ポーランド/第67カ国目
2010年11月08日
2010/09/29(水)~30(木)
久々に体力回復&気分転換のための休日。
中国のウイグル自治区を抜けてからからの1ヶ月は宿代が高い地域が続いたたためにクラクフまで全ての全ての場所で1泊ずつのみしか滞在していない。
我々の観光満足度が早いことと、横になってゆっくり休める寝台鉄道の存在を利用して宿代と移動費と移動時間をうまい具合に節約し続けてきたのである。
あたし的には「無駄なく上手にルートを組めた!」とかなりガッツポーズだったんだけど旦那様は1ヶ月ずっとという状態に少々疲れてしまった様子で、重要視するポイントの違いや役割分担の違いはもちろんあるにせよ(たとえば、毎日宿が変わると宿探し担当の旦那様の仕事が増える、街歩きのための地図分析の苦労が増える、など。その分あたしはルートを作る時が大変だけど、現地での役割は切符の手配くらい。)、
やはり26歳と34歳の年齢差による体力差を感じる・・・。
昼間は特に予定をいれず、それぞれが思い思いに過ごし昼ごはんは郷土料理であるザビエカンカ(ピザパンみたいなの)の人気店へ。
っていっても行ってみたらただの屋台だったんだけど、
その一体数軒全てザビエカンカのお店であるにも拘らず、行列ができてるのはここだけ。
調子に乗って二人で3つ頼んだけど、それはそれはもうとてつもないボリュームで食べれなかった分をお持ち帰り→冷蔵庫で保管→翌朝のごはん、となったのでした。
夜は「バル(もしくはミルクバル)」と呼ばれる安定食屋へ。
左上:ポテトパンケーキ 右上:ロールキャベツ 左下:ピゴス
ポテトパンケーキとロールキャベツにはマッシュルームのクリームソースがかかっててすごい美味しかった!
けど、よくよくここ最近の地域で食べた郷土料理のメイン素材を思い返してみると「ジャガイモ」「キノコ」「キャベツ」・・・のみ。
この3つをうまくローテーション組んでメニューにしてるだけで、全部この組み合わせ。
素材が少ないなぁ・・・と感じる同時に、やっぱり日本の食環境は恵まれてると実感!
この帰り、たまたたま通った大きな教会の前でコンサートの看板が出ていた。
20:00開園・・・10分後だ。
本格的なコンサート会場でもなく、プロかどうかもわからないものに50zl(=約1500円)か。
ちょっと高いけど、見つけた今の勢いで入ってみちゃう!?ってことで寄ってみました。
思ってたより良かった!
でもまぁタリンで1000円のピアノコンサート聞いちゃってるからね~。
それと比べちゃうと、値段も高くて時間も短いことを考えるとタリンの勝ち!だわ。。。
クラクフ最後の日はヴィエリチカ岩塩採掘場へ。
途中で日本人のメイク完璧な娘としゃべった。 ほんと、日本人どこにでもいるなぁ・・・。
像も壁画もシャンデリアも全て岩塩を素材にして作られているとか。
確かに凄いけど・・・まぁぶっちゃけもっと凄いもの知ってるから別に・・・みたいなね。
夜はこの前コンサートを聞いたとこの向かいの教会で、パイプオルガンコンサートをやっているというチラシをもらっていたので行ってみることに。
チラシには開催日の日付が書いてあったけど、どうやら8~9月限定の企画らしい。
ポーランド最後の夜の最後の観光だから、ちょっと高いけどフンパツ。
どうせ5~10分遅れて始まるからギリギリに行ったんだけど、中に入ると誰もいない。
・・・観客うちらふたりだけ?
やべー拍手とかすごい気合入れてしなきゃマズイんじゃないの!?
アンコールとか、どのくらい拍手し続けるべきなの!?
とか冗談言ってるうちに西洋系のおばちゃん二人組も来て、観客は4人になった。
やっぱり15分遅れても始まらない。
・・・すると、教会前でチケットを売ってた女性が神妙な顔で何か話しだした(英語)。
内容は『観客が少なすぎてコンサートにならないので、本日のコンサートは中止』
いやいやいやいや・・・
別にどうしても聞きたいわけじゃなかったし、固執するつもりも全然ないけど、お客さん呼びこんどいてチケット売って開園時間過ぎてから中止の発表って・・・あんた。
ナメんなよ。
説明態度はキチンと謝ってたし全額返金してくれたけど・・・そういう問題じゃないでしょ。
聞きたいという人が100人だったら20人だったら演奏できて、4人じゃ演奏できない。
それって演奏者としてのプロ根性どこいっちゃったの!?
元音楽経験者として、それに一番呆れる。。。
そんな風に“聴きたいと思ってくれるたったひとり”を粗末にしてるうちに、聞いてくれる人なんて誰もいなくなっちゃうんだから。
最初から最後まで、とにかくイメージの良くなかったポーランド人の対応。
夜行列車でとっととスロヴァキアへ移動します。
2010年11月07日
2010/09/28(火)
アウシュビッツひとり旅のつづき。
話によく聞くガス室は、未だに火気厳禁の表示があった。
ガス室の裏側。ここから毒ガスを送り込む。
そんな毒ガス「チクロンB」の空き缶の山。
なんだかんだツアー中も“先のグループがいるからちょっと待ちましょう”みたいな無駄な時間が多くて、2時間強もかかって12:45頃やっと終了。
かと思いきや、これから2km離れた場所にあるビルケナウにも行くとか言い出した。
えーっ!?もう充分学べたんですけど!!
3時間ツアー強制参加のせいで12:40のバスを諦め、次の14:10には絶対乗りたい!と思ってたのに今からビルケナウ行って帰ってこれるのか超疑問・・・
ガイドのおばちゃんは14:00に全部終わるから間に合うけど、個人行動するなっていうし。
で、13:00アウシュビッツ発のビルケナウ行きバスに皆で乗ったはいいもののやっぱり明らかに14:10にアウシュビッツに帰れるようなツアーの時間配分じゃない。
話が長いガイドの合間を見計らって「もう帰ってもいい?」と聞くと、軽く「オフコース!」お前さっきの個人行動するなってしつこく言ったのはなんだったんだ!?
14:10に間に合うって話も嘘ばっかりだし!
でもビルケナウのバスストップに着く頃には、バスの出発してる姿が見えてしょうがないからアウシュビッツまでの2kmを歩く。いや、走る。
気温10℃の雨風の中、ダウンもマフラーもパーカーも脱いで汗ダラダラでひたすら走る。
が・・・
アウシュビッツ博物館の入口があと40mという所で、敢え無くバスを見送る結果に。
学生時代リレーの選手合った面影はどこにも無く、必死の主張もかなわず、バスは行く。
次のバスは15:05。
こんなとき、ふたり旅だったら動画見たり話したりして1時間過ごせるけど、「たったひとりで待つだけの1時間」って超長いんです。
はやく時間よ経て!と願って時計を見ても、さっきからまだ3分しか進んでない。
汗が冷えて寒くなってきたなーと服を着ようとすると、パーカーが無い。
走ってる最中に落としたらしい。。。
これからまだ2週間くらい10℃前後の地域が続くんですけど・・・。
その上15:05のバスは修学旅行生みたいな団体と重なってうるさいわ・モラル欠けてるわクラクフで渋滞に巻き込まれて動けないわ・・・疲れ果てた帰路でしたよ。。。
そんな散々なアウシュビッツひとり旅でした。
正直完璧に英語が分かる人じゃないと、英語ツアーに参加しても無駄に時間かかるだけ。
時期や時間帯をはずして個人見学できるときに行くか、ツアーに参加するならはじめから時間の無駄を覚悟で行かないとダメです。
個人的にはさほど残酷な痕跡や邪気を強く感じるような場所はなかった(もともと鈍感)。
けど、人類最大ともいえる過ちの現場だから“学ぶ”意味では必要な経験かもしれない。
日本の原爆博物館に行ったとき、大日本帝国が「大東亜共栄圏を設立」するために、当時ヨーロッパの植民地だった東南アジアを次々と日本の植民地においていったことと物凄く似てるかもと思った。
ドイツ人と会って話をしてるとわりと日本に好感を持ってる人が多くて、なんで?って聞くと「歴史に似てる部分があるから」って言ってたのはこのことだったのかと、今になって思う。
日本は戦争に対する賠償責任をとったり、自国の再建があるにも拘らず発展途上国を支援したりしたのに、戦後65年たった今でも周辺諸国からチビチビ言われ続けて肩身の狭い思いで未だにヘーコラ謝ってるなんて、あたしはおかしいと思う。
確かにしたことはいけないことだけど、戦後の65年間充分に償ってきたと思うし忘れてはいけない歴史だけど、いつまでも歴史に縛られ続けるなんておかしいじゃん。
協力してこれからの未来を作っていくのが重要なんじゃないの?
開き直るつもりじゃないけど、植民ってことだけ考えたらヨーロッパの国々は日本以上に
やってた歴史だってあるのにさ。
じゃあ似たような歴史を持つドイツも、未だにチビチビ言われてヘーコラしてるのか?
その辺ちゃんと考えないといけないよね。
だから劣閣諸島問題も結局日本が泣き寝入りすることになっちゃうんだよ。
ほんとダメだな、日本の政治。
日本での生活は大好きだし、戻りたいとも思うけど、
こうやって問題が起こるたびに日本の政治のダメさを知ると、他国に住みたくなる。。。
2010年11月06日
2010/09/28(火)
クラクフ最初の観光は、
かの有名な「人類の負の遺産:アウシュビッツ強制収容所」へ行って参りました。
今回は一人旅。
というのも、うちの旦那様は邪気を受けやすい体質でカンボジアのポルポト大虐殺の牢獄へ行ったときも若干具合が悪くなったりしたので今回は現場に行くことを控えた結果、ワタクシのひとり旅となったわけです。。。
朝、バスターミナルまで旦那様が送ってくれて、8:25クラクフ発のバスに乗ってGO!
2時間弱でアウシュビッツに到着。
クラクフから電車でも行けるけど、電車だと駅から博物館まで市バスを乗り継ぐ必要アリ。
バスだとクラクフのバスターミナルから博物館まで直通なので便利、且つ鉄道より安い。
アウシュビッツは「その歴史を多くの人に知ってもらうため入場料が無料」と聞いてたけど実際10:00~15:00の間は混み合うのでツアーに参加しないと見学できないシステム。
なんじゃあそりゃあ!? ・・・結局有料じゃんね。
しかもポーランド語ツアーだと安いけど、他言語だと割増料金。
ささっと済ませたかったので次発10:30の英語ツアーを選択し、38zl(=約840円)/per。
さほどじっくり見るところはなさそうだと思っていたので、12:40発クラクフ行きのバスに乗ろうと思ってたのに、なんとツアーは全3時間行程らしい。絶対飽きる・・・。
ガイドはわりとゆっくりな英語を話すおばちゃん。訛りは少ない方かな。
『働けば自由になれる』と言う意味の文がはめ込まれた門。
囚人たちが作らされたんだけど、せめてもの抵抗で“B”が上下逆(上が大きい)らしい。
高圧電流の流れる有刺鉄線は施設全体をくまなく囲んでいる。
それでも脱走者が絶えなかったり、周辺住民が命がけで脱走を手伝ったりしたらしい。
『ドイツ国民をポーランド人・ロシア人・ジプシー・ユダヤ人から、開放しなければならない』
ドイツ軍のお偉いさんが吐いた言葉。
他にも、
『ユダヤ人は完全に絶滅させなければならない人種である』
『最も重要な課題はポーランドの指導者全員を傷めつけるために彼らを探し出すことだ。ポーランド人の専門家全員を我がナチス・ドイツの軍事産業で利用する。その後ポーランド人全員がこの世から消える。』
・・・まぁ狂ってますよね。
世界史が大嫌いのため知識が無かったのがお恥ずかしい限りなのですが・・・
第二次世界大戦の勃発ともいえる“ドイツ軍のポーランド侵攻”。
これを皮切りにドイツはどんどん領土を拡大。
西欧のイギリス・スペイン・ポルトガル、北欧のスウェーデン、そしてスイスを除くヨーロッパ全土を占領したらしい(東欧・中欧全土と南はギリシャまで)。
灰色と斜め線のところがドイツ直轄領、茶色のところがドイツ軍植民地。
沢山の遺品。
最後の写真は子供用の靴。 もちろん、子供であっても容赦は無いわけだ。
まぁ大人の靴の遺品はこの比じゃないくらい多かったけど・・・。
女性か男性かわかりずらいほど、髪を切られる。
その髪をクッションなどに詰める材料として売るためにね・・・。
そんな切られた髪の展示もあったけど、何故だかそこだけは撮影禁止になっていた。
やはり怨念がこもるのか? それとも犠牲者を見世物にしないための配慮なのか??
この人に入所記録はたったの1日。 つまり、入所して1日で死刑が執行されたってこと。
立ち牢。
ぎゅうぎゅうに何人か詰め込まれて、ずっと立ってなきゃいけない。
おびただしい数の人間が銃殺された“死の壁”。 献花が絶えることは無いらしい。
次回につづく。
2010年11月05日
2010/09/26(日)~27(月)
ワルシャワ駅の鉄道切符窓口で切符を買うときに一悶着・・・
まぁぁぁぁぁ~係員の態度の悪い事!
早朝、夜行バスから降りてまず最初にした作業だったから、まずお金が「ATMで出たもの」しか無かったわけ。
で、切符買いますわな?
ポーランドはワルシャワですら英語が全く通じないと言うのは評判に聞いてたけど、この女の場合あたしが現地語が分からないとわかったうえで相手に伝える気が全く無いと思えるほど、話し方にヤル気もなく気遣いなんて全く無い。
で、お金払いますわな?
目で数字見てるんだからちゃんと足りてる金額を出してるのに、何やら主張してきてこっちが理解しないと分かると舌打ち&こっちの主張は無視。
で、最後。
5スォッディ(=約150円)をコインで下さいと“したで”に出てお願いするあたしに対してものすごい剣幕で怒る怒る。そんなに悪いことしてるのあたし?
でもこっちだってそのコインがなきゃコインロッカーに荷物置けないから(日曜の早朝で他の店はやってない)、どんなにはらわた煮えくり返っててもとりあえず“したで”に出て、数分粘ってお願いしまくり。
すると、旦那様が「もういいから戻って来いって!そいつに頼んでも無駄だ!」と叫ぶ。
なんで?どーして??
絶対に必要だと思ったからなんとかしなければと頑張ったのに・・・。
まぁ旦那様的には付き合うだけ無駄だとあたしを気遣ってくれてだったんだろうけど、あたしにしてみれば理不尽に係員に怒られ、旦那様からも叫ばれ、踏んだり蹴ったり。
ポーランドは最悪の印象からのスタートとなったわけです。。。
そんなポーランド国鉄はやっぱり当たり前のように遅延。
ワルシャワからトルンまでは電車で約3時間のはずが、既に30分以上遅延状態。
いよいよトルンまであと2キロというところでトラブル発生にてストップ。
ワイヤーが切れてしまって、走行不可能となる・・・。
3~40分待って次に来た電車に全員移乗して、我々は無事にトルン到着。
トルンの駅からはバスで移動する予定だったんだけど、偶然現地に住む日本人夫婦がタクシーで市街に戻るからついでに同乗いかがですか?と行って下さったので甘えさせていただいちゃいました。
聞くところによると旦那様は電気関係のお仕事で、ポーランドへ2年の約束で転勤。
1年延ばしてくれといわれて3年のはずが、早3年半・・・ということらしい。
まぁ奥様共々トルンの環境を気に入ってるようなのでいいんだろうけど、もしあたしが普通に会社に所属して、ポーランドへ2年転勤!って突然言われたらどうしたかな!?って考えちゃった。
みなさんならどうでしょう?
あたしの場合、小さい頃からその時々で等身大の夢を持って生きてきて、ずっとやりたい事が明確だったから、一般の会社に所属してOLするってあたりから全く想像つかない世界なんだけど・・・
今と同じで、その会社によほどの情熱や魅力があって就職したとかなら行くんだろうな。
そうじゃなきゃいくら期間限定とはいえ簡単に異国の地に行くなんて決められないもんね。
会社にしがみつくために妥協するなんて、死んでもやらないだろうし。
翌日は朝からトルンの街ぶら。
トルンの街を観光した人たちのブログを見たら、やはり天候が街歩きの満足度を左右するとあったので、旦那様に晴れを予約するも・・・NG。
最近、我が家の晴れ男は頼りにならず、季節には勝てないそうです。。。
トルンはコペルニクス生誕の土地。(写真右下の銅像)
コペルニクスは16世紀に当時主流だった天動説(地球中心説)をくつがえす地動説(太陽中心説)を初めて唱えた人(これは天文学史上最も重要な再発見らしい)。
町の規模自体が小さいから簡単に街歩きが終わって、とっとと次のクラクフへ移動。
トルンからクラクフへ行くには一度ワルシャワ中央駅で乗り継いだ方が早いんだけど、2等切符は座席指定じゃないから荷物の移動&席取り合戦がめんどくさくて時間のかかる直通電車を選択。
これが災いしたかどうかはわからないけど、結局この電車が2時間半も遅延してクラクフまで6~7時間で行ける所が9時間以上かかるという結果に。
今までは物価にもハラハラさせられたし先のことを考えてハイペースで来てたから今までより安い宿を確保できたクラクフでは、少しのんびりしようかなと。
2010年11月04日
2010/09/26(日)
ヘルシンキとは違い、鉄道駅が開いているのでとりあえずに逃げ込むことに成功。
ワルシャワはあまり目玉な観光がない。。。
だから街が完全に明るくなるのを待って、早朝の旧市街散歩。
日曜早朝ということもあって交通量や歩行者は少ないんだけど、ランナーをよく見かける。
どうやら結構デカイ規模のマラソン大会があるらしく、夫とマラソンの思い出を語りあった。
うちの中学は冬に持久走の授業があって、その男女別タイムが貼り出されたんだよねー。
基本的に体育は嫌い!持久走なんて大嫌い!!短距離専門の人間だったのですが・・・
この男女別タイムランキングが貼り出されるとそれが結構話題になるもんだから、一応運動部の人間として、あまりに下位のタイムを出すわけにはいかないとそれなりに頑張ってた記憶がある。
女子の間では好きな男子が何位か見たり、さすがサッカー部は上位だとかよく話してた。
どうでもいいけど、女子の一位はぶっちぎりで伊藤香奈子ちゃん。
隣のクラスだったけど体育は一緒だったから、そのぶっちぎり具合はハンパじゃなかった。
当時からヴェルディの女子サッカーチームに所属してて将来はプロ!?とか言われてたけど何年か前にテレビで見て、ずっと頑張ってきたんだなぁと思ったりした。。。
そんなこんなでワルシャワ旧市街の街並み。
ワルシャワは第二次大戦のときに壊滅的な被害を受けて全損したらしいんだけど、市民たちの協力によってタイルの向きや日々の一つまで正確に復元されたものが今ある旧市街の姿らしい。
その正確な復元技術は今でも世界中から参考にされてるらしい。。。
予想通りワルシャワの街はつまらなかったのでさっさと終えて、このあとは電車で1時間くらいのところにあるショパンの生家へGO。
5~9月の日曜日13時からと、16時からは、無料ピアノコンサートがあるらしいので
その時間に合わせて行ってみました。
ショパンが使ってたピアノは小さくて、全然88鍵にたりなかった。
コンサートの内容はこんな感じ。
どこが会場かと思いきや、庭にある屋外ベンチに自由に座るだけのものらしい。
ま、演奏に関してはタダだから贅沢は言えないね・・・。
12時になると、意外にもおばちゃんピアニストが現れ、ショパンの曲が始まった。
タリンで聞いたコンサートよりもずっと一般の観光客向けだから、ピアノ曲としての技術が高い曲より打鍵ミスのリスクが少なくて一般にも知名度の高い曲が選ばれてた。
昔弾いた曲も何曲かあって、ちょっと懐かしさに浸る。。。
4歳でピアノを始めて、小学校高学年までお母さんと自転車で一緒に通ったなぁ。
毎日水曜日が来るのが嫌で仕方なかった小学生時代。
「辞めてもいいよ」tってお母さんに言われながら、なぜかずっと辞められずに続けてた。
将来ピアノの道もありか!?なんてカン違いして(笑)、一生懸命練習してた中高生の頃。
学校の合唱コンクールでは意思とは関係なく毎年強制的に伴奏者を押しつけられて、
記念撮影にはいつももれてたっけ・・・(ピアノの黒い陰しか写っていない。笑)。
でもピアノをやってて楽しかった時期も、得した事も(損した事も?)、それに伴う出会いもいろんなことがあったから、将来子供ができたら最初にピアノに出会うキッカケは与えたいなーと思う。
小学生くらいになって自我がハッキリしてきたら好きにすればいいと思うけどね。
ここ5~6年全く弾いてないからもうほとんど指が動かないだろうなぁ。
実家にあるアップライトピアノもほったらかしで可愛そうだと思ってたけど、うちのマミーが趣味で少し使ってくれてるみたいなのでしばらくはおまかせします。。。
将来、妊娠・出産でもして時間が出来たときにまた少し弾けたらいいな・・・と。
そんな感じでショパン生家の観光を終え、今日の宿があるトルンへ移動します。