2006年01月01日

特別な存在

 ここに始まってここに続き、最終的にここに続いた記事。

>さて。 まだ続くんか・・・?
 誰も続ける様子がないので、不肖私が筆を取ろう。

 まず結論から述べてみようか。

 この世は全ての存在が主観的に存在する。いわば主観の共同体なのだ。インターネットであろうが実世界であろうが、それは何も変わらない事実である。
 猫は猫だから猫なのだし、人は人だから人なのである。それはいったいどういった事柄を指し示すのか。
 私の考える答えはこうだ。
 人は人足り得るから特別なのではない。人は人足り得るから特別だと思うことが可能なのである。
 人間だから特別だとか、自ら死を選択する人間は生きることに必死な動物に劣る、などということは皆主観なのである。
 それはあなたがあなたであるから、そうなのである。

 よく客観的意見と主観的意見の対比が行われるが、客観的意見の根っこの部分は主観的意見の集合なのである。
 その主観的意見の集合体が希薄され、時代や国家および集合体によって都合のいいように解釈されたものが客観的意見という神様なのである。
 それを持ってして「あなたの仰ることは間違っている」だとか「あなたの考えはおかしい」というのは実にナンセンスだ。
 という私の意見ですら主観的なものなのだ。

 人は皆、己こそが特別なのだ。
 特別な己が特別だと思う他人も特別になるのだ。
 そしてそれに名前をつければ、それはすなわち愛やら友情、憎悪、嫉妬などになるのだ。
 そうして人は他の生物にはない特性を手に入れた。鳥には空を飛べる翼があるように、魚には水中で呼吸できるエラがあるように、人はより己のことを表現するための言語を手に入れた。
 ただ、それだけのことである。

 死を語るなら、生ありきで語るべきである。
 生きるとは何か。
 簡単に言えば、表現することである。
 鳥たちが求愛のダンスを舞うように、人は生きるために己を表現する。
 言葉を持ってして表現するのだ。表情を持ってして表現するのだ。身振り手振りを持ってして表現するのだ。行動を持ってして表現するのだ。
 生きるということは表現に満ちている。
 その表現の究極が「死を持ってして表現する」なのだ。
 皮肉な話ではないか。
 そこまでして自らの生を表現しようとするのだから。

 「人は特別」なのではない。
 「人は人だからこそ特別だと思える」のである。

 この世に特別なものなど何もないのだよ、関口君。
crow0825 at 23:46│Comments(3)TrackBack(1)自論 

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1. 無言の理解と偽善の駄洒落  [ 魔城 九龍 ]   2006年01月02日 22:49
久し振りに、九龍らしい記事でも更新するかね。 関連は、ココだ。 復帰早々に絡まれるとは思わなかったな。 嬉しい事だ。

この記事へのコメント

1. Posted by ろくでなし   2006年01月02日 09:13
恐ろしく説得力のある意見ですね。
間違っているって俺は言ってますね。
ナンセンス・・・。
2. Posted by 九龍   2006年01月02日 20:17
ありゃあ・・・。

返さなきゃならんな。
くっくっくっ。
3. Posted by カラス   2006年01月02日 21:42
>ろくでなし君

 まあ、長い人生にゃいろいろありますわな。

>九龍君

 かかってこいやああああ!!!

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