もしも教え子が深い関係を求めてきても、「教育者」なら、それを制して「正す」べきであるというコメントをいただきました。

これまでは、どちらかと言えばその反対の内容のコメントが多く、どうすれば先生と関係を持つことができるか、うまくいかないので苦しい、どう考えればよいのか、などがほとんどでした。

「教育者」という表現にいささか面喰いますが、教師と生徒の関係に、「教育者」という言葉を持ち込むのは、当事者ではないような気がしてしまいます。教師の多くは、教育者としての自覚があまりありません。先生、と呼ばれて、先生としての自分を演じています。ふつうの学校の先生に、「教育者」という自覚を求めるのは、教師の世界では残念ながら、見当違いだとしか言いようがありません。

もっとも、高度な専門性と意識をもって、理念を貫きながら、授業をこなしているのではなく、教育活動を行っているとう自負のある人なら、教育者と呼べるでしょうし、そのような教師もいないわけではありません。

私がともに職員室で過ごしたり教師としての仕事をいっしょにしたりした数百名の教師のなかで、有名無名は別として、この人は真の教育者だなあ、と思ったのは、ほんの1%ぐらいでした。10%ではありません。1%です。

100人に1人というと、小学校なら3校に1人くらい、中学校なら2校に1人くらい、高校なら1校に1人くらいではないでしょうか。ちょっと多めに見てもそのくらいだと思います。

では、それ以外の99人は何者か、というと、公務員であったり、サラリーマンであったり、主婦であったり、おじさんであったり、学生の延長であったり、ということで、恋愛のカテゴリーの教師と生徒に出てくるような人たちは、こういう99人のなかの、生徒から見て、何らかの人間的な魅力のある存在、ということになると思います。

さらに言えば、99人の先生のうちに、生徒から魅力的に見える人はどれぐらいいるかというと、その1割ぐらいではないでしょうか。つまるところ、多くて10人ぐらいだと思います。

もちろん、100人に1人の教育者には、生徒を引き付ける魅力が必ずあるものです。けれども、それは恋愛感情ではなく、尊敬する師としての存在になるのではないでしょうか。

生徒や教え子との関係にふらふらする教師は、およそ、もともと教育者としての資質に欠けているのでしょう。

ただし教育者であるかないかと、人間的に魅力があるかないかとは別問題で、重なることもあるでしょうが、教育者と呼べる数が少なすぎる上に、教育者としての品格を求めるのであれば、最初から生徒の側から恋愛感情を持ち込むこともないはずです。

こういう言い方をすると、教師と生徒を対等に扱うな、とお叱りを受けそうです。

ところがここがある意味での、教師と生徒の核心部分でもあると思います。対等ではあってはならないはずのところに、対等な意識が芽生えてしまう。どちらかと言えば、年長者である教師の側が精神的に生徒に近づいてしまう。生徒の方も、全然届かないと思っていた存在が、背伸びをすれば届きそうなところにまで先生が近づいてきてしまう。そういう両者の意識の接近が、やがて恋愛に近づいてゆく。

どうでしょうか。このような説明で、思い当たることがある方も少なくないのではないでしょうか。

私は、教師側の気持ち、先生というものの裏面を、このブログで語っています。直接、間接に、生徒の立場の気持ちはたくさん聞かせてもらっている方だと思いますが、それだけに、こういうものだ、という紋切り型の見方ができるものではない、ということを、よきにつけ悪しきにつけ、言っているつもりです。

教師と生徒の恋愛は禁止です。教え子と元教師の恋愛も、世間的には許されにくいものです。法令的に問題がない状況になっても、場合によっては、教師側に何等かのペナルティが与えられることもあります。そこまでいかなくても、教師としての立場にとってはリスクの大きいものです。

それでも一線を超えてしまう教師は、その時点で、生徒や教え子を「正す」ような立場では、もはやなくなってしまっているのです。

生徒や教え子のなかには、一線を超えさせようと努力する人もいます。その姿が、さらに、教師の職責を守ろうとする気持ちにゆさぶりをかけてきます。

さて、いざ、というときになって、突然に真顔になって「正す」というような教師がいたらどうなんでしょう。そういう人はいます。私にも経験があります。ところが、それがまた、生徒や教え子の気持ちを強くさせてしまうことになるのがほとんどです。

「このままではいけない。これでおしまいにしなければいけない。それは君のためだ」

そう言われて、素直に「はい。わかりました」と言う生徒や教え子がいるでしょうか。いなくはないと思います。でも、そのあとは、たぶん、一定の期間、泣きますよね。一定の期間というのは、人それぞれですから。私の聞いた話では、3年や5年、10年、それ以上、というのもあります。

人生はたった一度しかなく、しかも、その年月には限りがあります。そのうちのかなり長い時間を、心にわだかまりを持って生きるのは、辛いことです。

私が経験したことで恐縮なのですが、このように書いてきて、そのときは大変なのですが、あとから思えば、何かしら微笑ましくなってしまうことがあります。

簡単に言えば、いろんなことを考えて、場合によっては教師としての立場を失うことがあってもよいとまで考えて、一線を超えたような関係で、その多くが、最後には、私の方が「ふられてしまう」のです。そのつもりになって、もう後には引けないなと思ったころに、なんとなく様子が変わり、気がつくと、それまではいつもそばにいたりいたがっていた相手が、さっと姿を消してしまう。きちんとご挨拶をしてくれる人もいましたが、多くは、あっさりと切られてしまう。

いったいどういう人間なんだ、と思われるかもしれませんが、もうそれは、これだけブログを書いてきているのですから、今更言われても仕方がありません。私は、品格のない人間です。品格よりも人間でありたいと願う者です。

いったいどういう人間なんだ、と思われても仕方がない、というのは、私は何度、元教え子から切り捨てられたか、よくわからないぐらい経験があるのです。

「教育者」とか「正す」とかは、正論ではあると思いますが、実際のところ、それなりに先生を一生懸命やっていて、出会い直しがあって、真剣に向き合っていると、「正す」というような余裕のある状況ではないところに陥ってしまいます。正直に言えば、かなり振り回されたりもします。

むしろ自分の身を考えて、「正す」ようなそぶりを見せると、さらにこんがらがってしまったことが多かった。

なんだか今回のコメントの方は、以前にもいただいていた方ですが、そういうことを承知でコメントを入れているような気がしてきました。ただしその人のこれまでのお話では、その先生はずっと一線を超えないという「固い」方で、どちらかと言えば「教育者」に近い方なのではないかとも思われます。

その先生は中途半端なそぶりは見せていますが、一度は冒険をしたけれど、それで満足してしまったようなところがあるように私には感じられています。「あんなこともあったなあ」という程度のことでしたら、私の場合は、もう本当に数限りなくあります。

昔のことで、今ではできないことですが、部活のあとに日が暮れて雨が降っていると、遠いところに住んでいた生徒たちを何度か車で送って行ったことがあります。その頃は若かったのと私的なことで忙しかったので、ただ単に帰り道が心配だっただけのことですが、一番最後になる子が、いつも言うのです。

「このままこの道をまっすぐ行ってみたい」

「そんなことをすると堤防の上に出て、そのまま海に落ちてしまう」

「先生といっしょなら怖くない」

「・・・いや、今度にしよう。今はまだやりたいことがいっぱい残っている」

「そうなんだ。それなら、今度ね」

この子とは、出会い直しもなく、今年も幸せそうな年賀状を送ってくれました。

若かったのでその会話をするたびに、なんだか怖かったのを思い出します。もしもその10年後であれば、何がその子にそう言わせているのだろうか、と考え、尋ねただろうと思います。たぶん、何か重いものがあったのでしょう。「先生といっしょなら」というのは、未だに意味がわかりませんし、こうして書いてきて思い出したことなので、今も考えるつもりはありません。

フロントガラスにびたっとはりついたような黒い空から落ちてくる雨粒とともに、後ろの座席から耳元にささやく「このまま道をまっすぐに」というあの声は、たぶん私は、ずっと心に持ち続けるのだろうと思います。

私がその声に従って、アクセルをいっぱいに踏み込まなかったのは、教育者でなかったからでもなく、「正す」気持ちがあったからでもなく、ただ単に、怖かっただけだったのだとしか思えません。

なんだか不思議な話になってしまいました。

お叱りのコメントもちゃんと受け止めさせていただきますので、どうぞなんでもお寄せください。

今なら、私はどうするのだろう、と、妙な余韻が残ったまま、この記事は終わります。

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