め、今やなんと900兆円もの借金を抱える国家に転落し、中国の経済ラッシュに呑み込まれ右往左往しているのが現状であります。情けないとうかなんというか、近年の意識調査を見るまでもなく、中国人はなぜか昔から日本が大嫌いな民族でありまして(お隣の韓国も同様)、その国を相手に銀座のバーの姐ちゃんよろしくやたら媚びへつらい、自分が生きて行く為、ただひたすらビジネスの為にと面従腹誹の思いで付き合っているように見えて哀しいのであります。そして、何が不幸といって、彼らはそういう見え過ぎた腹を知っており、それまでいかにも「良き隣人」風を装いながら突然豹変、強烈な自己主張でもって当方を混乱させているのも事実なのであります。姐ちゃんのわざとらしいおべんちゃらも、小馬鹿にされるのがせいぜいなのであります。

 この尖閣諸島の話題は明治時代から湧いておりました。戦後、当時政府与党自民党の政治家達が何を気にして確認を怠ったのか、いうべき機会が多々あったにも関わらず口を濁して触れて来なかったことに最大の原因があります。
 日本は国連加盟の国際国家であるから国際政治をモットーとする。自由主義国家である、とまあ聞いた感じは口辺りがよろしいけれど、そう信じているのは日本の政治家だけでして、どの国も自国の利益、自国優先しか考えておりません。そこら辺は大変品がないのでありまして、他国のことなどどうでもいいのであります。
 双方話し合いで解決しよう、時間をかけて対話していこう、と民主主義を装って、本質から外らせようとする政治家、評論家がいますが、そもそも「尖閣は我が国の領土」とわかっていて、なぜそれを隣国と協議する必要があるのでしょうか?説明すれば「ああ、そうかなるほどね」と納得合点してくれる、とでも思っているのでしょうかね?ここはきっぱりと「我が領土であって、協議の必要はない」と撥ね付ければいいではありませんかね?
 それをいうと関係がおかしくなるから波風を起こさない方がいい、というのが日本的な発想ですが、相手からみると「一体何を考えているのかわからない。あんた方少しここが(頭を突いて)おかしいんとちゃう?」と見えるでしょう。

 今日もテレビでは日中友好とかで子供達が合唱やダンスの練習をしている風景を紹介しています。万博などでお披露目するそうです。その相手を信頼し期待している様が痛々しく感じました。また、中国政府の談話から輸出が少し解禁され、拉致補償のコメントも緩くなって来たので「お怒りが解けて来たようだ」とキャスターがいっていましたが、その口ぶりは、領土問題は全部日本側が起こした事件のようで、中国当局のメッセージに一喜一憂するマスコミの無定見ぶりが哀れでなりません。彼らは大バカ者でありました。
 民間交流の中には互恵友好関係もあるのでしょうが、今回の事件でも明らかなように表面上の友好になんの意味があるのでしょう。また共産国家が押し出して来る人民(嫌な言葉ですね、国民といわせない)が本当に友好を理解できるのか、私にはわかりませんし、想像もつきません。本音本心でものを言えない隣人、というのが今回の事件で露呈してしまったからです。
 こうなったら一方的な中国の権力に振り回されるのではなく、当方からも観光自粛、輸入制限、通関制限をしたらいいではないですか、政府高官の交流も無理しないでいいし、媚びる必要もない。まあ、そう私がおめいてみた所で「金に転ぶのが今の常識であり美徳」が昨今の日本人体質ですからこれは希望、ということにしておいて・・・。

 ところで、忘れてはいけないのが、前年に起こった「餃子に殺虫剤混入事件」。食品業界を不安に陥れたあの事件でしたが、あれだけ粛々と事実関係をつまびらかにし、証拠も揃えて中国当局に訴えたにも関わらず、それは日本の問題で日本がでっちあげたもの当局側に責任はない、と決めつけた。あの事件も与党自民党はきちんと正否を糾すべきでありましたが有耶無耶にされたままで中国の思うつぼにはまりました。結局、やはり地元中国人の犯行であるということが本人の自供で落着したのでありますが、公式正式な謝罪は一切開いておりません。こういうのを小馬鹿にする、というのですが、まあ、中国も酷い政府でありますが、日本の政府もだらしない。経済的な関わりを気にするあまりか、なぜ事の真相公表と謝罪をもとめないのか理解に苦しみます。何を遠慮する必要があるのでしょう、信頼を損ねられた場合、これを質し、公明にし、然る後に再び親交を深めて行くのが国のあり方で、それは日本以外どこでも普通に行なっているのです。沖縄県での米軍が惹き起こす様々な事件や事故についてはうるさくいう癖に、中国に向っては控えめ(というか殆ど音無の構え)というのは公平ではありません。いつも他人他国の目を気配りしながら自虐的に対応する政府、これでは国家の品格が問われます。

 日本という国家、戦後の悲惨な耐乏時代と臥薪嘗胆時代を経て、先人達の勇気と果敢な発想、燃え上がる情熱で今日、ここまで経済発展を造り上げてきた我が国。やがてその努力が稔ってアジアの代表にまで成長し、G7のメンバーとして世界会議では一目置かれるほどに尊敬され、アジア諸国(特に隣国)は日本(経済)に追いつけ追い越せと理想であり目標になっていたのです。しかしもはや日本はいけません。(政治的に)後輩であるアジア諸国を護る気概に欠け、金力と軍力で圧力をかけてくる隣国に対抗する戦略的な工夫も手段もなく、ただひたすら熱風が頭上を通り過ぎてくれるのを辛抱強く待っているだらしなさ、なのでありますから。
 こうして未だに国民に戦争のトラウマが拭い去られておりません。そしてそれがゆえに我が子孫に禍根を残すであろう、という不安を感じていないのが恐ろしいのであります。
 とまあ、そこまで考えてみて、思い付いたのが、常に「治に居て乱を忘れず、乱に居て治を忘れず」という諺でした。日本という国、国民、政治家はその点実に大甘であるような気がしませんか?  

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Posted by kenhagaguam at 14:24

2010年07月02日

どすこい人生で日が暮れて・・・の巻き

 私は自分ほど「日本好きな人間はいない」、と自負しております。
 でも偏狭な民族主義者ではありません。普通の人と同じように日本人であることに誇りを感じ喜びを感じているだけです。
 日本が好き、という理由は沢山あります。好きな中でもとりわけて文化を匂わせる伝統や風習に心をときめかすという、まあ、いってみれば「ふる〜いタイプ」の人間なのであります。

 その伝統を体現しているスポーツの一つ相撲について感じていることを書いてみます。そう最近の相撲界は問題が多いのでありますから・・・・。

 その昔、小学生だった私の時代は栃錦と若乃花の興隆期でありました。本来であれば東京産まれの私は東京都出身の栃錦を応援するべきところですが、若乃花ファンでした。東京人の熱狂的な栃錦の応援、時に贔屓の引き倒し的なところが嫌いだった私は、皮肉れて若乃花を応援していたのであります(ここのところは東京にいながらアンチ巨人に似ております)。それもかなり情熱的に、です。若乃花には都会人のような華はありません。物悲しく、切羽詰まったような表情、周囲の巨漢力士と較べて悲壮なほどに細い体躯は女性ファンのみならず、強ければ何をしてもいい、力は正義だ、などと嘯く世間の風潮に不快感を持っていた男性諸氏の心をも虜にしていたものでした。怪物のようなどでかい力士をなぎ倒す醍醐味は、差別と劣等感に耐え偲んでいる庶民を興奮させたものでした。
 しかも若乃花は強かったのであります。痩せぎすの体躯でありながら一度相手力士を受け止めますと、下半身の筋肉が急にこわばり根が生えたように地面に吸い付くのです。彼の技は柔道のそれと似ていて相手に相撲を取らせながら上手に自分の型に追い込んでいく、そして強靭な筋力や足腰で相手を投げ飛ばします。昨今の相撲は力任せの一番が多く、なんとはなく力士と一般人との間に距離を感じるのですが、その昔の相撲はそうではなかった、化け物に近い身体は珍奇の対象にはなったけれど、心底実力のある力士はお互いの相撲を引き出し引き上げる魅力を持っておりました。だから面白かったのかも知れません。
 若乃花の上手投げや呼び戻しを見る事ができた私は仕合せでした。あのように美しい技をあれから二度と見ることがなかったからでした。
 その頃、私達ガキ供はどこで遊んでいても必ず相撲をとったものでした。兄貴がいたお陰で、家で相撲をすることができ、技を教えてもらった所為か、学校ではいつも上の方におりました。だから余計に相撲が好きだったのです。
 その頃の相撲は若乃花と栃錦。双方いつも互角の戦いで必ず優勝にからんでもいました。それゆえに学校ではどちらが優勝するか、でいつも話題が盛り上がり、勝っても負けても互いを讃え合う余裕があったものです。本当に楽しい時代に生きておりました。

 若乃花が去り,大鵬が出現し「巨人、大鵬、卵焼き」などとマスコミによって面白くもないコピーが巷に流れ出す頃、私は一方の勇、柏戸のファンになりました。相撲が好きな私にとって、マスコミが一人の力士を取り上げ持ち上げ、煽り立てた喝采している様が嫌で仕方なかったのであります。皮肉れていたのです。でも大鵬も好きでありました。強いからではありません。相撲が奇麗だったからでした。美しい相撲、動きの一つ一つが絵になる力士でありました。こましゃくれだったのであります。でもそれだけでファンになれませんでした。

 初代若乃花の弟、貴乃花が関脇あたりをうろうろしていた頃、その彼のなんとなく頼りがいのない線が細く、いつ引退しても不思議はないほどの周辺には強豪力士がひしめいておりました。その中にあって淡々と相撲をとり、殆ど無言でひたすら相撲道を走る彼の勇姿にも魅せられました。この人は寂しそうな(悲壮な)表情をしていて、いかにも相撲一途な生き方、という気迫がみなぎっておりました。そしてとても強い、強かったのであります。彼が大関清国と対峙した時、大関に足をとられ持ち上げられたのにも関わらずこれを凌ぎ、凌いで最後に清国を投げ飛ばしたシーンを今でも忘れることがありません。やせぽちの貴乃花が美しい容姿の大関を投げ飛ばす光景は相撲の面白さそのものだったのであります。

 でも私の母は相撲が嫌いでした。人前で裸になり、太っちょな体躯をさらすのは醜悪だ、といって嫌っていました。母は裸体と褌姿をさらす競技に理解ができなかったのでありましょう。でも、その母がその晩年には貴乃花の息子である貴乃花、若乃花の兄弟をとても愛しておりまして、彼等の勝ち負けにとてもこだわっておりました。それまで相撲を小馬鹿にしていた母が相撲を見るようになったことがとても嬉しかったものです。
 母は相撲の世界の中に自分の人生や親子の情を感じていたのでしょう。二人の横綱が兄弟喧嘩をし(それもお互いの妻や両親が影響し合って)不仲になってしまった悲劇を知らずに母はこの世を去りました。母は二人が横綱になったことだけが嬉しかったのではなく、互いに切磋琢磨して自分より遥かに大きな力士を相手に、恐れず怖じけず向っていたその迫力を愛しんでいたのであります。男というものは時に自分より遥かにどでかい巨大な壁に立ち向かわなければならない事があります。現代人は小利口ですから「勝てぬ相手には立ち向かわない」といつも勝負を計算し打算でその場を凌ぐことがあります。というよりそれが一番利口な(正しい?)生き方なのかも知れません。薩摩武士の血を引く母はそれを一番嫌っていました。打算で動く人間を許せなかったのでありまして、この二人の力士を応援していました。若い彼等が巨大な壁に立ち向かう姿に凛々しさを感じていたのでしょうかね。

 あれから多くの取り組みを見ました。ニューヨーク時代も日本で貧困に喘いでいた時にも欠かさずに見ました。一人一人の力士の中に自分がいて、その時代、その風潮の中で健気に戦い抜く男の生き様をそこに感じとり、そこから勇気をもらっていたのです。
 相撲にはドラマがあり、その伝統的な所作、土俵、呼び出しなどには江戸時代に発足した日本人の美意識がそのまま体現されています。これほど日本的なスポーツはありません。そこには人間が表出する美しい動作、そしてそれを囲み込む形式の静かさがそのまま生きづいているのであります。そこには今でも日本的な神が宿り、日本的な所作が残り、そして日本人的な情緒があるのです。
相撲ほど多くの日本人に愛され鑑賞される日本文化の粋は他に見当たりません。

 さて、この頃の相撲界での醜事は不愉快を通り越し、怒りを禁じ得ません。あの時津風部屋新弟子なぶり殺し事件、横綱朝青龍の嘘の診断書事件と巡業のさぼり、その横綱の場所中の泥酔暴行事件、麻薬事件、関取による野球賭博事件、どれもこれもお粗末なことばかりでありまして、これをアブクのようなマスコミが取り巻き、面白がってやいのやいのと騒ぐから余計に相撲協会の幼稚さが露呈されてしまうのであります。
 私は人間が簡単にできているので処分は厳罰しかないと思っております。つまり関係した者全員の解雇です。情状酌量などの余地は全然持ち合わせません。彼等のこれからの人生や明日の収入なども考えません。失敗したらまた起ち上がればいいではありませんか。世間一般はそうして懸命に生きているのでありますからして。
 本来であれば朝青龍などは解雇、従って引退相撲はない、支払う金はない、と三行半(みくだりはん)を下すべきだと思っておりました。そうは思いませんか?これほど人をくったような青年は日本にだってそうはいません。麻薬をやった力士が首なら人を殴った横綱も首なのです。犯罪に軽重などないのが相撲界ではありませんか。であるからして今回の賭博事件も関与した人間は厳しく罰するべきだと思います、特に親方という部屋の教育者達全員に。相撲とは別のところで勝った負けたと情熱を燃やすとは何事か、子供ですら許されないことを特に国技に携る人間はやっては絶対いけないのであります。

 朝青龍事件の時に私は相撲界の在り方を考えるようになりました。日本文化を愛し、日本人であることに喜びを感じる私にとって国技相撲はある意味での心の浄化作用、癒しがありました。つまり相撲には日本的な匂いがたくさん漂っているのでありまして、海外で暮らしている私にはその瞬間だけ「ふる〜い日本」の中に入る込むことができるのであります。
 であるからあの小生意気な朝青龍が土俵の上で(情けないほど弱い)力士を不遜なまでに叩き付けなぶっている姿を見るにつけ暗澹たる思いでいたのであります。もう強いとか弱いとかいっている問題ではなく、単に勝ち負けという結果だけが衆目の的になっていたのであります。品格という形而上的なものは勝ち負けの中では存在しないかのようでありました。その勝ち負けがそのまま土俵の外でも生き続け、相撲界の重鎮であり功労者である親方連中を手玉にとっていたのでありました。情けない限りでありました。そこにはこれを叱りつけ諌める腹の座った親方衆の姿はなく、なんと申しますか、かつての双葉山や栃錦、若乃花のような戦前派の力士達、物事を損得以外で判断できた大人は一人もいなかったのでありましょう、きっと。つまり、最早そこには相撲が存在し得る価値は失われてしまったような危うさがありました。文化を金品の対象に貶めたらもうこれを育てる意義はなくなります。相撲という国技を日本国政府が関与し公益財団法人にして多額の資金を与えていたのは、無形の文化を維持存続させるため(これを資金的に行き詰まることがないように支援すること)であって、「勝った負けた」で「損した得した」、という次元にしてはいけないのであります。

 ざらっと見ますと、今の相撲界は日本そのままの姿であるような気がしてくるのです。国技々々といいながら実際は異種な格闘技程度に落ちてしまう危険から目覚めなければ本当の相撲の美しさは消えて行くことでしょう。日本の伝統を今でも維持し継続している文化的な華はどこにでもあるようですが、最早それも少しずつ減退し衰退しているような気がしてなりません。しつこいようですが、伝統や文化はビジネスとは異質な存在なのであります。文化的なものをビジネス(金儲け、嫌な響きであります)に結びつけようとすると必ずどこかで妥協し打算しなければならなくなります。朝青龍は日本人ではありませんでした。28才のモンゴル人です。日本的な慣習や文化や伝統的なしきたりを外国人に教えたところで日本人的な発想が化学変化のように発生し会得するわけがありません。私がアメリカ人になれないのと同じ理屈ですね。ただ見た目や動きが日本人的なだけでそれは贋ものなのであります。
 その贋ものが、本物に近づける創意と工夫と努力があってこそ、そして稔ってこそ異国人でも本物に近づくことができるのです。白鵬がその好例です。そして彼は彼自身が人として秀でた資質をもっていたからこそ違和感を持たれることもなく横綱に推挙されたのでありました。

 日本は、日本という国は日本的な情緒、素養、徳、心根の美しさというものを失いつつあります。この「的な」という深みは言葉や教義や訓練で感じるものではありませんし決して会得できるものではないような気がしております。一種の、昔から染み付いている匂いのようなものであって、日本人である、というだけで日本人であろうと努力しない限り、匂いを大事にしようとしない限り日本人らしさが失われていき、やがて少しずつ沈みいくような気がしております。日本人であろう、という努力が少しでもあれば、国技に携る者という自覚があれば博打なんかに手をだすはずがありません。また業界もそういう風潮に鈍感であるわけがありません。理事達は潔く辞職し、後輩に道を譲る方がよほど日本人的です。
 このこと、国技相撲に限らず、国民の税金で生きている職業人達、政治家、国家公務員役人の他、国事に携る官僚達にも聞かせたい言葉でもありまして・・。  

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Posted by kenhagaguam at 17:40

2010年06月18日

いやはやこのお目出度い人達よ・・・の巻き

 ついこの間華の都のニューヨークへ行きました。
 ニューヨークはこの5月が一番訪れるのにいい時期です。さわやかな気候とまぶしい太陽、それになによりも町行く人々に活気を感じます。ニューヨークは俗にいう「人種のメルティングスポット」であらゆる国々のあらゆる人々がグアーとばかり同じ場所に集まっております。あらゆる階層、あらゆる宗教、あらゆる民族が隣り合わせにいるのですから、世界中の魚が群れ泳いでいる大型水槽に紛れ込んだような気分になり、その環境と人に酔いそうになります。落ち着かないものであります。友愛精神などといったら笑われるのであります。

 アメリカとは不思議な国でして、その土地その場所に応じて人々の性格や慣習が異なります。西部では人は大自然に囲まれておおらかな生活になり、中部は天候が定まらないので粗っぽくなり、東部は環境の変化が乏しいから神経が細やかになってくる。ニューヨークはその東部の中でも最もユニークな場所ですから当然人もユニークにならざるをえません。もう理屈や道理をクッチャッベっている余裕などなく即行動に移さなければ大きな損をしてしまいます。ですから損得勘定を生き甲斐にしている人から見れば一瞬の間に状況を見抜き、直ちに反応して得になる側につけるように日々の努力と工夫がいるのであります。まあここら辺りは日本人も同じようなものですが、ニューヨークの場合はその中に度外れた金持ちと超対照的な乞食がその中に混在しているのでややこしい、こういう人種が混ざっている中で自分の生き方や方向を統一することはとても面倒なものなのであります。
 日本ですと貧しい暮らしをしていることが恥だと思い、であるからして貧乏が露骨にならぬように要らぬ神経を使います。着るものから食べ方、そして所作の一つ一つに気を使います。つき合い方にも支払い方法にも気を使います。昔の人は誇り高かったので自分を辱めることが苦痛だったのですね。私からみれば、貧乏していることは決して恥ずべきものではないけれど、でも窮乏時代は人からみれば意味のない見栄をはっていたものです。他人に気遣いさせたくなかったからであります。しかし貧すれば鈍するで、同情を乞うようなあざとい貧相な格好をする人が目立ち始めましたし、あるいはたいして貧しくもないのにわざと下品な格好や振る舞いをさらす人が増えてきて、この方が遥かに貧しい、と思うのであります。もっとも昨今、貧しさとは金品のあるないに関わらず人柄、品性の問題で、人が卑しくなってくると、「おい、めし食うか?」と小学校の女教頭が子供相手に声をかけるのが普通の風景になってきたりしています。まあグアム的といえばそれまでですが、いい歳をした女が立てひざつきながらそうのたまう姿を見て腰を抜かしたものですが、こういう人を「教諭の鏡」のように持ち上げていたシンパがおりました。世の中、もうこういう次元にまで落ちてきているのであります。

 さて、そのニューヨークでもブロードウエーという劇場街は昼夜分かたず(特に夜間は)いつも人でごった返しております。劇を鑑賞する人種は限られているけれど、彼等をあてこんだショッピングセンターやレストランがひしめき、そしてこれを目的に多くのツーリストが集まり、それを見込んでスリやギャングが徘徊し、そしておこぼれを期待する乞食がその劇場街へと集まります。
 つい最近、この劇場街の目抜き通りで大捕りもの帖がありました。道路際に爆弾を満載した車が見つかったからでした。その犯人がアルカイダの一味で単なる車両放置が無差別テロ未遂事件へと発展していったのです。
 可笑しいのはそれを見附けたのは直ぐ傍をネグラにしていた乞食の男。どういう具合かその男は今でもそこら辺に漂い動こうとはしないのです。いわば彼のシマ(縄張り)なのですね。もし爆弾騒ぎがなかったら、ポリス達はゴミ捨て用のビニール袋に囲まれそこを巣にしているこの乞食男を居座らすわけがなく、遠くのほうへ片付けたのでありましょうが、なにしろ相手は今や「時の人」だから誰も干渉ができなくなっているのです。そしてこの男、通りすがりの誰彼の区別なく「俺は見たんだ、俺が報せたんだぜ!」と声をかけるのであります。いいですねえこういうのって。乞食も胸に勲章を付けると尊敬を集めます。御偉いさんであればムットした顔をしているところですが、大学教授みたいにやたら愛想がよく、誰彼の区別なくよく喋るのです「俺がいなければ今頃はさあ、ドカーンと大爆発して大騒ぎよ!」と。いいことをした人間の特権ですね。
 ニューヨークの面白いところは、通りすがりのツーリストがその男と一緒に記念のスナップを撮っていることです。「はい、ポーズ!」なんてね。この男、近い間に記念T―シャツを売り出すそうですよ、「I SAW IT!」というのを、ですね。いやはやお目出度いのであります。

 アメリカのいいところは誰にでも人権というのがあって、犯罪らしき匂いがしない限り誰もが平等な扱いを受けること。泥棒だろうが殺人犯であろうが暴力団であろうが世間にその瞬間が露出しない限りは平等なのであります。ニューヨークはその人権のるつぼといっていい趣がありまして、ある日、地下鉄の駅へ降りようとしたら暑いのに重ね着したでっぷり太った黒人のおばさん(私は人種差別や貧富の差別が大嫌いです。でも言葉の味わい深みの方を大切にするので、言葉使いに神経質にならないでくださいね)が大声で町中に向って演説をしていました。「私には生きて行く権利がある。私には皆と同じように食べていく権利がある。私には人の前でいいたいことを言える権利がある。」とまあ、驚くほど理路整然、きちんと韻を踏んで話しています。ですから通りすがりの人もなんとなく聞き入ってしまうのであります。このおばさん、とうとうと現政権の問題点を語り、貧富の差別を訴えかけ、そして最後に「私には食べる物がない。だから今にも飢えて死にそうだ。誰か、この私に食べ物をください。」と結びます。「恵んでください」とお願いしないところがこのおばさんの凄みのあるところ、偉そうなところなのであります。まあ、こういう人が町中で平気の平左の顔で演説しているのがニューヨークらしい、といえばそれまでですが、それを迷惑に感じず普通の顔で通り過ぎるニューヨーカーも凄い。そしてもっと驚くのはそのおばさんへ、持っていたクッキーのかけらやハンバーガーを与えている人がいることでした。なんと申しますか、いつの日か東京でこういう風景を見る事になるのでしょうかねえ?  

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Posted by kenhagaguam at 16:12

2010年02月04日

言葉、言葉、言葉・・・という言葉について

 ずっと気になっていたことがあります。日本語のこと、言葉のことです。
今日は少し上品で教養がつくお話をひとつ。
品性という言葉は今でも使われることがあるのでしょうか?
本物かい?といわれて何を言わんとしているか理解できますか?
わびさび、という表現に何を感じるのでしょう?  

そんな言葉に因むことがらを書いてみようと思いました。

 日々新しい言葉が生み出され、邪魔扱いされる日本語のその中に、おろそかにしてはいけない美しい言葉があることに気付いています? 言葉その中には表現を遥かに超えた言霊というものがあることに気付いていらっしゃいますか。

 シエイクスピアの「ハムレット」という戯曲の中で御追従するしか能のないポローニャスという爺さんがハムレット王子につきまとって彼の真意を探ろうとして読んでいる本を指差し「ハムレット様、何をお読みですか」と尋ねますと、ハムレットは「言葉、言葉、言葉」とかわします。
 おわかりですか、この皮肉?ハムレットはこの爺さんは何も興味をもっていないことを知っていたのです、だから内容ではなく言葉、言葉と返したのです。
 言葉はその内容、そしてそこから響いてくる韻によってイメージがわき、真意が伝わるものですが、伝達手段としてしか評価しない今日この頃、意味を伝えてもわかってもらえないのであれば、ただの言葉、言葉、言葉・・・でしかない、とルネサンスの劇作家は皮肉をこめて、そう世相に応えたのです。

 さてシエイクスピアに限らず、昔の戯曲は活字を拾い読みしていただけではその本質、中身よりさらに深いイメージと深層な心のひだなどは窺えません。そしてこの活字の世界のあちら側に今の映像でも表現しきれないほどの魅力的な世界が広がっているのです。昔の文学者は自分が抱く、あるいは描く世界、人物を豊富な言葉でもってそれを表現しようとしたのですね。そこに未だに消え去ることのない本物の文学があったのです。

 私が演劇の世界に興味を覚えたのは言葉だけを媒体として生身の人間が、舞台の上で観客に向かって伝える人間社会の不思議、悲喜劇、ロマンそしてドラマに魅力を感じたからでありました。
 演劇とは、言葉だけで人間を宇宙大に描き一つのドラマを構成していくことでありまして、これに生命を吹き込む才能は天賦の才というもので、現実には神様からその才を授けられた俳優はそうはこの世におりません。そう、一握りの天才、あるいは凖天才、またはそれに近い感じの者だけが舞台を創造する力量を与えられております。二昔前はアメリカにはかなり上質の俳優と演出家がおりました。日本には・・・これはわかりません。当節見てくればかりが人気になって、真に才を授かっているいわゆる本物の俳優にお目にかかっていないからです。

 しかしそれはともあれ、俳優の仕事とはいかに奇麗に物を言えるか、にあります。私も駆け出しの頃は田中千禾夫さんの「物言う術」を真面目に学習したものですし、また少しアドバンスで謡楽も学びました。そしてその時に日本語の美しさと物言う術の難しさを体験しました。これは後に述べますが、俳優はきちんと物言いができなければなりません。ナマリ(方言)を直すことや歯切れをよくし、早口で物言いができるようになるのは当たり前のことでして、本当の意味での物言う術はそれから先にあります。本物の俳優にお目にかかれない、といったのはこのことからです。つまり体裁ばかり気にしていて本業に真面目でないからです。

 さて言葉のことについてです。
 日常交す言葉にも、その言葉の本質、言葉に秘めた余韻、言葉がつくり出す感情が年々歳々弱ってきているようで残念でなりません。つまり話す言葉に魅力がないの。外国からの情報やこの世的なことに振り回されて滑ったり転んだりしている間に、すっかり日本語を伝達手段としてしか考えないようになってしまいました。
 言葉に含まれている品性を感じることがおありですか?わびさび、という日本文化固有の表現に何をお感じになりますか? 
 日々新しい言葉が生み出される日本語ですが、決しておろそかにしてはいけない美しい日本語があり、言葉上の表現を遥かに超えた言霊がそこに宿っていることにどれほどの人が気付いているのでしょう。日本のマスコミのミーハーぶりにうんざりしているのは、彼らには本物を見分け育てる力量がないな、とそう思ったからです。

 正岡子規という活字と語韻を見事に消化させて日本語の美しさを大成させた俳人がおりました。「不如帰(ほととぎす)」という俳句雑誌を監修した人で、この奇跡ともいえる仕事、日本語文化を言葉にまとめあげた子規がその時、もしこの世にいなければ、おそらく日本の言語はただの伝達手段で終わっていたかも知れない。そう考えると嬉しいやら時代の怖さやらを実感するのであります。
 言葉には品性があります。わびさびがあります。色があり響きがあります。そしてそれをそのまま素直に伝えることによって日本語の美しさ、その伝統に気付くのです。
 例えば子規は言葉を「50の詩(うた)」という詩の中に封じ込め込め後世の人々に遺してくれたので直ぐに触れることができます。
「あめんぼ あかいな あいうえお、かきのき くりのき かきくけこ」とわ行まで続きます。
 どうです、イメージが湧いてくるでしょう?あ行はゆったりと温かい韻に包まれていることが? か行は柔らかいけれどクキクキとしていますね? この韻を大切にして万葉集や古今集を読み上げていくと往事の風景が目に浮かんでくるはずです。子規は日本語を介して時代をタイムスリップする工夫と方法を教えてくれたのです。だから偉大な人だったのです。だからこそ私達は言葉を大切にし、これを上手に伝承していかなければならないのです。つまり言葉は文化であり伝統であり、私達日本人そのものの姿だからなのであります。

 これは何も日本に限ったことではなく、シエイクスピアの時代ですら沢山の英国作家がいたし、また同時代のフランスにはラシーヌがいました。そして驚くのはさらにさかのぼるって古代にはアイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスなどといった偉大なギリシャ3代戯曲家も韻を踏んだ言葉を並べて、その歴史上の人物と彼等のドラマを音吐朗々と語り雰囲気を伝えていたのでありました。彼等が韻を計算した上で作品を構成していったことを考えると、言葉の世界は時代や国境に関係がないことがわかります。

 日本には万葉集や古今集にこれまた偉大な和歌を作る(詠むといいます)作者がおりました。さらにその後、室町時代に観阿弥、世阿弥という能作家が登場し、「能」という演劇でまさに言葉の世界、言葉の裏側にある生き生きとした人間模様の世界を顕したのであります。それだけではありません。シエイクスピアの時代には歌舞伎も登場し、言葉を通じた人間の情念、葛藤、恋愛、などドラマを表現したのです。

 ああなんと申しましょうか、数百年の歴史を抱えながら、そしてその世界の中に想像を遥かに超えた豊かな情感をたたえながら、私達はその宝石ともいえる美しい言葉をボロボロボロボロ床に落とし、ザラザラした伝達手段としての言葉をキャッチボールしているのであります。なんと申しますか・・・勿体ないですね

 日本語の美しさにこだわり、言葉を大切にされたもう一人の文学者、福田恒存氏の日本語訳「ハムレット」には冒頭こういう下りがあります、
ホレイショー:おお、あの空、朝日が、あかね色のひい(被衣)をひろげ、露を踏みしめながら、東(ひんがし)の尾根を超えてくる。見張りの役もこれで打ち切るとするか。
(第一幕第一場)
 いいですねえ日本語の響き、大切にしたいですね。  

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Posted by kenhagaguam at 18:03

2009年10月02日

お知らせ

 よく人に勧められるのが「ブログの更新を頻繁」に行うこと。
 私は必要があってブログを数年前に開始したのですが、これを読む人は読む必要があって読まれるのであってまあ、読んで得になるものは少ない。安売り情報はないから当然のことといえばそれまでですが一般読者を期待していなかったので仕方ありません。
 ある日、参考になるから、といわれるまま他人のブログを開いてみたのです。が、これがちっとも面白くない。無理に興味ある話題を提供しようとする様がいやらしい。色々といいたいことをいうのだが顔を出さないし、全体何者なのかさえ見当がつかないのであります。酷いのはブログを開くと「必ずここをクリックしてください」と強要しているのがあって、これがブログの人気度を競う目安になっているのだそうです。グアムで造っているらしいブログも似た様な物でなにが楽しいのか天気予報と町中のレストラン情報ばかり。こんなものを毎日せっせと書き足していく労力があればもっとグアム島民の役立つことができるのに、とまあ年寄りですからつい説教の一つもしたくなるのであります。どうもブログというのは自己満足の極みのようで気味悪いですね。
 ですからこれから私のブログを読まれる方は、どうも面倒臭い奴だなあ・・ぐらいの気分で目を通していただければありがたいです。

 そこでいきなりのお知らせです。
 明日の夜半(10月3日)と火曜日(同6日)の午前にかなりどでかい台風が東京を襲う、とこちらの気象学者が具体的なチャートをもとに警告していました。
本来はグアムを襲うはずでしたが(幸いにも)北上へ逸れて一路日本目指して
向かっております。気象学者が地名を明かして警告するのは稀なのでご注意ください。

 思えば12年前グアムに来たその年に「パカ」という台風が襲い、13階建てのビルディングが大きく揺れるほどでしたし、8年前の「ポンソナ」はパカを上回る勢いで
車は勿論、コンテナすら宙に飛ばされる、という強烈なウルトラスーパー台風でした。
グアムへは5年周期で大型台風が来襲するのですがここ数年鳴りを潜めて安心していたのですが、どうやら今年は日本にとってもグアムにとっても台風の「当たり年」になりそうですね。
 まあ所詮は天気任せ、ということですので余り過剰に反応しない方がいいのかも知れません。・・・そういいながら「ポンソナ」の時は油断して大変な騒ぎとなりましたが。

と、以上無用な心配情報でした。

 私はここグアムでトレッキングの催行と出版をしておりまして、以下の記事はその時の抜粋記事です。「グアムライフ」という雑誌で無料、東京か大阪のグアム政府観光局に問い合わせれば(送料分だけで)送ってくれるはずですよ。

「グアムライフ8号」台風の情報
その1
グアムでは台風が近づくと警報を以下のようにメディア、公共機関を通じて出す。
コンディション2:24時間以内に台風が接近する警報。公共機関は休日、学校が休校になることがある。台風通過地点の民家で必要な住民は学校などへ避難を開始する。外出を制限する。
コンディション1:12時間以内に台風が接近する可能性がある警告。総ての公共機関が休止され外出を禁止する。
その2
グアムを襲う大型(スーパー)台風は5年、あるいは12年周期にやってくるという。台風は概ね東南方から近づきグアム島の下方から向きを変えて一気に来襲する。人々は車にガソリンを詰め込み、充分な水を溜め込み、食料とロウソクなどの準備、水漏れ防止用の細工を始める。

台風の過去帳(戦後編)
 台風カレン(1962年11月11日、最大風速360m)
 台風「カレン」はグアム島史上最大最悪の台風であった。暴風雨を伴う台風は2つの目を持ち、初めて死者11人を記録し、島中当時木造住宅であった97%の家々を破壊した。ローカルの人が最も恐怖を感じた、というのがこの台風である。

 台風パメラ(1976年5月12日、最大風速300km)
台風「パメラ」は直接グアムをヒットしたことで記録に残り、また暴風雨台風の典型として当時木造住宅が多かった家屋の多くがその被害を受け、以降コンクリート住宅が流行となっている。当時としては破格の500ミリオンダラーの損害を受けている。

 台風オマー(1992年8月22日、最大風速280km)
 台風「オマー」はグアム島中心部を通過する途上で一旦留まり巨大膨張してから北上したユニークな台風であった。前年の11月には風速380kmを超える、史上最大といえる超大型な台風の目を持っていたことで知られるモンスター台風「ユリー」がグアム島をかすめて通過している。圏外にありながらグアム島に多大な損害を与えている。

 台風パカ(1997年12月16日、最大風速330km)
 台風「パカ」はグアム島をそれてサイパンに向かうと予想していたが案に相違して北西部分を通過し大きなダメージを与えた。風圧で高層ビルは横揺れし、殆どのホテルの窓が割れ、高さ10メートルの波が襲い30〜40%の建物が深刻なダメージを受けた。

 台風ポンソウングナ(2002年12月8日、最大風速330km以上)
 台風「ポンソナ」とは「庭に咲く花」という意味で発生地であるチューク島で名付けたものだ。「ポンソナ」は予測を超えた為に風速計が壊われるという近年もっとも最悪といわれた台風である。「ポンソナ」はグアム島のかなり下方を横切るもの、と想定され当初誰もこの台風がヒットするとは思わなかったが急に北上すると北西部を中心に通過し、目が通過するのに2時間もかかっている。 
 全島の電力が無能力となり65%の水源が止まり、観光ホテルの老舗といわれた「フジタ・タモンビーチホテル」はじめ多くの店舗、レストランが廃業をよぎなくされている。ダメージは全体で700ミリオンダラーという超巨額な損害をもたらしている。あれから6年経っているが今でも町のあちらこちらに当時のダメージを見る事ができるほど激しいものであった。  

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Posted by kenhagaguam at 17:25

2009年09月13日

「外で遊ぶということ」について

 我が家の小学校6年生の子供は休みになると気が狂ったようにゲームに夢中にします。放っておくとそのまま何時間でも同じ姿勢でし続けます。平日に勉強をきちんとすれば週末はゲームをしてもいい、と条件をつけたために、休日になると、宿題をさっさと片付けて早速ゲームに取りつき、時間を選ばず堂々とゲームをします。時々「目が悪くなるから休みなさい」などといってゲームを中断させるのですが放っておくとまた始めます。ゲームは目を悪くする、だけではなく姿勢も体調も、そして根性そのものまで悪くしてしまいます。なんでこんな悪しき物が巷に流れたのでしょう?
 物わかりがいい親を装う大人達は「これも知恵を啓発するからしないよりいい」などと真しやかに(というかへつらわんばかりに)理解したようなフリをします。子供から「なぜいけないんだよ」と反発されたら困るからです。「いけない」理由を持っていないからであります。

 私が子供の頃、雨天以外の休日、子供は外で遊ぶもの、でありました。その頃の子供世界は学校が退けるとよく校庭や空き地で遊んだものでした。一人では遊べないからどうしても仲間が(それもできるだけ多く)必要となっていました、ですから学校教育の現場とは違った形の学習や競争、それに団結心を体感できたものです。勿論「いじめ」や「仲間はずれ」もしょっちゅうありましたがそれでもいつの間にか仲直りしている、という邪気のないものでした。その頃は皆が同じような基盤に立って暮らしていたので共通感と連帯感があったのですね。だから「いじめ」があってもそれを諌めたり仲裁する元気者がいたのです。
 
 でも、ここグアムは、外で遊ばせようとしても遊ぶ気候に適してはおりません。暑い盛りに外へ出て遊ぶことになんの意味があるのか、と屁理屈をこねたくなるほど暑い。
 外気が既に熱くなっているところで無我夢中になって遊んでいると体熱が異常に上昇して少し歩くだけでも体力の消耗を感じてきます。おそらく他のスポーツもそうでしょうが、トレッキングのように心身共にその気になり、それなりの準備をして臨めばさして暑さは気になりませんが、子供は違います。子供にとって遊びとは即興のようなものですから準備など面倒なことはしません。炎天下で長い間遊び回るので「日射病で倒れやしないか」などと気苦労が絶えません。
 我が家の子供にとって、週末の昼過ぎ、近所の友達と外で遊ぶのは結構いいストレス解消になっているようです。室内でジトジトとゲームをしているよりは遥かに楽しいことぐらい本人が一番自覚しているはずです。「暑い、暑い」と愚痴をこぼさずに夕方遅くまで遊んでいるのでそれがわかります。「書を捨てて町へでよう」(寺山修二)というフレーズが学生の頃はやりました。それで私はこの頃、子供に「ゲームを捨てて外へでよう」と口うるさく突ついております。
 ある日、その子供が、ちょっとしたきっかけからグアム島の北東部にある「パガットケーブ」のトレッキングコースへゲスト達に混じって同行しました。以前はそれでも「タロフォフォケーブ」など、洞窟探検が子供心をくすぐるものらしく時々トレッキングに参加していたのですが、長くは続きません。でもこの日、汗びっしょりになって戻ってきた子供が開口一番に「おもしろかった、次も行きたい!」といいだしました。子供には子供に適した環境と時間をあげることが大人の愛情だ、と感じたものでした。
 「グアムにいるからできるのさ」というのは間違い。グアム在留の日本人子弟は勿論、島内のローカルの子供達ですら積極的にグアム探検、トレッキングをしないからです。なぜかって? 外で遊ぶのが面倒だからなのでしょう、きっと。  

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Posted by kenhagaguam at 23:39

2009年07月27日

遅れ気味の雨季到来&キャンペーン

 このところグアムは雨で水浸しです。
遅れ気味でやってきた雨季の到来だから連日思い出したようにシャワーがあります。
ということは青い海で遊ぶことを期待して来島した人には少しばかり気の毒なグアム旅行になってしまい、残念至極!
 でもでもトレッキングだけは季節も所も選ばずいつでも催行できるので超ラッキーなのであります。だからだから、グアム旅行のカバンの中に「探検トレッキング」を一つ押さえで入れておけば絶対後悔しませんよ。

ただいま「探検トレッキング」ベイシックコース$90がキャンペーン価格で$80に・・・。
絶対お見逃しなく!
  

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Posted by kenhagaguam at 12:51

2009年07月22日

「タカ&トシ」コンビ グアム島来島

タカ&トシ この間、人気タレントの「タカ&トシ」コンビがグアム島の不思議旅収録のために来島しました。これまでの収録や取材は殆ど切り刻んだトレッキングで嘘だらけでしたが、今回は、流石はNHKということでしょうか、ハードスケジュールにも拘らずトレッキングを実体験しました。取材のテーマはトレッキングではありませんでしたが異聞としてフォンテコースを歩かれ、グアムのもう一つの魅力を体感されたはずです。番組の放映は8月11日の午後7時以降、「世界の不思議な旅(正確ではないのでごめんなさい)」。グアムだけではなく色々な国々を体験旅行して知らなかった事やルールなどを紹介しています。どんな番組になるのやら貴方が歩いたあのフォンテコースが紹介されるかもよ・・・?
  

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Posted by kenhagaguam at 19:02

2009年07月14日

グアム短信

 今月のグアムは、あの太平洋戦争で米軍が逆襲を開始した月として毎年興奮の極みに入ります。

 7月21日はグアム解放の日。つまり1944年のこの月の早朝5:30から55,000人の海兵隊員がグアム島に布陣している日本軍守備隊めがけて上陸を開始した日です。
40年後の同月同日から始まったのがその「上陸戦記念パレード」。
この日は首都ハガニヤというグアム島中央部の街道マリンドライブでおよそ 2時間にわたってパレードがあります。
米軍の各部隊、各村などからページェント(花車・輿)が続々とパレードして歩くのです。
毎年ページェントのデコレーションに趣向を凝らすので村の住民の思い入れが面白い。
 気分が悪くなるのはアメリカ企業(ソフトドリンクとか色々な会社)がキャンディなどを道ばたにいる子供(大人も)に放り投げている光景です。それを子供やいい歳の大人が必死になって拾っているのっです。なんとなくアメリカ人に見下ろされているような差別を感じて不愉快になります。
 まあ私は他人面してパレードの豪華さを楽しむばかりではなく、そういう風景を見て異様を感じるのですから素直ではないのかも知れませんね。

 もしこの時期に観光に来られるのであれば是非パレードを楽しんで下さい。
昔は日本人が傍観していると石などを投げつけられたそうですが、今そういう愛国心濃厚なチャモロ人も少なくなったので安心して見物できます。  

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Posted by kenhagaguam at 18:04

2006年02月13日

グアム新聞「あの人について・・の巻」

 貴方にもきっとおありでしょう?
忘れていた人がなにかの拍子にパッとばかりに現れて、その純粋な心根や痛み(?)を少しばかり疼かせる、というそんな瞬間が?

 少しばかり歳をとってくると、それまで出逢ってきた様々な過去の人がですね、夢の中や車中や、フッと生き抜きをした隙間や人待ちしている間にひょいとばかりに顔を出します。
懐かしい人、印象が強かった人、もう一度逢いたい人、意外な人、嫌な想い出がある人、恋しくてたまらない人、等々記憶の底から湧き出て来ます。
そんな時、私はその「あの人」に話しかけるのです。
『・・で、あれからどうしてる?』ってな調子で・・・

 先だってテレビ映画を観ていたらオードリー・ヘップバーンが出てました。その画面の中の彼女のやるせなさそうな表情を見た時、私が幸運にもそのオードリーの主演していた映画「ニューヨークの恋人達/ They all laugh」にチョイ役で出演した時のことを思い出しました。
その作品は、この私でさえ一度しか観たことがないのできっと彼女の作品の中では駄作の一つだったのでしょう。とにかく面白くなかったことは覚えおります。
日本でもテレビ放映されたことがあったそうですが私は知りません。後輩が興奮して電話してきたのでわかった次第ですが、もうどうでもいい事でした。
こんなどうでもいいような作品ですら彼女が出演した映画にほんのチョイ役ながら同席させてもらったことで、その後の私の環境が少しばかり変わったのですから誠にオードリーは偉大な女優なのであります。

 アメリカではオードリーはさほど騒がれる程の女優ではなかったようです。
ニューヨークの私の職場でも彼女の事を知らない人が居るほどでしたから、その頃は既に過去の人であって我々日本人ほどには注目されていなかったのかも知れません。
いや、日本でも映画に興味ない人がいるのですから、これは単純に趣味の問題かも知れません。
それでも、日本に居た時代にテレビ局内で会議をしていたとき、テレビタレントの事からオードリーの話になり、ひょんな事から私の昔話になって、当時評判の名物プロデユーサーがやにわに大声で
『羨ましいよな、なにがかなわぬ夢か、といって俺にはとても望めないけれど、芳賀ちゃんはオードリーの映画に一緒に出演できたんだもんなあ』
と呟きました。大の映画ファンならではの吐息なんですね、これ。

 私にしたって、それまでちょっとは質の良い映画に出演していたにも関わらず、その映画のことよりも、私がオードリー・ヘップバーン主演の映画に出たことの方に注目されて困りました。
本当はアカデミー賞を獲得したその映画の方を話題にしてもらいたかったのですが、これはつまり「私が出演」していたからではなく、たんなる偶然によって、つまり出会い頭の事故のようなもので、ひょいとオードリーの映画に「出ただけ」の方がいかにインパクトの強い事柄か、ということなのであります。
逆にいえば、オードリーが日本人にとってどういう存在であったか、とこれだけでもわかるような気がします。
どんな作品でどんな役でどういうきっかけで出演したか、というよりも、大切なのはオードリー・ヘップバーンという既に伝説的な存在になりかかっている女優とある瞬間一緒に居たということが面白いのです。
これはアメリカ大統領や日本の総理大臣と立ち話をしたこと以上にインパクトのある事実なのですね。つまり歴史上の人物とはそんな輝きをもっているのかも知れません。

 しかしこの私はお陰さまで、オードリー主演の映画に出られた事からそれからの私のキャリアに役立ちました。
なにしろ日本には過去数百名の俳優、名優が出現したにも関わらず、オードリーの映画に出演した俳優は皆無だったのでありますから大いに注目されましたし、TV局を食い物にするタレント達からもずいぶんと羨ましがられたりしました。
これは嬉しいことでありました。
努力をすればきっと面白い事件に遭遇できる、というのが当時の感想です。

 オードリーの話だけで道草をしてしまいました。
でもこうしてオードリーの事を思い出すと私の心が和みます。
こんな事がありました。撮影現場で彼女が怪し気なオリエンタル達に囲まれて紹介される時、彼女はあの気品に満ちたほほえみで一人一人に目で会釈します。
「ローマの休日」も最後のシーンでオードリー扮する女王がメディアの一人一人に握手と会釈をします。何人(なにじん)かもよくわからぬ気色悪い連中なんか放っておけばいいものを、まあ、これがアメリカの良い所なんでしょうね。
アクターは一応アーチストなのでありますから、能力の差違はあってもお互い時間を共有している、という共通認識が漂います。能力の差違があってもですよ。
その「アーチスト」という気休め言い訳があのオードリーと気色悪いオリエンタルを同列にするのです。
私、オードリーが気の毒でとても胸が痛かったです。
『ごめんなさいね、こんな気色悪い連中の空気を吸わせて』と蒼白になるほどの罪悪感でしびれていたのです。
ま、もっとも私もその気色悪いオリエンタルの一人だったのですがね。

 その時の事、彼女が私に手を差し伸べた時の事、なにやら皇后陛下に対面しているような緊張を覚えました。他の俳優と握手するのとは全然趣が違っていました。
なんと名誉な事でしょうか、なにしろ歴史上の人物なんですからね、この方は。
『手をつよく握ってはいけないな?』などとグレゴリー・ペックになったつもりで、デリケートな陶磁器を扱うように柔らかく握手した事を覚えております。


 手といえば、あの「横井庄一」さんの手はどんなに荒れていた事でしょうか?
今度は、この28年にも渡る長い年月をグアムのジャングルで過ごした「あの人」横井庄一さんについて述べてみます。実はこの話をしたかったのです。

 ある晩、日本から来た先輩に連れ立ってホテルロードにある和食レストランに行った時のことであります。
その晩は、松竹歌劇団を南アフリカへ連れて行った事を自慢する先輩と、オーナーの刀剣鑑定のことで興が乗り、話はいつしか元日本兵「横井庄一」さんの帰還の話になりました。
久しぶりに逢った大先輩の自慢話に酔いながら、『そういえば』と、この島に来てから真面目に横井庄一さんの事を調べてこなかった自分に気付きました。
横井庄一さんこそはこのグアムにとって非常に貴重で価値ある存在であったのですから、これは不明の至りでありました。

 既に伝説的な物語の一人になっている横井さん、ちやほやされるのが苦手ながら忘れ去られるのも困るのが横井さんなのであります。
ここで少しばかり当時の事をお話しますとですね・・?
横井さんは愛知県の出身の人でありまして、この愛知県を中心とする中部日本の若き兵隊さん達こそがここグアムで戦争を体験されたのであります。第31軍司令部小畑英良中将とそのマリアナ地区集団でもある第29師団の師団長でもある高品彪中将傘下の関東軍の兵隊の多くが、前に述べましたようにおおよそ中部日本の人達でありました。
(その頃は中国北東部=満州に配属されていた)

 グアム戦争が勃発したのは昭和19年7月21日の早朝、米軍はこれを「グアム解放の日」と自称しております。
上陸戦は米軍の一方的な火力で圧倒したまま僅か3日で終わり、その後は日本軍を追っかけての掃討戦となったのであります。
当時、横井さんは他の戦友とアガットと称する(日本軍はこれを昭和町と呼称しました)狭隘な海岸の後方のそびえるアリファン山(同、有羽山)のあちら側で待機していたのであります。
横井さんは輜重隊に所属していたのでいわゆる前線に出て迎撃する場所にいなかった、これが幸か不幸か敵弾をまともに受ける事がなくかろうじて生き残れた原因でありました。
勿論、だからといって戦闘しなかったわけではありません。大体において、このグアム戦争で実弾を発射しなかった兵隊は皆無です(射撃前に爆死するか、あるいは敵前逃亡した卑怯者は別にして)から上陸戦で敵と交戦しなかった、というだけの事であります。

 グアム戦争は米軍のほぼ一方的な攻撃のまま遂に日本軍の敗北となりました。同年8月11日の事でありました。
司令部の命令で北部へ撤退した兵隊の多くはここで戦死するか、あるいはアルカリ性の土壌であるがゆえに植物の育たない北部のジャングルから逃れでて食を求めて南部へ移動しました。米軍がそれを待ち伏せしていて、それはそれは過酷な戦いの日々であったのであります。

 横井伍長はその日本軍敗北の日から名古屋出身の横井庄一に戻り、過酷で苦労の28年間を送るのであります。

 やがて昭和47年1月24日の夕刻迫る午後6時10分、グアムの南部を散策していた地元の青年数人が丁度食料の調達をしにひょいと荒原に出歩いていた横井さんに遭遇し、激しい格闘の末にこれを捕らえ「おそれながら」と役所に届け出たのであります。これが横井庄一元日本兵発見の顛末であります。

 横井さんはその後10日足らずの間療養と尋問を兼ねて元メモリアルホスピタルへ収容されました。現在ヒルトンホテルが建っている横の坂道を登った所に在りました。

 和食レストランのオーナーは、横井さんがジャングルで発見され、メモリアルホスピタルに連れて来られた時に、政府からの依頼で彼に握り飯の差し入れをしたそうです。
その夜の横井さんの現地日本人を見た時の恐怖と驚きはなんとも形容できないものだったそうです。
貧相でおびえきって不安げで、戦争を知らないオーナーからみても、『これが日本兵か?』と思えたぐらいでした。
もっとも横井さんから見ればその日本人達を、『これが日本人か?』と思ったでしょうから想像するだけで楽しくなりますね。

 それから時を移さず直ぐに日本のマスコミが来島し、横井さんが隠れていた洞窟を尋ね、病院に彼を訪れたりして大騒ぎになったそうですが、オーナーの話の方がそれ以前の話、発見されてから騒がれるまでのほんの僅かな事件前の話だけに生々しくありまた、感動的でもありました。

 大体新聞などに書かれている記事には感情がありません。コメントに付け足しのように雰囲気を挿入しますが、それでも実際の現場の生々しさは表現されていません。
ですから、こうして実際に現場にでくわした人の話がとても新鮮で感動的ですらあります。オーナーの話にはそういう軽い興奮のようなものがありました。

 そう、それは今ここにある現実話、忘れられて久しいかげろうのような日本兵がポツンと目の前にうずくまり、異臭のついたボロ毛布をまといながら息をひそめてじっとしている。
場所は病院の消毒液のしみついた狭い診察室の壁際、ザン切り頭(旧い表現ですな)に垢と日中の日ざしで真っ赤に汚れた皮膚を露にし、異常に鋭い眼だけがギラギラと光り周囲の情況をじっとうかがっている。
自分は『戦争は終わっていない』と考えているのか、それとも『いつ殺されるかも知れない』と恐怖を感じているのかそれはわからないけれども、日本人達の差し出した「懐かしい日本の味」と日本人の吐き出す日本語に彼はなにを思ったのでしょう?
興味が湧きます。横井さんから是非その時のことをお聞きしたかったです。

 それから現地の日本人達がマスコミを案内するために何回か横井さんが隠れていた洞窟を尋ねたそうです。
蚊や虻に刺され、鋭い葉っぱに切られ、汗みずく、泥まみれになりながら3時間以上も猛暑の下を歩いたそうです。
現地民ですら踏査したことのない未開のジャングルを歩いた時、『あの人は実に偉い』と、率直に感じたそうです。
洞窟内はよく整備され、生活しやすいように配慮した造りをみても、『こんな極限なまでの生活を強いられながらよく生き延びたものだ。あの人は立派だ、とても今の日本人には想像がつかない』と誰もが呟いたそうです。
2月2日午後2時25分に31年ぶりに祖国の土を踏んだ横井さんは、あの有名な『横井庄一、恥ずかしながら還って参りました。』と帰国一番にそう語り、28年間の孤独の闘いに終わりを告げました。

 あの、悲惨な戦争の状況下で、戦後、軍人嫌いな日本人からも尊敬をこめて賛美された兵隊はそうはいません。
横井さんとは一体、我々にとってなんだったのでしょう?この島で横井さんが発見されたことは一体どのような意味があるのだろう?そんな事を考えてみました。

 横井さんが米軍と交戦中、軍部の指令を嫌ってグアムの南部に逃げ込み、戦後になっても出てこないことから彼のことを戦争体験者が、『弱虫の卑怯者』と、蔑むことがありました。
酷い話です。誤解もいいところです。
かくいう私も味方と共闘して命令通りに北部に行かなかった、と信じて彼の行為に不信を抱いた事がありました。それが解けたのもやはりここグアムのジャングルを何回か踏破してきた経験からでした。

 かりに横井さんのみならず他の兵士とて、あの苛酷な情況の下、誰が兵隊を責める事ができましょうや?
そんな資格があるのは、そこで共に闘い、共に傷付いた兵隊達だけです。
彼等の中にはひょっとして横井さんを恨んだり、羨ましがったりする人がいるのかも知れません。

 戦争に従事した人にはそれなりの諦観があり、また道徳と道義というものが備わっております。勿論、愚劣で低俗で野卑な俗物もおります。そこら辺は現在も同じです。
がしかし、兵士は常に戦死という、一度踏み外したら二度とは戻る事のできないおぞましい運命のようなものを常に感じながら生きていたのでありました。
現代でいう、「癌になっているかも知れない、でも直るかも知れない・・」という感じで、毎日恐怖で神経が病む患者に似ていつも不安がつきまとっているのです。

 私はここグアムに定住して8年間をトレッキングという、まるで疲労する事を目的にしているような事をやっていて、今はそれを生活の糧の一つに加えております。
ショッピングという愚にもつかない慰め事を主たる観光の柱に据え付けた観光業界に一矢報いる為に、結構大汗をかきながら山野密林の中を歩くのであります。
勿論ただ汗をかく為に歩いているだけではスポーツ大好きおじさんか、まあ自虐性おじさん程度のもので笑われておわりです。
私は歩きながらこの島の自然の美しさとそこに秘められた歴史世界を紹介しております。
そして歩きながら実感するのは、この密林の中で生き延びる、という作業の事です。それには大変な覚悟と強烈な自制心が必要となってきます。そしてそれに負けた人は惨めに死んで行きます。
これは小説でも戯曲でも表現しきれない恐怖と不安と絶望の中での仄かな希望を灯し続ける作業なのです。

 コンピュターとそれに関連する事業をいち早く始めたコマシャクレタ男が証券詐欺とやらで逮捕されました。あの眷属のようなニヤついた狸顔を見なくて済む事が救いです。
この男、堀江というのですが、若者の間では金儲けの巧みな青年として人気があったそうです。
TVや放送界を牛耳った後にこれらマスコミュニュケーションとコンピューター関連事業、それに金融や出版などを抱え込み、できればスポーツ界も抱き込めば壮大な規模のメガトレンドを産み出す事ができます。
合法的にやれば北朝鮮の金正日の全体主義よりもオウム教会の麻原の洗脳集団よりも知的かつ行動的なヒーローとして時代の寵児に成っていたかも知れません。しかし、実像はただの詐欺師でありました。こういう俗物に踊らされる愚かな手合いが増えて参りました。
若者はこういう化け物みたいな人間に愚弄され騙されても「ま、いいや1回だけだし」と割り切ってしまいます。本気になって怒りません。怒るのはダサイからであります。
私が不安を感じるのは、騙された自分を悔いるよりも騙した相手に対して怒るべき心根を忘れてしまっている事であります。

 悪者を寛容な気持ちで許してはいけない時がある、という事をしっかりと胸に叩き込まないと後世に瑕を残すであろう、という不安です。

 堀江と比較するのも失礼ながら、その対局にあるのが戦争で亡くなった兵士達であるような胸騒ぎがあります。堀江のような化け物をこの世に産みだした社会のあり方を追求していくとこの島で亡くなっていった兵士が哀れに思えてなりません。

 無論、「何の為に闘い、何の為に死にに往く」かは、個人の人生観のようなものではありますから考え過ぎかも知れませんね?
戦争の犠牲者、と観念した兵士がいるかも知れません?これは評価したり結論をだしたりする問題ではないのであります。
早い話が、日本にいて、あるいはグアムにいて、自分が「その国に何ほどの役に立つのだろうか?何をすれば他人の為に役立つだろうか?」と、いう素朴な質問をするのと同じようなものです。
人によって違います。

 平和な環境に甘んじ、戦争を学問上でしか捉えることができなくなった現在、僅か62年にしかなっていないのに、その「何の為に」という個人の人生観のようなものが希薄になってきているような気がします。
だからこそ、横井さんのことを率直に評価ができないのです。
むしろ、僅かな自由の下で生き長らえることに恐ろしいほど執念を持っていた横井さんには人間的な輝きがあります。
我々のように、「生きて行くのに必死」といいながら、美味しいものを食べたり、ゴルフや買い物を楽しんだり、他人の悪口や噂話をするのとは生きる重みが違います。

 でもこれだけは言えます。
グアムに住み多少なりとも島内のあちこちを探索した人ならば、ジャングルがいかに人にとって住み難い場所か、がわかります。
よく、「都会は人のジャングル」などといいますが暢気なものです。
自由だけが救いの地獄のような環境は、私達のような自称「文明人」がどのような工夫をしたところで数時間も耐えられないでしょう。ここへ来てみて初めてそれがわかりました。

 グアム島とはただのジャングルの多い、南洋に浮かぶ孤島です。
こんななにも変哲がない島を今日、年間100万人近い日本人が訪れるようになったのは、横井さんのお陰だと私は思っています。
グアムを有名にし、グアムに親近感を抱くのは、元日本兵「横井庄一」さんが発見され、日本ばかりではなく、世界中からその奇跡を讃えられたからです。他の国よりもはるかに親近感をもたれているのはそんな経緯があったからです。

 海外旅行自由化のお陰だとか、旅行社や観光局の努力の結果というわけではありません。
なんといってもグアム島は「初めに横井庄一ありき」、なのです。
彼が28年間という常人では予想もつかない無意味で単純な長い年月を、ジャングルの中でひっそりと生息し、やがて、たんなる偶然、事故によって、生きたまま発見されたことに地元の人ですら感動したのです。
『やあ、あんた、よく生きておったなあ』という具合に。

 それなのに、ああ、それなのに、今では当時の感動も、それからのグアム島の発展の経緯も総て忘れたかのように、横井さんの話をしたり、感謝する祭典を開催しようという気配もありません。
「あの人」は結局の処、騒々しく騒がれ、マスコミに利用され、観光業に役立っただけなのかも知れません。
皮肉なことに、迷惑をかけられた島民の方が横井さんの奇跡の生還を讃え、今日の島の発展に大いに貢献した事を評価しているのだから滑稽です。

美保子さんと 伝え聞いた所では、横井庄一夫人の美保子さんが、長年ご主人と居住していた懐かしい住居を少しばかり改造して「横井記念館」を立ち上げようとしているそうです。素晴らしい発想ですね。
昨今、美術館や民芸館が市や町村の手によって作られTVで紹介されています。
横井さんは心ならずも受け身ながら過酷苛烈な半生をジャングルで過ごしてきました。
前にも述べているように、横井さんは戦争を通じて日本の人々の胸に、グアムの人々の感性に深い驚きと感動を与えました。
全くの私感ではありますが、横井さんの存在は、グアムにとって友好のシンボル的な存在なのであります。
早く実現するといいですね?
【写真は美保子さんと】


 グアムにとって、横井庄一は非常に大切な伝説上の「あの人」です。
現地の人ですら彼の忍耐と努力と知恵を尊敬しているのですから、もっと大切にしてあげたいものです。
いつかは消えて行く若者達の流行におもねって、彼等の興味を惹く事ばかりに終始した薄っぺらな企画や物品の売買ばかりに精進するのではなく、グアム本来の魅力、知られていないグアムの味わいを追求し、将来へ向けて展開していくことが、この島にとって急務な事なのですが、観光業の中枢はそうは考えていないようです。
時代遅れの政治的配慮や縄張り意識が強すぎて、容易に金もうけの呪縛から解放されないのが現実のようです。
本来それを司る機関があるのに、どうやらここも勘違いを続けているようで、戦略というものがありません。
重病患者の内側の患部を見ずに、その場しのぎにすり傷程度の患部へおいしい消毒液を塗っているにすぎないようです。どうも今のグアムは第二の横井庄一の出現(柳の下の泥鰌といいます)を待望しているようです、残念ながら。

 どうやら「あの人」はただ音もなく時代の彼方へ去って行くのが順当なようです。こんなことを言うと「あの人」が苦笑するかも知れません。
『自分は環境に甘んじず自分と闘っていたのだから「歴史」とは大袈裟だよ』と。

 偉い人の価値は結局の処、他人が時間をかけて評価していくものなのでしょう。
偉い人とは、目先のことどもに終始するのではなく、志を高くもって未来へ繋がる為に誰に対してもなにがしかの「温かさ」を遺して往った人なのでしょう。
「あの人」達にもう一度逢いたくなりました。  

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2005年10月18日

グアム新聞「おらあ〜1世だぞ〜・・の巻き その2」

 会議で印象に残ったのは「世代間の日本人意識による格差の心配」という悩みであります。

 いうなれば1世と2世の間は勿論、これが3世の間となると言語的にもメンタル的にも開きが大き過ぎて話にならない、まるで外国人を相手にしているようだ、となります。

 これはなにも彼らだけの問題ではなく、ここグアムは未だ些か救いはありますが祖国の実情は酷いものであります。

 「若い者が年寄りをバカにして大事にしない」「礼儀を知らない」とはまあ昔からこういう問題は盛んでありまして驚く程の事はないような気がしております。

 そういう大人達自身、そういう育ち方をしてきたし、育て方をしてきた。「若者の正体の無さ」というのは戦後世代の大人達の教育が培ってきた結果ではありませんか?他人の所為にしてはいけません。それも始末が悪い事にそこには前の大戦の問題が残っていて、日本人が世界に移住定住している限り終世ついてまわる共通の課題なのであります。

 私の親(戦前、戦中派)達は子供を食べさせるに必死で教育は人任せでありました。そしてその任せられた人間の中に少しばかり毛色の違った、まあなんと申しますか「非敬国」的な人間も混じっていたのでありましょう、彼らはめったやたらと血気盛んであった戦前の日本国民を批難愚弄し国家を侮辱し、国の歴史を否定しまくったものでありました。

 その真意が奈辺にあるのか、はともかくとして、とにかく彼らの徹底した戦争反対論と軍隊憎悪論によって我々も脳髄がしびれるように感化を受けて(本趣とは異次元である)日本国そのものを呪うような時期がありました。

 それから少しばかり経って世界の政治が見えてくると、多くの常識人は、しびれたままの人達とは違って世の中の時流を冷静に見る事ができかつ客観的に判断できるようになります。

 正気に戻った彼らはそれでいいのですが、彼らの子供達は教育現場に取り残されたままで判断するにも一方的な材料しか手元にありません。

 学習が戦争そのものの在り方や是非である間は議論がかないます。とりあえず誰もが納得する結論、つまり「戦争は罪悪でありまする」といえば怒る人はいないのでありますから。

 しかし話題がやがてこの国の歴史や文化に移行されていく時、しびれた人達はすぐ目の前で行われた戦争の歴史と、数千年にわたって脈々と受け継がれてきた歴史と文化(もっと具体的に申しますと、天皇を中心に続いてきた歴史とその影響下にあった文化)を不透明なままに結びつけて脈絡のないままこれが間違っていたように全てを否定し蛇蝎の如く憎むのであります。

 こういうのを精神病というのですが世間は未だに「戦争は罪悪でありまする」から発した目眩から醒めないので、『ああ、あれは病人の言葉なんだな』と正視する暇もないままに正論をすり変えられた事に気づきません。だから日本全体が今でもグルグルと目眩を起こしていて落ち着かないのでありますね。

 こういう変テコでいびつな環境を創造したのは誰でもない、自分達大人(正式には戦後の大人)の責任なのであります。そしてこのいびつな世界を元通りに戻す機会も既に遠のいてしまっているのが現実であります。

 会場で、1世が2世以降の青年とのカルチュアーギャップを深く嘆くのを見て、私はその時、つくづく戦争がもたらす罪悪を感じたのでありました。

 少なくとも日本が関与した戦争は、その経過、結果から割り出して日本の栄光、日本人の習性、歴史が育んできた文化と伝統そして美意識という、外国人ですら賞賛し憧憬するほど多くの「日本的」な美徳のその殆ど総てを喪失してしまいました。喪失というか失神状態のような、記憶喪失のような、あるいは幻覚症状に悩まされ続けているのですね。

 歴史に「もし」は不要ですが、もし日本がああいう形で戦争に突入していなければ、戦争したとしても「侵略している」というイメージではなく「生存する為に必死に護っている」というイメージを世間に与えていたとしたらもっと違った形で戦後を迎え、体験者はそれなりに戦争とその影響を子々孫々に伝えていく勇気をもてたでしょうね・・。
作家の司馬遼太郎さんが『もはやこの国は夕陽が落ちて行くように滅びるしかない。ようはいかに長くそれを持ちこたえるかだ』と嘆いていましたが、はてさて私のような凡人は何をしておけばいいのか途方に暮れるばかりなのであります。

 たとえば前の大戦ですが、どちらの側も戦争をするのには当然それなりに理由(大義)があるのでありますからして敗れた側だけを経過と結果だけを見て悪し様に罵ってはいけないのでありますが、日本の不幸は60年経った現在でもその習慣が続いている事です。それも当時の事情も知らないのに一方的に自国民を責めているのが現象です。

 そういう歪んでしまっている日本の歴史や教育観が、子孫の為に銘しておくべき民族の美徳や
栄光という精神的な本質を益々遠ざけてしまっているようです。そして距離があればあるほどその間のギャップ、つまり親族、親子間の尊敬心はさらに薄まりついには年齢差すら関係がなくなってしまい、お互い相手の劣等意識を言い立てるばかりで肉親の情すら他人ごとのように冷淡になってしまう風景が珍しくなくなっているのであります。哀しい話ですが、これは少しばかり周囲を見渡せる余裕を持った人なら誰もが実感としてある現実なのであります。

 世代ギャップを埋める方法として、逃げたり避けたりしないで、前の戦争から、せめて「歴史の一面として民族の側からも覗いてみる努力、そして祖国の為に生命を投げ出してそれを護ろうとした勇敢な兵士がいた」、という事実をもう一度確認した方がいいのではないか・・・という事を会議に出席したインドネシアから来られた1世のお二人に話ました。その時、その年輩でありながらかくしゃくとして胸をはっていたご老体が、私の手を強く握って離さなかった事をこうして今でもしっかりと覚えております。

 後で知ったのですがその方達は前の大戦の後、そのままインドネシアに滞在し、オランダを相手にしたインドネシアの独立戦争で、他の1.000名の同胞と共に義勇軍を作ってインドネシア軍に参戦、結果、独立を完成させた太平洋戦争生き残り兵士のお二人という事でした。

 そろそろ戦争が産み出した自国民間の相互不信の感覚を互いの努力で打ち止めておかなければならない時期がきています。戦前世代が未だ元気である間に解消しておかないと、その後の世代間に横たわる憎悪と不信感は日本を滅ぼすきっかけになりかねません。そのギャップを埋める接着剤的な役割が戦前戦中世代であり、それを継承するのが元気な若者達であるはずです。

 この「第46回海外日系人会」の会場で、言葉を美くしく語りましょう、という提案もありました。2世以後が上手に言葉を話せないのをどうしたらよいのか?という質問に応えたものです。
「言葉の疎通がなければ民族や歴史の疎通も難しい」、というのがポイントです。前述した世代間の相互不信を解消するには先ず言葉を正しく話しましょう、という事ですね。

 私はその時、手を挙げてこう発言したかったです。言葉はその国の文化であり使うのはその国の民族、民族とは歴史(日本の場合は天皇を中心とした)と文化を共通に持っている人々によって共通の言霊であるといえますね。

 しかし、言葉を伝達手段としてしか評価しなくなった時点でその中に含まれている味わいであり美意識というものは廃れていく運命をもっております。

 三島由紀夫さんは「言葉のもつ共通点が最早存在しなくなっている。例えば平和といえば皆、違う意味での平和を連想してしまうが、昔から平和の意味は一つしか存在しなかったのだ。」と。つまり言葉の多様化であります。

 言葉ですら多様化してしまっている今日、人間の価値、人生の価値、生き方の価値観など、かつて日本人である事を誇りとしていた上質の価値観はてんでんばらばらになってしまって民族の根拠になっているものがどんどん失われていくような気がしませんか。

 私は青年時代に演劇を徹底的に学習したので特に日本語の物言いについては少々煩い方であります。正しい物言いとはつまるところ奇麗に喋る技術なのであります。

 これには歴史があって、五・七調や七・五調を駆使するだけでも意味合いが変わるし、語韻を活かせば日本語に含まれている情緒、雅な世界がのぞけます。この語韻は、スタイルは違うけれども英語やフランス語にもあって、クラスのある人々はきちんとした物言いをしています。だから彼らの民族は自分の国に誇りをもっているのであります。

 こういう、言葉使いというのは誰でも体験する事ができる技術なのですが、昨今、これを真面目に教える人は少なくなりました。そしてその存在がある事すら知っている知識人が少なくなりました。それが学校の先生です。

 そればかりではありません。数年前の事ですが、『おい、めしをくったか?』とか『いまのうちに便所へいってこい』とまるで肉体労働者(差別用語では土方)が使うような言い方を女子小学生に吐いている熟練女教師を見た時は殆ど目が点、気絶しそうになったものです。

 もうこれは物言いとか言葉の優雅さとか文化を陶冶するとかいう次元ではありません。教育以前の問題ですが、父兄達はそういうデリケートな部分に頓着しません。むしろ下品で粗野な物言いの方が率直で「親しみ感じさせてずっといい」、と肯定的でした。こういう事実を知らない親達は「総て学校任せ」という種類の人でしていうところの「諦め派」なのであります。

 こういう無責任、人任せの存在する世界、こういう教師が居てそれを容認する父兄と学校・・もうそれは学び舎ではありません。飯場の台所です。江戸時代の「寺子屋」の方がずっと教育に真剣でありました。

 日系人会で彼らが感じる「ぼんやりとした不安」は言葉と歴史認識のギャップの差から生じるもの、といわれてみればそういう意味では確実に存在し、そしてそれは日系人会だけではなく本拠本元の日本国内でも浸透してきているのが昨今です。気がついている人もいれば勿論無視する人もおります。そしてどちらにしてもどうしようもない、というのが今日の有様であります。

 こういう失われて行く共通点に変わって世界に共通した新文明が誕生しています。それは言葉のニュアンスや情緒などというまどろこしいものを必要とせず、ひたすら言語は記号のように一つの意味になって生まれ変わっていく世界です。

 これは世界中、どこの若者の間でも受け入れやすいように簡素化されていて、彼らの特権ともいえる簡略化と暗号化に変化していくように見受けます。ちょっと怖いですね、恐ろしい気がしますね?私のようないい歳のおっさんにはもうついて行けないような気がしてならないのであります。言葉が記号になるなんて、あなた我慢が出来ますか?

 まあ、これは一種の現象みたいなものでして、これだけ新種の文明が発展し浸透すると世界が共通した価値観を求め始めるのは当たり前なのですね。

 日本に限らず、その共通した(インターナショナル的な)価値観は、その国やその民族のオリジナリティとは反対の極に存在し、古い世代は、新時代に息切れしながら追いつこうとする自己矛盾と、それまでの居心地が良かった(ナショナル的な)懐かしさ、とに戸惑いつつ、新種の文明へ足を踏み入れるのです、そう、「流行に遅れてはならないから」、という理由だけで。早い話が、今、いい歳頃の御同輩を悩ませているコンピューターもその一例なのであります

 1世が憂いているように、子供達は大人からの「こごと」よりも気の利いた目先の情報(流行)を大切にしたがります。しかし彼らもやがては少しばかり歳をとってそれなりに人生の辛酸を舐める時、1世の「こごと」が懐かしく感じるはずです。

 しかし実際にはそう呑気に構えていられないのも実情でありまして、早い話が、子供が大人に成長するその時まで貴方は待っていられるでしょうか?時代は待ってくれるのでしょうか?

 とまあそんな事を心配していたおりもおり、この胸を打つさり気ない話が飛び込んで参りました。

 その一つは両親が日本人1世ですが、この青年は、なんというかオタク(日本では「閉じこもり」感覚に近いのでありますが)の雰囲気が漂っておりました。周囲と上手にとけ込めないタイプです。その青年が親元を離れてアメリカへ飛び立つ、その時にそっと呟いた言葉。
『これまで色々とありがとう。面倒をかけたけれどきっと親孝行するからね、それまで元気でいてね』という一言。この一言は彼の母親だけではなく私の涙腺を緩めます。この子はきっと将来は大成するでありましょう。普段の口の重さから察して、心根の優しさが吐露されております。

 そしてもう一つはハワイの大学へ行った3世が、1世のお婆ちゃんへこんな別れの(そしてお礼の)カードに残した言葉。全部ご紹介しましょう。

 『グランマ・・・。いつも、いつもありがとうございます。小さい時から今までグランマの家に行くのは楽しかったです。いつも、「ただいま〜」「おかいり〜」言うのはおもしろかった。そして、食べ物を作って、おいしかった。日本に行くのも、とても、とても楽しかった。いろんなきょうかいを回っておいのりをして、いい気分でした。ながいあいだ、ありがとうございます。また、大学からそつぎょうをしたら、あおーね。そして・・・、グランマのことをわすれないから・・・僕のことをわすれないでね!ながい いき をしてね!(本文のママ)』

 この1世のお婆ちゃんは、我々日本人、特に戦争に関わりがあった人にとってはきっても切れない深くて強い義理のある人です。ご主人はあの横井庄一さんの発見時から通訳をかってでていた日系2世のハワイアンでした。

 一生懸命に書いたのでありましょう。自習したのかそれとも日本人の母親から教わったのか、カナ釘流で心をこめて書かれてありました。この青年、芯が通ったひょろ長い背格好、地元の奉仕活動には積極的に参加しておりました。とても素直ないい青年でありました。日本語を一番不得意としていたのですが、大好きなお婆さんに読んでもらいたくて必死に書いたのでありましょう。ハワイへ出立する早朝、テーブルの上に置いてあったそうです。

 酷い環境、残酷な人間、脆弱で不信感だらけの政治ばかりを見ているとなんとなく末世を予感するものでありますが、しかし実世界にはこういう健気で優しくて心を打つ純粋な青年がたくさんいるはずです。誰に頼まれたでもなく、縁があるわけでもないのにグアムの慰霊塔へお参りし清掃を手伝う青年達、前の大戦を説明していたら目元にいっぱい涙をためて聞き入っていた若い女性、年齢性別に関係なく胸にヒソと高邁な志を抱いている青年男女はきっと沢山いるはずです。私はそう確信しております。

 こういうのを環境だけではなく、質の(産まれ持った性質)良さというのでしょう。

 そういう意味でも1世の貴方、いい生き方をしていこうじゃありませんか?後世の為にも・・です。誰に遠慮をする必要がありますか、人生は一回こっきりしかないのでありますから、いつも堂々といいましょう。そう、胸を張って『俺は1世だあ、文句あるかぁ!』てね。  

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2005年10月12日

グアム新聞「おらあ〜1世だぞ〜・・の巻き」

 いつの時代、どこの場所でも共通の思いでといえば友人になります。日本生まれ、日本育ちの私ですから日本人の友人が多いのはいうまでもありません。
  ニューヨークには同じ日本人の中でも、北村先生にいわせると『日本に帰っても潰しがきかず、日本的な慣習についていけぬ若者が海外にワンサといる。風来坊のように定職につけず、気分とはったりや能書きばかりがやたら多くて自分にとって楽な事、遊ぶ事ばかり考えているノー天気、ネーメンタル乞食が世界中にいて、(彼らは日本人の悪口をいいながら日本人の間にしか住めない性質を持っている)真面目に働いている人間の間をすり抜けるように泳ぐ。そういう輩の事を「西洋ルンペン」とも「渡りルンペン」というんだよ。』と。
 この「西洋ルンペン」というのは一種の寄生虫のようなもので海外には必ずおります。勿論、当時のニューヨークにも結構いました。
 彼らの多くは自分に甘い性質が災いして、日本の社会が嫌であったところを、たまたま仕事かなんかで海外に出てしまって、そこの日本人社会でそこで覚えた世渡り術を駆使し、いつしか住み着き仕事をしている、という風景であります。無害でありますが寄生虫であるから時に日本人の面汚し的な事を平気でして迷惑をかけます。でも元々日本人のプライドを捨てているようで気にかけおりません。日本ではフリーターやニート人種が話題になっておりますが、ま、そういえばよく似ておりまして、歴史的に因縁的なものを感じさせます。
 ま、こういう少しばかり常人の意識と外れた人種は別にして、オリジナルの日本人(これを1世というのだそうです)、ハワイやロスアンジェルスから来た2〜3世の日本人と沢山知り合い、それが故にとても充実したニューヨーク生活をおくれました。
 チヨさんというちょっと熟女の日本人女性が友人でした。ご主人はボブ・タンゴさん、この人は3世で日本語が少し(というかかなり)覚束ないのであります。この大柄なボブさんと小柄なチヨさんはとても仲が良くて当時独身青年だった私は「いつかああいう夫婦になりたいものだなあ?」と感心したものです。
 チヨさんはファッションデザイナーでしてデパートのブルーミングデール(業界を知っている人には懐かしいでしょう?)でショウインドウをデザインしておりました。
 この人は私より歳が上なので考え方がもっとコンサブティブでありまして、その頃の日本の教育やら政治を大いに憂いていたものです。そこら辺が私と妙に気があったのでしょう、きっと。
 私がオフ・ロードウエーで舞台を演出する際、デザイナーとして駆けつけてくれ専門家が激賞するほど素晴らしい作品をイメージしてくれました。
 現在はボブさんの仕事の関係でハワイのボブさんの実家へ戻っております。。『ハワイは嫌、田舎臭くて私には性に合わないわ』と嘆いておられたのですが、いつしかハワイマニアになっておられました。彼女いわく『住めば都』なのであります。
 ニューヨークには日本的な日本人、日本の影響を受けている日系人、そして日本人でありながら意識的に日本人である事を忌み嫌う日本人・・とまあややこしい話ではありますが色々な生き様、考え方をもった日本がそこにはあったものでした。これは日系人の居る所いずこも同じ現象で、同じ悩みを抱えている現象なのでありましょうか。

 さて、話変わって、ついこの間、東京で「第46回海外日系人会」という名の大会が東京でありました。私、早速飛び入り参加しました。世界の17カ国から1世から4世までおよそ200余名が参加しておりましてなんともいえぬ華やいだ雰囲気でありました。
 とまあ、そういえばハイクラス風でなんですが実際は違ったのであります。
 海外に長い間生活していると都会のギスギス感といいますか、垢抜けした感覚がだんだん失われてきて、なんとなく農家の畳敷きの居間でくつろいだ感じが染み付いてしまうものでございます。 なんといいますか、そういう雰囲気がこの「海外日系人会」の集まりに色濃く感じたのであります。懐かしい人々、昔気質という言葉がイメージに重なるような人達が集っていたのでありました。
 それに覆いかぶさるようにして皇室や外務省政府要人からの挨拶や歓迎レセプションがあって、それはもう参加した皆さん大いに持ち上げられたものでありました。

「海外日系人会」は、それはそれは長〜い歴史がありまして、初回は1957年、戦後12年経ってから行われました。その時の人数は14カ国364名、であるからして私が参加した第46回のスケールではほぼ同じようなものだったのでしょうね。
 しかしながら会場の雰囲気はおそらく現在とは比較にならないほど民族的な同胞的な意識がかなり強いものであったのでしょう。今回のような1世と2〜3世の世代間のひずむ云々問題で嘆きの大会とは熱さに於いて温度差があったことはなんとはなしに想像ができます。
 その「海外日系人会」の歴史を知ったかぶりのまま書き出しますと・・・。
 前の大戦中の事です。アメリカに移住していた日本人、日系人のおよそ12万人が強制的に収容所に隔離されまして不遇をかこっておりました。
 それを知った日本の政府は赤十字を通して物資、いわば醤油、味噌、書籍などの郷愁を誘う日本的な物資を彼らに贈りました。『しかりせいや、俺達は見捨てないぞ!』という感じですね。
 そして戦後、惨めな程に惨敗した日本の状況に心動かしたニューヨークに在住している彼ら在米日系人が『それは大変だ』とばかり、戦中の慰問品に対しての謝礼も含めて物資(この場合は粉ミルク、医療品、食料、衣料等々)を贈り出したのです。それもおよそ2年間もの長きにわたって。
 私は記憶の片鱗すらないのですが、シルバー世代に近い人であればご存知でしょう、戦後間もなく「ララ物資(アジア支援物資)」という緊急救援が日本国中を駆け巡り、戦後疲弊した国民の飢えを凌ぎ、疫病から護ってくれたありがたい救済組織がありました。これは米国のキリスト教、労働組織などが主となって組織した団体で、彼らによる送付総額はおよそ400億円(現在の価格比較をするとその金額の膨大さに卒倒する人がいるかも知れません)を超えたそうですが、その内の20%(80億円相当)は前の日系人の喜捨によるものだそうです。いやはやこれまた大変なエネルギーであります。
 ニューヨークに居た頃、前の昭和天皇陛下ご夫妻がご訪米されまして、ワシントンDCの議会で演説されました。その時天皇陛下は『私は戦後になって外国旅行を一番切望したのはここアメリカでした。というのも、戦後我が国は戦争の被害で疲弊し国民は希望を失いかけておりました。その時に、あなた方アメリカ人が医療を始めミルクなどの食料を大量に寄付して下さりその御陰で今日の日本はあるといえます。私はここアメリカで議会の皆さんとアメリカ国民に対してどうしてもその事がいいたかった、お礼を申し上げたかったのです』
 戦後生まれの私とはいえ、ララ物資の話は聞いておりましたから、このお言葉を耳にして私は震えると共に感動しました。正に陛下のお言葉どおり我々日本人は敵国に助けられたのであります。素直に感謝された陛下のお姿に全米中が賞賛していた事が今でも記憶に残っております。

 さて、海外日系人会はこうした互いの感謝と同胞意識を深める為に集結したのがきっかけで始まり、やがて皇室や国会議員、経済界を交えた大掛かりな大会へと発展していきました。
 数字でいえば海外に移住している日系人はおよそ960.000人でそのうち成人はおよそ720.000人もおります。960.000といえばグアムの人口の6倍以上もあるのです。そして現象として興味を惹いたのが「2世以上は増え続けるが1世の数が年々減少していっている」という事であります。これはつまり海外に移住する日本人の数が減少している、という事なのですね。
 ハワイに次いで著名なブラジル移民は1908年に19万人が移民として最初に海を渡り、それが現在では6世代150万人にものぼっているそうです。
 ここグアムでも移民の歴史があって、というよりもグアムとハワイがその日本国移民史の最初に記録を記しておりまして・・そう、グアムは世界で一番初めに日本人移民が始まった場所なのであります。
 1868年(慶応4年明治元年)4月、日本人政府が3年契約で公認し進めた事業によって労働移民した日本人は42人(ハワイへは153名)。おそらく平民から選抜された人達だったのでありましょう。「アプラ港付近で水田稲作を始めた」、という史実があるから百姓であったかも知れません。4月に横浜をでて6月に着いたそうですから2ヶ月間も荒波に揺られていたのでありますね。
 グアムではしかし、当時は未だスペインが支配していたので宗教の圧力が強く、約束の給料も満足に払えない事から政府は数年をまたずして(1871年)病死した者以外、全員を帰参させました。ハワイへ渡った153人の移民はそのままそこに住み着き、今日の移民史の礎になっているので、それと比較したら、グアムでのスペインによる宗教の迫害は相当なものと想像ができます。(参考までにハワイ移民はその後1885年にも944人が移民している。)
 この事件を60年程さかのぼる文政年間にはグアムに漂着した20人程の日本人がいたそうです。するとこの島の日本人との付き合いは結構古い事になります。
 ここではその事だけを強調しておきたかっただけの事ですが、グアムをただの愚にもつかない大柄の島、などと決めつけるとこの島の本当の魅力を発見できません。日本人移民の歴史が始まった場所グアム。日本は戦争以外にもそういう色々な部分でグアムと関わりがあって、他の日系人の住む島(国)とは歴史的なスタンスが違うのだ、という事をお知らせしておきたかったのです。(「南島巡航記」鈴木経勲著・参考)

 さて、海外日系人会の会議の事。
 早朝から行われた会議では各国代表がテーマに沿って現地でのプロモーションから悩みよろず相談、会が合同して行える要求などについて話し合います。
 今回は丁度衆議院選挙が行われた後でしたが、海外で比例制選挙ができるように行動を起こしたのもこの会の面々、因縁なのか、小選挙区での選挙が可能になったのは会議中での事であり、まあなんと申しましょうか、長い時間の割には充実した情報交換の場でありました。
 世界各地に散らばった720.000人もの選挙権のある成人が投票すればこの私だって当選してしまいます。そう私に人徳があれば、の話ではありますが・・。  「そんなこんな」を話し合って夢中になっているさ中に『でも今回の比例区選挙では720.000人中、たったの25.000人しか投票しなかったよ』、という話がでて白けてしまいました。つまり関心が低いのでありますな。
 そう、かけ声ばかりが大きくても実行が伴わなければなにもなりません。こういうのを「船頭多くして船動かず」というのですが、日本もグアムも似たり寄ったりであります。  

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