アルメニア/第101カ国目
2013年10月26日
2012/07/26(木)-27(金):第101カ国目アルメニア
アララート山とホルビラップだけでは飽き足らず、
今日はもうひとつ観光に向かいます。
午後からはエレバン周辺最大の観光:アルメニア正教総本山のエチミアジンへ。
ミニバスで行くのに「エチミアジン、エチミアジン!」と確認して乗ったけど、着いたところはただの街中。
エイチアジンはどこ!?って言っても、ドライバーはここだとしか言わない。
そこでやっと気付いた、はーん・・・どうやらエチミアジンは
建物の名前ではなく地名だ!と。
ガイドブックにあった写真を見せると、
あっちあっちと指差してくれた。
さすが、総本山なだけあって敷地は広大だったし、
建物は本当に立派なつくりで
巡礼に訪れる人や観光客も他と比べて格段に多かったです。
翌日は、グルジア/トビリシに戻るべく国境越え。
昨日エチミアジンに行くのにこのバスターミナルへ来たとき、
トビリシ行きのミニバス発車時間を聞いておいた。
始発が8時ってことだったので席取り合戦も含めて7時半前にバスターミナルに着いて、トビリシ!というと、チケットの有無を
聞かれ「ない」というと「じゃ、このミニバスね」と割り振られた。
8時のは既にいっぱいか?まぁ最悪9時でも仕方ないか・・・
と思いながら何時に出るか聞いたら
「10時。チケット無いんでしょ?8時と9時のはもう満席。
10時前でも満員になったら出る」 とのこと。
ミニバスレベルで前売り券があるとか聞いてないし!!
てゆーかここで2時間半も待つわけ!?
満員になったら出るとか言ってるけど、
前売り券があるってことは10時発のつもりで事前にチケットを買ってる人はギリギリじゃないと来ないだろうから
大幅に早く出ることは考えにくい。
・・・無駄だ。
人は移動するもの。
国境を越える人間が、毎日この限られたミニバスの数十人なんてことは考えられない。
探せばきっとどこかしらから国境行きの公共交通があるはずだ!!
とりあえずドライバーや近くの乗客に聞いてみるものの英語が通じないこともあってうまく意思疎通が出来ず・・・
彼ら的にはこのバスが一番早いという。
2時間半のロスがあったら、絶対そんなわけない。
ここであきらめてたまるかと、尋ねる人を変える。
そうしてバスターミナルを歩いていたら、
ふと少し身なりのいいおじさんと目が合った。
イケる!と直感的に思ったワタシは「Do you speak English?」と
聞いてみるも答えはNO。
しかしおじさんはフランス語を話すという。
だったら英語とスペイン語mixで何とかイケる!と思い
話を聞いてもらう。
本人は英語は話せないと言ったけど、
簡単な英語なら全然意思疎通が可能なレベルで
たとえば英語の「Border」がわからなかったときに「Frontera」と
スペ語に訳せば彼は理解してくれるので、
最終的にはこの人のお陰で地元民愛用の国境行きミニバスは
アッサリと見つかり、しかも8時出発というベストタイミングな
上に2500ドラムと安い!
こういう道を切り開いた時の達成感が、旅はたまんないと思ってしまう。
もちろん切り開こうとした自分の努力以外に、
助けてくれる地元民あってこそなんですけど。
おじさんに丁寧にお礼を言った後、10分としないでミニバスは出発した。
ボロいから遅い。
国境までは昨日より時間がかかって3時間半。
まぁ車のボロさを比較すれば当然。
それでも2時間以上ボケッと待つよりはずっとマシ。
国境通過はあっけなく、グルジア側のイミグレを出てすぐトビリシ行きバスが待っていた。
それがオルタチュラバスターミナルまでなら5ラリ(=約250円)
鉄道駅までなら7ラリ(=約350円)という安さだったので、
6500ドラム(=約1370円)だった直通ミニバスを逃したことで
結果として予想外に安く上がった。
今日はこの鉄道駅の裏にあるミニバスターミナルから、
クタイシという街を目指してもう4時間移動します。
この道は山道で揺れる上にドライバーの運転も荒いため、
車酔いする人間が続出する。
そんな中、揺れによる睡魔に襲われるワタシ。
あんなに車酔いに弱かったのに、
いつの間にこんな強くなったんだワタシ・・・。
人間の適応能力の素晴らしさを自らの体で実感しています。笑
2013年10月25日
2012/07/26(木):第101カ国目アルメニア
エレバン滞在最終日は情報ノートにあったホルビラップ修道院へ行ってみることにしました。
ガイドブックに載っていない、マイナーな場所。
そもそもコーカサス三国自体が日本語版のガイドブックでは
ほとんど紹介されていないため、
本当に主要観光地しか情報が無い。
そこから漏れるということは、
主要観光地ではない=おそらくたぶん大したことないっぽい。
しかし、ホルビラップに向かう途中で、
この地域の住民達があがめるアララート山が非常にきれいに見えるということだったので、そのオプションもあるなら行ってみるか!ってな具合に決めたのでした。
アララート山はノアの箱舟が沈没した?不時着した? と言い伝えられている場所で、
アルメニア人には憧れだったり誇りだったりする場所。
我々でいう富士山みたいな存在かもしれませんねー。
余談ですが、ワタシみたいに生まれも育ちも東京で、
富士山を見ようと思えば簡単に日帰りできる圏内の場合
富士山のありがたみってさほどでもない気がします。
確かに綺麗に見えたら写真撮りたいとか思うかもしれないけど
正直「見飽きた感」もあり、
「いつでも見れる感」もあり、
そんなに希少性はないっていうのが現実だと思うんです。
でも、この後日本の中国地方出身・在住というふたりの旅人に話を聞いたら、彼らにしてみれば富士山は大きな感動を呼ぶものらしくて。
ワタシはそんなの考えてもみなかったから、
とても驚きました。。。
ほんと、世の中には
自分の立場からじゃわからないこと
当たり前のように思っていたものが本当は全然当たり前じゃないこと で、
溢れているんだなぁと日々の出来事から気付かされます。。。
いつものごとくドライバーや乗客らに行き先をアピールしておろしてもらう。
ホルビラップにも直通の公共交通はなく、
大通りから修道院までの約2kmは徒歩。
この日は天気もとてもよくて、気持ちのいい青空。
ま、そのぶん影ひとつ無い炎天下を黙々と歩かなければならないわけですが・・・
そんなワタシの目の前に現れたのが、あのアララート山!
手前には小さくホルビラップ修道院も見える。
30分以上歩いて、修道院の駐車場が見えてきた。
やはり公共交通がイマイチなだけあって、
ツアー客用らしき大型バスがいっぱいあった。

日本語版ガイドブックには載ってないだけあって、
やはり修道院自体はイマイチだけど
高台にある修道院から眺められるのはこの光景。
やっぱり、現地人は“神聖なるもの“として崇めたり拝んだり
写真を撮ったりしていました。
帰りも炎天下の道をひたすら大通り目指して歩いていたら、
タクシーが“乗れよ”と止まった。
一瞬ボリかと思って、いくら・・・?と聞いたら、どうせ大通りまで行くからいいよ~と親切に乗せてくれたのだった。
そして大通りの八百屋で待つこと1時間弱、
ようやくらしき行き先の乗り合いバンだと
八百屋の夫妻に教えてもらって、エレバンに戻ったのでした。
2013年10月24日
2012/07/25(水):第101カ国目アルメニア
エレバンにあるアルメニア虐殺博物館は少し外れた場所にあって、行くのに苦労しました。
マルシュルートカ(ミニバス)を乗り継いで、そこから丘に登る道を歩くこと20分、何度もすれ違う人に道を聞きながら辿り着いたのは閉館1時間前。
入場料は無料。
先日、アルメニアとアゼルバイジャンはナゴルノカラバフという領国の帰属をめぐって、両国の関係性が不安定で国境が開いていないという記事をこのブログであげました。
しかしアルメニアとの国境が開いていないのはアゼルバイジャンとだけではありません。
アルメニアはトルコとの国境も、封鎖しているのです。
またまた重い話題になりますが、
今日はトルコ人のアルメニア虐殺について勉強しましょう。
少し前、これに関わる法案がフランスで可決されたことが
メディアを通して話題になったので
知っている人は少なくないかもしれません。
アルメニア人虐殺は、19世紀末から20世紀初頭に、
オスマン帝国の少数民族であったアルメニア人の多くが
強制移住・虐殺などにより死亡した事件。
第1次大戦中の1915年ごろ、当時のオスマン・トルコが領内のアルメニア人に対し、治安を脅かしているとして強制移住をさせた。
その際に多数のアルメニア人が虐殺されたとされる問題。
アルメニアは最大150万人が犠牲になったと主張していて
トルコ政府も多くの死者が出たこと自体は認めているが、
それは大量虐殺ではなく「オスマン帝国末期の混乱の中
アルメニアのキリスト教徒がトルコのイスラム教徒と衝突して死亡したものだ」と反論しており
長年、対立が続いている。
1世紀にもわたる対立を経て、トルコとアルメニアは2009年10月、国交樹立などをうたった和解合意に署名したが、
その後、合意の批准手続きは遅れている・・・。
ヨーロッパでは、特に第一次世界大戦に起きたものを
オスマン帝国政府による計画的で組織的な虐殺と見る意見が大勢である。
それによれば、この一連の事件は「アルメニア人ジェノサイド」と呼ばれ、21世紀に至る現代でも、オスマン帝国の主な後継国家であるトルコ共和国を非難している。
トルコ政府は、その計画性や組織性を認めていない。
これを受けて、
第1次世界大戦中にオスマントルコ領内で起きたとされるアルメニア人大量虐殺について、公の場で否定することを禁じる法案がフランスの国会で可決された。
これに対しトルコ側は「無責任な決定を強く非難する」と反発。
フランスとの政治・軍事分野での交流中止を発表するなど、
両国関係が悪化しかねない状況となっている。
今回、フランスの国会で可決されたこの法案では、違反者には最高で禁錮1年と罰金45000ユーロを科すというものだ。
フランスには、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺の否定を犯罪とする法律が既に制定されていて、同じような法律としては2例目だが、これとは事情が全く異なる。
まず、ナチスによるユダヤ人虐殺についてはドイツ自身が
大々的に反省しているのに対し、
トルコはアルメニア人虐殺は無かったと主張している。
またナチスによる虐殺はユダヤ人だけが対象ではなく、
ドイツに占領されたフランスも被害を被っているのに対し、
アルメニアの事なんてフランスは全く無関係であるからだ。
例えば、何の関係もないオーストラリアで、
第2次大戦中の日本軍による南京大虐殺を否定したら罰せられる・・・なんて法律ができたようなものなのです!
南京大虐殺については、日本政府も否定はしてないけど、
それでも中国自身が非難するのは理解できるとしても、何の関係も無い第三国が口を挟んできたら、こらムカつくわなぁ。
トルコの反発は、これと同じ。
アルメニアはともかく、何の関係も無いフランスがなぜ口をはさんでくるんだ、と。
しかも100年も前の話。
しかし、そもそも、なんで1世紀も経った今、こんなことがフランス国会で問題になるのか?
何も、フランス人はアルメニア人と友好関係にあって同情しているから、なんて事ではなくて
単に選挙をにらんだ票集めの思惑だけのためである。
フランス国内には45万人のアルメニア系住民が住んでおり、
その票が欲しくて、アルメニア人に媚を売っているという事実!
・・・話を元に戻しましょう。
そんなアルメニア虐殺博物館。
写真はこれだけ。
1991年に旧ソ連の崩壊に伴って独立して以来、
ものすごく熱心な「愛国主義教育」が学校でなされているという話を聞きました。
更に、この国の経済は破綻寸前状態であるとか・・・。
そういった世論の不満を内側に溜め込まないために、
“その矛先を見つける”という行為は様々な場面で見受けられます。
中国の反日感情だって、元を正せば似たような政策です。
(日本の行為を肯定する意見ではありませんが)
少なくともワタシはこの国に来ようと思わなければ、
自分の人生において
アルメニアの虐殺についてこんなに深く考えることは間違いなくなかったでしょう。
ただ、旅に出て、現地ツアーに参加するとき
いたるところからアルメニア人旅行者があらゆる国のツアーに
参加していることには、いつも不思議に思っていました。
アルメニアなんて、聞いてもパッとどこだかわからないような
そんな国なのに、どうしてこんなにも?と。
それはユダヤ人と同じ理由で、命を長らえるために祖国を捨て世界に散らばる他なかった彼らの苦渋の選択だったんだなぁと思ったのです。
これを知ったからといって、ワタシにできることはきっとなぁんにもない。
だけど、知らなくても一緒だったとは思わない。
「残酷な過去も、どうしようもない現在も、希望に満ち溢れた未来も、全部五感で感じる」
それが、ワタシの旅だから。。。
2013年10月22日
2012/07/25(水):第101カ国目アルメニア
アルメニアには安宿が無い。
なので”クチコミ民家泊“がバックパッカーには一般的です。
特に日本人・韓国人バックパッカーに有名な「リダの家」という民家に泊めていただこうとクチコミ情報を集めますが、
見つけるのに大苦労・・・。
民家だから看板はもちろん表札すらもないわけで、
手掛かりは
『○○stで左手に大きな木が見えたらその道を右折してすぐ』
のみ。
“大きな木”って・・・どこにでもあるし、大きさなんてそれぞれの感覚次第だし・・・ヒントがつたなすぎるぜ!!涙
通りがかりの地元人にも協力を仰ぎ、なんとか発見。
用意されたのは居間のソファーベッド。
どうやらドミがいっぱいらしい。
この日は少し街を散策して、明日のツアーに申し込んで、
カフェでちょっと贅沢しておしまい。
昨日居間のソファーベッドをあてがわれた時は正直どうしたものかと思いました。
ワタシは家族の深い愛情と中流階級の経済力によって、
幼少~学生時代を不自由なく育っている経緯から、
ときどき突如お嬢様のような発言がでてくることがあります。笑
「生まれてから今日まで、友達の家に泊まるときですら布団かベッドで寝てて、 ソファーでなんかワタシ寝たことないのに、
同じ料金でこれなんて心外だわ!」と
ほんの少し心の中で思っていました。
が。
実際寝てみたら、超爆睡!
そうだった・・・
ワタシバスでも電車でもどこでも寝れる人間だった・・・
結局、ソファーベッドに何の問題もありません!笑
そんな今日は昨日街のツアー会社で申し込んだ半日ツアーに行きます。
観光はできる限り個人で行きたいと思ってはいるのですが、
公共交通がない
または 極端に少ない場合、ツアーというのは非常に効率が良い。
なので今回はその利点を生かし、ツアーバスに乗ってエレバン近隣の観光に行きます。
発展途上国はツアーを使っても“バカ高い金額”でないのが嬉しい。。。
まず最初に着いたのは、ガルニ神殿。
ガイドは英語も話すのですが、話が面白くない。
第二言語で解説を聞く場合、母語で聴くのとは違って集中力が必要になります。
だから要点をついた解説やちょっとしたユニークさを交えたものでないと、スグ飽きます。
今回もすぐ飽きてしまって、話半分
自らの足で歩き回ってしまいました・・・。

次はゲガルド修道院。 ここは素晴らしかった。
色の装飾ははがれてしまっているけれど
石の神殿自体はしっかりと残っていてしかもこの刻印装飾。
これはアルメニアに来たなら見なきゃいけませんね。
ツアーは半日のものだったので、早めに解散。
陽の長いこの時期、まだまだ時間は充分だったので
このあとはアルメニア虐殺博物館を訪ねました。
アルメニア・・・遠い日本に生まれ育った我々がその響きを耳にすることはほとんどないと思います。
しかし、近代にこの地で起こったこと、それは誰しも知る必要があると思うのです。。。
2013年10月21日
2012/07/24(火):第99カ国目グルジア・第101カ国目アルメニア
翌朝、バスはグルジア/トビリシのオルタチュラバスターミナルに着き、今度はアルメニア/エレバン行きのマルシュルートカを探す・・・と、アッサリ発見。
但し目の前で先行車に行かれて、次の車両は人数がいっぱいになるまで出ないため1時間近く待って9時頃出発。
さて、問題はここから。
アゼルバイジャンとアルメニアが隣国であるにも拘らず、
一度グルジアのトビリシに戻ってきたのは両国間の国境が開いていないことに他ならない。
そう、現在は停戦しているけど、両国はナゴルノ・カラバフという土地の領有権を巡って戦争を繰り広げた過去がある
ナゴルノ・カラバフ戦争とは・・・
そのまんま、アルメニアとアゼルバイジャンのナゴルノ・カラバフ自治州を巡る争い。
戦争は泥沼化し、現在は領有権はアゼルバイジャンにあるとする見方であるものの
事実上、アルメニア人の占領下にあるのです。
なぜこのようなややこしい事態になったかというと、
話はロシア革命の時代に遡ります。
1917年のロシア革命に際して、アルメニア民主共和国とアゼルバイジャン民主共和国がそれぞれ独立したが、
ナゴルノ・カラバフの帰属を巡り1918年に両国間の戦争が勃発。
その後、ソビエト軍がこの地域を制圧し、両国をソ連邦構成共和国の一部に編入すると、ボリシェヴィキの手によって
ナゴルノ・カラバフの帰属が決定されることになるのです。
この強行な姿勢から見てもわかりますよね。
“人為的な策略によって起こった弊害である”ということが。
つまり、当時のソ連はどんどん領土を広げ、
その広大すぎる領土を完全に統治するには
“反抗勢力の芽”を摘み取っておく必要があったわけです。
いつの時代も半構成力の大きな火種となるのは『民族紛争』
そのため同一民族の地域に意図的に国境線を引き民族を分断させることで、独立運動への抵抗力をそいだわけです。
ですから…中央アジアを見てもそう、
ウズベキスタンにもたくさんのキルギス人がいて、キルギスにもウズベク人がいるように、
このコーカサス地域ではその典型例が“ナゴルノ・カラバフ”なのです。
旧ソ連の支配が及ぶ前まで、ナゴルノカラバフはアルメニアが支配していました。
だってアルメニア領国内にあるんですもの、そりゃそうでしょう。
なのに、旧ソ連政府は突然この地域を飛び地としてアゼルバイジャンに帰属させたのです。
なぜなら『意図的に民族分布を無視して国境線を引くことで、民族の力をそいだ』ということ。
一度はナゴルノ・カラバフもそれまでの統治通りアルメニアに帰属させると決定したものの、その後のアルメニアで反ソビエト反乱が起こり、指導者:ボリシェヴィキの心証を害したため
決定を覆してナゴルノ・カラバフをアゼルバイジャンの自治領として置くことになったのです。
当時のナゴルノ・カラバフの人口の94%はアルメニア人だったのに・・・。
現在もこのナゴルノ・カラバフ自治州は住民の75%がアルメニア人で、ソ連崩壊直前からアルメニアへの帰属を求め
アゼルバイジャンとの紛争になりました。
アルメニアとアゼルバイジャンは、隣国ではあるものの
民族、宗教の違いが大きい。
アゼルバイジャンはトルコと友好関係にあるイスラム教(シーア派)が多数住む国ですが、
その一方、ロシアと強固な関係をもつアルメニアは、キリスト教国(アルメニア正教)である。
1988年に、ナゴルノ・カラバフ自治州に住むアルメニア人が、アルメニアへの帰属をアゼルバイジャンに要求すると、
アゼル政府は「自治州を廃止、共和国が直轄統治する」という
強行措置を取ったのである。。。
当然ですが、ナゴルノ・カラバフの住民はアゼルバイジャンに対して強い反発をしました。
1989年 アルメニア最高会議において、ナゴルノ・カラバフ自治州のアルメニア併合に関する決議採択。
同年中、アルメニアから17万人のアゼルバイジャン人が、
アゼルバイジャンから35万人のアルメニア人が、
各々追放される事態が発生。
ソ連の崩壊に際し、両国は共に1991年に独立を果たすも、
1992年に、ナゴルノ・カラバフ側が一方的に「ナゴルノ・カラバフ共和国」として独立を宣言。
これをきっかけに、紛争が勃発。
さらに、ナゴルノ・カラバフ側にはアルメニアが加担し、
本格的な戦争に発展した。
1994年にロシアとフランスが仲介を請け負い、停戦が成立。
この紛争により、2万人の死者が発生し、難民にいたっては
100万人以上が発生した。
この停戦の調停案の和平案には「アルメニアが占領したアゼルバイジャンの領土の返還」 「ナゴルノ・カラバフはアゼルバイジャンに帰属後は自治共和国に昇格」などと書かれており
この紛争を有利に進めてきたアルメニア側からすれば納得できるようなものではなかった。
そのため、アルメニアがナゴルノ・カラバフを占拠したままになっており、ナゴルノ・カラバフの帰属問題は未だに解決の目処は立っていない。
国境線の引き直しを認めると更なる紛争を惹起しかねないという懸念から、ロシア・西側諸国ともに国境変更に対して極めて慎重であるためこのような調停案になったのだが、
アゼルバイジャンがバクーに油田を持っており、
経済的な理由から調停側がアゼルバイジャンを優遇せざるを得なかったとする見方もある。
トルコとアルメニアの関係改善による地域の安定を画策した欧米の後押しもあり、2009年に両国間国交正常化が実現したが
合意文書でのナゴルノ・カラバフ戦争の言及に
アルメニア側が難色を示すなど紛糾し、問題を先送りする形となっている。
旧ソ連の定めた形で独立した、と言い張るアゼルバイジャン。
支配が終わったんだから元あった所領に戻って独立した、と言い張るアルメニア。
話し合いは平行線。
(※現在 国によって見解は異なりますが、
地図上はアゼルバイジャン領・ 実効支配はアルメニア
として認めているところがほとんどのようです。)
そんなわけで、前置きが長くなりましたが・・・
アルメニア入国時にアゼルバイジャンビザがあると、入国にひっかかる(逆もしかり)。
知っていたけど・・・パスポート変更せずにどっちも行くなら
どうルートを組んだってこの問題は避けて通れないわけで、
それが今日この国境というわけです。
ワタシは今日このあと特に予定詰まってないから何時間かかってもいいんだけどさ、不運にもワタシと同じバスになってしまった乗客には申し訳ない・・・と思いながら
何事もなかったように、国境でビザ取得手続きを進めてみる。
パスポート出して、申請用紙記入して、ビザ代払って・・・
さぁここからどれだけかかるか。
パスポートをパラパラ・・・と見て、なんと即ビザを貼ってくれた。
マジ!? このパスポート、アゼルバイジャンのビザあるけど、こんな簡単に・・・いいの!?
ワタシのパスポートにビザ記録が多すぎるために見逃したのか
旅行者だから大目に見てくれたのか、
はたまた両国関係が融和してきてるのか、
そのあたりの現状はわかりませんが・・・
申請から受領まで10分弱。
そのあとのスタンプセクションでも問題なく即通過。
数時間単位で覚悟してたから拍子抜けだけど、
とにかくよかった!!!
ビザ代3000ドラムはドラム払いか、かなりレートの悪いUSドル払いしか受け付けられず、国境通過後にある両替所で両替させてほしいと頼み込む旅行者も少なくないと聞きますが、
ワタシの乗ったミニバスのドライバーがそういう対応に手慣れていたんでしょう
こっちが何を言わずして自ら数人いた外国人旅行者に3000ドラムずつばらまいたのです
(もちろん後に返却しますが、ノー利子・ノーチップでした)
珍しく効率いいじゃん!と軽く感動。
思いのほかアッサリとアルメニアに入国です。