2016年12月08日

真珠湾攻撃の日

 今日は真珠湾攻撃の日、つまり大東亜戦争が始った日です。ここグアムはその3時間後に始りました。国会議員の下地幹郎さんはその真珠湾へ慰霊祭の為に参列されています。
 さて、安倍総理がそのハワイ真珠湾に米軍戦没者の慰霊に行く、という話についてですが・・。これは賛成も反対もなく、かつての敵国の将兵を公式に慰霊するのは大切なことであって、おそらく陛下も同じことをどこかで思っておられるかも知れません。愚か者はこれを謝罪、と決めつけますが謝罪もなにも祖国防衛の為に闘った兵士を慰労し讃え、哀悼するのは(どこの国であれ)国民であれば当然だと思います。ここグアムでも「我が英霊の慰霊祭を挙行したい」と申し入れて許認可を求めたら「これまで日本人が言い出してこなかったのが不思議だった」と皮肉をいわれましたが、ことほど左様に彼らでさえ(敵味方に関わらず)国家の為に散華した将兵を尊敬する気持に変わりがないのです。それを恥とも思わない感じないのが我が国民です。
 安倍さんはしかし総理になってから隣国の反発を配慮して靖国神社を参拝していません。また韓国に慰安婦問題の謝罪として10億円もの資金を供出しています。嘘を真実と認めたのです。真珠湾での慰霊はパフォーマンスと思いたくないのですが、やはりそこに矛盾とおためぼかしを感じざるを得ません。
 とはいいながらこれは国民の多くが心に潜めている似たような感情でしょう。思っていても口にも表情にも出さず、できれば穏便に金銭で解決するか距離をおいておきたい、という風に。ですから安倍さんだけを責めるわけにもいきませんね。ただ、こういう姑息なで自己保身の配慮がいつしか大いなる誤解を招き、他国や自国民へ影響する事だけは忘れてはいけません。前の大戦はこういうお国事情と「貴方任せ」の無責任が惹き起こした、という事実を知っておくべきですね。

 これから本格的な寒さ到来です。どうかお元気でいらしてください。  


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Posted by kenhagaguam at 13:40

2015年11月12日

 11月の声


10月と11月は社員旅行や修学旅行が多く入ります。僅かですがトレッキングや平和学習に参加する学校や会社が集中して、一般客を断ることも多々あります。
 10月に来島したのは奈良県の大学付属中等高校生徒およそ170名。イナラハンのスペイン村探訪とトレッキングを楽しみました。青春ちょっと手前の学生達が歴史を知り、地元学生と交流する様は気持がいいものです。ディナーを一緒にしお互いがダンスを見せあうのですが、この高校は若者らしさに溢れ、また知識が豊富でそれぞれの家庭環境や学校側の教育姿勢が見事ににじみ出ていました。明るく豊かな気持で学び暮らす。そういう社会の礎になってもらいたい、とそう自然に感じました。
 とまれ11月も修学旅行があります。期待に気持が高ぶる11月となります。

「探検トレッキング」、「戦跡ツアー」のお申し込みとお尋ねは、
www//uses @teleguam.netか
 080-9985-6333
へ日本語でどうぞ、
  

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Posted by kenhagaguam at 10:42

2015年09月23日

グアムローカル・日本軍将兵戦没者慰霊祭

 祭の模様、2015年9月4、5日
 ローカル慰霊祭(マンガン山にて)、日本軍慰霊祭(フォンテヒルにて)
マンガン山慰霊碑
マンガン山ローカル慰霊祭
慰霊祭2015日本軍司令壕
フォンテヒル日本軍慰霊祭清水さん大阪市90歳
平沼赳夫氏
フォンテヒル日本軍慰霊祭
  

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Posted by kenhagaguam at 15:36

2014年08月05日

〈グアム戦争のことども〉グアム戦後70 年慰霊祭に寄せて

 私がグアムで太平洋戦争グアム戦に興味をもったのは、数十年前から訪問していたジーゴ村の南太平洋戦没者慰霊塔とその周辺があまりに荒み果て廃墟同然になっていることに愕然とし、また趣味でジャングルを散策していると戦争の残滓ともいうべき砲弾破片、薬莢、ヘルメットなどが散乱し錆び腐っているのを見たからでした。以来有志に呼びかけ慰霊塔の清掃と慰霊、戦跡の掃除、遺骨調査、慰霊碑の建立などを計画しては実行していきました。年二回の戦跡掃除と慰霊は今年で32回目になります。
 また訪れるグアム戦の生還兵や地元のサバイーバー達から当時のお話を聞く機会が多々あり、調査も含めると次第に〈あの戦争〉がどういう状況で始りどのような終末を迎えたのか、もわかるようになりました。
 と同時に、胸を痛めたのは戦時中に巻き添えになって犠牲になったローカルが多数いたことで虐殺事件まであったことでした。その頃は未だ体験者がおられたのでお話を聞く事ができ、また彼らの慰霊祭に顔を出している間にそこに日本人が参加していないことに気付き愕然としたものです。彼ら犠牲者家族は「戦時のこと、全てが尋常でない状態で起きた事件だから許そう」と言います。これが私の胸を打ちました。

 そこで我が先人たちの犠牲的精神を尊崇し感謝をこめて多数の日本守備軍が倒れた戦場での慰霊、と前述のローカル犠牲者の慰霊祭をそれぞれ同じ日に挙行することを企画し、様々な曲折を経ながらようやく昨年の6月に念願の慰霊祭を果たすことができました。グアム歴史上日本人が主催した慰霊祭はこれが初めてで戦後69年も経っておりました。その時の主宰者は私ども「戦争を風化させない会」と公益財団法人太平洋戦争戦没者慰霊協会との共同主催で、自由民主党政調会長の高市早苗様が自民党衆議院議員の山本拓様が列席され靖国神社の祭祀を行いました。金春流の能楽師が仕舞いを奉演し、歌手の長沢純氏が奉歌しました。
 今年は昨年の熱意のまま戦後70周年記念ということで7月の26日に昨年に続き高市早苗様、「次世代の党」の平沼赳夫様と三宅博国会議員にご来島頂き〈アサン米軍上陸海岸戦場〉と〈マンガン山地元民強制収容所〉の2カ所で豪雨の中濡れるのも構わず慰霊祭を挙行できました。安倍総理から献花を頂き、メッセージも頂き、昨年同様高市様が代読されました。高市様に限らず国会議員たちのメッセージは胸をうつものばかりで日本人のみならずローカルも涙していました。

 私は、〈前の戦争〉でお亡くなりになられた兵隊を誇りに思います。彼らの「国を想い、国を偲ぶ」気持ちを決して軽んじてはいけないと思います。と同時に心ならずも犠牲にしたローカルがいたことも決しておろそかに考えてはいけないと思います。その思いで、「戦争を風化させない会」を結成しました。今では日本からの支援のみならずローカルからも賛同者が輩出し、共に戦跡掃除、遺骨調査などで汗をかいております。
 慰霊祭にご参加された若い世代を中心とした一般からのおよそ20名全員が厳粛な祭祀の祝詞と「君が代」「うみゆかば」の斉唱時にご英霊の御霊が降り来たりて、感謝されているような気分になりました。希有な体験でした。その体験から「来年も是非開催しましょう」、と話し合っています。
 慰霊祭を通じてご英霊に感謝し尊崇の気持ちを表わすのは、と同時に自らの先祖に感謝しその意思を継承していこう、という覚悟を会得することでもあります。それがここで戦死した高品彪中将の「彼らを誇りに思ってほしい」という遺言につながります。
 参加者はもう来年の慰霊祭を話題にしております。今度は彼らが汗をかいてくれることでしょう。期待しております。この慰霊祭にご協力くださった皆様に厚くお礼申し上げます。


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慰霊祭2014 ジャニャ 三宅博氏
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慰霊祭2014 ジャニャ
慰霊祭2014 ジャニャ平沼赳夫氏
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慰霊祭2014
玉串奉納
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Posted by kenhagaguam at 16:47

2014年05月22日

2015年度グアム戦戦後70周年記念慰霊祭のお知らせ

 グアムに住み着き長くなりました。そしてここでの戦没者慰霊に携わってきてからも長くなりました。
 今年はここ太平洋での戦後が70周年になります。日本は来年が70年となり時が早く経つ事に感慨深いものがあります。私はそこでこの年を節目として太平洋諸島に散華されたご英霊のご慰霊をまとめて行おうと思い立ち計画を建てました。護国神社の宮司によりますと散華された場所での祭事が一番御霊のご供養になるそうです。諸島の真ん中にグアムがあります。
昨年は厳粛な雰囲気の中にも互いに志の通う有志が集っているので和気あいあいとしたものがありました。こういう雰囲気の中に入ると我が国も捨てた物ではないな、とそう感じ入ったものでした。今年は昨年同様高市早苗様、維新の会の平沼赳夫様などなど国会議員が多数参加される予定です。我が国の代表達と共にご英霊へ感謝の誠を表し、また地元民犠牲者へ哀悼の誠を捧げましょう。
 太平洋戦争戦没者慰霊祭は、かつて我が祖国存亡の時を迎えた時、これを護持するためにあえて生命の危険を厭わず顧みず戦いを挑み滅び去ったご英霊のお気持ちに感謝し、その意志を引き継ぐための儀式でもある、と私は考えております。そしてこのことは見た目に小さな一歩に過ぎませんが、日本的なものがないがしろにされ崩れさられる現代においてとても大切な精神の輝きとなって、特に若い世代に伝播するきっかけになるだろうと信じております。この慰霊祭の目的は正にそこにあります。
 もしご都合がよろしければどうか奮ってご参加ください。ご招待します。
 興味がおありの方は詳細を送りますのでご一方ください。
kenhaga@teleguam.net
東京での窓口080−5658−5534(モリス喜美子)
御待ちします。
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昨年度慰霊祭
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昨年度慰霊祭
  

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Posted by kenhagaguam at 16:41

2011年02月23日

戦跡ツアーを終えて知った事です

【お知らせ】

前回探訪した恋人岬の謎の掩体壕のことがわかりました。

あれは戦時中に米軍が造営した爆弾倉庫だったそうです。
直ぐ近くに空軍の滑走路があり、あの周辺全体が基地でした。
そのやや前には日本軍の滑走路と司令部があるのですが未完成のまま開戦となっております。因に、ここで収容した爆弾が東京空襲に使われました。

日本軍はグアムに飛行場を3基造営しましたが、完成したのはオロテ半島だけでした。
もう一つはここタンギッソン、そしてアンダーソン空軍基地の北側部分です。
オロテ半島の基地がグアムで最初にできた飛行場だったのです。
このオロテ海軍基地飛行場から飛び立ったゼロ戦は毎朝グアムの空を飛翔して いたそうです。
地元人にとっても珍しい光景だったようですよ。

残念ながらゼロ戦は開戦と同時に叩かれ「ターキーショット」と愚弄されたそうです。
囮に飛び出して面白いように撃ち落とされた、と証言があります。悔しいね。

でも開戦から暫くして、どこから飛び出したのか、ゼロ戦が敵機を何機か撃ち 落とした、
という史記があります。日本軍は壊滅していなかったのですね。これは米軍か らの情報です。

今日、戦跡ツアーの終わりにジーゴの慰霊塔へ行きましたら日本の空軍の将校 達が慰霊にこられていました。記念写真を撮るのに懸命でした。私が「アサンの戦場へ行 かれましたか?」と尋ねたら何もご存知ありませんでした。先週末に偶然あった、やはり空軍の パイロット達が(彼らは演習できている)日本軍の戦闘を知りませんでした。この兵隊達は熱 心に色々なこと、場所を聞いてきましたが、ジーゴの方はムスとした感じでした。これはいけません、 誤解を受けますね。

私がこだわるのは慰霊をするのであれば是非共開戦時に大量の犠牲者を出した アサン海岸地帯をして頂きたいな、ということ。なぜ日本政府は自衛隊をはじめ政府高官に明 確な情報を出さないのでしょう。これみよがしの儀礼的な慰霊を専らとするのであれば仕 方がありませんが、少なくとも多くの兵士が懸命に戦い尊い生命を抛っていったアサンとアガットという上陸地点でも是非して頂きたいですね。
パイロットの人達も全く、と共感していました。また、米軍主宰の慰霊祭もここを選んでおります。


以上、興味をもっておられた方への情報です。  

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Posted by kenhagaguam at 21:07

2011年02月22日

謎の戦跡、恋人岬の掩体壕発見

 多年にわたって書き続けてきた本稿の中で、一番苦しみながら紹介するのがこの稿である。これまで多くの戦跡や史跡の発見は、ジャングルを徘徊しながら偶然、あるいは情報に沿って調査しての発見でそれなりに驚きと感動があった。しかしここで紹介する掩体壕は、どこの国がどういう事情と理由でこれを完成させたのか、これほど情報と知識が乏しく確信の持てないまま原稿にするのは始めてで頭を抱える。もしこれが日本軍のものであれば殆ど完璧な状態なので日本軍の戦跡の中に新たに新説が生まれ、戦記に組み込まれるし、米軍の物であれば、なぜここに?という淡い疑問が頭から離れないことになる。そういう不思議な感情になるのがこの壕なのである。おそらく読者の推理推測に頼った方が、謎解きが面白くなるかも知れない。

 この壕の発見は偶然によるものであった。戦時中の日本軍兵士の20.000柱に近い遺骨調査の情報と目撃に基づいて、恋人岬周辺にある、といわれていたジャングル内での捜索から始った。目撃者談によると数体の遺体が埋葬されている、というもので、その現場と思わしき場所に辿り着き、色々と想像を巡らしながら周囲を探索している間に偶然見つけたのがこの壕であった。
 この壕そのものは、両軍どちらのものであれユニークな形態のカマボコ型をしていること。その周辺は鬱蒼としたジャングルで、壕が突如として登場してきたような異様な感じがある。
 壕の入り口周辺はやや開かれた空間があり、その周囲には深さ1メートルほどの溝が掘られていて、それが幅2メートルを保ちながら壕を遠巻きにしている。長さは側面がおよそ2百メートルもある。これは明らかに雨水を溜めておく為のものである。さらに近くには機関銃が設置できる大石を積み上げて造った陣地まである。66年の時間が積まれたぐり石を緑色に染め上げ(実際には苔むして)、真ん中に大きなくぼみを残したままそこに在る。おそらく警備用にこしらえた物であろう。そこら辺から察するとここは日本軍の使用によるもの、と推定したくなる。
 壕の入り口の左右には、中にセメントが詰めてある土嚢が形よく積まれていて、壕の上は土がカモフラージュのようにかぶせてある。長い年月の結果、その土には木が生えてツタが絡まり遠目にはこんもりとした丘にしか見えない。米軍の壕であればこのような面倒臭いことはしないし必要がない。大体戦闘中にこれほど見事で完璧な壕が造営できるわけがない。無論、追いかける米軍がこんなに戦地から離れた不便な場所に壕を造る理由がない。
 壕の入り口は鉄製の枠組みによってできており、半月型の曲がりをもっている。高さおよそ180センチ、日本人にはやや高いがアメリカ人では低過ぎる。幅はおよそ3メートル、従って中央部分が高くそのままカマボコ型になっている。床面はコンクリートそれもかなり技術度が高い。屋根はトタン板状でアメリカ式のような横波形ではなく縦波形、ボルトは大きくアメリカの通常のカマボコ兵舎のそれの倍以上もある。またトタン板も通常のそれより倍近く厚い。
 この壕の長さはおよそ30メートル、それがそのまま5棟連結している。連結部分は1メートルほど隙間があり空間のあちらを土嚢で囲っている。連結部分で不思議なのが、丁度3棟目の右横のあちら側にコンクリート製の壁囲いがあること。その傍に壕に繋がっているコンクリート製の石通路があること。何が不思議かというと、コンクリートの囲いは高さおよそ2メートルでインチ、フィートで図ってあること。窓はないが通信用の電話線が残っている。また石通路は厚さ15センチで幅90センチとこれは日本式のサイズになっていること。これが筆者の想像力を滅茶苦茶にしてしまうのだ。
 壕のあちら側は入り口と全く同じ形式。溝があり土嚢があるのは変わらない。ここよりやや離れた所にも同様の壕の骨組みが遺されている。時間がなかったのか屋根に土がかけられておらず、また土嚢もない。この風雨にさらされボロボロに腐った骨組みの壕は3基ある。
 米軍のものではないであろう、という論拠は、この場所に掩体壕が何故必要だったのか、また、なぜ壕をカモフラージュしなくてはならないのか、という他に壕付近で見つけたテーブルの脚のような木片が日本の尺で図ってあったこと、などから米軍がここに壕を設置する必然性がまるでない、ということにある。

 さて、情報として、かつてここには高知県の守備隊が陣取った、という記録がある。海軍の陸戦隊(海兵隊の魁)で決戦時には第54警備隊に編成されている。その隊が近くに滑走路を設営している。当時の日本軍の地図にその滑走路は恋人岬付近にそのアイコンが記されている。他にも開戦前にオロテ半島、タムニング(現国際空港敷地)、さらにはジーゴの北岬(リティディアン)周辺にも滑走路敷設を計画し半ば実行しているが、時間的猶予、物的限度、人員確保とどれをとっても不利な状況にありながら当時の日本軍は空軍を充実させたがっていたことが窺える。グアムに最初に滑走路を敷設したのが日本人であることから、先人達の積極果敢さに敬意を覚える。
 とまれ、当時グアムには海軍の空戦部隊しか残留していなかったことから、もし、そこに滑走路があれば当然のことながら弾薬として航空魚雷が必要になるはずである。海面スレスレに飛来して敵艦めがけて魚雷を放つ、という魚雷のことである。海軍が持ち込んだ航空機は戦闘機としてのゼロ戦、月光、そしてゼロ式艦爆機(グアム・ワーミュージアムに陳列)、一式陸攻、銀河などの魚雷を抱えることができる爆撃機である。そしてその魚雷を保管する場所がこの掩体壕ではなかろうか、というのが筆者達の描く想像図である。
 戦争とは不思議な争いである。国家間同士が単独であるいは連合で殺し合う。僅か数年の間に叡智を絞り込み、念のいった戦略を立てて殺し合いに興ずる。結果、勝っても負けても大切なものを失い、それを取り返すためにまた多くの時間を必要とする。グアムでも多くの兵士や市民が血を流し生命を失い、戦跡が放置されていく。そこには栄光も勝者も存在しない。ただ遺っている、という事実だけが戦争の影を落す。それが誰によって、どういう目的で、そして実際にはどのようになったのか、を語る者も少なくなっていき、やがていなくなり、それが憶測を生み、推定で判断され、やがて謎の部分だけが残されていく。グアムにはそういう謎の戦跡がたくさんある。そしてこの掩体壕もその一つなのだ。

 筆者とその仲間はグアムの英霊遺骨調査と発掘する集まりを企画しています。在留日本人のみならず、ローカル、アメリカ人と多様な人々が一緒に汗をかいております。賛同される方、一緒に参加ご希望の方を募集しております。ご連絡ください。
671-777-4545・芳賀、あるいは掲載誌まで


遺骨現場か?
恋人岬の掩体壕1

恋人岬の掩体壕2 恋人岬の掩体壕3

恋人岬の掩体壕4 恋人岬の掩体壕5  

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Posted by kenhagaguam at 20:28

2011年02月14日

お知らせです

この間、恋人岬付近に日本軍兵士の遺骨がある、と聞いて調査しました。
しかし何度掘っても発見ができなかったのです。


今日、新証言を頼りにまたぞろ調査にでかけました。
証言者のリノ・橋本さんと服部さん、そして弊社のジーンです。

その場所は恋人岬へ向う道中の道ばたにありました。
写真がその場所です。
リノさんによると、随分前にここで日本人が焼香をあげているのを何度も目撃 しています。
その頃は写真の石の台座に銅でできた慰霊者の名前が掘り込んであったそうです。
彼はそれが墓標に見えたといっていました。
これから博物館や大学で確認をしますが、できれば早く発掘をしてみたいと願 っております。

まずはお知らせです。

新恋人岬遺骨調査  

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Posted by kenhagaguam at 11:31

2011年01月11日

遺骨収集の年にしたい

 おめでとうございます。
 この1年の夜明けをどのようにお迎えになられましたか?

正月早々ですが、私は未だある戦跡の発見と遺骨収集に力を注ごうと決めました。
 慰霊や戦跡紹介をビジネスツールと誤解している人、誤解されてしまっている人がいるようだ、と耳に入り、このままでは英霊達が政治的に利用されてしまいそうな気がして来て、奮起したのであります。

 その前に・・・私がこのグアム島での戦争を、日米共に克明に調べてきた結果、仰天したのがここで戦死した兵士が、そのまま殆どこの島内に眠ったままであることでした。20.000名近い兵士の生還兵がおよそ1.500名(横井正一さんも含まれます)、で残りの戦死者の遺骨で帰還したのが僅かの700柱程度です。つまりおよそ18.000柱が我々の住んでいる足元に放りぱなし、ということになります。まさにギョギョギョなのであります。

 私が(有志が一緒なので個人的ではありませんがここでは私、とさせて頂きます)遺骨収集をして差し上げたい、そして靖国神社へ還してあげたい、と願いながらも貧乏暇無し状態ですから時間などそうそう簡単にとれるわけがありません。しかし、言い訳していればそれこそ永久に収集どころか調査もできまい、と覚悟して、で、昨日、思い付いたように遺骨調査にでました。
 これまでの調査ですと、もっとも大量に戦死者が出たのが米軍上陸戦の7月21日からのおよそ5日間あまりの間で、アサン海岸からニミッツヒル周辺までの戦場に於いておよそ9.000〜10.000名が、またアガット海岸からアリファン山山頂に至る周辺と海軍基地内のオロテ半島を含めて3.000〜5.000名の尊い生命が失われております。その内アガットの海岸線で戦死した兵士は海岸地帯で荼毘に伏された後海岸に埋葬した、という風聞があり、今でも人骨が露出する、という話であります。つい最近では住宅街の一角、道路の下から5柱ほどの兵士の遺骨が発見されております。
 こういう大雑把な当て推量の中で、少しは信頼出来るのが米軍の資料、そして当時のローカルの証言であります。私がそこから推量したのが現在4カ所あり、現在少しずつ情報収集と調査をしております。

 さて、今回調査したのが恋人岬周辺に埋葬された、と伝聞のある場所。目撃者によりますと埋葬した傍に墓標がある、ということでした。
 早速証言を頼りに行きました。一口に「そこら辺にある」、といわれましても鬱蒼としたジャングルの中であります。ジャングル、それも66年もの時間が経ったジャングルは何代にもわたって再生し風化し退廃し、そして再生されているのですから全くの勘を頼りに探すしかありません。汗びっしょりになってようやくそれらしい小石の墳墓が見つかりました。全長2〜3メートルでそこだけが異様に盛り石がしてありました。発掘作業の準備(殆ど手掘りですが)用意をしていなかったことと、疲れがピークになっていたので発掘は次回に持ち越し。
 しかし、そこから僅かなところに巨大な(長い)掩体壕というか、兵舎、収用庫のようなものを発見しました。入り口に無数の土嚢が置かれ、壕は婉曲状のトタンで繋がれていて大きくかまぼこ型となっています。これは大戦中に米軍が急造したものであろうか、と推測しましたが、どう考えてもこんな場所にわざわざ日本軍の逆襲を想定しての掩蔽壕を造る理屈に合点がいきません。一緒にいった、工務店の有志の一人が、トタン板がサイズ的に米国仕様ではないこと、中に落ちていた角材(棚かなにかの破片)が日本の木材で日本サイズ(センチであってインチではないこと)であることから日本製であるが証明できるといっていました。となれば、あんなに巨大な掩蔽壕をどのようにして造ったのだろうか,という疑問が残ります。でも壕の屋根には盛り土があり、あきらかにカモフラージュを施してあります。
 そのあちら側、道路を隔ててあちら側にもあって、それはそれこそ急造でしょうかトタンが赤錆破れておりました。屋根には盛り土は当然ながらしてありません。これからも何らかの事情で作業を中止していたことがわかります。ついてながら、戦時中、この近辺にはタモン湾にかけて四国の高知県から兵士が守備についていました。となればなんとなく日本軍の物ではないか、と考えることができるのです。
 この壕は一棟が長さ30メートル以上あり、それがずっと5棟も繋がっておりました。150〜170メートルの人工のトンネルなのであります。想像がつきますか、ずっと延々とトンネルが続いているのですよ。中は広いのです。中心部分は大人が立っても余裕があります。幅は5メートル有にありました。もう66年も前のことなのに、ずっと長い間、ジャングルに埋もれたままひっそりとそこに在ったことが正に意外でありました。日本人的な細かい配慮が行き届いていたからこそ完全な形で遺っていたのでしょうね、きっと。それにしてもこういう遺跡がそのまま人知れず遺っているとは不思議な島です。
 
 慰霊行為が政治的、ビジネス的に利用される傾向が多い昨今です。それを気にしていると「所詮、慰霊とは政治目的でビジネスの延長線上にあるのだよ」と嘯く年輩の先輩がおりました。純粋純真な気持で慰霊をすることはこの世的ではない、のだそうです。この言葉は衝撃的でした。こういう環境にいると、遺骨収集でさえ、ビジネスや政治に利用するのでは、と疑われているようで、思わず気持が萎えてきます。世間が、疑心暗鬼で奉仕する人を見るのはいいことではありません。
 それでも飽きず倦まずに慰霊や慰霊塔清掃を続けていると、やがて年齢の老若に関わらず、祖国のために犠牲になった英霊を素直に感謝し、一緒に行動しましょう、という人が現れてきます。ずっとお付き合いしている有志の皆さんもその例ですから、正直勇気が湧いて参ります。

 グアムにはかなりの戦跡が残っていて、私自身、まだ散策していない所が沢山あります。元気なうちに一つでも明らかにし、純粋な心がけで、できるだけ多くの兵士を帰還させてあげたい、とそう願っております。
 しかしそれにしても、暑いジャングルを日中歩くのには勇気がいりますね。一人でも多くの助けが要ります。ま、いうなればそれだけ昔の兵士は(体力もあったでしょうが)愚痴もいえずに頑張り通したことでしょう。それだけでも思わず、「あんたは偉い!」といいたくなるのであります。

驚きばかりの新年です。


どうか素晴らしい1年でありますように。

ケン・芳賀


掩蔽壕入り口
掩蔽壕入り口

埋葬か?
埋葬か?  

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Posted by kenhagaguam at 21:19

2010年06月23日

フォンテリバーの日本軍壕跡群

 7月はグアムで戦争が始まった月である。実際に太平洋戦争が勃発したのは昭和16年(1941)12月(8日)のこと。日本軍がこのグアム島に上陸占領し、日本史上初めて領土として組み入れたのが翌々10日のことであった。この前後のグアムを含むマリアナ諸島では様々な逸話があって、どれ一つを見てもワクワクするのだが、いつかおりをみて紹介したい。
 グアムでの戦争を筆者は「グアム戦争」とくくり、この戦争の始まり、つまり開戦から終戦までを(殆どオタクのノリで)追いかけてみた。トレッキンで戦場を歩き、生還兵を取材し、日米戦記を通読してそのおおまかな状況を把握をしたつもりであるが、それでも完全ということはない。「グアム新聞」を愛読されている方は、飛び石状態ではあるが、秘境トレッキングの途中に触れている多くのグアム戦争逸話を読まれているはずである。

 この稿で紹介するのは日本軍将兵が戦後グアムを来島する度に探し求めていた「懐かしの日本軍壕」である。これを発見した時、あれから65年も経った戦争に再び触れる事ができた瞬間はなんともいえぬ気持ちがしたものだ。そしてつくづく感じたのが、この島で日米、グアム島民合わせて延べにして28.000名(内、日本将兵およそ20.000名)もの人間が僅か31ヶ月ほどで亡くなっていること、特に日本兵の遺骨の殆どがこの島に埋没したまま、ということ。あの大戦を体験した生還兵と遺族にとっては痛恨の極み、心残りなことを思い起こしたことである。

 因に米軍上陸に備えて掘ったものは陣地、防空壕、掩蔽壕、衛生壕、作戦壕、等々あらゆる壕がある。壕は人工的に構築したもので、洞窟は天然の要塞をいう。その多くは米軍のアサン上陸に備えて構築した有名なニミッツヒル(本田)作戦壕を中心にして周辺に数多くある。筆者が今年になって発見した壕があるほどだから見つかっていない壕は未だ数多くあるのに違いない。当時は戦争直後ということもあって視界がよく、従ってありとあらゆる日本軍壕を見つけることができた。その丘中に大穴を掘り込み日本軍戦死者の遺体を放り込むことも簡単にできたであろう。それが今では未開のジャングル、踏み込むのが困難なジャングルとなって様相を変えている。
 ニミッツヒルには筆者が最近見つけた洞窟がある。うっそうとしたジャングルは雑木林が密集していて足の踏み場がない。石灰の地層は海と雨に洗われギザギザになっていてその岩場に根の強い松がしがみつき道行きを阻む。やがて段々とその地盤の悪い崖にさしかかり、その下の渓谷へと用心深く降りて行くと幾つもの洞窟がある。一見して地表が裂けている様に見えるその洞窟は這うようにしながら下っていかないと中に入れない。
 地下へ落ちるようにして下へ降りて行くとやや広めの空間がある。そしてそこには当時の兵隊が食していたであろう、缶詰の空き缶が沢山散乱していた。2メートル四方、高さ1メートルの空間はそこに居るだけで耐えられなくなる。その空間のあちら側に通り抜ける穴があり、憑かれたようにくぐり抜け出る、とそこはかなりの広さをもった広場になっている。大人が立っても未だ天井が高い。20坪ほどの広さがあり、地面は岩場と泥、大きくでこぼことしてはいるが決して不快な感じはしない。そしてそこにも缶詰の缶が散乱している。ここが衛生壕と思えるのは、軍記にそういう記述があることと看護用のトレイがあること。病院で見かける注射器とか薬品などを置いてある白くペンキで塗布したトレイがある、という遺品から推量できる。おそらく65年前にはここで多くの負傷兵が運び込まれ治療され、そして再び戦場へ走り出したのであろう。あるいはこの壕で多くの兵士が待機していたのであろう、懐中電灯に照らしだされる岩場の壁、岩と泥を練ったような足場、突き出た岩を見ると緊張の余り胸が苦しくなる。英霊がそこにいるかも知れないからだ。
 この洞窟壕の周辺にも幾つかの壕がある。そのどれもが奇怪な形状をしていて中に入るのをためらってしまう。そのどれもが狭苦しく空気が淀んでいて暑苦しい。かつて若き日本の兵士はこういう場所にこもり息を潜めていたのだ。哀しい。

 これまでお付き合いしたかつてのグアム島兵士、今では90才に近い年寄り達がここへ訪れる度に筆者に希望していたのが「本田川の洞窟」探訪であった。その頃はいくぶん若かった生還兵も、また筆者も一緒になって川を下って洞窟探しをしたものだ。しかし残念ながらついにそれを見つけ出すことができなかった。おそらく大型台風により、また宅地造成、道路改修などによってそれはこの世から消えてなくなったのだ、と諦め慰めるようになっていった。長い時間、という空白の所為だけではなく、記憶の曖昧さの所為だけでもなく、ただ単純に戦後60余年のグアム島は大きく様変わりしてしまったからであった。
 そしてつい近頃、思わぬ偶然からその洞窟壕を発見した時はなんの感動も感激もなかった。ようやく見つけた、という感慨だけであった。そして今頃になって、あの頃の生還兵の懸命な顔つきを思い出し、深く感じ入るのである。「それはあったのだ!」と。
 当時の兵隊はそれを衛生壕、とも掩蔽壕とも、あるいはまた「希望の壕」といっていた。戦場である本田台(フォンテヒル)へ出るにはこの壕の前を通らなければならなかったからだ。多くの兵士は壕の前を通過しながら「迷ったらここへ来ればいい」とお互いが声をかけあったそうだ。戦場で負傷した兵士はここで一旦休憩し治療された。細い通路を陸軍の軽戦車が走り抜けたのも正にこの壕の前であった。ここまでくれば「しめたもの」だったのだ。だから兵士はこの洞窟を探し、休憩し再び戦場へと赴いた。彼等が希望といったのは「おっかさん」のような懐かしさと安らぎを感じていたからであった。事実、生還兵の一人であった伊藤九一さんはグアムに来る度にこの壕を探していた、といっていた。北部ジーゴで戦死した戦友の霊を弔い、自分が歩いた戦場を散策し、戦時中に迷惑をかけた島民犠牲者の慰霊をし、そしてあのフォンテ川を歩いた。
 
 筆者はこの掩蔽壕の話を数多くの兵隊から聞いていた。それらの証言や文脈では川の下流の真横にあった、とある。大きな壕が2つあったとかなり明確に書いてあり証言している。そのフォンテ川はかなりの落差を持って山腹から大きく左へ蛇行しながら下方の海岸、現在の知事執務室へと続いている。この周辺をアグニアという。見つけたのはそれとは全く違う方向、もっと上流のもっと中程にある。
 その壕はフォンダ川からやや逸れた所にある。川が造り出したのでもなかろうが川を中心に巨大な丘が両方にあり、険しい岩壁がそそり立っている。壕はその川からやや離れた岸壁をくりぬいてこしらえてあった。総て人力によるものだから洞窟ではない。岸壁に大人が立ったまま入れる形状のものが2つある。道路からやや離れているのでそれが何所にあるのかは全く見当がつかない。壕の前は雑木のつる、背の高い雑草で覆われているからだ。壕の深さおよそ30メートル、形状はアガニャのサンラモン洞窟と似ている。おそらく当時日本軍の工兵隊が指揮して造らせたものであろうから同じ形状でも不思議はない。これを造っていた元工兵隊の兵隊と話したことがあったがその時はその条件、その工法などを聞かなかった、今となっては残念なことであるが、筆者に知識と興味がなかったからであった。
 壕の中は65年前と変わりがないのであろう、暗がりの空間がもやっているようで不気味だ。岩壁は石灰岩で白濁しところどころに赤茶けた岩肌が露出している。肩の高さにくり抜いた穴があり、そこを燭台にしていたことがわかる。2つの壕はその状態が似ている。おそらく深い場所でつながっていたのだろう。
 この壕から離れた場所、大きく岩壁に沿って湾曲した部分に全部で4つの壕と洞窟がある。その一つは正面が土砂で半分埋まっていて、中に入ると10メートルほどで右折している。そこからさらに20メートルほど道ができている。足元がぐらつくので不思議に感じたら、そこに床板があった。板は腐ってグズグズになっていたが、当時はこの上を素足で歩いていたのかも知れない。生き残った老兵が「衛生壕があった」といっていたのはこれかも知れない。
 各壕の周辺は背の高い雑草が生い茂り周辺の状況がまるで見えない。見えないままに探検のノリで調査していると元米軍の兵舎跡を見つけた。その跡地からややあった所は乾燥した雑木林で視界が開ける。そしてそのあちら側が崖になっていて乾いたままの川床がその下にある。フォンテリバーの下流だ。これが兵隊の探し求めていた川の下流、そして懐かしの衛生壕だったのである。
 日本軍が遺した遺跡を見つけ出すのは容易ではないし、また決して興奮するような対象でもない。筆者にとってそれはただ「そこにあった」、という歴史をつまびらかにし、確認し、資料に残しておくという、いわば使命のようなものなのだ。そして後年これに触れる機会を得た同胞が、一挙に時間を遡り、歴史上にしか表現されていない時代と雰囲気を体感することを期待するだけだ。グアム戦争に興味をもって観光するだけではなく、より深いところの、もっと心のひだに触れる様な体感を得て欲しい、と切に願う。
 それにしてもあれだけ待望されていた日本軍壕が、65年経って突如筆者の目の前に顕われたのは理由があってのことだろうか?これを見つけ、あの時代を思い出し感慨にふけることを希望していた生き残りの兵隊さんのことを思うと胸が痛むのだ。  

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Posted by kenhagaguam at 19:33

2010年05月16日

ジャングル奥深くに眠るゼロ戦

 正式には「三菱零式艦上戦闘機」零戦という。開戦当時の保有機は361機で21型だった。あのハワイ真珠湾攻撃に参加した戦闘機が総数305機であったから半数以上がハワイで戦っている。その後32,56型と改良を加え最終的に1.370機を生産したのだが、この稿で紹介されるゼロ戦はハワイ戦争の戦闘機と推測される。尾翼に「332」とあるのがその名残だからである。
 日本軍はここグアムでの戦争に海陸両軍が参加している。開戦時にはサイパンから飛び立った一式陸攻などの海軍機が首都ハガニャを爆撃し、その数日後にグアム島上陸し日本史上最初に他国(アメリカ)を占領すると共に、今のオロテ湾にあったアメリカ海軍基地を攻撃し、ここを占領した。
 戦争はその数年後に米軍上陸を受けて日米激しい戦闘を行い、やがて日本軍は撤退に次ぐ撤退で遂に8月10日に戦闘放棄をしてしまう。そしてその戦時中に撃墜されたのがここで紹介するゼロ戦である。
 戦後にはまだ少なからずの日本軍武器、例えば戦車、高射砲、野砲、ライフル銃、そして夥しい数の弾丸と火器が散見できた、という。そしてゼロ戦も度々その話題になっていた。10年ほど前にはリィディアンビーチにゼロ戦のエンジン部分が露出していた。また南部北側に崖に追突したままの姿で、そして南部山奥のジャングルには墜落したゼロ戦が遺っている、という風聞があった。
 そのジャングルに撃墜されたゼロ戦を発見した。場所は、あの横井庄一さんが発見され、また当時潜伏していた洞窟近くであった、発見者の一人は横井ケーブを調査しに行った時に偶然見つけた、というから因縁を感じる。地元の者でも道に迷う程、その雰囲気は周辺どの場所も酷似し、また複雑な隘路で行く手を阻まれていたのだ。
 場所は南部、タロフォフォ滝をさらに遡るところからさらに南下すること3時間余りのグアム島南部のほぼ中央部分に在る。フィナ湖の下流が傍にあることから横井ケーブが間近にあることを感知できる。横井さんはこの農場と荒原と草深いジャングルの中にいたのだ。タロフォフォ滝近くに出没することはなかったであろう。昨今、ツーリストはその滝の傍にあるといわれる贋ものの横井ケーブを案内されるが、本物の洞窟は歩けば途方もない場所にあるのだから、横井さんの根性、その気力と生命への執念などは想像もつきない。因に、ここで紹介するポイントまでは超近代的な4WDに便乗させてもらった。徒歩では終日かかってもとても到達できず、一般車でも当然直ぐに行き止まる悪路の見本のようなものだ。この近代ゴリラカーですらほぼ垂直な壁のような坂道を駆け上がり、飛び越えしながら3時間以上も費やさなければ到達できないほど面倒な道のりなのだ。ずっとローラーコースターに乗っていることを想像するとわかりやすい。

 その場所へ辿り着くまでに何本ものタロフォフォ湾へ通じる獣道を横切る。狭隘な道の彼方に崖があり、川を一つ超えてさらに突き進むとタロフォフォ川にでるらしい。戦後間もなく、横井さんも含めた多くの戦士がタロフォフォ湾から太平洋に出て、そのまま舟で愛しい故郷へ還ろうと試みた、と手記がある。しかし不幸なことに米軍はそれを嗅ぎ付け待ち伏せし、多くの将兵が射殺された、という。この獣道はそういうこれから起こる不幸を知らずに兵士達が懸命な思いで通り抜けた道なのだ。
 でこぼこ坂をしばらく走ると左右彼方にススキの葉が覆い茂る平原が見える。あの丘の向こうにも、さらに向こうにもそれがある、という。戦後しばらくはそこで野菜、スイカなどを植え付けていたそうだ。厳しい暑さと果てしない広さ、そしてそこへ行く迄の長い道のり、その頃の農民には我々現代人のような脆弱さはない。誰もが生きて行くのに必死だった時代なのだろう。

 そのあちら側、おおぶりな岩石の上にぽつりとラジオ塔が立っている。これがここら辺唯一の目印だという。広大な大地が狭くなり、ジャングルをくぐり抜けるとまた広大な大地が広がる。そろそろ飽きて来た時にドライバーのジムが右方を指して「あそこから先にヨコイをみつけた場所がある」といった。一見して腰ほどのススキの高さに覆われた荒原が見えるだけだが、微妙にそれが下り坂になっていて、そのあちら側にジャングルがみえる。つまり水がある、ということだ。
 さらに走り続けると数キロ、なだらかな砂丘の丘のあちら側の手前でゴリラカーが停まる。その前方の足元にジャングルが見える。その足下にゼロ戦が在る、というのだ。降りてみたら既にそこに数名のローカルが居て機体の調査をしているのだ。周辺には10代にもならない子供が屯していてなんとなくパーティ気分である。チャモロ人はどこへ行っても陽気さを失わない民族なのだ。
 機体があったのはジャングルの底部で、既に尾翼の部分は撤去され、地面にめりこんでしまった主翼とその前には地面に叩き付けられたようなエンジン部分があった。まさしく60余年前には大空を飛翔していたゼロ戦だ。
 目撃者によると、大戦中、「上空を旋回していた時に米軍の高射砲に被弾してこの方面を低空で飛行し、やがてゆったりとした円を描きながらジャングルに墜落した」という。墜落する瞬間主翼が大木にひっかかり右に折れるとそのまま勢いよく急角度のまま地面にめりこんだ、そうだ。その衝突の激しさが青白く変色してしまった2枚のプロペラ(1枚は土中に消えている)と全体鋼のような塊のエンジンが往事を連想させる。巨大な塊は地面に横たわり、これを動かそうとする度に「苦しい、苦しい、そこは触っては駄目だ、ああ、そこもいたい」と呻いているような気がして胸が痛む。
 この破損したゼロ戦を都会へ持ち込む予定であるから、人足なのかたまたま立ち寄ったのかわからないが人々がゼロ戦を取り囲んであっちにひと塊、こっちにも固まって持ち上げ方を相談をしている。その間をさきほどの子供達が走り回り、大声で呼び合ったりしていて落ち着かない。筆者がその機体の傍に小さな祭壇を設け、そこにお供物と線香を供えていると、子供達が駆け寄って来てしきりに質問する。「あんたの友達かい」「おじさん?」「しっている人」とくどい。そこへ大人達もやってきて同じ様な質問をする。筆者は戦後生まれであるから縁者はいないし、第一そんなに年寄り臭く(?)もない。ただ「日本の兵隊さんが亡くなったので供養しているだけだよ」といって居合せた大人達にも一緒に供養することを勧める。と全員が立ち上がりしばし黙祷を捧げていた。善人なのである。
 破片の一部を記念にもらい、それを大事に抱えて帰ろうとすると子供達がやってきてこれを奪うように取り上げる、運ぶのを手伝う気らしい。大人達がやや大きめの主翼の一部をもってきて、車まで運んでくれた。かつて戦時中、日本軍兵士は純朴な庶民を大した理由もなく殺害している。そしてその庶民達は戦後、腐敗し見る影もない兵士達の遺体を埋葬してくれたのだ。なんという民族だろう。
 帰途、あの最悪な山道をゴリラカーに揺られながら当時の状況を想像してみた。激しい戦闘と逃走する日本兵達。彼等は米軍と戦いながら同時にこの猛暑とも戦っていたのだ。しかし彼らにはそのジャングルの木立の下でずっとうずくまって不安な気持ち戦火が通り過ぎるのを見ていたローカルのことを想像することはなかったであろう。戦争とは人間性がむき出しになる極限の状態のことをいうのであろう、きっと。持参した破片の供養と、ここで亡くなったローカルの霊も一緒に供養しておこう、とそう心に決めた。

 零式艦上戦闘機のことを「ゼロ戦」と親しみをこめて日本人はそう呼ぶ。このグアムで墜落したゼロ戦はあのパールハーバーの時と同じ物だという。大空の勇姿は墜落しても人々から賞賛の目でみられ、それに触れることに無償の喜びを与え感動させる。まるで天から降りて来た神秘の器のように大切にされる。不思議なことにローカルにも同様らしいことだ、彼等が機体を運搬する際、労るようにしていたことからでもそれを感じるからだ。「ゼロ戦」は日本人の魂そのものなのだろう。
 機体の一部とはいえ、それを取り上げ再び衆目に触れさせるためにローカル達が汗を流して手伝っている。きっと彼等の心の中にも我々に負けない「ゼロ戦」に対する畏敬の気持ちが強いからであろう。ひょっとして今の日本人以上なのかも知れない。
 近頃どんな心境変化が起きたのか、旅行会社が戦跡ツアーを始めたと聞いた。事前調査も充分しないで、少しばかり「戦跡」がブームになったから始めたようでは実に志が低い。グアム戦争を紹介するに当っての調査踏査は当たり前のことながら、さらにはそれを行うに当ってのガイドの修練度、人間性も特段大切な気がする。これまでどのくらいの人がグアム戦争と真摯に向き合ってきたのか、それが問題になる。戦争の悲劇と勇敢だった兵士への心情を思いやり、さらには犠牲になった地元民を充分に供養してからことを行うべきである。それがせめてグアム戦争でお亡くなりになった人々への礼儀というものであろうし、単なる金銭目的で戦争を商品にするのでは英霊達に対して失礼でもあろう。つくずく金のために生きたくないな、と思う。
 余談だが真の戦跡巡りツアーを期待するのであれば「グアムライフ」(647−0280、777−4545)へ問い合わせるといい、きっと本物の本格的なツアーを紹介してくれるだろう。
 また紙面に掲載されているゼロ戦の展示に興味ある人は、アデラップ(知事執務室近く)にある「太平洋戦争博物館」(入場料$3)に行く事を勧める。そこには貴重な遺品が展示されてある。


プロペラ
ゼロ戦1

ゼロ戦2 ゼロ戦3

ゼロ戦4  

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Posted by kenhagaguam at 22:00

2010年02月18日

戦跡異聞・ニミッツヒルに眠る数1000体の英霊達

 いきなり度肝を抜く話だが、つい先頃、前の大戦で戦没した日本軍の英霊の遺骨が様々な場所で見つかった。その数、5体ほどという場所(アガット)から数千体(アサン)にも及ぶ埋葬場所、というから圧倒的な内容に驚く他ない。
 さて、グアム島の観光を紹介する時、多くの場合、ショッピングとマリンスポーツ、ゴルフなどが全面にでてきて、このデスティネーションにもありがちな遊びが、グアム観光であるかのように集中的にイメージ化されてしまっている今日、観光事業そのものが行き詰まってしまいそうになる。
 いうまでもなく、グアム島はその70%以上がジャングルという自然に覆われ、その中に峡谷、河川、滝、洞窟、磯、天然プール、さらに丘陵が密集しているまさにワンダーランドなのだ。つまりグアムそのものが、殆どが手つかずの島ということになる。(無用なことだが、その40%近くが米軍の基地内である)そしてその手つかずの大地の中に前の大戦で死地を彷徨未だに発掘されぬ戦没者の遺体が遺っている。

 太平洋戦争の行われたこの島で戦った日本軍兵士は陸海軍合わせておよそ20.000人、アメリカ軍海兵隊員は55.000人(全体で13万人)といわれる。この沖縄の半分ほどもない孤島でおよそ3週間の戦いを繰り広げ、日本軍の戦死者は7%で生還兵は1300余名ほどもない、と記録にある。ほぼ全滅玉砕であったのだ。
 戦後20年経った1960年代に日本の遺骨収集団(厚生省管轄)が南洋諸島の遺骨収集をし始め、ここグアムにも収集団がやってきた。その時からの遺骨収集を調査しているが、現在想像される遺体収集は1.000体を超えていない、という。つまり残りの19.000余体は未だ、ここグアム島のどこかに埋もれたまま、ということだ。これは恐ろしいことだし、またいたましい。(厚生省にグアム遺骨収集総数を問い合わせたが明確な返答はない。なぜ累計がでないのか疑問が残る。)
 戦後、政府与党の自民党は億を超える多額な経費を費やして遺骨収集団に収集を任せたが、どれほど英霊の遺骨を収集し祖国に帰還させたのか、全く正確な数字がでてこないのが不思議だ。出て来ないからいつもおよそ、というアバウトなことしかいえないのだが、疑問を感じるし、義憤にかられる。
 直接試掘なり収集にあたる人間の手元に資金がおりて来る間に多額な金銭が代理業者や中間業者の間に流れ出ていた、という噂が絶えないのはこの種の事業(仕事)が抜け穴だらけでいじくり易いという点だからだろう。事業仕分けをしなかったので色々な業種に仕事が分割分担され、多くの人間によって食いつぶされてしまった、つまり政府がこの事を真面目に検証していなかった証拠ということになる。
 「ペリュウー島やウガウル島に建っている慰霊碑は立派だったが、そんなに立派な物は必要ではなく、むしろジャングルに置き捨てにされたままの沢山の英霊の遺骨をなんとかするべきだ」、と同じように義憤にかられていた熟年プロカメラマンがいっていた。 
 彼は太平洋戦争の事跡と時間を追って戦場を撮影してきたベテランで、日本の国外に於ける事業のいい加減さや適当さに憤慨していた。グアムやサイパンではそういうことはないが、その他の国々ではその時だけの上辺だけの慰霊塔が建っている、ということだ。

 さて、グアム戦争でもっとも激しい戦いがあったのはグアム中央部フィリッピン海に面するアサン地区でのアサン上陸戦戦場である。ここにはおよそ8〜9.000人の日本軍守備隊が広く守備し、20.000人の海兵隊を迎え撃ったのである。この戦いは3〜5日ともたぬ間に殆どの兵士が戦死し、敗残兵は北部目指して撤退して行った。筆者はこの戦闘のことに興味をもって、その戦闘場所、その内容、その結果を、生還兵を含めてできるだけ詳しく調べてみた。結果、その当時の戦闘情況はおぼろげながらも把握することができたのだが、日本軍が撤退した後のことは知らない。当然のことながら、戦争記録とは戦闘風景、その所属部隊の配置、敵部隊の配置と闘争心。そして戦闘の展開などが主であって、その後のことには触れていない。両軍とも戦場での戦死者数のことに触れていない。おそらく計算できるほどの小さな規模の戦いではなかったからであろう。
 日本軍が「表岬」と呼んでいたオロテポイントの岬近くに米軍が埋葬した、というモニュメントが建っている。住居の傍にある。ここでは1.000体以上の将兵が埋葬されている。アガット周辺、サンタリタにも埋葬された跡がある、と噂がある。
 アサン地区で展開した兵士の殆ど全部が玉砕して逝ったと聞いた時、単純に頭に浮かんだのが、戦死者がどこへ埋葬されたのか、ということであった。

 それまではグアム中央部、激しい戦闘が戦わされたニミッツヒルの周辺と予想された。現在米軍の敷地内である。特に話題として可能性があったのが現消防署の裏手であった。これは「昔母親が見た」、という地元民の証言があったからだ。そして、今回、その場所とはかなり離れた同じ米軍敷地内にそれを発見した。実に65年ぶりの発見である。
 現場は想像していた以上に開かれたフィールド内にあった。とはいえ、その場所はそれを知っているローカルのガイド抜きにはとても辿り着けない深いジャングルの中にある。「目印は竹やぶだよ」といっていた彼でさえ、少年期に見たその現場が今は完全に変わり果て、竹やぶがあちらこちらに散在しているのに混乱しそうになっていた。
 草深いジャングル、カヤの林をくぐり抜け、幾筋かの獣道を辿った後にそれはあった。

 埋葬場所と直ぐに判明できるのは周辺を地上20センチほどの高さがあるブロックで囲ってあること、その周辺の上辺はコンクリートで固めてあること、さらにそれは戦時中の日本兵が拵えた陣地ではなく、また、戦後米軍が拵えた貯蔵庫風の物ではないからだ。見た目に建物の足場、基礎のように見えるが、その割には規模として小さい。このブロック囲みがずっとあちら側まで続いている。縦12m、横10m四方の上辺は泥、枯れ葉が堆積してあり、それを除くと黒く染み付いたモルタルの床がみえる。その中央部にハイビスカスの太い根が伸び上がり周辺のモルタルが、根が大きくなるにつれ崩され壊れ大きな穴になっている。この床の下7〜10m内外に旧日本軍の戦死体が埋葬されている、というのだ。

 コンクリート四方には入り口らしい形状があり、そこだけ一段高くなっている。ここから一人一人の遺体を運びいれた、というのだ。そしてこのような埋葬場所はその周辺のジャングルをうかがうだけでも3カ所もあった。
 場所を案内してくれたのは、戦前は日本軍に雇われて賄いなをしていた、というアサン(ニミッツ)ヒルを所有していた一族の末裔である。彼の曾祖父は日本人であるそうだ。
 その彼の両親が当時の埋葬のことを彼に聞かせたところによると、戦後腐敗し始めた日本軍の遺体は、戦場何カ所かに大穴を掘り、そこへ一体ずつ丁寧に運び入れたそうだ。その時手伝っていたローカルのチャモロ人は、その遺体一人一人に葉で米を包みそれを供えた、といっていた。被害に遭いながらも人間として理性を失わず、また優しさをもっていたチャモロ人はいた。このことを忘れてはいけない、と思う。
4年後には沖縄から大挙して海兵隊が移転してくる予定である。沖縄県民への迷惑をここグアムに押しつけるのである。このことを他人事としてとらえてはいけないような気がする。我々日本人は彼等ローカルに沢山の義理があるのだ。であればこそ、移転問題をきっかけに我々民間人が何かできることを考え、行動に移す時がきているのではないか、とそう思うがいかがなものであろう?
 埋葬地を見つけ出すのはひとつだけ手がかりをつかめばさほど困難ではない。あの埋葬場所に根を張ったハイビスカスの大木、そこから吹き出すように、ひときわ真っ赤な花びらを咲かせているハイビスカスをさがせばいいだけだ。


左:アサン上陸方向展望台.JPG
アサン上陸方向展望台 アサン2

アサン3 アサン4

アサン5 アサン6  

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Posted by kenhagaguam at 00:59

2009年10月02日

グアム戦跡ツアーについて

 最近、グアム戦跡ツアーについての問い合わせが続いております。
「あの戦争」が少しづつ見直される時期にきているのかも知れません。
これはとてもいいことでして「祖国護持のために」を純粋に信じて身を捧げた若き兵士の心のあり方を学習できるのは大切なことだと思います。

 人は様々なきっかけから戦争のことを身近に感じたり体感したりするものらし いですね。
私がここグアムで戦争の実情を知ったのはそれまで読んでいた数少ない戦史よりも実際に戦場を歩く体験ができたこと、生還兵から当時の感想印象を聞く事ができたこと
などからでした。

 あれから自分なりに戦争を物語り風にまとめあげ、その経緯や情況、結果などを一連の絵巻物のように頭に叩き込めるようになりました。しかしそれを人に伝える気分ではなかったのです。商売にする気がなかったからでした。

 それが時々トレッキングのゲストを連れて米軍上陸戦があったその現場を話す機会があり、それがいつの間にか慣例化してしまいました。
ゲストが私の話を真剣に聞いていることから、またこの話の続きをまた聞きたい、あるいは多くの人に語っていただきたい、とかの批評を頂く間に、いつしか戦跡ツアーとして定着したのです。

 どうか生きた戦争物語りを楽しみにしてください。気になっていた何かがみつかるかも知れません。

詳しい事は:東京03−5410−6027、グアム671−647−0281へ  

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Posted by kenhagaguam at 17:31

2009年08月15日

戦争秘話特集2弾!日本軍洞窟跡

 恒例のチャモロ人犠牲者の慰霊祭も無事終わり、21日には米軍上陸解放記念パレードもあってこの7月の暑くて長い式典は終わりを遂げた。
 今月は69年前に始まった太平洋戦争(グアムに於ける戦争)終戦から65年目にあたる。当然のことながら様々な行事が目白押しに組み込まれていて結構喧噪な雰囲気に包まれる。

 前号で日本軍の砲台をテーマにしたら色々問い合わせがあり、戦争に関心のある世代が多岐にわたることを知り少しばかり驚いている。ということもあって、今号も引き続き「誰も気付かぬ戦争秘話」を特集しておきたい。
「日本軍の洞窟」といっても天然の地形をそのまま利用したもの、改造したもの、あるいは完全に造り上げたものがあり多種多様にわかれている。洞窟と陣地、掩蔽壕、防空壕、トーチカの区別のわからないものもあり、その構造から戦争が織りなす工夫がうかがえる。特集ではこの「日本軍洞窟」をハイライトしてみたい。

 日本軍洞窟とトーチカにも歴史みたいなものがあって、開戦時(1941年)上陸後すぐに拵えたもの、と決戦間近になって急遽拵えたものまでその拵えにも発想と工夫がある。
 上陸直後に作った(というより掘った)洞窟はグアム島の中央部アルトム山頂上の途中にある。
この周辺には日本軍上陸前にアメリカ軍通信隊とその施設があった。前号でも紹介したがここにはマクミラン海軍大佐以下418名が日本軍上陸の守備隊員として配置され50名が戦死し、368名が降伏している。今でもかつて兵舎跡が遺っており歴史の流れを感じさせている。そしてこの兵舎跡の近くの崖の中に日本軍洞窟がある。風聞として、この洞窟もアメリカ軍が使用していたと、あるがその真相はわかっていない。米軍がここにこもる必要性がないことを想定すると日本軍だけが使っていたような気もするが真実は薮の中にある。
 この洞窟(防空壕)は非常に見つけだしにくい。背の高いカヤに囲まれていること、斜面が急であることなどからここに洞窟が在ることだけでも信じがたい。しかし洞窟は深く掘られ、現在は埋もれているがかつては横穴になっていたらしいことがわかる。穴の周辺はカヤが背丈以上に繁茂群生していて視界がきわめて悪いし、また斜面ということもあって足場が非常に悪い。
 洞窟に入る。穴の壁はきれいに削り取られていて用途は別にして工法は他に見て来た洞窟と酷似している。この洞窟はしかし高さがなく腰をかがめなければならない。壁の表面はカビのように白く、湿気が多くて10分ともじっとしていられない。これまた風聞であるが、アメリカ軍の上陸を間近に控えた日本軍は眺望のいいこの洞窟の前に立って遥か彼方のフィリッピン海を眺めていたそうだ。
 戦闘を想定した上での壕は実戦用で理にかなった構造が多い。その米軍上陸戦に備えて拵えた掩蔽壕は南部アガット村にある。
 アリファン山の洞窟と壕がそれである。アリファン山の中腹に地元民が呼称する「日本砦」がある。コンクリートで周囲を防護壁のように固め、さらにトーチカ要塞まで造っている。周辺にある洞窟は地下洞窟で深さ2メートルほどで、掘りこんである穴倉は高さ1.5メートル、横幅1メートル内外でやや広めの広間がある。その広間を中心に左右に通路がありそこを辿って腰を屈めながら歩くとその先の上面には小さな穴が開いている。外へ上半身を出して周辺を眺めると眼下にアガット湾が望める。開戦当時、ここに敵艦船の砲弾が雨霰のごとく降り注いだ、といわれているがそれを連想するだけで膝が震える。昔の日本人は肝っ玉が座っているのだ。
 アリファン山にはこの他に高さ2メートル近くの通路状の壕が2カ所、雑草に埋もれている。 また地下へ潜る防空壕もあり、それは丘面の中腹、雑草の生い茂った中にぽっかりと洞穴があり、狭い靴内に入ると中は広く、ロウソクを置くように掘られた燭台が壁面に幾つも見える。通路が幾筋もあるように、この穴もまた他と同様に穴同士がリンクしているようだ。アリファン山の洞窟は他のそれとは異なりあくまでも戦闘用にできている。ここでは第31連隊連隊長の末長大佐が陸軍軍旗を奉焼し、最後の突撃をしたことでも知られている。因に壕造りには他の洞窟同様に現地人を使役して拵えている。

 日本軍上陸後に掘削が始まったサンラモンの洞窟はアガニャ市内にある。最近になってアガニャ市の歴史的遺跡に加えられたそうだ。この洞窟は大きく、その工法や工夫、規模はオロテ半島にある日本軍洞窟跡のそれとよく似ている。日本軍の遺した記述によると洞穴は6カ所、実際には4カ所しか見当たらないが見取り図から察するに裏山に2カ所あり、戦後埋められたようだ。この洞窟は高さが2メートル近くの箇所があり横幅も2メートルと筆者がこれまで散策した中では一番大きい。洞窟は中で繋がっていてそれぞれが関連している。記述によると作戦室と兵舎があったそうだ。また自家発電があり地下水をくみ上げていた、という証言もあるから本格的横穴壕である。壁面の削り方は共通していて随所に明かりを置く為の燭台があるのが印象に残る。

 開戦に備えた壕は広さと深さに余裕が見られる。一般に知られている洞窟(というか防空壕)はエンジェル・サントス記念公園(旧ラッテストーン公園)に在る。これは前述の洞窟(掩蔽壕)と同様に海軍が削掘している。因にオロテ半島の掩蔽壕、アルトム山の見張り壕、さらにはアガニャ市内ネルソンドライブ崖側にある掩蔽壕、エンジェル・サントス記念公園近くの洞窟のいずれも海軍の製作による。エンジェル・サントス記念公園の防空壕はコンクリート製で中に防壁があり空爆時の爆風を避ける工夫が拵えてある。ここも高さが2メートル近くある。実際これを掘った生還兵から聞いた話によると、この壕は戦時中、ついに一度も使う用がなかった、そうだ。敵兵の攻撃がそれほど早く隠れる余裕がなかったのだろう。

 ここよりさほど離れていないグアム島中央部のホンテヒルには日本軍作戦壕が在る。
 猛将、高品毅中将が小畑軍司令官とたてこもり作戦を立てていた壕である。壕は天然の崖をくりぬきコンクリート仕様にしてあり、中はとても涼しく快適、入り口に爆風除けがついている。壕の暑さはおよそ80センチ内外で高さは2メートル以上、壕内は60畳ほど広い。天井には電灯も用意されているらしく扇風機も取り付けられていたらしい。高品毅マリアナ師団長はこの壕の直ぐ近くで近づいてきた敵戦車弾に当って戦死している。

 この壕の近くのジャングルには夥しい数の洞窟、掩蔽壕がある。コンクリートで外壁をこしらえたものもあればそのまま天然の洞窟を利用したものもある。広い壕もあれば地下へ長く掘り下げた壕も在る。地下に幾つもある天然洞窟は、それぞれが繋がっていて、だだ広い室になっている。明かりがなければとても探検できない漆黒の闇、大戦中、日本兵がどのような思いでここに身を伏せていたか、想像するだけで身震いが止まらない。

 掩蔽壕はグアムの南部タロフォフォ近くのトグチャ川の上流にも在る。ここの壕は衛生壕といわれていた壕で傷病兵を介護するための壕、ということだが(実際にその通りに使ったにしろ)食料を保存する目的もあった。この壕は川の上流にあるが川からやや離れた小高い丘の中腹に在るので見つけるのがかなり難しい。周囲を竹やぶに囲まれている所為もあり見晴らしも良く隠れ家にするのは最適である。壕の出入り口は2カ所、天然の洞穴を上手に掘り下げていったもので6〜8畳ほどの室が狭い通路をかいしながら幾つもある。丘の上にある洞窟なので地下壕に較べて逼塞感がないので暗闇の中でも不安を感じない。壕の高さは1.5メートルぐらいで腰を屈めながら歩くのだが、室が幾つもあるので冒険しているみたいだ。その通路には日本軍当時のままの板敷きスノコが渡してあり、通路の下にさらに穴があって貯水層がある。壁面は乾いていて衛生上最適な感じがする。因にここは横井庄一さんが発見される16年前に伊藤、皆川の旧日本兵が身を隠していた場所で、二人はここで発見されている。余談だが横井さんも彼等とここで暫く暮らしていたそうである。

 掩蔽壕は北部グアムにも在る。通称ピグ・ホールといわれるのがそれでサンタ・ロサ山の近く、民家の庭先に潜むように洞穴を見せている。ここは人口的な処置が殆ど施されていない洞窟で天然の要塞のように見える。蟻の巣のように小さな室を経ながら地下深く潜っていくのだが、途中幾つも狭い場所があって狭心症に似た恐怖体験を避けられないようになっている。ここの壕は非戦闘用のものでひたすら身を隠すことだけが目的であった。壕のこしらえからして既に戦闘から身を引きひたすら隠れることだけに終始している哀しさが漂っている

 グアム戦争の最後を語るに相応しい壕がジーゴ村にある衛生壕である。「南太平洋戦没者慰霊塔」公苑の敷地内に在る壕はハガニャに在る衛生壕同様、当初は医薬品備蓄と病棟を兼ねていたものらしい。それが開戦近くになるとこの周辺の兵力を撤退し、地方に散っていた兵隊達がここへ集合し、食料貯蔵を兼ねて壕を利用した(その後、総ての兵は中央部へと移動している)。
 当時、この壕を掘る使役に参加した、という地元の年寄りによると、この4つの出入り口をもつ洞窟を掘削するのに7日以上延べ100名以上を要したそうだ。壕の高さは2メートル近く、壁面は他のそれと酷似している。室内は20畳内外、壕内で他の壕を繋がっていた。しかしながらハガニャの掩蔽壕と仕様は似ていない。殺風景この上ないこの壕は既に決戦時の悲壮感すら漂わせている。
 風聞によるとこの壕内で1944年8月11日、小畑軍司令官と高級将校60余名が拳銃自殺をした、ということになっている。その後の調査でその説に疑わしいところが多々あり、現在は仮説、ということになっている。また同じ風聞として、この壕に日本軍が持ち込んだ相当量の金塊があり、これを秘匿した後に、関係者(地元民か兵隊かいずれかであるが真意のほどはわからない)を斬首した後、別の場所へ遺棄した、という。この大洞窟のさらに下に水郷のような場所があり、ここにも小さな壕がある。
 洞窟、壕、戦時中の日本兵は様々な工夫を凝らしてグアムの自然をそのまま利用し、あるいは工作して戦い用に変えて行った。それらの殆どがそのまま捨て去られ忘れ去られたままである。時々そうした壕内に足を踏み入れることがあるが、その時、なぜか人の気配を感じることがある。忘れてはいけない場所なのであろう。


左:オロテ海軍基地/右:サンラモン
オロテ海軍基地 サンラモン  

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2009年07月15日

戦争秘話特集!ピティガン、悲劇の曲射砲台跡3門

 毎年7月になるとグアムの町が賑やかになる。4日の米国独立戦争記念日と21日の太平洋戦争上陸記念日だからである。
 太平洋戦争グアム戦は64年前の1941年12月10日に始まった。8日にハワイ攻撃を終えた2日後のことである。上陸部隊は日本海軍の約5.000名で、今はリゾートビーチとなっているタモン湾、歴史的史跡のあるウマタックビーチ、そしてタロフォフォ湾からの上陸であった。
 彼等はたいした迎撃もなくグアム島中央部のアルトム山周辺に埋伏していた米通信隊を捕虜にし、日本へ送還した。その時アメリカ軍兵士50名、日本軍兵士1名が戦死しており、マクミラン海軍大佐以下368名が降伏している。
 その上陸戦前のこと、「日本軍が戦争を想定している」と推定した米軍は、当時グアムに駐留していた多くの軍人、家族、軍属(商人)を急遽本土へ返送した、といわれている。その人数、その時期が未調査なために確信的なことはいえないが、取り残されることを不安に感じた住民が一緒に本土へ連れて行ってもらえることを願いでたら言下に「自分の国ではないか、国を捨てるのか」と相手にされなかったそうだ。領土である以上(戦略上以外は)その島のために生命を捧げる気持ちはない、ということだ。こういうのをご都合主義というのだが、このことを語ってくれたセネターは「アメリカとはそういう国だ」といっていたのを忘れない。ベトナム戦争サイゴン市街陥落時に市民を置き去りにしたまま撤退していった米軍のヘリコプターを思い出した。「他国に国防を任せてはいけない」、という示唆になる事件だった。

 さて、上陸が成功した後、海軍はオロテ半島(現米軍海軍基地)に移動し簡易海軍基地を設けた。米軍が上陸戦を仕掛けてくるであろう、と予測した日本軍は西側フィリッピン海沿岸に幾つもの迎撃基地を設置し守備隊を配置していったのだが、ここで紹介するピティガンもその一つで綿密に練られた迎撃戦用のロケーションと設置場所は現在でも戦略上理想とされている。
 ピティガン跡はピティ村にある。ピティとはチャモロ語で「痛い」という意味(英語では「同情」)で現在でも戦争の跡が痛々しく遺っている村である。因に日本軍はここを港町と称した。
 
 マリンドライブを南下して発電所前に近付いたら徐行する。目印は教会と大木。この大木の下近くのゆるやかな坂道の石段を登り詰めるといきなり大砲が現れる。日本陸軍が使用した曲射砲である。ヌ〜と突き出た大砲の全長は5m余りでかなり長く全部で3門ある。射程距離は16.000m、敵艦船は僅か以内に浮揚している。曲射砲とは海洋のあちら側に浮かぶ敵艦船(上空)に向かってぶっ放す。砲弾は大きな放物線を描いて(曲射)落下することから放物線=曲射、曲射砲と名付けられた。4km近くにいる戦艦にこの曲射砲をぶっ放したら敵もさぞ仰天したであろうが、しかし、この曲射砲は、設置した直後に戦争が始まり、開戦に間に合わなかったそうだ。そういう事情があるからこのピティガン(大砲)の状態は万全なのだ。
 話が逸れるが、グアムには太平洋戦争時に準備した日本軍の大砲が今でも何門か存在している。 戦場に遺されている大砲は、タモン湾ニッコ-ホテルからやや離れた所に在るガンポイント。タモン湾内ではないがアガニャ湾に面したオンワードビーチホテルの敷地内にも2門の大砲がある。それにこれは戦後移動したものだが南部アガット村のガアンポイント。これらは同じ曲射砲だが砲身が手元3メートルほどから切断されている。これを珍砲といった。この珍砲は海岸に上陸してくる敵兵を狙うもので射程距離よりも確実性を目的としている。タモン湾には少し前までは戦艦から取り外した2門の高射砲が在った。そのうちの1門はヒルトンホテル敷地内に在ったが撤去されて現在はない。ホテル側にとって無用の長物かも知れないが立派な歴史的遺物なので大切に保存して欲しかった。もう1門は2002年の大型台風来襲後に閉業したフジタタモンホテルの敷地に在った。(両方とも本紙に写真掲載)これは現在、アデラップの戦争博物館(個人所有)の敷地内に展示されている。他にかつて日本軍飛行場が在った付近のテイジャンに2門の高射砲、さらに知事執務室となっているアデラップ岬内の敷地にも高射砲が1門在る。これらの大砲にはそれぞれ戦争秘話があるのだが本文とは関わりがないので省くことにする。ついでながら日本軍に拘る様々な武器、洞窟は現在でも幾つか保存されていて、殆ど語られることのない日本軍兵士の戦争物語りを実感させてくれることを書き添えておきたい。

 さて、ピティガンのこと。この曲射砲は、14cmの口径である。3門のうち1門は朽ち果ててしまっているが残りの砲はよく手入れが行き届いていて往時を彷佛とさせている。戦後アメリカ軍がどれ程思い入れて手入れをしていたか、がよくわかる。この砲台が睨みを利かせている先がアサン海岸の遥か彼方の海上である。そしてその眼下にアサンメモリアルビーチがある。
 この戦場の周辺は戦前には多くの兵士が行き交ったそうである。上陸戦に備えてこの要所を固めておくことが最重要であったこと。そして唯一の要路としてアプラ港があることからピティ村を経由していたことがその理由である。余談として、この丘の上から洋上を見渡すと、僅か数千メートルあちら側に敵駆逐艦が停留し、夕方5時過ぎには兵隊がその上で思い思いの時間を過ごしていたそうだ。「ジョギングをし、球技をしているところを間近に見る事ができた」、と生還兵の戦記にある。戦争という堅苦しいイメージからはとても想像し難いものがあるのだが、案外、戦争とはそういうものかも知れない。

 敵上陸を間近に控えて日本軍は慌ただしい時を送っていたが、前述したように、事前の準備が足りず、開戦時にこの大砲群は使われなかった。開戦前に度重なる空爆によって周辺付近は壊滅的な損害を受け、開戦直前には洋上から敵の艦爆によって致命的な損害を被ったからであった。
 この曲射砲を山腹まで引き上げるに際して、日本軍は地元民を強制的に使役に駆り出した、という。総出で大きな丸太を並べてローラーのようにして引き上げたそうだが、哀しい話だ。戦争にまつわるこうした逸話は枚挙にいとまがないが、どのような現場にも現地人の恨みがヒシと伝わってきて気が重くなる。この山には戦前(1928年)に植えられたマホガニーの木が植わっている。グアムには珍しい木なので必見の余地がある。  

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『戦争秘話特集!ピティガン、悲劇の曲射砲台跡3門』写真

曲射砲台跡1 曲射砲台跡2

曲射砲台跡3 曲射砲台跡4

曲射砲台跡5 曲射砲台跡6

曲射砲台跡7 曲射砲台跡8

左:フジタ砲/右:タモン
曲射砲台跡9 フジタ砲 曲射砲台跡10 タモン  

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2008年07月29日

太平洋戦争最後の知られざるスポット、ジーゴとサンタリタ

  7月から8月までのグアムの自然を語る時、戦争の戦跡を避けては通れないほどグアム島には多くの戦跡がそのまま散在している。仲間で作っている「ブーニースタンプ」もこの時期集中的に戦跡を訪ねるのが慣習になっていて、毎年予想を遥かに超えるアメリカ人がこれに参加する。唯一の日本人であることから(そして多少は戦争の話を知っていることから)筆者も引っ張りだされ忙しい時期を迎える。
 日本人にとってこの時期のこの戦争の話題は陰鬱な気分、できれば避けておきたいところである。しかし事実は隠蔽できないし、これを無視し続けてきたからこそ今でも地元民と日本人との間にぎくしゃくしたところがあることも事実である。であればこそ、せめてこの時期は日本軍兵士の心情も併せて戦争が惹き起こす悲劇と考え犠牲者への哀悼が大切ではないだろうか?
 ちょっとした縁があってこれまで日本人が一度も訪れたことのないチャモロ人虐殺現場を訪ねてみた。「虐殺」という言葉は陰惨な語感があってそれだけで不愉快になる人がいるかも知れない。しかし、好むと好まざるとに拘らず、事件は実際に起き、その処遇が的確に行われなかったことから日本人に対する不信感が根強く残っていることを自覚し、率直に事件を直視し慰霊すべきだと思う。以下はレポート風にその時の印象を書いてみる。

「ジーゴ村チャグイアン虐殺現場」
 ジーゴという村はグアムの一番北側にある村落(というより町)で太平洋戦争グアム戦(1944年7月21日米軍上陸)が圧倒的な米軍の猛攻で始まり、成す術もなく撤退し最後の決戦を挑んだ戦場であった。
 地図もなく撤退する若き日本軍兵士は全土を覆ったジャングルの中をさすらい、時に米軍グラマンから空襲を受け、時に迷子になり同じ所をグルグルと回り遂には餓死してしまう、という状況にあった。日本軍兵士を追いかける米軍は戦車を並列にして密林をバリバリと砕きながら道を作り、その後を大型ブルドーザーがそれを平坦にし、さらに工兵隊員が電柱を立て電気を灯していった、という。これでは戦争にならない。「それを見てこの戦は負けた、と思ったですよ」と生還兵がそう悔しそうに呟いていた。結局追う米軍の方が追いつき、遂に8月10日の夕刻、31軍団団長の小畑英良中将はじめ総ての兵士が戦死し、ここにグアムに於ける太平洋戦争は終わったのだった。
 日本軍による戦争時における現地人虐殺(集団殺害)の話は7月10日のサイパン島陥落時の民間人が強制収容所へ移動するところ(マンガン山)から始まり、7月15日前後のメリッソ村ティンタとファハ、7月19日サンタリタ村のフィナ洞窟と続き、そしてこのジーゴ村チャグイアンで終わる。この最後のジーゴ村チャグイアンだけが戦時中(それも終戦間近)に起った。
 その最後の激戦を控えた8月8日、最後の本営といわれている又木山(マタグアク)から2600ヤード程北西をパトロールしていた海兵隊の部隊はチャグイアンの荒れ地一帯に45名の屈強な若者が手足を縛られた上斬首され放置されているのを発見した。周辺に流血の痕跡がなかったことと、日本軍の軍用車が放置されていることから近くで殺害しこの場所に遺棄したのではないか、と語り継がれていたのがジーゴ、チャグイアン現地人虐殺現場であった。この現場はこれまで余り知られていなかった。知られていない、というより噂話程度で実感の湧かない話であった。

 ジーゴ村のリザマ村長がこのチャグイアンの現場にこだわったのには理由があった。その場所が広大なジーゴ地区の中にあってもっとも開拓がすすんでいないこと、と噂話が幾つもありながら現実的具体的な話が一つもでてこなかったからであった。ジーゴでの虐殺は2カ所あって、その一つは200名を超える犠牲者がいた、という真しやかな話があって現場を特定できない市長は頭を痛めていた。筆者もそのことを尋ねたことがあったが「ここだという確証がもてないで困っている」と語っていた。「もし現場が特定できたら是非、慰霊碑を建立したい」とも語っていた。そしてその現場が米軍とグアム大学の協力によってようやく特定できたのが今年であった、実に64年も経っていた。

 その現場を訪ねる。場所はアンダーソン空軍基地ゲート近くとスターツゴルフ場の中間部分にある。現場が特定されたのが最近であったこともあって、そこへ至る道標は未だない。民家、荒れ地、牧草地、民家、密林、平原を通りこしている間に現場に着く。400メートルトラックほどの広さの牧草地があって「遺体はここかしこに放置されていた」と証言にある。現在は2メートルほどの高さの十字架がぽつんと立っているだけである。あらためて現場を眺めてみると荒れ地の中という雰囲気もあって実に殺漠とした光景で実感が伴わない、そして妙に物哀しい。歴史家のトニー・パロモ氏は「彼ら45名の若者はジーゴに限らず他の村から連行されていたらしい」という。他の村から連行された(という話も悲しい)がゆえに今日まで生き残りの証言が少なく特定できなかった、ということだ。ここから奇跡的に脱出した、という地元出身の若者がいた。その青年の甥が未だ健在でその叔父から聞かされた悲劇談をポツリポツリと語ってくれた。話から察するに、この現場に運び込まれたのは遺体だけではなく民間人もいた、ということ。「戦況の悪化に伴い日本軍兵士はほぼ狂気を浴びていて尋常な精神ではなかった。彼らは戦死する恐怖のために何をしているかがわからなかったのではないか」と前述のトニー・パロモ氏がそう語っていた。殺風景な現場に立つと殺害する側と被害者側の気持ちがひしひしと伝わってくるような気がして恐ろしい。リザマ村長が「ここに通じる道を作る計画をしています。そしてちゃんとした慰霊碑を建ててあげたい」と探し物をようやく見つけたような明るい顔でそういっていた。それが唯一の救いであった。


「サンタリタ村フィナ洞窟」
 フィナ洞窟は現在アメリカ軍の基地内にある。戦後(つまり64年前からずっと)から今日までアメリカ軍の許可を得ないと関係者は勿論、遺族すら入る事ができない。従ってもしチャンスがあれば唯一毎年7月19日のフィナ洞窟受難者の慰霊日の時だけ、関係者はここに立ち入ることができ、親族を供養することができるのだ。そうチャンスがあれば、の話。
 筆者は毎年この慰霊祭に参加している。「フィナ受難者の洞窟慰霊祭」はその現場に所属するサンタリタ村と隣接するアガット村が交互に行っていて、毎年「今年はフィナ洞窟で慰霊する」という触れ書きがついているがそれまで一度もそれが現実になったことがなかった。そして今年遂にそれが現実のものとなったのだ。アガット村関係者によれば実12年ぶりの訪問であるそうだ。今回もおよそ200名の訪問者の殆どが初めてのフィナ洞窟探訪であった。そして日本人にとって戦後64年目にして迎える初めての訪問であった。
「フィナ受難者の洞窟」はアガット村に入る手前にあるアメリカ軍の基地の中にある。ゲートから現場まで普通のスピードで15分ほど平坦な道路を行く。かなり広大な敷地を通っていることがそれだけでもわかる。右手には豊かな平原。遥か彼方にこれまで想像もしなかった山並みがあり基地そのものの広大さを感じる。見渡す限り人影とてない大平原がゆったりとしてあり、時々コンクリート舗装された道路がここかしこに見える。先導するのはグアム警察のパトカーであり後尾には軍のパトロールカーが追走している。基地内なので車内からの撮影は厳しく制限されている。筆者の予想と反していたのは、「フィナ洞窟」の所在地とは、アガット「ガアアンポイント公苑」の対面にあるアリファン山のあちら側にあるもの、と決めつけていたが完全に間違っていたこと。その洞窟は山間ではなくマリンドライブと平行するようなジャングルと荒れ地の中、平原上に盛り上がってできたようなジャングルのその中にあった事だ。かつて日本軍がここを支配していたこと自体も驚きの一つであった。このような広大な敷地を日本軍はどのようにして知り、ここを把握、管理していたのだろうか?その広大さはもう一つの村落といってもよいほどのものであった。

 草むらで覆われたカマボコ状の形、プレハブ住宅4軒ほどもある大きさの弾薬庫がここかしこに散在してある場所までくるとバスが停車し、笑顔で迎える兵隊達に包まれるようにしてその(・・)洞窟まで案内された。その現場は奇麗に刈り込まれた芝生の敷地に建っているカマボコ兵器庫のややあちら側に在った。ジャングル状の急斜面の下側に兵隊が左右縦列に居並んでいるので直ぐにわかった。
 洞窟はジャングルの斜面にある木の階段20段のあちら側にある。米兵の上官の説明によると洞窟は手前と後方に出入り口があったが地震で中央部分が陥没し、従って手前にある開口部ともう一つは斜面のあちら側からある開口部に分かれている。犠牲者の遺体は「手前の開口部の直ぐに入った踊り場のような所に折り重なるようにしてあった」、という。日本人であるから特別というのでもなかろうが市長達が先に入ることを勧めてくれた。
 2人が並ぶだけで道が塞がる様な階段を登ると縦に大きく裂けた洞穴がある。その右横にも小さな洞穴がある。ここがフィナ洞窟だ。開口部のあちら側の窟内は低くなっていて降りると6メートル四方ほどの踊り場がある。周辺は石灰状の岩石で巡らされ苔のせいか黒ずんで見える。その石灰の壁は3メートルの高さに達し窟内を覆っている。地面は平面で泥状、34名の住民がここで犠牲になった、という。その向こう側の壁の下方にもう一つの洞穴があり、それがあちら側の出入り口に通じていたそうだ。今は陥没して土砂で埋っている。
 一説によるとこの周辺に当時の住民100名足らずが強制的に居留させられていたそうだ。7月11日にサイパン島が陥落し、米軍の上陸がいよいよ本格的に始まるという時に、日本軍はサンタリタ、アガットの住民を強制的に上陸戦が想定される場所から引き離した。それがここフィナであった。
「住民は日本軍の命令でジャングルを切り開き川に木造の橋を作り煮炊きをした。7月19日の早朝、日本軍はこれまでの労働の慰労会を催す、という触れ込みで住民を集め機関銃などでいきなり襲撃した。住民達は危険をとっさに感じて一斉に逃げ出したが窟内の犠牲者だけは逃げ遅れ災難に遭ったのだ。銃撃を受け被弾した者もいれば洞窟周辺に隠れていた者、また走り去った者が多数いてその後、この事件が発覚したことになる。」米軍が明らかにした当時の話である。
 滞在時間僅か60分余り、周辺の散策も許されず、また個別行動も許可されぬままに厳しい兵隊の監視の下の慰霊は終わった。帰りのバスから野生のカラバオと猪の姿が彼方こなたに見えた時、副市長が「ここは野生の動物をいつでも見る事ができるパラダイスだ」といって乗員を笑わせた。解散する時に住民たちが声を揃えて「自分達の土地なのになぜ許可を得ないと中へ入れないのか、慰霊をするのに許可が必要というのは実に哀しいことだ」と嘆いていた。
 戦争はいつも悲惨な結果をもたらす。また軍隊の過剰な防衛意識は人々の心を腐らせ、よって新たな戦争を誘因してしまう、という歴史を賢者は学んでいるのだろうか?

 太平洋戦争の戦跡巡り、慰霊祭を通じて感謝するのは、かつて我が同胞が、例え祖国の国体護持のためとはいえ他人の島を荒らし少なからぬ島民を犠牲にしたにも拘わらず、島民が「昔のことだから忘れてはいけないが許そう」と明言してくれていること。そしてもっとも大切なことは、その彼らが戦後国交断絶の20年以上もの間にわたって、朽ち果てていく同胞の遺体を見捨てるに忍びがたく、米兵と共に収集し、埋葬してくれていたことである。恥ずべきことは、そういう事情もあればこそ、日本人であるならば、せめて巻き添えにして犠牲となった島民の慰霊祭ぐらいは参列して遺族の哀しみと痛みを共に分かち合いたいものだ。
 日本人として、彼ら島民の心優しさに感謝の気持ちを示すこと、と祖国のために斃死していった同胞が心残りにしていた惨事でもあるのだからせめて慰霊哀悼を尽くしてあげたい。日本の総領事が慰霊祭に出席し、地元民から礼を尽くして迎えられているのを見ると胸のつかえがおりたような気がする。総ては誠意と衷心から始まりその行為によって癒されるである。しかし日本の民間側からは誰も出席していないのが現実なのである。これも時代なのであろうか。  

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『太平洋戦争最後の知られざるスポット、ジーゴとサンタリタ』写真

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2008年05月01日

上陸戦記念碑とアガット上陸戦 (Agat)

 毎年7月になると7月21日の第二次大戦アメリカ軍上陸戦から始まって8月11日日本軍が敗退するまでの期間の戦争の経緯を基に戦跡や太平洋戦争戦記を物語風に書くようにしている。
 今はその時期でもないのだが、この5月18日(日曜日)に地元有志による民間慰霊協会「ピースリンググアム」(688−9070、647−0281)と日本の「ピースリンググアム・ジャパン」さらにアガット村が共同してここアガット上陸戦に慰霊記念碑を建立除幕することになり、それに先立ってそのいわれと紹介をしてみたい。因みにこの式典には一般も自由参加できるので興味のある方は是非参加されることをお勧めしたいし、前日には島内の慰霊塔、慰霊碑を清掃、供養する予定にもなっている。これも参加自由、無料である。因にこの式典には靖国神社から祭官が来島し祭事を行うことになっている。サイパン島に天皇皇后両陛下に同行し祭事された方たちである。今回はグアムの「靖国で逢おう」と散華して逝った英霊を出迎えに来られるのだ。日本でも本式祭事を直接見る機会は殆どないのだから貴重な体験といえる。


 さて、アガットはグアム島の中央部からやや南へ下がった西南に位置する人口6.000人ほどの町である。わかりやすくいえば海軍基地ゲートから大きく左に迂回し、そのまま直進するとその町の中心地に出る。上陸戦で有名なガアアンポイントを右手に見てここを通り過ぎたら行き過ぎである。つまり小さな町なのだ。
 アガットは戦時中「昭和町」と呼称され、そこに陸軍歩兵第38連隊長、末長常太郎大佐率いる歩兵3.000名足らずが守備していた。中央部に位置するアサン地域がそうであったように、このアガット地域も凄惨で激烈な戦闘が行われた。9.000名を超えるアメリカ軍が上陸したのが1944年7月21日の未明のこと、それ以前から艦砲射撃と空爆でその殆どの日本軍陣地と兵隊は消滅してしまっていた。この圧倒的な数の差を殆ど孤立無援で守備するのは常識の外といえる。その非常識をあえて請けもち、覚悟して戦線に就いた末長大佐とはどういう人物なのであろう。
 第38連隊所属の連隊長末長大佐の軍は愛知、岐阜、愛媛、京都、奈良県を中心に編成された関西系の陸軍士官であった。しかし大佐の縁者は現在に至るも行方知れずの状態であり、従って当時グアムに駐在していた頃の目撃談や伝説、それに事跡などから当時の様子と本人のことを想像するしか方法がない。
 1944年3月、連隊長末長常太郎大佐と陸軍歩兵第38連隊の兵隊2、898名は大宮湾(アプラ湾)に上陸し、そのまま南西しアガット村に滞在した。当時の状況を間近に観察した地元老人は「一寸の乱れもない見事な行進であった。がその分だけ怖かった」と述懐している。この大隊は交差点信号に近くに在った役所を接収するとそこに兵舎を造った(現保育園)。それから毎日毎朝7時、隊は規律正しく公道を行進していた、という。
 連隊長は上陸後ほどなくして村落の中から各分野の専門職、あるいは代表を集めた。学校、漁業、林業、農家、役所、教会の長から労働者代表までいたそうである。連隊長は彼らの中から代表を選出させ、その代表者達を基幹にして今後の日本軍と地元民の友好をはかっていったそうだ。
 村民はそういうわけで公平で合理的かつ停滞のない日本軍のあり方に驚嘆した。その扱いは強引ではあるが理にかなった方法であり、決して暴力的でなかったからだった。
 これまで海外に於ける日本の戦争の話となると、日本軍兵士は悪魔で情け容赦もない化け物のように決めつけられていた。哀しいことは共に血を流した同胞ですらそう考えそう捉え、若者達にそう比喩していたこと。これは日本の悲劇以外のなにものでもない。今でも戦争を続けている中国や北朝鮮、アメリカやイラクはどうなのだろう。戦争の対極にあるのは平和ではない。対話であり合意である。現在でも戦争をし続けている国はつまり対話ができない国、ということになるのだ。対話ができない、とはお互いの価値観や習慣、それに民族固有の血というか誇りのようなものがどうしても受け入れられない、あるいは理解し合えない状態をいう。アメリカのような文明国の魁のような国でも利害や人類愛や宗教を持ち出しても相手側の理解をえられずに戦争を続けている。中国はチベットの独立問題について内政干渉であるとして徹底無視に態度をとり続けている。帝国主義の時代は終焉したものと思っていたら未だ解決していない情勢があり、それに固執する国があることにむしろ驚く。その国が我が国の内政を干渉して軍国主義国家と非難しているのだから呆れて物がいえない。
 戦前の日本は当然のことながら世界に向かって対話の努力をした。しかし合意点をついにえられず戦争に突入したのである。当時の軍部の思い上がりや傲慢さが国際的に孤立させてしまった所為もある、とはいえ、当時の国民は他国による圧倒的な圧力の中で国が滅びる、不安を覚え国体護持の為に生命を投げ出して戦争を選んだのだ。これは現在の日本を除く総ての国々の国民は同じ心境であろう。戦争に負けるとはこいうことなのである、特記しておきたい。
 そういう悲惨な悲劇的な状況の中で彼ら日本人は何を感じ何を信していたのだろうか?ここで語られる外国人から見た日本軍人の評価評判を聞くと嬉しくもありで多少なりとも胸を打つのは仕方のないことである。
 兵隊は秩序にうるさく規律に厳しかったそうである。よく聞かれる話だが、町行く市民が(これは異常なのだが、成人であれ子供であれ)兵隊に敬礼をしないで通りすぎただけでビンタを張られた、という話をよくきく。酷い話で、聞くだけで不愉快になる。ただこれは市民に限らず兵隊に対しても日常のように行われていた。しかしその頃の子供の中には「軍隊というものは軍人だけに厳しかったのではなく、一般民にたいしても厳しかった。グアムはこれまで日常がだらしなかったのでいい刺激になったし、その規律を守るために罰則を与えることに違和感を誰ももっていなかった」と肯定的にとらえている人もいたのだ。不思議である。おそらく兵隊は単に暴力を振っただけではなくその理由も述べていたのであろう。そしてその反面、一人の人間として民間人と親しくもしていたのだろう。子供が兵士たちと食べ物をはじめ物々交換していた話はよく聞かれる。末長常太郎連隊長の部下たちは海岸の対面にあるアリファン山の中腹、伸びやかな平原丘陵にコンクリートで固めた(地元民が砦といっている)要塞をこしらえた。彼はそこに旗を立て遠くに布陣する味方に対して敵の状況を知らせていた。その要塞は他の戦地と違って総て日本軍人によるものであった。連隊長は地元と無意味な摩擦を避ける努力をしていたのだ。
 7月11日のサイパン陥落の報を受けると連隊長は住民代表を集めて「いよいよ決戦の時がきたようだ。敵上陸前にあたってお前達はこの場所を捨て、速やかに奥地に避難することを勧める」といい放った。「ここに留まれば敵軍と我が軍の板挟みになることが予想される」からと撤退を勧めたそうだ。住民は抵抗することなくその指示に従ったという。「その後、避難した壕内で住民が殺される、という悲劇があったが、儂はあの日本人の判断は正しかったと思う。なぜならこうして今でも儂達は生き延びているじゃないか」と戦争体験者である老人がそういった。
 粛々と避難する住民と対照的に日本兵は奮い立っていた。
 やがて7月21日未明、僅か数千メートルも離れていない海上から出撃した米海兵隊およそ9.000名の海兵隊員は目前のアガット村目指して上陸し、守備するおよそ3.000名の日本軍守備隊と激しい戦闘を開始した。
 しかし死守の使命を帯びていた末長連隊長と旗下の部隊は「今ここで敵の攻撃を食い止めなければ益々勢いをつけさせることになり」とさらに「既に討ち死にしていった兵士の無念を思うとこのまま撤退は偲び難く」と胸中を述べて「全軍夜襲総突撃をしたい」、とフォンテヒルで指揮を執っていた高品毅師団長に申し出る。
 時に同日の午後5時半。末長連隊長は「大変お世話になりました。今夜お別れします」と師団長へ伝言を託した後、明治維新に創設された名誉ある陸軍の連隊旗を燃やしこれを以て背水の陣とすると、全軍山頂から駆け下りながら敵を攻撃するのだった。
 戦記によると午後11時半に日本軍は一斉に前線に取りつきそこを守備するアメリカ海兵隊の側面を野砲の弾幕で撃退し、午前1時には丘を守備していたアメリカ軍の中隊が潰走し、午前2時半にはアガットのメイン道路であるハモン道路に日米双方の戦車が展開し激しい攻防を繰り返し、さらにある日本軍の部隊は海岸に設置してあった武器弾薬などの軍需品倉庫まで肉薄した、とある。さらに午前3時半にはアリファン山中腹で双方の軍が壮烈な銃撃戦を展開し末長連隊長は戦死するまでライフル銃を打ち続けていた、と書いてある。戦いは未だ続き、攻める日本軍はアメリカ軍をして「全く説明のしようがない執拗な肉弾攻撃」であり、守るアメリカ軍は「しばらくは全員気が狂ったような、泥酔しているような感じに見えた」とある。
 それまでアメリカ軍側の日本軍に対して冷徹かつ冷酷な印象ばかりが目立った軍記に初めてこの戦場で戦った日本軍兵士の凄まじい闘争心を書き記している。味方の勇敢さを讃えるのは当たり前として、それと同じ程度に日本軍の勇猛さを(控えめながら)特記している。両軍の戦いはまさに「物量と機能性に優れた武器を持つ白人の騎兵隊に対して、殆ど素手の状態で立ち向かう悲壮なインディアン」(当時これを見ていた住民の感想)であったのだ。こうしてアガット方面に布陣した守備隊兵士全員が斃死した。これがグアム戦争史上有名なアリファン山(有羽山)の戦いである。
今日でもこのアリファン山を訪れる人は少ない。
平坦な地と険しい丘という抑揚のある地を歩くと彼方に4メートル程に育った松の木がぽつんと立っている。アメリカ人が「フォックス・フォール」と称する「タコ壷」が当時のまま取り残されている。時代を経て訪れる人とてない忘れられた戦地なのである。
ここから見るアガットの海岸は美しい。哀しくなるぐらいに洋上が輝いて美しいのだ。今はひっそりとした戦場に落ちつき「強者どもが夢の跡」となって静まり返り、空の蒼さと海の青さが平和の有り難味を物語っている。 
 付近にコンクリート製の陣地がある。縦型のトーチカ内部は人が2人やっと通れるぐらいの通路だが、中は広けていてあちら側に銃座がある。そのトーチカの傍に2つの要塞がある。屋根を持たない開放的な要塞で座るとその前に防壁があり銃座がある。台地の丁度中央にあるこのコンクリート陣地は当時、海浜近くから眺めていた島民が語っていた「インディアン砦」の一部なのであろうか。この砦から離れた場所には草薮で覆われた2基の洞窟がある。これらは立ったまま入れる大きさで深さは5mほどで行き当たる。
 当時、この場所は第一大隊本部があった場所であろう、と想像される。この先の川を越えた辺りが第一中隊のあった所で、アメリカ軍と激戦が交された場所である。周辺にアメリカ軍の薬莢付きの弾薬が無数にころがっている。そして砲弾の破片も散乱している事から想像ができる。またその山中にポツンと突っ立っているトーチカがあることからここが戦場であったことがわかる。アリファン山にあった第38連隊はやがて壊滅していく。伝統ある日本軍はこの時、完全に敗れ去ったのだった。

 現在「ガアンポイント公園」として米軍管理下で保存されている公園を歩く。園内はきれいに刈り込まれた芝生が緑鮮やかに訪れる者の目を楽しませている。公園のあちら側、海岸の見える小高い丘の上に日米グアムと3本の国旗ポールがあり、日本軍の曲射砲が海の彼方に向けて設置してある。その傍らには機関速射砲と防護壁がある。そこから海に向けて桟橋(支柱、桝)の跡がある。かつて日本軍はここで荷物の搬入をしていたのであろう。その右方のあちら側にオロテ半島があり、逆方向にはバンギ島がある。米軍はここよりやや右側からバンギビーチの手前にそれぞれホワイトビーチ、イエロービーチと呼称し上陸したのだ。
 この「ガアンポイント公園」周辺には平屋、2階層のトーチカが3カ所あり、地下壕もある。自然な状態の樹木の中に埋もれたように細工がしてある。従って遠目にそこに陣地があるようには見えない。トーチカは頑丈なコンクリート製で厚さにして20センチもある。そのどれもが腰を屈めて歩ける程に高く行動しやすい。トーチカに拵えてある銃眼は上陸軍を想定して海岸に向けておらずトーチカ同士の間を標的にしている。上陸軍を引き寄せて発砲するつもりであったのであろうか?恐怖を感じるが射程距離や効果を考えるとその方が理にかなっている。
「儂がアメリカの軍隊から戻ってきてこの村の村長になった当時、そこはただのゴミ捨て場だったものだ。グアムが未だ観光業に乗り出す前のことさ。子供の頃の思いでで、そこは昔日本軍の陣地があったことを思い出し、早速探検してみることにしたんだ」元の市長が想い出語りの当時のことを話してくれた。「米軍や民間人が捨てていったジャンクの中にコンクリート製のトーチカがあり、片付けながら一つ一つを点検していった。そして2階層のトーチカの中に入った時、そこにはライフル(38式歩兵銃)とビール瓶、そして様々な残留物の中には人骨の破片もあった。そこでこれは大切に保存しておかなければいけないと思ってこの場所を公園にしたのさ」やがて米軍が戦場跡として自主管理を始め冒頭に書いたように芝生を植え付けてきれいな公園に仕立てていった。それが現在の「ガアンポイント公園」なのである。

 「昭和19年7月戦死」と書かれた1枚の戦死報告書を受け取った遺族がいた。当時未だ3歳の幼い女の子もその一人であった。やがて長じるにつれ肉親や親族から聞かされる父親に深い愛着を感じ、結婚し少しばかり時間に余裕がもてるようになってその父親の霊に逢いたくなり足跡を辿り始めた。その父は陸軍38連隊に所属していたことがなんとなくわかったのだが、この第38連隊はそれまで中国に駐留していたことから長い間中国の戦地を尋ね歩いた。その女性内藤寿美子さんはその後あるきっかけから父は中国から南洋に派遣されたことを知り、サイパン、テニヤンを経て「グアムで戦死したらしい」ことを知った。総て当時一緒に行動していた戦友からの情報であった。
 当時生還兵を中心に組織された「グアム島戦友会」を通じてグアムで戦死した父親の姿を求めて何度も来島したが、通り一遍の観光ではその雰囲気すらも感じ取ることができず、最後は兄と二人して独力で父が斃れた戦場を尋ね歩いていたのだった。
 開戦当時父がアガット村の守備隊要員であることを聞き知って二人が何度もアガットを訪問していたある時の事。いつもは公道を往復しながら消息を尋ねていた彼女は何気なく海岸地帯を散策していた。その時であった。ふと見上げる異様な形容のトーチカが目に留まり、その階上にあるトーチカに足を踏み入れようとしたやにわ、そのコンクリート製のトーチカの柱部分に当時の兵隊が書いた物であろう、セメントモルタルにえぐるような文字で「三木隊13名」と書かれてあった。それが父が書き残していた文字であることは直にわかった。生前遺していた多くの書簡と同じ字体であったからだ。その文字を何度もなでながら彼女が号泣したのはいうまでもなかろう。
 
 昨年の7月14日、その思いでの地アガットに戦争犠牲者慰霊記念碑を地元日本人グループ、ローカル、そして彼女の所属する日本の慰霊グループが合同で建立することになり、その鍬入れ式を行うべく多くの人々が参集した。その時、現アガット市長がその日本軍人と関わりの深いもと市長を彼女に紹介した。そして元市長はその時の遺品陸軍38式歩兵銃を彼女に返還したのだった。実に64年ぶりの返還であった。  

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Posted by kenhagaguam at 22:40

『上陸戦記念碑とアガット上陸戦 (Agat)』写真

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2007年08月15日

果敢かつ壮絶をきわめたアリファン山/有羽山の戦い

 グアムでは毎年この時期になると各地で太平洋戦争の慰霊祭が行われ、私が所属する「薮歩きの会」でも有名な戦地戦場を歩く。先月、機会があって以下に紹介するアリファン山を散策したが、63年も経っているにも関わらず戦争の遺構が残されてあった。先月に戦争当時の「島民犠牲の碑」を書いたところ、日本からも含めてかなりの反響があり、その殆どが「戦争当時の話と現在のその場所を詳しく知りたい」というものであったところから、今回もその中から印象的なコースを紹介しておきたい。

 アガットはグアム島の中央部からやや南へ下がった西南に位置する町である。わかりやすくいえば海軍基地ゲートから大きく左に迂回し、そのまま直進するとその町の中心地に出る。
 アガットは戦時中「昭和町」と呼称され、そこに陸軍歩兵第38連隊長、末長常太郎大佐率いる歩兵3.000名足らずが守備していた。
 アサン地域がそうであったように、このアガット地域も凄惨で激烈な戦闘が行われていた。
 9.000名を超えるアメリカ軍が上陸したのが1944年7月21日の未明、この圧倒的な数の差、しかも事前の艦砲射撃と空爆でその殆どの日本軍陣地と兵隊80%は消滅してしまっていた。
 しかし死守の使命を帯びていた末長連隊長と旗下の部隊は「今ここで敵の攻撃を食い止めなければ益々勢いをつけさせることになり」とさらに「既に討ち死にしていった兵士の無念を思うとこのまま撤退は偲び難く」と胸中を述べて全軍夜襲総突撃をしたい、とフォンテヒルで指揮を執っていた高品師団長に申し出る。
 時に同日の午後5時半。末長連隊長は「大変お世話になりました。今夜お別れします」と師団長へ伝言を託した後、明治維新に創設された名誉ある陸軍の連隊旗を燃やしこれを以て背水の陣とすると、全軍山頂から駆け下りながら敵を攻撃するのだった。
 戦記によると午後11時半に日本軍は一斉に前線に取りつきそこを守備するアメリカ海兵隊の側面を野砲の弾幕で撃退し、午前1時には丘を守備していたアメリカ軍の中隊が潰走し、午前2時半にはアガットのメイン道路であるハモン道路に日米双方の戦車が展開し激しい攻防を繰り返し、さらにある日本軍の部隊は海岸に設置してあった武器弾薬などの軍需品倉庫まで肉薄した、とある。さらに午前3時半にはアリファン山中腹で双方の軍が壮烈な銃撃戦を展開し末長連隊長は戦死するまでライフル銃を打ち続けていた、と書いてある。戦いは未だ続き、攻める日本軍はアメリカ軍をして「全く説明のしようがない執拗な肉弾攻撃」であり、守るアメリカ軍は「しばらくは全員気が狂ったような、泥酔しているような感じに見えた」とある。これまでアメリカ軍側からの冷徹で無慈悲な日本軍とその戦闘ぶりが印象に残る軍記でさえ、味方の勇敢さを讃えるのは当たり前として、それと同じぐらいに、この戦場で戦った日本軍兵士の凄まじい闘争心を書き記している。両軍の戦いはまさに「物量と機能性に優れた武器を持つ白人の騎兵隊に対して、殆ど素手の状態で立ち向かう悲壮なインディアン」(当時これを見ていた住民の感想)であったのだ。こうしてアガット方面の殆どの守備隊兵士が斃死した。これがグアム戦争史上有名なアリファン山(有羽山)の戦いである。

 今日、このアリファン山付近へ辿る道は舗装されていて、道路側にはコンクリート製の平屋がぽつぽつと並んでいる。その中でも目立つのが日本人の子孫であるイセザキ家の全長およそ15メートル近くはあろうか、という立派な枝葉を広げたマンゴーの大木で、その大きさに目を見張る。その下に大きなテーブルを置いて家族、近所の人が集まりくつろいでいる。のどかで緩慢な気配に平和の気配を感じる。
 その民屋の反対側の小高い丘を上る。
 平坦な地と険しい丘という抑揚のある地を歩くと彼方に4メートル程に育った松の木がぽつんと立っている。アメリカ人が「フォックス・フォール」と称する「タコ壷」が当時のまま取り残されている。時代を経て訪れる人とてない忘れられた戦地なのである。この周辺には実に夥しい薬莢、弾頭、艦砲射撃と空曝の際の砲弾の破片、残骸が散乱している。
 アリファン山の麓を目指してさらに歩く。10分程歩くとちょっとした高台へ出るが、そこにはこの山の麓近くアガット村の入り江から上陸する敵に備えて構築した陵郭陣地跡が幾重にも並んでいる。おそらくアメリカ軍上陸開始と同時にあの辺りに兵士がはり付き敵兵がこちらに向かって突撃してくるのを見ていたのだろう。
 ここがグアム史上最大の激戦地としても知られた場所だ。
 この陵郭陣地跡から遥か眼下にアガットの澄み渡った海原が間近に見える。ここから眺めると海上遥か彼方の水平線がとても良く見える、という事は敵からもよく見えたという事になる。そこから艦砲射撃を受けた日本軍の兵士達は髪が逆立つ程の恐怖を感じた事だろう。視界がいい分だけ逆に敵にも簡単に発見されてしまうという理屈だ。
 そして案の上、開戦と同時に5キロ以上も離れた海上からの艦砲射撃によって、ひな壇のように波状的に幾重にも並んだ陣地壕は「木っ端微塵に蹴散らされてしまった」のだそうだ。この艦砲射撃の砲弾は大きな鉄の塊で、それが着弾して砕け散った破片でさえも被弾すれば必ず致命傷になったであろう。周囲のおだやかな環境からは悲惨な状況が想像もできない。ここから見るアガットの海岸は美しい。哀しくなるぐらいに洋上が輝いて美しいのだ。今はひっそりとした戦場に落ちつき「強者どもが夢の跡」となって静まり返り、空の蒼さと海の青さが平和の有り難味を物語っている。
 付近にコンクリート製の陣地がある。縦型のトーチカ内部は人が2人やっと通れるぐらいの通路だが、中は広けていてあちら側に銃座がある。そのトーチカの傍に2つの要塞がある。屋根を持たない開放的な要塞で座るとその前に防壁があり銃座がある。台地の丁度中央にあるこのコンクリート陣地は当時、海浜近くから眺めていた島民が語っていた「インディアン砦」の一部なのであろうか。その証しとしてその周辺には縦型、横型と幾つにも洞窟跡があり、現在でも中に入ることができる。フォンテヒルの「日本軍洞窟跡」は天然の巌を基礎として利用した要塞だが、こちらのは正に手彫りによる要塞で兵隊が掘りおこした形跡を至るところで見つけることができる。その一つは小高い丘の下方に掘られた穴で、潜り込むように入ると畳一畳ほどの広さをもった場所がある。腰を屈めるほどの高さだから座り込むような状態になる。窟内は無限の闇である。そこから左右の通路にわかれてあり、右側を進むと曲がりくねった後に入り口と逆側の
草むらの中へ出る。左側はさらに深く進み大きくくねったような場所で行き止まりとなる。空間があってそこに食糧などを保管できる。
 この洞窟から離れた場所には草薮で覆われた2基の洞窟がある。これらは立ったまま入れる大きさで深さは5mほどで行き当たる。散策途中に突然大雨が降り出したのでここを雨宿りとした。当時は雨ではなく弾幕、砲雨を避けていたのであろう。胸が痛む。

 アリファン山麓に来たとき、直径一メートル程の殆ど土に埋もれかけた穴を見つける。幾重にも掘られた塹壕の近くにそれはあった。周辺は背の高い草々に覆われ、その場所だけが赤土に剥きだしになってさらされている。
 その掩蔽壕の中に入る。真っ暗な洞穴は、しかし周囲の壁がきれいに削り取られ幅一メートル程もあって大の大人が腰を屈めながら1〜2人は通れる程ある。所々の壁が刻みこまれてあって、そこにローソクを立てる事が出来るようになっている。身を潜める場所としては申し分がない。そこに用意したローソクを立て線香を焚く。60余年前にはここに20代半ばの若い同胞が立て篭っていたのだ。恐怖と武者震いでじっと時が経過し敵が現われるのを待っていたのか、あるいは最後の突撃の合図を待っていたのであろうか、想像するに胸が痛む。
 当時、この場所は第一大隊本部があった場所であろう、と想像される。この先の川を越えた辺りが第一中隊のあった所で、アメリカ軍と激戦が交された場所である。周辺にアメリカ軍の薬莢付きの弾薬が無数にころがっている。そして砲弾の破片も散乱している事から想像ができる。またその山中にポツンと突っ立っているトーチカがあることからここが戦場であったことがわかる。

 アリファン山にあった第38連隊はやがて壊滅していく。突撃するその直前、前述したように末長連隊長は涙をのんで日清戦争以来受け継がれてきた栄誉ある連隊旗を奉焼した、という。伝統ある日本軍はこの時、完全に敗れ去ったのだった。  

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Posted by kenhagaguam at 01:05

『果敢かつ壮絶をきわめたアリファン山/有羽山の戦い』写真

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2007年06月23日

『太平洋戦争秘話特集、メリッソ村のファハとティンタのチャモロ人虐殺現場の跡』写真

ファハ団体で
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ファハ、そしてティンタへ
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ティンタ
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Posted by kenhagaguam at 18:02

2007年06月19日

『太平洋戦争秘話特集、メリッソ村のファハとティンタのチャモロ人虐殺現場の跡』

 例年のことであるが、毎年この6月から8月にかけて今から63年前の太平洋戦争に関する行事がグアム島のあちらこちらで催される。日本人にとって(特に何も知らない戦後産まれ)は早く忘れて欲しい事柄ではあるが、避ければ避けるほど誤解と謎が深まるのが世の習いだ。地元日本人の有志によって結成された非営利法人「ピースリン・オブ・グアム」は7月14、15日の両日にわたって恒例の戦没者慰霊と慰霊塔清掃を行う傍ら、地元住民の慰霊行事にも参加して当時ローカルが体験した辛さ、厳しさを一緒に体現してみようという計画をもっている。当時の事に関心がありながら具体的に戦場歩きができない人は是非この機会を利用する事を勧めたい。(詳細は末尾を参考)


※ メリッソ村の虐殺現場跡
@ファハ受難の跡(Faha Massacre)


 メリッソ村は南部最南端に位置し南欧を彷佛とさせる漁師町のようである。
 実際は漁を生業としている村ではないが、そのたたずまいを俯瞰すると、彼方に有名なココス島を望み、周辺には数々の観光名所を抱えているウマタック村と並ぶグアム南部の景勝地である。現在でもグアムの歴史と文化を包み込んだこの閑静な村落に、戦争で苦く哀しい思い出が刺のように突き刺さったままになっている。

 戦時中、このメリッソ村の周辺には日本軍海軍警備隊、陸軍一個小隊、第十一連隊の小隊分隊、海軍開墾隊、地元日本人等々合わせて85人前後が駐留し敵兵の上陸に備えて縦横に展開出来るように備えていた、という。しかし「アメリカ軍上陸はどうやら島の中央部、フィリッピン海側に集中しそうだ」、という伝令を受けた彼ら駐留部隊は急遽味方の軍に合流しそこで迎撃することになった。アメリカ軍の上陸が予測される数日前(15〜16日)に僅かの兵隊だけをその村に残し、主力は前線へ向かって駆けだし、残留した僅かの日本人によって以下の忌まわしい悲劇が起きたのだった。これは戦後63年経った今でも多くの人が知らない,語らない戦争の影の部分の話である。

 悲劇はメリッソ村の2カ所で起きた。その事件は直接戦略的に必要な陣地構築のために使った男性多数が犠牲に。そしてもう一方は強制移動の途中に老若男女をまとめて犠牲にした事件である。

 ルート4をウマタック村から南上しメリッソ桟橋の手前辺りの左方に墓地が見えてくる。その墓地内の左側に大きな屋根つきのハットがあり、そこからの拙道を200mばかり登って行くと
メリッソ村全体が俯瞰できる平地があり、手前左側にグアム一番秀麗と謳われるシュローダー山が聳えたって見える場所にでる。そのシュローダー山手前の狭隘な渓谷の下にプリーストプールがあるのだがここからは見えない。さらに上方の小高い丘を登りきる所でファハのチャモロ人受難の跡(Faha Massacre)にいき当たる。

 戦前この地に駐留した日本軍は現地民である屈強のチャモロ人50人余りを選別し重労働に課した。そしてアメリカ軍上陸1週間前の1944年7月15日、開戦時に抵抗するチャモロ人30名を銃殺した、と伝えられている。太平洋戦争の忌まわしい残滓である。

 墓地のある場所から山中の中腹辺りの急な斜面を登りつめると、周辺を柵で巡らされた中央に大きな十字架があり「この辺りで事件があった」、という場所がある。柵の入り口に銅製のレリーフが立っていて、当時の悲惨な状況が淡々と記されている。それがとても痛ましい。その事件があったとされる場所は、現在では数本の木立に囲まれ涼し気で亡き死者への労りを感じる。そしてその周辺には何時も誰かが訪れるらしく、頻繁に花を捧げ清掃していて清楚な感じがする。

 この墓地がある小高い丘を越えてあちら側を訪れると、眼下遙かにココス島が悠揚に横たわっている。戦前はこの島を長島と名付けていた。

 眺望のいいその丘の上のやや下方に窪みのような雑草の花壇が見える。直径10m以上の大きな穴があり、1m程の深さの底には砂利が敷き詰められている。日本人が拵えた対空軍機用の高射砲の基礎跡である。もっともこれはアメリカ軍への示威的な意味合いを持つ偽物の大砲を設置する予定であったらしい。そして、この偽物の大砲を設える為に地元民を使った、という説がある。つまり、全くの予想ではあるが、この使役で使った屈強のチャモロ人30人が、前述の悲劇の犠牲者であったと想像できる。大穴を掘り、さらにここに模擬的な大砲を運び込むとなれば多くの力持ちの手を借りなければならない事は明白だからだ。その日肉体労働を終えた屈強な体躯をもった男達はそのまま受難碑のある場所へ連行され穴を掘った後に人知れず声を出す暇もないままに銃殺されたのだった。陰惨で悲痛な話である。


@ティンタの受難墓地(Tinta Massacre)

 ファハの公共墓地からさらに南東の方角に進み、グアム最古の学校跡(Maryn G.Cook school)を過ぎ、メリッソ桟橋を過ぎてやや走り、メイヤーズハウスの看板からさらに公道を行くと、左手にやや開けた雑草地がのぞけ、そのあちら側に小道(Benne Episoml Street )がありそこを左折する。公道から小道に入って間もなく行くと右手にかなり開けた民家の庭がありこの民家の奥がティンタの墓地への道となっている。

 民家の所有する雑草地を突っ切る。戦後からこの方ずっと手入れしないままの平地の草原である。近所で牛を飼っている所為でここかしこに牛糞が落ちたままになっている。人が(行事の時以外は)殆ど行き来しない所為で草ぼうぼうのまま、牛の体重で掘られた穴ぼこだらけの草原が彼方へと広がっている。やがて小川が道の行き止まりになり、くるぶしほどの水深の川を渡る。それからは殆ど小川に沿って道なりに右手に進んで行く。ここはいわゆる湿地帯で沼地のように足元の安定が非常に悪い。かつて日本人がここへ入植し米の栽培を教えていた、といわれるが、成る程陸稲にはもってこいの条件といえる。ここも放牧された牛しか生き物が通ることがない所為で荒れ果てたままの景観。沼地のあちらこちらに小さな島がある感じで、そのちいさな足場を足探り?で探り当て少しづつ体重を移動していく。時に牛糞があり、それを避けると足が滑ってそのまま膝まで浸かってしまうことになる。振り返ると仲間の誰も彼もが難渋しながら続いている。小柄な年寄りには人が寄り添っているのだが、その付き添い人が足をとられて滑って転んでしまうのだ。そして彼方を見やると雄大なシュローダー山が青々とした草原にくるまれている。日本の、とある山村の風景と少しも変わりがない。しかし63年前のメリッソは状況が異なっていた。7月の雨季のシーズンはさらに状況が悪かったであろう、辺り一面は膝迄埋まる沼地帯であったのだから・・・。

 あちら側にもっこりとした小山があり雑木林が行く手を阻んでいる。そのあちら側に受難碑があるはずなので構わずに突き進む、と周辺がにわかにおだやかな竹やぶに包まれた場所にでる。そのあちら側にこじんまりとした奇麗に手入れされた墓地がある。これがティンタの受難墓地(Tinta Massacre)なのだ。

 戦時中、30人の扱いに窮した日本人がこの場所に彼等を集め、洞窟に閉じ込め爆弾を投げ入れて男女合わせて16人を殺害した現場であるという。周辺はきわめて涼やかで、丁度田舎の神社の境内といった雰囲気でこの場所で残虐な行為があったとはとても想像がつかない。
 既にこの世の人ではないが、その時からくも難を逃れ九死に一生を得た生存者フィリップ・クルーツ(Felipes S. Cruz)氏は当時20才、生前その本人から直接聞いたという氏の実弟、元メリッソ村の市長のイグナシオ・バック.クルーツ(Ignacio Buck S. Cruz)氏の記憶によると・・・。

 クルーツ氏の父親(Ramon P. Cruz)と兄のフィリップ達村人総勢30人はその日の早朝(1944年7月15日)から普段は余り通らない畑地(水田)を「避難する」という名目で移動を命じられた。やがて小高い丘の中腹にある兵站用に作られた壕までくると(それは小さな丘の斜面を利用したもので壕内は大人の腰ほどの高さ、入り口からややあってから右横に曲がって突き当たるL字型であったという。30人の大人と子供がすっぽりと入ったそうだ)男達に命じて中にある雑品を取り出させてやがて空にする。それから彼等にその中に入る事を命じ、手投げ弾を放り込んで「蓋をした」という。残酷なのはしばらく経ってから扉を開き中の様子を窺ってから再び手投げ弾を投げいれて「確認した」というのである。

 極限の状況である。理性を失った人間が惹き起こす事件、正に戦争という狂気の成す仕業なのであろうか。事件に巻き込まれた民間人の中には村の長老達、教員、それに会社員と彼等の家族が居たという。遺族の一人、父親と親戚を亡くしたクルーツ氏は「我々民間人は日本人に抵抗するでもなく、この壕も掘り労働もし、収穫した食料もその僅かな部分だけ残して全て兵隊に差し上げたのに、彼等は何故無辜の人を殺さなければならかったのか?」と声をつまらせて訴えていた。その時、彼の実兄やかろうじて生き延びた14人の生還者達は、歳老いた大人達の懐に包まれるように庇われていたお蔭で「生き残れた」といっていた。奇跡的な生還だが哀し過ぎる。

 これは風聞だが、アメリカ軍の上陸を間近に控えて迎え撃つ準備をしていた日本軍は、それに先だって住民が反乱を起こす事態を考慮し、彼等を一カ所に集めて管理する手段をとった。それが後世に伝えられている「強制収容所」である。

 このメリッソ村ものその案件の一つで住民を移動するべく一所に集めたが何を勘違いしたのか、あるいは恐怖に見舞われてか、ひとかたまりに移動して監視をする、という手間をとらずに(面倒なので)「殺害」という最悪な方法をとったのではないか、といわれている。

 今でも毎年、7月の半ばになると犠牲者の家族達が集まりささやかな法要を執り行っているが、時が長じるにつれてその痛みも僅かずつ変化し、現代人から見た場合、それは過ぎ去りし日々の戦争の1コマの感傷で終わってしまう儀式のように見える。(2004年7月の死去により唯一の奇跡的な生還者は絶えた)しかし既に戦後半世紀を経たからとはいえ「あってはならない行為」を時間に染みつけ、犠牲になった人々の冥福を祈り続けてあげたい。

* 「ピースリンググアム」は現在、このぬかるみ湿地帯に車椅子でも通える参道を敷設する計画をたてている。民間人と協力して互いにこころの痛みを分かち合い、慰霊の為の参道を造ろう、という試みである。


 日本人にとってもローカルにとっても太平洋戦争当時の忘れてしまいたいような苦く辛い体験は、ここグアムには今でもこうして残っているのだ。残念ながらこの事件は観光客に紹介されたことがない。のみならずグアムの現地観光ガイドの中にはその場所が何処にあるのか、あるいはそうした事件があった事すら知らない人が多い。

 筆者はこのティンタの慰霊について草々批判的な地元日本人がいることを知っている。慰霊行為ひとつさえした事がない志の低い彼らに対してこれを説明することすら煩わしい。ただ、こうして我々グアムに職をもち少なからぬ恩恵を得ているのは一重にグアム島民の寛容さと豊かな宗教心の御陰であることを決して忘れてはいけないような気がするのだ。この村の牧師や村長が「総ては戦争の成した術、そしてそれは終わったのです。勿論、戦後の人には何の罪もありません。ただこうして犠牲になった人々を年々偲ぶ事によって戦争体験の悲惨さを継承して行きましょう」といっていた。

 当時の事件の文献を読んでみてもここかしこに辻褄が合わない部分があり、またスパイ行為を阻止する意味での行為という言い訳も残っている。その経緯や状況はあえて問うまい。どんなに説明が上手であっても、またそれがどんなに理屈にあっていた処で無辜の民間人を殺害した事は事実であってそれを弁解する余地がないからである。ましてや「それは民間人の内輪もめが原因であった」と言い出す愚かな日本人さえいるのだが、哀しい話である。

 戦時中の事ゆえ、どんな悲惨な事件であってもその事実を正確に究明する事は不可能に近いだろうし、また、今となってはそれを知り得る術もない。

 しかしそれでもなお、このグアム島に於ける戦闘で、(実際にはこの村だけではないのであろうが)日本人の手によって無辜の民間人が700人以上も虐殺された、という事実に深い哀しみと憤りを覚えるのである。他人の土地へ上がりこんできて勝手に家屋を接収し、あるいは(アメリカ軍が主であるが)空爆で粉々に粉砕し、ここかしこで人殺しが公然と行われたのである。日本やアメリカの言いわけなど聞きたくないのが本音であろう。スペイン人がこの島を支配して以来、本当の意味で平和を知らず戦争の恐怖ばかりを味わい続けてきた現地ローカルの人達の悔しさと無念さがじんわりと伝わってくるような気がしてならない。

 戦後、グアムの山河や海浜に散って逝った日本軍の英霊達の事を手厚く葬り供養してくれていたグアム人が多数居た事を決して忘れてはならないし、その恩に報いるささやかな気持ちとして、せめて犠牲となった受難者達の碑を訪れ、心から供養しようという気持ちを失くしてはならない気がする、どんなものであろう。


「ピースリング・オブ・グアム」7月の行事

  • 7月14日(土曜日)10:00〜マンギラオ戦没者慰霊塔清掃、アガット日米激戦地記念碑起工式

  • 7月15日(日曜日)09:30〜メリッソ村受難碑慰霊(朝8:30チャモロビレッジより乗り合い送迎バス出発)14:00〜ジーゴ南太平洋戦没者慰霊塔清掃と供養。ジーゴ最後の戦場慰霊


 お問い合わせは:高木(648−5350) 芳賀(777−4545) 飯塚(688−9070) 坂元(687−3420) 服部(687−2313)へ  

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2006年03月14日

『グアム戦争 アメリカ軍上陸戦跡・アサン(朝井町)海岸編』2

この作品は出版する事を目的に記した戦争ページェントです。
従って文中全体、あるいは部分のいずれも筆者に版権がありこれを無断で転載すると著作権法に触れますのでご注意ください。

 

『グアム戦争 アメリカ軍上陸戦跡・アサン(朝井町)海岸編』 ケン・芳賀 著

 アメリカ軍上陸戦跡・アサン(朝井町)海岸編(World War 2 in Asan)中央西部



(前回からの続き)


 このアメリカ軍上陸に備えて準備したのがピティ村にあるピティガン跡である。
ピティとはチャモロ語で「痛い」という意味だが、戦争の跡が痛々しく遺っている。日本軍はここを港町と称していた。

 14,000mも彼方にいる艦船を撃沈出来るこの曲射砲は全部で3門ある。
しかし、この曲射砲を設置はしたものの直ぐに戦争が始まり、開戦に間に合わなかったそうだ。
14,000mも遠くにいる艦船にこの曲射砲をぶっ放したら敵もさぞ仰天したであろう。

asan18-10.jpg マリンドライブを南下してアプラ港の近く、山側に教会と大木が見える。
その教会裏の石段を登り、ゆるやかな坂道を上り詰めるといきなり大砲が現れる。

 曲射砲は全長5m余り、14cmの口径である。
3門の内1門は朽ち果ててしまっているが残りの砲はよく手入れが行き届いていて往時を彷佛とさせている。
戦後アメリカ軍がどれ程思い入れて手入れをしていたのか、がよくわかる。
この曲射砲を山腹まで引き上げるのに地元民を強制的に使役に駆り出し丸太を並べてローラーのようにして引き上げたそうだが、哀しい話だ。
戦争にまつわるこうした逸話は枚挙にいとまがないほどだが、現地人の恨みがヒシと伝わってきて気が重くなる。
この山には戦前(1928年)に植えられたマホガニーの木が植わっている。
グアムには珍しい木なので必見の余地がある。
この砲台が睨みを利かせている先がアサン海岸の遥か彼方の海上である。
そしてその眼下にアサンメモリアルビーチがある。


(続く)
  

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2006年02月14日

『グアム戦争 アメリカ軍上陸戦跡・アサン(朝井町)海岸編』1

この作品は出版する事を目的に記した戦争ページェントです。
従って文中全体、あるいは部分のいずれも筆者に版権がありこれを無断で転載すると著作権法に触れますのでご注意ください。

 

『グアム戦争アサン上陸編1』 ケン・芳賀 著

 アメリカ軍上陸戦跡・アサン(朝井町)海岸編(World War 2 in Asan)中央西部


 さて、開戦の事。
先ずはアサン海岸から。

 7月18〜20日にかけておよそ1,310トンの爆弾がアメリカ空軍によって落とされた後、1944年7月21日の早朝から日米決戦の火ぶたが切られた。
アメリカ軍はその上陸地点を早くからグアム島フィリピン海寄りの西海岸、アサン(Asan Bay)アガット(Agat Bay)の海岸に設定していた。
つまり、この両海岸の真ん中にあるオロテ半島(Orote Point)に日本軍の強力な精鋭部隊と航空隊が潜伏しているものと誤解していたからであった。

 その戦略とは、この半島の首根っこを押さえる事、つまり挟撃して日本軍主力が戦場に現れる前に攻撃力を弱める事を計算しての攻撃であった。
勿論、偶然にもこの両海岸は珊瑚棚が海浜より近く従って上陸に際して上陸中に狙撃に遭う恐れが少なかったメリットもあった。

 この上陸作戦の前から昼夜連続してアサン、アガット両海岸と上陸地目指して、海上からアメリカ艦隊535隻が艦砲射撃を敢行した。
砲撃は艦砲射撃独特の遠海から放物線を描いて落下する方法ではなく、海岸から数キロの所から砲身を水平にしての直射攻撃であった、という。
その激しさ、その威力の程が想像される。
(例としてアメリカ海軍駆逐艦は海岸線より1,000m、巡洋艦は2,000m、戦艦は僅か3,000mもの至近距離から砲撃したと記録にある)
その衝撃と迫力は相当なもので、2002年12月8日にグアムを襲った史上最大の台風「ポンソナ」が通過した後の凄まじさよりも激しいものであった、と当時の住民が述べている。

 アメリカ軍は前月のサイパン戦争での日本軍の反撃の凄さを熟知していた。
この時の教訓からあらゆる兵力と武装を叩く為に上陸前に徹底的な砲撃を加えたのだ。
その結果、海岸線に長く設えた砲台や塹壕の殆どは跡形も無く吹き飛ばされたか無力化し、さらには10.000に余る兵士を粉砕して一瞬にして抵抗力を奪ってしまったのだった。

 アメリカ軍の上陸は21日未明からこの地アサンとアガットに向けて総兵力13万の兵力の内、約55,000名の海兵隊員によって一斉に開始された。
この両海岸に上陸したのは海岸一帯が浅いリーフであった事もさる事ながら、前述したように両海岸の中央部分にオロテ半島があり、そこに日本軍の航空基地と精強な日本軍が待機していたからだった(実際には前述したように、主力戦闘集団ではなかった。米軍の目論見とは異なっていたのだ)。
従って、この両上陸作戦を成功させる事によって主力である日本軍中枢を孤立させる事が出来る、という戦略だった。
実際にはこの作戦を先取りした日本軍はその総兵力約18,500名(20,810名あるいは21,000名という説もある)による大隊を3つに分割し、両海岸の後方に展開していた。

 アサン海岸上陸はしかし日米両軍にとって悲惨で苛酷なものであった。
アメリカ軍は日本軍による機雷や防御障害、爆薬を抱えての肉弾攻撃によって難渋し、また、破滅的ともいえる大きな被害を受けた日本軍はたいした火力を持たないまま肉弾攻撃に頼らざるを得ない情況であった。
殆ど無力なまま開戦した日本軍は、僅か3日間にその殆どが戦死してしまっていたのである。


(続く)


アサン海岸・アサン公園

asan1.jpg asan2.jpg  

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2006年01月15日

『グアム戦争戦跡を歩く』2

この作品は出版する事を目的に記した戦争ページェントです。
従って文中全体、あるいは部分のいずれも筆者に版権がありこれを無断で転載すると著作権法に触れますのでご注意ください。

 

『グアム戦争戦跡を歩く』 ケン・芳賀 著

(前回からの続き)


 日本軍は最北端のタラグエ(あるいはタラグ)ビーチ(白浜海岸/Tarague Beach)、中央部のアガニヤ(現ハガニャ/Hgatna、旧明石町)、それよりやや南へ下がったピティ/Piti(旧港町)、そして実際上陸戦のあったアサン/Asan(旧朝井町)と南部のアガット/Agat(旧昭和町)、さらにはそのアサンとアガットの真ん中にあるオロテ/Orote Point(旧表町)半島に分散展開して敵を待ち受けていた。アメリカ軍が上陸開始する直前には各地に分散駐留していた各小部隊がこの戦闘地域に参集し、血みどろの3週間を闘うのである。

 因みにこれらの地域は総てフィリッピン海に面しており、まとまった戦闘は太平洋側では起きていない。これはフィリッピン海側は荒波の影響が少なく、よってサンゴ棚が大きく広い事、さらに遠浅なので上陸するのにアプローチし易い点などが考えられる。

 グアムの西側の海岸線の中でも最も海岸線が長く大陸棚までの距離があっておだやかな場所といえばタモンビーチ(富門海岸)が上陸に際して理想的な唯一絶対の候補である事から日本軍は早々とその海岸線に沿って7基以上の陣地(トーチカ)を拵えた。がマリアナ地区総司令官であった中将高品彪師団長はここを抛棄した。上陸地点(サンゴ棚)から海岸までのスパンが余りにも長いから、というのがその理由であった。

 高品師団長の任務はグアムを含む西太平洋全域(マリアナ諸島)の指揮を執る事であったが、サイパンにアメリカ軍が上陸して以来サイパン上陸が叶わず、急遽、グアムを指令部にしていた。

 その師団長が前述したアサン、アガットが敵上陸の目標地点と喝破したのは、敵から見た場合、両海岸は上陸場所のサンゴ棚から海浜へかけての距離がなく従って上陸時に日本軍の抵抗をさほど受けないであろうという米軍側からの立地条件を鑑みて、ここに守備陣地をこしらえたのである。これらの発想は両軍共にサイパン上陸時の戦闘の教訓を活かしている。高品師団長の敵上陸の際の冷静な判断とその後の命令、そしてこの敵前上陸場所の指摘などから判断すると当時のグアム日本軍は幸運な事に高品師団長、小畑軍司令官と2人の優秀な幕僚に指揮されていた事になる。

 日本軍の強烈な反撃、反抗に手を焼いたサイパン戦争の教訓から、アメリカ軍はその上陸敢行する以前から、15日間7.500機、約7.000トンという半ば狂気的ともいえる息を飲むような猛烈な空爆、艦砲射撃を敢行し、( 一説には6月11日から40日間ともある)島の主力となる大砲と砲台を完膚なきまでに破壊し尽くした。この砲撃で迎撃するべき多くの陣地と兵士は粉砕され戦闘能力を殆ど失っていたという。その線上で、グアム島最大の市ハガニヤに集中していたかつてのスペイン時代からの遺構である貴重な建築物まで破壊してしまったのである。戦後、その多くの貴重な遺産は粉砕されブルドーザーでカキ集められてパセオの港に破棄してしまった(現パセオ球場)ことから、今日のグアムには(というよりチャモロ人には)これといった文化遺跡が残されていない。

 日本軍が戦略上、チャモロ人達を強制移住させていたがゆえに島民の被害が少なく(これとは別に日本軍による住民虐殺があった事実を無視してはいけないが)済み、逆にアメリカ軍はチャモロ文化を破壊したお蔭でチャモロ人には歴史的遺産が少ないと揶揄されるのだが、時代の先端をいく文明人の手によって破壊されたチャモロ人こそいい迷惑であったのに違いない。

 戦争はグアム島の中央部分、つまりハガニャを南下したアサン町(朝井町)とオロテ半島(表半島)の南下にあるアガット町(昭和町)から始まり、アメリカ軍上陸とともに次第に戦線が拡大し、島の中央に位置するアルトム山(火の山)周辺のマネンガンヒル近辺で激戦があり、やがて日本軍の主力8割が壊滅的な打撃を受けるとともに北部へと戦線が移動(というより既にアメリカ軍による掃討作戦に近いのだが)し、マタグアクでの日本軍最後の決戦と軍上級幹部の集団自決により公式な戦闘は終結する。

 しかし、その最後の終結地点に間に合わなかったか道に迷った兵隊達は指揮系統のないままに北部最先端のタラギビーチへ逃れ、やがてそこを離脱して再び中央部、あるいは食物の豊富な南部を目指して迷走退却をするのである。
 この本では最も短時間で、しかもできるだけ具体的に日米決戦が行われた当時の合戦模様を立体的に紹介し、さらには逃避行を続ける日本兵達のその後を書いてみる。戦争の遺跡も参考にしてグアムを歩くと兵隊達の「それから」がおぼろげながら伝わってくる、と思う。


(続く)


上陸目的地のテンホー山(左)とアルトム(右)

mttenjyo.jpg mtaltom.jpg  

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2006年01月14日

『グアム戦争戦跡を歩く』1

この作品は出版する事を目的に記した戦争ページェントです。
従って文中全体、あるいは部分のいずれも筆者に版権がありこれを無断で転載すると著作権法に触れますのでご注意ください。

 

『グアム戦争戦跡を歩く』 ケン・芳賀 著

序章
 戦後も60年以上経つとそろそろ歴史の入り口までさしかかる。そうした歴史の一環として眺めた場合、大平洋戦争に影響されたグアム戦争の戦跡を辿る事は今日のグアムの発展を知る意味からも意義ある事であると思う。戦後28年経ってこのグアム島のジャングルの中で発見された横井庄一元伍長によって世界中は強烈な衝撃を受けたのだが、その事は中年以上の世代にはよく知られているが、実際のところ、戦後62年も経つと日本人、ローカルを問わず、その戦場、戦跡、戦争にまつわる様々な因縁話を語れる人、その現場を知っている人もごく僅かに限られ、それも戦争を専門に学習した人しか知らないケースが多い。また仮に机上学習したところで実際の現場を指摘できる、となるとこれはもう髪一毛ほどもいないのが実情である。

 この本はグアムに埋もれた知られざる戦場跡を歩き、あの戦争がここグアムに於いてどのような厳しいものであったのか、を探訪するものである。戦後62年、戦争は少しづつこの島の歴史になりつつある。そしてその歴史の一翼を担ったかつての軍隊、旧日本軍の視線からその戦跡を辿ってみることにする。


グアム戦争の始まり
 その前に予備知識としてグアムでの戦争を簡単におさらいしてみると・・・

 まずは当時の日本軍の動きを俯瞰して・・。

 1919年、第一次世界大戦でドイツが国際連合軍に敗れたドイツは、既にスペインから領土を買収して得、支配していたグアム島を除く全マリアナ諸島の統治を放棄し、かわって日本が国連から依託されて代行統治する事になった。その頃グアムには一般の日本人(当時グアムはアメリカの統治国)がビジネス駐在員あるいは移民として在住していた。

 1941年(昭和16年)12月8日、第二次世界大戦(大東亜戦争)が勃発、グアム島を防衛するアメリカ軍約400名(1説には600名)に対して南海支隊、堀井富太郎少将指揮下の約6.000名(1説には8.000名)の日本軍は早くもその日にタモン湾、ウマタック湾、そしてタロフォフォ湾を爆撃と攻撃し、翌々日の10日には占領している。因にその戦闘でアメリカ軍50名、日本軍1名が戦死しており、マクミラン海軍大佐他368名が降伏している。これをみても明らかなように、占領といっても本格的な戦闘はなく、上陸した日本軍は海軍、警備隊、航空隊の兵員といった処で組織的な軍隊ではなかった(因みに一説によると現地邦人は200人ともあるいは10000名足らず居たともいわれているがこれは確認できていない)。


(続く)


日本軍が上陸を敢行したオロテ岬

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2005年12月13日

ピースリング・グアム 『グアムを歩く・戦跡編』5

 グアム戦争を風化させない為に・・・
トレッキングを通じて最近盛んに話題になっているのが61年前にここグアムで起こった日米戦争の戦跡歩きです。
日本人のプライドをかけた、あのグアム戦争が記事になりました。

 この記事をきっかけに、読者の皆さんに「グアム戦争」物語を開戦から順を追ってご紹介しましょう。
貴方の感想を教えてください。コメント投稿やメールをお待ちしております。

 では先ずは最終決戦となった戦場のお話から・・・

 

『グアムを歩く・戦跡編』 ケン・芳賀 著

 南大平洋戦没者慰霊塔と日本軍最後の洞窟跡(又木山)(Mataguac, South Pacific Memorial Park)
 (難度☆)北東部・各史跡滞留時間による


(前回からの続き)

 このモニュメントの右手の坂道を降りる途中に日本軍が使用していた立派な構造のコンクリート製の水槽がある。雨水を溜めていたのだろうか。そのやや手前の右側には戦後になって作られたコンクリート製の階段があり、湿気の為に滑りやすい階段を降りて行くとちょっとした水溜まりがあって、日本軍が作ったコンクリートの枡に清水が溢れている。さらにその右奥に足をのばすと崩れかけた岩壁の穴がざっくりと空いていて覗くと薄暗い穴から水がサラサラと流れている音が聞こえる。当時ここには水を求めた傷病兵の多くが『死んでいた』、という。元の場所に戻って、先ほどの水槽前の小経をゆったりと下る。この坂道を降りきった所に、日本軍最後の総司令部があったという洞窟跡4基がある。
 元々野戦用の病院窟ともいわれているが、ここで、もはや戦闘能力不可能と悟った小畑軍司令官始め将校達、ここまで生き延びて来た兵隊達60余名が自決して果てたと風聞がある。(実際には小畑軍司令官は前述したように離れた場所で戦死している)
 洞窟は4基とも完全な形では残ってはいないが入り口は自然なままの岩壁とコンクリートでうまく形状されている。中に入ると乾燥していて不快感はなく、かって隣の洞窟と繋がっていたらしい形跡が横壁に見える。洞窟の手前はゆったりとした広場になっていて、此所で炊事をしていたらしい。また、その側の竹やぶの中には湧き水などもあって暫時の休息が出来たのかも知れない。訪れる人が供えていった花や缶ビールやドリンクの空き缶がここかしこにあるが、現在では、盗人が出没して持ち去ってしまうので線香台や塔婆台、花瓶など無く不粋なコンクリートブロックが苔蒸したまま放置してある。哀れである。
 グアムでは、戦争は遺されたままそこにあるのだ。
 *日本軍守備隊20.810名、戦死者19.135名、生還者は7%足らずの1.305名と資料にある

(おわり)  

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2005年12月12日

ピースリング・グアム 『グアムを歩く・戦跡編』4

 グアム戦争を風化させない為に・・・
トレッキングを通じて最近盛んに話題になっているのが61年前にここグアムで起こった日米戦争の戦跡歩きです。
日本人のプライドをかけた、あのグアム戦争が記事になりました。

 この記事をきっかけに、読者の皆さんに「グアム戦争」物語を開戦から順を追ってご紹介しましょう。
貴方の感想を教えてください。コメント投稿やメールをお待ちしております。

 では先ずは最終決戦となった戦場のお話から・・・

 

『グアムを歩く・戦跡編』 ケン・芳賀 著

 南大平洋戦没者慰霊塔と日本軍最後の洞窟跡(又木山)(Mataguac, South Pacific Memorial Park)
 (難度☆)北東部・各史跡滞留時間による


(前回からの続き)

 合同慰霊塔建立の建設場所は、現在、「南大平洋戦没者慰霊塔」のあるグアム北部ジーゴ地区のマタグアクと決まった。此処が軍として最後の決戦地であり、また、野戦用司令本部があったからである。
 しかし、この土地の所有者がアメリカ本土へ移住していたりしていてその連絡場所が要として掴めない。こうした難関に拍車をかけるような事件や妨害が次々と建設計画を襲った。無論、四半世紀を経たとはいえ、民間人の中には日本軍に深い恨みを持っている者がかなり居たであろうし、政府も協力的とは言い難い。
 そんな状況での建立であればなおの事、カルボ神父始め心ある地元民の協力がどれ程献身的で効果的であったか想像に難い。特に戦前、戦中と縁あってグアムで事業を営み、捕虜となってからカルボ神父と親交をもった岸田敏夫氏は、カルボ神父の情熱に打たれて日本で自営業をしていたにも拘らずその事業を閉鎖してまでグアムに赴き、彼のパイプ役となり良きアシスタントになっていた。さらにその岸田氏を側面協力したのが、グアムに於いて、かつては伊藤、皆川両氏、さらに横井庄一さん発見の際には日本側に立って献身的な看護と通訳をしたエドワード(エディ)・筒井氏(故人)とその妻、久子さんのなみなならぬ協力と献身があってこそ今日の慰霊塔建立があるのである。こうした「恩讐を超えた」彼らの慈悲心があればこそ今日の「南大平洋戦没者慰霊塔」が在る事を忘れてはいけないような気がする。
 この汗と苦心と日本からの援助によってグアム平和寺慰霊公苑は1970年(昭和45年)5月に総面積42.000平方、寺島翔五郎デザイン、三井物産海外事業部施行、総工費約2億円をかけて完成されたのである。
 今は中南太平洋一帯で戦死した英霊約60.000柱が奉納されているのは前述した通りだ。

(続く)  

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