ボスニア・ヘルツェゴビナ/第92カ国目

2013年01月27日

2012/06/28()29():第92カ国目ボスニア・ヘルツェゴビナ・第93カ国目セルビア


 

(つづき)

 

これがサラエボ事件現場。

今では過去にそんなことが起こったとは想像も出来ない、

普通の街でした。

60サラエボ事件の場所
 

 

射殺犯のガブエロ・プリンツィプってこいつ。

61ガブエロ・プリンツィプってこいつ

農家出身のセルビア人で極貧の中で育ち、ほかのセルビア人同様 当時既に独立していたセルビアに併合できず支配され続けることに不満を抱き続けていた。

犯行後すぐに自殺を図るも死ねずに拘束されたが、当時19歳と未成年だったため 死刑判決が出来ず懲役20年を言い渡された。

しかし拘置所の劣悪な衛生環境で持病の結核が悪化、第一次大戦が終結する1918年に拘置所内にて26歳で死亡した。

ちなみにプリンツィプ青年は、第一次世界大戦後からユーゴスラビアの崩壊までセルビアの愛国者として賞揚されたらしい。

 

 

今のサラエボ事件現場には博物館があって、そのすぐ近くには橋がある。

39サラエボのラテン橋40ラテン橋隣りのベンチ

昔は偉大なる暗殺者プリンツィプをセルビアの英雄に見立て、この橋も「プリンツィプ橋」と呼ばれていたけど、

宗教的な反発があってラテン橋と解消されたんだって。

こういうところが多民族国家の難しいところですね。。。

 

 

今回サラエボで宿泊したHostel City Centerというユースホステルはとても対応が良い!

共用スペースは広くて、チェックアウト後も無料で快く荷物を預かってくれる上に部屋以外ならどこにいても何をしていてもOK

市内観光後はありがたく宿にいさせてもらい、19時過ぎに宿を出てバスターミナルへ。

 

次に向かうはセルビアなのですが、

そうです!このサラエボもモスタルと同じく、ムスリム人&クロアチア人vsセルビア人で住み分けがなされていて、観光地域はムスリム人&クロアチア人側にありました。

つまりセルビアを目指す場合、まずセルビア人地域のバスターミナルへ行かなければならず一応定期的にバスは出てるんだけど、コレが思ったより遠い!

夕暮れ時で大して渋滞がないにもかかわらず40分以上かかりました。

 

終点のバスロータリーからバスターミナルまで市バスでセルビア人地区へ渡り、22時発の夜行バス・40.5KM(=約2151)・所要約7.5時間でセルビアの首都ベオグラードに向かう。

 

 

予定通り早朝5:30にベオグラードバスターミナルに到着。

 

・・・やることねぇ!!

 

もう夜は明けて暗くないし、街の人たちもすでに動き出してる様子だけど、そうはいってもまだ5:30ですからね。。。

 

今日はこのまま午前中はベオグラードの街を散策して、

12:30のバスでコソヴォの首都プリシュティナに向かうので先にバスチケットを買って少しベンチで時間をつぶしてから

7時過ぎに街へ繰り出すも・・・

ベオグラードって特に見るものないんですけど!?

 

とりあえずNATOの空爆跡に行ってみるけど、

何の興味もわかず一瞬で終了。

1NATO空爆跡12NATO空爆跡2
4NATO空爆跡45NATO空爆跡5

今までこういうのって歴史がすごく気になってちゃんと調べて勉強してたんだけど、今回の場合、こいつをこれ見よがしに残して公開しているところに悪意っていうか・・・

なんか作為的に同情を欲しがってる感じがして

そもそも興味もなく行ったけど、ますます興味を失った。。。

 

せめてもと、郷土料理を食べようと地元の定食屋に行くも、

親父の対応悪しで気分も悪い。

6セルビア郷土料理

この料理自体はすごくおいしかったんだけど、

親父の態度が最悪で超残念。



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2013年01月25日

2012/06/28():第92カ国目ボスニア・ヘルツェゴビナ

 

 

フリーのシティツアーに参加しました。

ヨーロッパでは観光の季節である夏場に無料のシティーツアーを開催する都市が多い。

無料だから参加しやすいけど、実際は完全無料ってわけじゃなくて・・・たとえチップ制度のない国でも、満足したらガイドにいくらかチップを渡すというシステム。

つまり公的な儲けは出ないけれど、

ガイドのお小遣い稼ぎになる仕組みというわけ。

夏場のヨーロッパの観光客の勢いはすさまじく、

ガイドにとってはかなりいい小遣い稼ぎになるんだろうな。

 

さて、いつもは利用しないフリーのシティツアーをこの地に限って利用したのは・・・

そう、かの有名なサラエボ事件について

現地の人から詳しく話を聞きたいと思ったから。

 

 

サラエボ事件・・・

1914628日にオーストリア=ハンガリー帝国の皇帝・国王の継承者フェルディナント皇太子夫妻が、当時オーストリア領だったサラエボを視察中、セルビア人青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件。

高校まで世界史を勉強していた人なら、

一度くらいこの名を耳にしたことはあるだろう。

 

当時オーストリアに併合されていたボスニア・ヘルツェゴビナの国民は、500年以上続く他民族による支配に疲弊しきっており、特にボスニアのセルビア系住民らはオーストリアの支配に強く反発しており、多大なる不満がたまっていた。

皇太子夫妻が視察に選んだ628日はセルビアにとって重要な祝日である聖ウィトゥスの日であるのと同時に、1389年にセルビアがオスマン帝国に敗北を喫したコソボの戦いの記念日でもあったため、皇太子夫妻の訪問はセルビア人の神経を逆撫でする結果ともなった。

 

犯行グループは7人組で、

暗殺当日、一人目は銃での襲撃を計画したが距離があり、  狙いが定まらず断念。

その後二人目の実行犯が皇太子夫妻の乗る車に爆弾を投げたが、爆発に時間差があって皇太子夫妻ではなく後続にいた12名が負傷。これにより皇太子夫妻は異変に気づき、スピードを上げて市庁舎へ向かった。

そして当初の訪問予定を変更、爆発で怪我をした者を見舞いに病院へ向かうことにした。

 

一方、食事を摂るためガヴリロ・プリンツィプが持ち場を離れ立ち寄った店の前の交差点で病院へ向かう皇太子夫妻の車が道を誤り方向転換をした事で、プリンツィプはその車に皇太子夫妻が乗っている事に偶然気がついた。

 

彼はピストルを取り出して車に駆け寄り、

1発目を妊娠中の妃ゾフィーの腹部に、2発目を大公の首に撃ち込んだ。 皇太子夫妻は即刻ボスニア総督官邸に送られたが、2人とも死亡した。

(夫妻の間にいた3人の子供は同行していなかったため、本国で生き延びている)

 

暗殺犯たちは拘束され一時黙秘を貫いていたが、

そのうちのひとりが自白し、武器がセルビア政府の支給品であったことを告白した。

これが一介の青年が皇族を暗殺しただけで、

世界中を巻き込む大戦に発展した大きな理由となったのです。

 

オーストリア=ハンガリー帝国政府は武器を支給したセルビア政府を非難し、セルビアにとって受け入れがたい要求を含む要求を突きつけた(オーストリア最後通牒)。

オーストリア政府はセルビアが48時間以内に無条件で全条件を受け入れなければ宣戦布告することを通告。 

セルビア政府は二点のみを除いてこの要求を受諾したものの、

オーストリアは無条件での受諾を求める事前の通告通りセルビアに対して宣戦を布告、

それ以前の段階でオーストリアとドイツは同盟を結んでおり

ロシアはドイツと対立していたためドイツが拡大することを恐れ、セルビアの保護にまわった

これをきっかけとして各国が次々に参戦し、第一次世界大戦が勃発したのである。

 

 

・・・もしも二人目の犯行が後続車を巻き込んでいなかったなら

皇太子夫妻は予定を変更して病院へ行くことはなかったはず。

・・・もしもプリンツィプがあのタイミングで持ち場を離れてレストランへ行かなかったら、

・・・もしも皇太子夫妻の車が病院への道を間違えず、その場所で方向転換しなかったら、

プリンツィプが皇太子夫妻を見つけることはなかったはず。

 

この全ての偶然が重なったことは、

やはり何かのメッセージがあったのではないかと思う。

無責任に“殺人”を肯定するつもりはなくとも、

起こるべくして起こった問題だったのだろうと。

 

(つづく)



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2013年01月24日

2012/06/28():第92カ国目ボスニア・ヘルツェゴビナ

 

 

(つづき)

 

そんなスナイパーストリート周辺のビルは

未だに内戦の爪痕を残すものも多くありました。

44スナイパー通りを歩く346スナイパー通りを歩く5

 

そんな中に世界的なチェーン店であるホリデーインホテルがあります。 しかしここはただのホリデーインではないのです。

ホリデーインといえば当然宿泊施設なのですが、英語版ガイドブックには“観光地”として掲載されている・・・

なぜか。

内戦中このホテルは最前線にあり、周辺は砲火を浴び続けました。そんな中でもホリディ・イン・サラエボは砲火を浴びながらも営業を続け、世界中のジャーナリストがこのホテルに集まり  ここからサラエボとボスニア・ヘルツェゴビナの情報を発信し続けたのです。

 

当時は送電線が破壊され暖房設備がなく、断水などもしょっちゅうだったらしいけど・・・

今では文句なしの高級5つ星ホテルとして営業していました。

建物自体は、現在 修復済みで、よく見ると未だにちょいちょいに弾痕が残っている。

51ホリデーインの今日52戦時中のホリデーイン
左が2012年現在のホリデーイン。

右が内戦中に砲火を浴びているホリデーイン。

 

すごいね・・・ 命を賭けたジャーナリスト魂。

いくらプロ根性があったって、誰にでも出来ることではない。

彼らだって天涯孤独ではなかったはず。

家族は当然渡航を止めたに違いない。

それだけの危険を冒しても、自分の人生を賭してでも、届けたかった情報。悲惨な現状を発信することで、武力じゃないチカラで彼らは思いを訴え続けたんだろう。

 

 

またこのホリデーインから2kmほどの場所に、以前のサラエボオリンピックに使われたスタジアムがあるのですが・・・グラウンドはもう残っていません。

内戦当時、屋外はどこも安全な場所がないので犠牲者をまともに葬ることさえできず・・・

やむなくオリンピック・スタジアムのグラウンドを墓地とし埋葬したんだそうです。

明るい時間は外に出られないので、

埋葬は比較的砲撃を避けて早朝か日暮れ時に行われたとか。

 

正直興味はありました。

でもいくら献花したとしても、そんな出来事があった場所に観光気分でカメラ片手に行っちゃいけないような気がしたんです。

だからワタシは敢えて行かなかった。

だけど、祈りました。心で叫びました。

もう死に怯えながら外を歩く時代は終わったよって・・・

これからきっとボスニア・ヘルツェゴビナも少しずつ変わっていくよって・・・。

 

 

次は旧市街:バシチャルシアへ行きました。

赤く古い瓦屋根の家が並び、

オスマン朝のイスラミックな雰囲気が漂っていて

売っている土産物屋や作業している技術者の面々も見ていて楽しい!

53旧市街バシチャルシァの景色155旧市街バシチャルシァの景色3
54旧市街バシチャルシァの景色256ゴールドストリート


 

そんな旧市街の中にも突然戦争の爪痕が現れる。

62この傷跡が街中の道路にある
 

 

一瞬ぎょっとしたのがこちら。

57薬莢を土産にするたくましさ

内戦時に街であふれた薬莢(やっきょう)を再利用して、

ボールペンとして売っている。

台湾の金門島に行ったときの砲弾包丁も似たような状況で

(台湾・金門島のブログ:
http://blog.livedoor.jp/crocci/archives/50953016.html

まぁ生活のために何でも利用するのは賢いとは思うけど・・・

人間ってたくましいよなぁ。。。

 

 

最後はコーヒー好きな父のために、ほかのコーヒーとは少しスタイルが違うトルキッシュコーヒーのコーヒーセットを購入。

滅多に土産を買わないワタシだけど、久々に気に入ったものが見つかって満足~☆

63土産に買ったトルコ風コーヒーセット



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2013年01月22日

2012/06/27()28():第92カ国目ボスニア・ヘルツェゴビナ

 

 

いよいよ、モスタル一番の見所っていうかここしかない!笑)、スターリ・モスト。

26モスタルの景色はキレイ!27スターリ・モスト1
29スターリ・モスト330スターリ・モスト4
31スターリ・モストからの景色133スターリ・モストからの景色3

 

川の水の色、天然です。すっごい綺麗なブリリアントグリーン!

その景色にスターリ・モストが加わると、さらに素敵。

でも、これも再建なんです。

理由はいわずと知れた戦争による破壊。

でもそんなつらい思い出すらも観光名所として考え方を変えていく人間の強さは尊敬すべきもの。

きっと広島の原爆ドームみたいに、

たとえ見るたび辛い気持ちを思い出してしまったとしても

多くの人に知ってもらうことで、戦争の悲劇を忘れないよう

伝えたいのではないでしょうか。

 

スターリ・モストの周辺は郷土料理のレストランや土産物屋であふれていて、ちょっと散歩するだけでもとっても楽しかったです。

ほんとここだけ見たら、戦争の悲惨さの面影はほとんど感じられない。。。

25郷土料理ケバブチェ

35伝統的な街並み136伝統的な街並み2

 

 

しかし少し歩いて出てきたモスクには・・・銃痕あり。

やはりそう簡単にこの街の戦争の呪縛は消えないんですね。


37モスク
38モスクにも銃痕

 

 

予想通りサクッと観光が終わったので、バスターミナルで預けたバックパックを受け取り15:30発のバスでサラエボの街へ。

20KM(=約1062)・所要約3.5時間。

 1モスタル→サラエボのバス

 

サラエボのユースホステルに泊まり、翌朝から観光。

このサラエボの街で有名なものはふたつ。

第一次世界大戦のキッカケとなったサラエボ事件(オーストリア帝国皇太子夫妻暗殺)現場。

もうひとつは、世界中どこにでもあるはずのホリデーインというチェーン店のホテル。

 

まずは路面電車3番を利用し、

中心部からは数km離れている場所へ向かいます。

この3番の路面電車が走る道こそ、

かつて「狙撃兵通り(スナイパーストリート)」と呼ばれた忌まわしき歴史のある場所。

 

 

19916月クロアチアの独立宣言をきっかけに、ムスリム人およびクロアチア人はボスニア・ヘルツェゴビナの独立を模索するが、人口の一部を占めるセルビア人はこれに反対。

セルビア人は自治区を設立して独立に対抗しようとしたが、  ムスリム人が主導権を持つボスニア・ヘルツェゴビナ政府は  これを認めなかったため、両者間での武力衝突が生じるようになった。

 

199252日、ボスニアのセルビア人勢力によるサラエボの完全封鎖が完成。

街へと続く主要な道路は封鎖され、食料や医療品の運び込みも不可能となった。水や電気、暖房システムは遮断され、多くのセルビア人兵士らがサラエヴォを包囲した。

街を守るボスニア政府軍は数の上ではセルビア人勢力を上回っていたものの、セルビア人勢力は旧ユーゴスラビア連邦から装備を引き継いでおり、また街を見下ろす丘の上に陣取っていたため、地理的な面からも圧倒的優位にあった。

旧ユーゴスラビア人民軍が街を制圧しようとした最初の武力衝突が失敗に終わったあと、サラエボを包囲するセルビア人勢力は街を取り巻く丘を、少なくとも200を超える強化陣地とトーチカによって要塞化し、4年間にわたって丘の上から繰り返し街への砲撃を加え続けた。

 

そう、サラエボの街は四方を山に囲まれた盆地にあります。

48スナイパー通りを歩く7 ←四方はこんな感じの山。

それは山間に街を作ることで、当時は軍事的に外部の進入を阻む意味があったのかもしれませんが・・・

敵が街の内部にいるとなれば話は別。

高いところ(=山)から低いところ(=街)を見下ろすのは用意であるため、人々の動きは筒抜けで知られてしまう・・・

まさに檻の中の獲物状態。

43スナイパー通りを歩く247スナイパー通りを歩く6
 

ある報告によれば、サラエヴォ包囲の期間中は平均して一日当たり329回の砲撃があり、もっとも多かった日は1993722日の37,777回であったとか・・・

 

平和すぎる日本で、幸せいっぱいで生まれ育ったワタシには考えられない。

想像すらできない・・・

 

(つづく)



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2013年01月21日

2012/06/27():第92カ国目ボスニア・ヘルツェゴビナ

 

 

まずボスニア・ヘルツェゴビナで最初に入ったのはモスタル。

 

“ボスニア・ヘルツェゴビナに入る”

それは今までしてきた東欧の旅とは一味違った緊張感がありました。

ただ、このモスタルの街はものすごく観光地化していて、気を引き締めていこうとしていたワタシの出鼻を思いっきりくじいてくれました。

「なんだぁ全然平和じゃん!」って。

ただ、それってやっぱり旅行者だからその一言で片づけられるってのが現状で、戦後たった20年で、人々の心の傷の回復や民族の調和なんてとれるわけないんですね。

あくまでも“ワタシが想像していたより、平和そうに見える”だけであって、表面的には見えない「深い渦」のようななにかが

そこにはあるのだと思います。

 

この街はとっても小さくて、観光客が行く場所が決まっている。

なのでそう時間はかからないだろうと思い、

今日は大きな荷物をバスターミナルに預けて街を観光したあと

またバスに乗ってサラエボの街まで行くつもりでいます。

 

バスターミナルから一番の観光地:スターリ・モストという橋まで徒歩20分くらいでしょうか。

でもワタシはお決まりの道を歩かず、

一本外れた道から周り道をしました。

と、いうのも・・・

戦時中はこのスターリ・モストがかかるネレトヴァ川を境に、

民族の住み分けがなされた。 つまりこの川が軍事境界線のようなもので、激戦区だったということです。

今現在はいがみ合うような関係ではないけれど、

住み分けは続いているそう。

この橋を渡らずしてスターリ・モストに行くことも出来て、

その場合は商店街のような整備された道を通って行きます。

 

でも、それでいいの?

 

旅の価値観を押し付けるつもりはないんだけど、

少なくともワタシはこの旅でイイトコ取りだけしたいと思っているわけじゃない。

そりゃ旅は楽しいほうがいいに決まってる。だけど、

何事も悲しい経験があるから喜びや感謝をより強く感じて優しくなれるように、ここで何が起こったかを知らずに、今ある観光だけ楽しめばいいとは絶対に思わない。

それがどんなにショックな歴史でも。

グロテスクなものだったとしても。

 

 

そうしてやって参りました、橋の向こう。 

5戦場だったモスタル418戦場だったモスタル17
16戦場だったモスタル1520戦場だったモスタル19

 

もちろん、建て直されて新しくなっているビルも多くありました。

でもそれはきっと“もう継続して使えないほど壊れた”からなんじゃないだろうか。 だとするとこの残っている建物は“まだマシ”な傷だという解釈も出来る・・・。

 

これが戦後20年のリアル。


22戦場だったモスタル21

この建物は、ケーキ屋さんでした。

中は日本のケーキ屋さん同じく、ケーキの製造・販売をしているのですが・・・この壁のドット柄は、間違いなく銃弾を浴びたことを物語っていますよね。

その建物に住み続けるのはどんな気持ちなんだろう。

「やった、うちは被害が少なかったから建て直す必要なく使えるぞ!ラッキー!」ってこと?

「戦争で貧しいからつらい記憶だろうと住み続けるしかない・・・」ってこと?

「銃痕があろうとなかろうと、住むのに支障はないから別に関係ないでしょ。」てこと?

 

良くも悪くも、平和な日本で生まれ育った我々に彼らの気持ちを理解できる日は来ないと思う。。。

 

 

 

そしてスターリ・モストへの道へ戻る直前に見つけたのがコレ。

24過去の傷と未来への希望

 

平和になってからの2004のスローガンと、傷ついた建物のツーショットこそがこのモスタルそのものを表しているようで、思わずシャッターを切った。

 

過去があるから、現在がある・未来がある。

いいことも悪いことも含めて、

ワタシはこのモスタルが観光地としてもっと栄えて

人々の暮らしが潤って、心の傷も時間と共に癒していってくれることを陰ながら祈ります。。。



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