本書の冒頭「初めに」で著者は、手話を自らの言語として生きる聾者は「耳が聞こえない聴覚障害者と同等でない、手話を獲得し聾文化を体得し聾者になる。」と強調している。
本書は、著者の博士論文をもとに刊行されたもので用語の専門性や出典の明記などにより私のようなものには、読みにくいものとなっている。

分からない用語は、失礼ながら意味を創造しながら読み続ける内に「聴覚障害」についての理解が根本的に違っていたことに気づかされる。
障碍のある人の雇用や就労支援にここ10年ほど関わっていて、恥ずかしいことだが「手話=日本語」と思い込んで疑わなかった。

10年の間のPCを中心とするコミュニケーション手段の発達は、聴覚障害者との情報伝達を仕事上では、Eメールや仕事の進捗状況の管理ソフト、スケジュールの共有化など確実・迅速に仕事が進行していくようになり、携帯電話やスマートフォンがほぼ100%保有される状況のなか、私的な部分での例えば遅刻の連絡のようなケースでのメール利用により情報保障を担保してくれるようになっており、旧来聴覚障害者に感じていた手話や筆談を使用するという情報伝達の困難さを軽減しているのは事実だろう。

仕事の内容が明確に示されるPCを使用しての入力作業などでは、聴者と聴覚障碍のある従業員間に、意思疎通の齟齬は生じにくくなったものの「常識的な成果を求めあいまいな指示もしくは言外に意味のあるような指示を出したことに対する成果や仕事の出来栄えに聴者が満足できないことやなぜこんなことが分からないのか?」などの疑問はそれほど多くないにしろ発生して能力を最大限発揮してもらうことが出来ない想いを感じさせることがある。

聴覚障害者にも、微妙なコミュニケーションが取れないことにより「被害妄想的な思考に陥ってしまう」こともあるようだ。

聾者(本書では聴覚障害者と明確に異なる定義がされているのに注意)にとっての母語が、手話であり文字で表出される日本語や読唇で理解する日本語が第一?外国語的なものだとすると、外国人に丁寧に説明するのと同様に聴者も丁寧な指示説明が必要なことが分かってくる。
また、聾者のグループが観光地などで活発な手話による会話や、通学途中でのろう学校生徒同士の笑顔でのおしゃべり?が楽しそうなことが腑に落ちる。

聴者(非聾者)として、聾者のコミュケーション力の拙さを責めることは著者が指摘するように聾者がマイノリティである現在の社会では仕方がない面はあるにせよ、母語でない文字と筆記による日本語を使用する聾者の困難さは、聴者の頭の隅に置いておく態度が必要であり、著者は否定的だが片言でも良いから手話をしようする意識も聾者理解の上からは必要ではないかと雇用をするという立場からは言えるように思える。

本書の論点は、日本手話の言語性や聾学校の存在意義、聾文化の形成、聴者との情報保障手段としてのノートテイク、要約筆記、手話通訳の功罪などから時間軸の面からは幼児期における手話獲得から義務教育を経て高等教育機関であるG大学での聴覚障害学生支援の構築から同大学での聴覚障害職員の雇用の実践まで多岐に渡っているので、興味のある方は是非一読を願いたい。


手話の社会学―教育現場への手話導入における当事者性をめぐって
  • 金澤貴之
  • 生活書院
  • 3024円
Amazonで購入


ブログランキング

人気ブログランキングへ