◆大谷常緑

◇こちらは心理カウンセラー達が作る癒し系サイト「カウンセリングサービス」のカウンセラーのプロフィールページです。

カウンセリングサービス所属カウンセラー。
おおたに・ときわ(男性カウンセラー)
福岡地区を担当。

恋愛や夫婦などのパートナーシップを始め、対人関係や家族の問題、自己変革のプロセス、ビジネスや転職などあらゆるジャンルを得意とする。
どんなご相談にも全力投球で臨み、分かりやすく優しい語り口で多くのお客さまを虜にしている。
理論と感覚を併せ持ち、豊富な社会経験をベースとした面倒見の良い“お兄さん(おじさん?)”カウンセラーである。
日本心理学会認定心理士。

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戯言

変化のプロセス

「そんな簡単なものではないですよ!」
「そうできないから困ってるんですよ!」
カウンセリングでクライアントさんに状況を変える方法のご提案をしていると、こんな言葉を返される事があります。
そうですね、にっちも、さっちもいかないから今の状況を何とか打開したいと思ってお電話をいただいたり、面談においでいただくのですよね。
カウンセラーサイドとしても、打開策を見つけたり、例え状況が変わらなくてもクライアントさんの感じ方が変わって楽になっていただけたらと思っているのですが、そう言われてしまうと話をピシャッと切られた感じで次の糸口を探しに入る事もあります。

さて、カウンセラーはクライアントさんに無理難題を吹きかけているのでしょうか?

まぁ、そう受け取られても仕方がない苦しい状況にクライアントさんがおられるのは重々承知の上なのですが。

今の状況はがクライアントさんにとって苦しい状況であるということは、それ以前と同じ考え方(思考パターンや観念、ルール、判断など)や、やり方(行動パターンやアプローチ方法、コミュニケーション方法など)では、また同じ事を繰り返す可能性が非常に高いことを意味しているのです。
これを変化させるためには、今までとは少し違った考え方をしてみたり、やり方を試してみる必要があるという事なのです。

そうするのは、とっても勇気が要ることですね。
だって私のやり方を正しいとか、安全だとか信じてきたわけですから。
人間誰しもそうですが、やったことのないやり方をするのはとても怖いものです。

でも、状況を変えたいのか、私の今までのやり方にこだわるのか、という話になるのです。

状況を変化させるには、「何が何でも状況を良くして楽になる」という決意と、それを行う勇気が必要になります。
決意は、変化のプロセスの中で必ずといっていいほど起こる様々な誘惑、例えば「やっぱり失敗した」と感じたり「どうせうまくいかない」と思ったり、はたまた「この恨みを許してたまるか」といった途中で変化を望む気持を挫折させる気持を打ち消して、変化のプロセスを進めてくれます。
止めてしまえば、その勇気とチャレンジは失敗という結末で余り意味が無くなってしまうのです。
でも、一見失敗に見えた事柄でも変化を望む気持を継続すれば、アプローチの仕方が変わったとしても変化へのプロセスは進んでいくのです。
そしてその変化は、状況自体を望んでいた方向に進めてくれる事もあれば、状況自体は余り変わらないけれども感じ方が変わって楽になったという形で現れてきます。
卑近な例で言えば、前者はうまくいかなくなったパートナーとやり直しが出来たという形であったり、後者はうまくいかなくなったパートナーへの執着が消えたという形です。
もっとも、後者にしても、執着が消えれば新しいパートナーが見つかる事も多々ありますから、やがては状況の変化をもたらしてくれることになりますが。

誠に残念なのですが、カウンセラーは、クライアントさんの身代わりになることは出来ないんですね。
変化のプロセスを直接歩むのはクライアントさんなのです。
カウンセラーが出来ることと言えば、背中を押したり、応援したりすることでしょうか。

心理学では、「自分が一番やりたくない事をする」と状況が変化すると言われています。
私自身が今までに経験した変化もそうでしたし、また、関わらせていただいた多くのクライアントさんもそのような経験をされています。

さて、あなたがもし今、状況を変化させたいとしたら、それに関するあなたが一番やりたくない事は何でしょうか?
そして、状況を変化させるぞと決意できるでしょうか?





問題とプロセス

酔いどれモードの大谷です。

今日は、凄い突風と雨でしたね。
皆さんには、被害など、無かったでしょうか?

今日は、プロセスについてお話ししたいと思います。

皆さんが生まれてすぐの頃、日本語は話せたでしょうか?
皆さんが生まれてすぐの頃、両足で立って歩けたでしょうか?

そうではないですね。
言葉は、「あ〜、あ〜」からの表現から始まり、「ママ」や「マンマ」などの言葉を経て、段々ふつうに話ができるようになったのですね。
歩くことは、ハイハイから始まって、立ち上がり、伝い歩きをして、一人で歩けるようなったのですね。

その過程では、失敗を繰り返してきました。
歩行に例をとれば、転んでは泣き、でも立ち上がって転んでは泣き、やがて歩けるようになった筈です。
失敗してできるようになること、これがプロセス(過程)なのですね。

でも、私たちは失敗してはいけないと考えます。
失敗すると、怖れている事が起きるのではないかと考えたり、自分はやっぱり駄目な人間だと感じたり(これも、怖れですが)する事が嫌なのですね。
だから、しっかりしなければ、ちゃんとしなければと思います。
でも、そんなに上手くいくのでしょうか?

断言しますね。
そんなに上手くはいきません。
たまたま、上手くくことはありますが、上手くはいかないものなのです。
だって、練習中なのですから。

でも、上手くできないと、私たちはそれが「問題」と感じてしまうのです。
そして、上手くいかないこと自体が、自分の力不足と感じたり、自分の努力不足と思ってしまうのです。
そして、自分を責める。苦しくなる。それが嫌だと思う。そしてそれを遠ざける。

これは、やりたいと思っているんだけど、それを遠ざける行動でしかないんですね。
せっかくやりたいと思っているのに、もったいない、と思うのです。

問題は、それができないことではなくて、それをできない私が嫌、という感覚なのです。

そうしたいことは、それをできない私が嫌を手放して、やがてできるようになる自分を信じることでできるようになるのですね。
そのプロセスが、そのコミットメント(やるぞと決意すること)がとても大切なのです。
できない私を感じ、そちらに信頼を置いた時点で、そしてそこに深刻になった時点で、コミットメントは崩壊し、プロセスは大きな壁に変わってしまうのです。

皆さんにお伝えしたいこと、お願いです。

プロセスに信頼を!

















やっぱり、選択は大いなる力だなぁ

辛くて苦しい問題を抱えている皆さんへ

ふと、「選択の力は大いなる力だなぁ」と伝えたいという思い湧き上がってきました。
パートナーとの危機、職場の問題、自己嫌悪の問題など、様々な問題を抱えますが、これを解決するために、いくつかの大切な考え方や感じ方はありますが、その大きなひとつに、「選択の自由」がとても大切だなぁと思います。
この選択の自由、言い換えれば、自分がこれからの状況を選択できるという認識があるかどうかでは、捉われ度と言うか、執着というか、それが大いに違ってくるのですね。
例えば、今の彼に不満がある、何とかしたいという事を考えてみます。
まず、私たちは彼が変わってくれることに期待しますね。
ある種の観念や正義(こうあるべき)や、自己攻撃(愛されない私が何か悪い、や、愛されない私)がその心の奥に潜んでいます。
でも、彼には彼の自由意志があり、あるいは、彼にはそうできない彼の問題があり、私たちの期待には応えてくれない事もまぁあるわけです。
「なんで!」とそんな彼を攻撃してしまいがちなのですが、そんな彼を何とかして必死に一緒にこれからもやっていこうと思うのか、違う人を探して新しい恋を見つけようと思うのか、はたまたこの状況に手を尽くさず成り行き任せにするのかなどは自分の選択の問題なのですね。
そして、その選択の余地が無いと感じるほど、苦しいわけです。
例えば、「もうこんなに楽しい時間をくれたような人とは出会えない」と自分で勝手に決めてしまうと、「彼」という選択しか無くなるわけです。
「だってそうなんだもん。こんな自分に・・・」なんて話になる訳ですが、「それって誰が決めたの?」と思うのです。
自分で自分の価値も勝手に決めている・・・選択している、と思うのです。
そういう意味では、選択の余地を無くしているのは、自分自身なのです。
そして、どこかで、深刻さを抱え込んでてしまっているのです。
それも自身の選択です。
自分自身で、選択の力を封じ込めてしまっているのです。

そして、それすらも、自身の選択なのです。



目黒のサンマ〜飽きるということ・当たり前と感じること〜

落語に、目黒のサンマという話があります。
お殿様が、庶民の食べ物のサンマを東京の目黒で食べて、「やっぱりサンマは目黒にかぎるのう」とのたまうのですが、どこでもサンマは食べられますよね。
普段、城内(江戸城)で贅沢な食事ばかりしているので、庶民がよく食べるサンマを食べた事が無かったのですね。サンマを初めて口にしたのがたまたま目黒。それをとっても美味しいと感じて、サンマは目黒が美味しいとなった訳です。
ところで、私たちはとっても飽き性なのですね。
最初は、素晴らしい、こんな贅沢をしていいのだろうかと思っても、そのうち飽きます。
例えば同じ映画、何度も何度も繰り返し見ていたら飽きてしまって感動も何も無くなりますね。
例えばイタリアン。毎日、毎日食べていたら、たまにはお茶漬けとか、ラーメンとか食べたくなりますよね。
周りから見て、憧れるような状態であっても、その事が当たり前、普通になってしまったら、それは途端に色あせたものになってしまうのです。
その事は、私たちに、私たちはいかに刺激を求めているかを教えてくれるのです。私たちはいかにエキサイティングな人生を望んでいるかを知らしめてくれるのです。

飽きること、当たり前と感じること、これはどんな状況でも日常的に現れます。
例えば、夫婦の倦怠期、職場の雰囲気、毎日の繰り返しの生活。
そうすると、人生が死んだように感じます。
そうすると、今の延長戦が未来に永遠に続くと感じます。

でも、これって、私たちが望んでいる人生ではないですよね。
そんな人生なんて、本当は誰しも願ってはいないのです。

では、この飽き飽きとした状況からどう抜けだすか?

答えは2つあります。
一つは、毎日イタリアンを食べるのを止めて、1週間のうち6日はお茶漬けにすること。我慢することです。
サウナの後水を飲むのを我慢して、一口のビールを待ち望む気持ちですね。
実生活では、時々自分にご褒美をあげる形になります。

でも、もっと刺激的な方法があります。
それは、常に問題意識を持って、新しいことにチャレンジすることです。
新しい事へのチャレンジ。
それは怖れを乗り越えて、怖れを楽しみながら、怖れをワクワクドキドキに変えながら、こうなりたい、こうしたいという方向に進んでいくことです。
怖いですね〜。
でも、それこそが、自分の人生を切り開くのではないかと思います。

さて、殿様は、目黒のサンマの次は何に興味を持つのでしょうか?
今ある幸せに気づくことも大切ですね。

問題とギフトの関係

人は、誰しも問題を抱えます。
問題のない人・・・おそらくいないですね。
問題が無いと思っている人、問題がないと言っている人は、問題に気がついていないか、問題から目をそらせているかのいずれかではないでしょうか。

問題は、私たちを成長させてくれます。
問題があることによってのみ、私たちは変化することが出来ます。
変わっていくことができます。

問題意識がなければ、順風満帆に感じるでしょう。
しかし、問題は常に身近にあります。
そして、意識を持つこと自身が変革のチャンスなのです。

問題を実際以上に大きく捉える必要はありません。
問題を過小評価する必要もまたありません。
等身大の問題として捉えることこそが、必要なのです。

問題は、殆どの場合、私たち自身が作り出している幻想です。
なぜならば、私自身の心の内側にしか問題が存在しないからなのです。
あたかも、問題は外の世界からやってくるように見えます。
しかし、問題と感じるのは私自身の心なのですから。

問題は、いつも大きなギフトを背負ってやってきます。
問題を問題として捉える私たちの純粋さや熱意、情熱を気づかせてくれるのです。
私たちが、どんなに人に迷惑をかけたくないか、どんなに人の役に立ちたいか、どんなに人を笑顔にしたいかを見せてくれているのです。
それが、問題の本質であり、それが、問題の存在する理由です。

明日の生活がままならない、という深刻な問題もあるでしょう。
私は生きているより死んだ方がましだ、という深刻な問題もあるでしょう。
でも、それらの問題の全ては、自己愛の問題に帰結します。
何を捨てるのが怖いのか、何を感じるのが怖いのか、自己愛をテーマとして問題を捉え直していただければ、それが見えてきます。

でも、問題の渦中にいるとき、人はそのことはなかなかわかりません。
「私」は何を間違ったのか、何が悪いのかしか見えないし、見ようとしないからです。
その論理を排して、今の自分を無罪と受け入れてこそ、それが見えてくるのです。

そうするには、まず、今の私を受け入れること、今の状況を受け入れることがとても大切になってきます。
今の自分や状況を受け入れてこそ、肯定してこそ、真実を見る目ができてくるのです。

そのようなレッスンを、問題はまた私たちに与えてくれます。
問題と仲良くする必要はないと思いますが、問題は私たちを成長させるために私たちが自ら作り出すものなのではないでしょうか?










手放しについての戯言

久しぶりに、酔いどれチックなブログです。
一人、ウイスキーをグビリとやりながら、気楽に書きたいことを書いてみようかと。

「男は、グラスの中に夢を描く」というようなCMが昔あって、ロッキングチェアーに座った爺さんが荒野を見ながら飲んでました。
格好いいなぁと思いました。
今の僕は、グラスの中に心理学を描くかなぁ(笑)

クライアントさんと話したり、ワークショップの仲間と話した事を今は思い浮かべながら、書いてます。

さて、問題を抱えると多くのカウンセラーが「手放しをしましょう」と言いますね。
僕、クライアントだった頃、正直「はぁ?」という感じでした。
「おっしゃってる言葉はよく分かるけど、意味不明なんです」
「手放しって、どうやればいいの?やり方具体的に!そうそう、マニュアルにして!」
そんな事を思っていましたが、僕には言う勇気がありませんでした。
でもね、今、カウンセラーの立場になってよく分かるんです。
カウンセラーが一生懸命説明していたことが。どうにかしてあげたいと思っていたことが。
でも、問題の渦中にいる時には、完全に受け取れていない。
受け取れないものなんですね。
だって、下心があるから。
手放して、思っていた通りにしようという下心が。
手放して、何かを証明しようという下心が。

以下は今の僕の解釈です。
手放しって、欲望(ニーズ)や、コントロール(状況や相手を操ろうとすること)を水に流すことで、状況や相手を遠ざけることではないのですね。

だから、好きな人は好きなままで良い。
だから、状況を変えようとしなくて良い。

好きな相手はただ好きと受け入れたり、状況を受け入れたりするだけ。
難しいんですけどね。なかなか出来ないんですけどね。
自分を責める気持があって、それが誰かを責める気持になって、こんなに頑張ったのに報われないと絶望的になる度合いだけ、執着していまいますね。

そうなんです。
私が悪いの?
こんなに頑張ったのにご褒美くれないの?
こんな事を感じますね。
まるで、私の全人格が否定されたみたいに感じます。

でもね、起こっている状況や、人は、決してあなたを全面否定しているわけではないのですよ。
そう感じるのは、あなたが描いている「人ってこうよね」とか「世の中はこうよね」という幻想との比較なのです。

人は、気まぐれ。
世の中も、人が作り出しているから気まぐれ。
なんです。
そこにガチンコ勝負しているから腹も立つし、滅入るのです。

ガチンコ勝負している・・・とっても素敵なことなのですね。拍手です。なかなkできません。
でも、前提が間違っているかもしれません。

前提に余裕があると、ガチンコ勝負の結果を自分で受け入れられるのです。

例えば、機械はある確率で壊れると認識していたら、機械が壊れても原が立ちません。保証期間内であれば、冷静に保証を求めるだけです。保証期間外であれば、修理費用が必要なだけなんです。
でも、私は不幸に入ってしまうと、そうは思えませんね。
神様の陰謀のように感じるわけです。
どうして私に・・・キッとなるわけです。
でも、機械は、様々な要因で壊れるのです。これは、神様の陰謀ではなくて、確率論だったりします。

さて、手放しの話から少しズレた感がありますが、
手放しをする良い方法をお伝えします。
一つ目は、自分の価値を認めること。
これは、先に書いた「自分を全面否定された感じ」を無くします。
二つ目は、状況を選択していくこと。
今ある状況をどう変えていくか、自分で選択している感覚を持つことによって人の選択も受け入れることが出来るようになります。

ということで、酔いどれの戯言でした。
のんべぇにおつきあいありがとうございました。

人は、問題をどうして抱えるのか?

人が問題を抱えるときというのはどういう時なのでしょうか?
というシュールな事を書いてみようと思いました。

結論から言ってしまえば、
「そんな感じを感じる自分が嫌」
なのですね。
多分、すべてが自己攻撃です。

例えば、誰かから拒絶されたと思ったとしましょう。
拒絶されるような駄目な自分を感じます。
例えば、誰かから怒られる自分を思ったとしましょう。
怒られるような駄目な自分を感じます。
例えば、何か大きな失敗をしたと思ったとしましょう。
失敗してしまう駄目な自分を感じます。

結局は、駄目な自分を感じるのが嫌なんですね。

駄目な自分を感じる・・・ありがちですが、これが問題を作り出しているのですね。

では、どうして駄目な自分を感じるのでしょうか?

失敗することで、誰かに迷惑をかけるとか、誰かに怒られるとか、感じるのです。
そしてその根本はというと、愛されない自分をそこで感じるのです。

誰から?
その癖はいつから?

人によっても違うと思うのですが、多くの場合、お父さんやお母さんですね。
お父さん、お母さんから愛されたかった。
自分の存在を認めて欲しかった。

今はそうではないかもしれません。
でも、大元を辿れば多くの人たちがそこに行き着きます。

さて、ここから抜け出すには、あなたが、あなたを自分で認めるしかありません。

だって、根本は、自分で自分を責めていることにあるのですから。

今の状況で、自分が不十分だと感じるのはなぜでしょうか?
今の状況で頑張っていないと感じるのはなぜでしょうか?

そんなに人に認められたいですか?
そんなに人と比べたいですか?
その意味は果たして何なのでしょう?

あなたが自分にしていることを、誰かが自身にしていたらどう思うでしょうか?
どんな言葉をかけてあげるでしょうか?

自分にも、その言葉をかけてあげてください。

きっと、問題は、何の跡形もなく解決されるでしょう。

酔っぱらいでした(^O^)







怒りをどう扱うか〜怒りの意味すること〜


みなさん、怒りをどう扱われていますか?
カウンセリングでクライアントさんとお話する中で、多くの方々が怒りを抑圧しておられる事を感じます。
怒りがあることをご本人がはっきりわかっている場合でも、怒りを感じてはいけないのではないかと、怒りを感じる自分を嫌われていたり、責められていたりします。
怒りがあることをご本人が分かっておられない場合も多くあります。「あなた、怒りが溜まってますね」とお話しすると「怒ってなんかいないですよ」なんてポンと返される方もいらっしゃいますが、結構怒りのエネルギーをシャットアウトされていて感じないようにされている方もいらっしゃいます。

我々日本人は、感情的になる事を結構嫌います。
だから、怒りを感じてはいけないと怒り自体を抑圧してしまう習性があるようです。

しかし、怒りも感情の一つなのですね。
そして、怒りは感情の蓋とも言われ、その蓋の下に仕舞い込んでいる本当の気持ち、例えば、寂しい、悲しい、わかって欲しいなどの感情を感じるためにも、怒りを禁止してしまう事、嫌ってしまう事は感情を溜め込んでしまう原因になって、とても辛い状態になります。
だから、怒りを感じる事は本当の感情を感じるという意味ではとても大切なのです。
感情は、感じればどんどん溶けていきます。感じずに溜め込んでいるから一杯一杯になって辛くなってしまうのですね。

怒りを感じる・・・そうすると、爆発してとめどなく相手を攻撃してしまいそうな感じがするかも知れません。そして、それを怖れてしまいます。

怒りを感じる事は大切です。しかし怒りを誰かにぶつけると問題を起こしてしまいます。
怒りを感じる事とそれを誰かにぶつける事は全く別次元のことなのですね。
自分の感情に責任を持つということを心にしっかりと刻み込んでおけば(コミットメントしておけば)、怒りを感じる事がそれを誰かにぶつける事とイコールにはなりません。
そうして怒りを小出しに感じていくと、気持ちが一杯一杯にならずにすみます。
そうして怒りを小出しにしないと、逆にどんどん感情が溜まってきて心に余裕がなくなり爆発する、という事になってしまいます。

実は、僕も昔は怒ってはいけないと思っていました。
怒る人は感情をコントロールできない駄目な人という感覚もありましたし、相手にぶつけるという意味では凄く暴力的になる怖れを感じていました。
しかし、最近は怒りを逆に素直に感じてみようと思っています。
怒りの下側にある自分の本当の気持ちって何なのだろう?と怒りを感じたら向き合うようにしているのですね。
そうすると、怒りの相手に何を求めていたのか、何が寂しかったのか、何が悲しかったのか、何をわかって欲しかったのかが見えてきます。
そしてそれは他人の感情ではなく紛れもなく自分の感情ですから、そのまた下側にある次の感情の層が見えてきます。感情はまるでミルフィーユのように多くの層から出来ているのですね。
例えば、怒りの次に自分の気持ちが分かって欲しかったという感情が出てきたとしたら、自分はいつも理解されていないと感じていたり、これだけ自分が理解しようとしているのに人はそれを分かってくれないと感じていたり、またあるいは理解されないような自分は駄目な自分に違いないと感じていたり・・・。
そこをどんどん掘り下げていくと、昔、余りにも辛くて潜在意識に押し込んでしまったその感情を引き起こす元となる体験(原体験)、−多くは子供の頃の体験なのですが−に辿り着いたりします。
そして、その時のシチュエーションを大人にった今考えてみると、勘違いであった事や、そのような状況にしかならなかった事、もっと深くはその体験を与えた人(例えば、親や兄弟などのケースが多いですね)もこちらが絶対的な信頼を置いていただけで(神様ではなく)人間だったことが理解できる事があります。
原体験が理解でき、本当の意味で腑に落ちると、まるで心に突き刺さったトゲのような傷が癒されて、怒りの元が無くなっていきます。
怒りを感じる、向き合うということは、その怒りを癒すプロセスのスタート地点なのですね。

では、怒りを感じたときにどのように対処すればいいのでしょうか?

もしその相手を目の前にしていたら、先ずはそれを伝える方法もあります。その怒りの元になっている事を相手への攻撃ではなく、感情として伝えるのです。これが一番良い方法かもしれません。でも、少し勇気が要りますね。
しかし、そこまで冷静になれていなかったら、席を外して深呼吸をして気持ちを鎮めるか立ち去る事も一つの方法だと思います。
こちらが怒りを感じると、感情は伝搬しますから相手の怒りを掘り起こしてしまう事もあります。そうでなくても怒っている人の側にいると不快に感じますね。
席を外す事、立ち去る事はある意味攻撃的な側面を相手が感じるかもしれませんが、冷静になれないのであれば、それも一つの方法だろうと思います。
中間的な方法としては、これは難しいやり方かもしれませんが、相手から与えてもらった嬉しかった事や相手と一緒にいて楽しかった事を思い出して、感謝の気持ちに切り替える事です。そうすると、怒りは収まってきます。

もっとも、それで収めてしまうより、相手のいない状態で先に書いたようにその怒りを間口として、自分の怒りの元になっている感情にアクセスしていった方が根本的な問題解決になるのですが。

さて、では怒りを受けた側はそれをどのように受け止めればいいのでしょうか?

確かに相手を怒らせた、という意味では、怒りの引き金を引いたのはあなたかも知れません。
そして、そこに何か自分の問題が隠れていることがあるかも知れません。
それはそれとして、決して自分を責めることなく何が問題だったのだろうと冷静に考えてみることです。決して、「自分は良い」とか「自分は悪い」とか、また「自分は正しい」とか「自分は正しくない」という自己防衛のための判断をせずに(判断は、自己防衛の一方法です)、客観的に眺めてみることです。
それはあなたの問題ではなく、ひょっとしたら相手が勝手に怒っているだけなのかもしれません。
また、ひょっとしたら、あなたにも何か問題があったのかも知れません。
問題があったとしたら、それに向き合ったり、相手に謝ったりすればいいことなのです。そこから、次の展開が生まれてきます。

さて、怒りを受けると自分が責められているような感覚に陥ったりしがちですが、そうすると自分自身がとてもキツくなってくるので、そこに入らないで、次のような感覚になられると良いと思います。
‥椶蠅楼Δ魑瓩瓩覿びである。
先に書きましたように、怒りは感情の蓋で、多くの場合その感情の蓋の下側には寂しい、悲しい、分かって欲しいという感情があります。見方を変えると、「もっと私の事を愛して欲しい」というメッセージなのですね。
「ああそっか、愛を求めてるんだ」という見方をしてあげると、怒りは受け止めやすくなります。
怒りは、相手を認めているから存在する
怒りは、相手を認めていないと存在しない事がとても多いです。何も認めていない相手にむやみやたらに怒ったとしても、それは殆ど意味をなさないですね。
例えば、あなたがご家庭の主婦だとします。お子さんがいます。隣のご主人に、「たまには子供の面倒をみなさいよ」とあなたが怒っても、隣のご主人はそれを受け止めようが無いわけですね。「たまには子供の面倒をみなさいよ」と怒る相手は、自分のご主人なのです。そして、それも自分の気持ちを表す一つのコミュニケーションなのです。
一般的ですが、初対面の人に怒りを表す人はなかなかいませんね。だって、受け止めてくれないと思うからです。また、そこに信頼関係が無いからです。相手を信頼してこそそれを表せるのです。遠慮していては、怒りは表せないものなのです。
私の父親と母親はよく相当激しい夫婦喧嘩をしていましたが、今から思うと、父親は外面が良い方でしたから、母親には信頼して怒りを表せたのだなぁと思います。
まぁ、喧嘩する事が必ずしも良い事だとは思いませんが・・・。

怒りは一見ネガティブな感情のように思えますが、そこには様々なポジティブ要素も隠れています。
怒りを怖れずに怒りに対して新たな見方をされてみるといいのではないかと思います。

できないことはできないと思う〜先ずは無意識を受け入れてみる〜

最近、僕はつくづく無意識の力の大きさを感じています。
「ああ、無意識が嫌がってるんだなぁ」と思う事や無意識がさせたことだなと思う出来事がよくあるのですね。それは様々なレベルで起こっています。

人間の意識は、大きく分けると顕在意識と無意識に分けることが出来ます。
顕在意識とは、我々が頭で理解できる意識、分かっている意識です。
この顕在意識は、意識のうちの4%〜12%ぐらいと言われています。
一方無意識は、我々が頭で理解できていない意識、分かっていない意識です。
我々が意識から敢えて遠ざけた意識である潜在意識も含めて、意識全体の96%〜88%を占めていると言われています。
潜在意識は、我々感じないように無意識の端っこに押し込めたものなので、何らかの拍子に顕在意識に現れることがあります。

さて、顕在意識と無意識の配分は前述のように圧倒的に無意識が大きいわけですね。
ですから、顕在意識でいくらこうしようと思ってみても、無意識が反対していたら無意識の力が圧倒的に大きいので、出来ない、という事がよくあります。みなさんも、こうしたいけどできない、こうなりたいけどなれない、というような経験を多少はお持ちではないでしょうか?
顕在意識はこうしたい、でも無意識がそうしたくなくて反対している状況なのですね。
恐るべし、無意識です。

無意識は、身体の症状に現れることがよくあります。
例えば、朝になるとお腹が痛くなって学校に行けないとか、会社に行けないとかいう話を耳にしたことがありませんか?
本人は学校に、あるいは会社に行かなければならないと思っている。これは顕在意識の話です。
しかし、登校時間、あるいは出社時間になると急にお腹が痛くなって学校や会社に行けなくなる。そして、学校や会社に休むとの連絡を入れると嘘みたいに治ってしまう。
これは、無意識のなせる技なのですね。
無意識は学校や会社に行きたくないと言っているのです。
我々がこうしたいけど出来ない理由、それは無意識が抵抗しているのです。

登校や出社の例は、わかりやすい例を挙げましたが、一般的にこうしたいことが出来ない理由の多くは、無意識が反対しているからなのです。

では、どうすればこうなりたいとか、こうしたいと思っていることを無意識の支配から逃れてできるようになるのでしょうか?

それは先ずは無意識を受け入れてあげる、換言すると「仕方がないんだなぁ」と今の状況を認めてあげることなのですね。
無意識とて自分の内側にある意識です、自分の意識なんですね。
だから、それを尊重してあげる。
だれでも尊重されると嬉しいですね。
無意識もまた同じなんです。

我々は、自分にとても厳しいのです。例えば、誰かに何かアクシデントがあった場合、「ゆっくりしたらいいよ」と声をかけてあげる人が多いのではないでしょうか?でもそれが自分に起こったアクシデントだったら「人に迷惑をかけるから」とか「出来ない自分は駄目だ」とか、ついつい自分に厳しくしてしまいます。
これって、凄いスパルタ、自分いじめですね。
そうではなくて、自分も、人と同じように扱ってあげた方がいい。だって、同じ人間じゃないですか。

で、無意識も自分の意識ですから、愛おしんで受け入れてあげる。尊重してあげる。

そうすると、無意識はどうしてそう感じているのか、時には直感的に、時には体を使って教えてくれるのです。
ちなみに、無意識の体への現れ方というのは、その症状や場所を使って示唆してくれるのですね。
例えば、足が痛くなったとすると「前に進む事を拒んでいる」などという感じです。

そして無意識のメッセージを受け取ったら、実はそれを解きほぐしていけばいいのです。
「ああ、無意識はそう感じてるのだなぁ。でも、私はこうしたい」と思うことなのですね。諦めずに思い続けることなのです。

強大な力を持つ無意識ゆえ、少々時間がかかるかも知れません。
でも、「こうしたい」と思うことによって、無意識も徐々に変化していきます。
意識すること、そしてそれを継続することですね。

やがて、無意識にもそうした方がいいのかなぁ〜、というような感じで変化が生じてきます。そして、全体の意志が51%になったときに、そうなり始められるのですね。

まとめると、
1.先ずは無意識を受け入れること。無意識を理解してあげること。
  受け入れられたり、理解してもらうことは嬉しいことですね、無意識も同じなんです。
2.こうしたい、こうなりたいは思い続けること。諦めないこと。
  無意識を変えて行くには少々時間がかかります、根気よく、諦めないことです。
ですね。

戯言でした。

追伸
9月6日(土)18:30〜20:30福岡天神正友ビルで原裕輝カウンセラーとジョイントで心理学講座を開催させていただきます。
テーマは「やさしさを磨こう〜人にやさしく、自分にやさしく〜」です。
僕の心理学ワークショップデビュー戦となります。
ああでもない、こうでもないと、何を皆さんにお持ち帰りいただこうかと思案中です。
よかったら遊びに来てください。
講座修了後は割り勘で打ち上げもありますので、酔いどれと遊んでやってください(^o^)
詳しくは
こちら

お中元理論〜気持を感じる〜

親戚や知り合い、友人などから季節の贈り物が届く時期になりました。
いわゆる「お中元」です。
心理学では、「お中元理論」という妙な理論があって、全てのケースに当てはまるとは思いませんが、「私が欲しいものを相手に贈る」というのです。
例えば「選択するギフトが欲しい」と思っている人は、誰かに贈り物をするときに「選択するギフト」を贈る、という感じです。
このお中元理論を展開すると、「私のして欲しい事を相手にする」という話になります。
よく例として言われるのですが、例えば誕生日などの記念日、人によってどのような状態が嬉しいかが異なるのですね。
高価なプレゼントをもらって愛情を感じるタイプの人もいれば、特別な場所で夜景を見ながら食事をして愛情を感じるタイプの人もいます。また、ゆっくりのんびりと二人で時間を過ごしてくれる事に愛情を感じるタイプの人もいます。
要は、個性なのですね。
そこで、そんな時に相手が自分にしてくれること・・・実は相手がして欲しい事の場合が多いのですね。
例えば、彼が誕生日に二人の記念になるようなプレゼントを贈ってくれたとしましょう。そうすると、彼の誕生日には、二人の記念になるような物を贈る。
こうすると、彼の心はウキウキになる事がとても多いのです。

閑話休題。

先日お電話でお話しさせていただいたクライアントさんから「食べ物のブログも読んでますよ」とのお話がありましたので、今日は少し調子に乗って食べ物ネタを。
僕は、美味しい食べ物に癒されるのです。

今日は、友人が贈ってくれた鳥取県米子市にある「米屋吾左衛門」の鯖寿司と鰺寿司をいただきました。
僕は子供の頃、滋賀県に住んでいました。
滋賀県といえば海はないのですが、福井県は若狭地方から京都に鯖を運んだ「鯖街道」と呼ばれる街道が通っていて、昔から鯖をよく食べていました。
「鯖は生き腐れ」と言われていて、僕が今住んでいる九州の様に鯖を生で食べる習慣は無かったのですが、酢で〆めて食べる習慣はあって、子供でありながら〆鯖や鯖の押し寿司(棒寿司)は大好物でした。
そんな僕の好みをとてもよく理解してくれている友人は、あれこれと考え、今回は米屋吾左衛門の鯖の棒寿司と鰺の棒寿司を贈ってくれたのだろうと思います。
贈り物を戴くこと自体、とても嬉しい出来事なのです。
でも、もっと嬉しいのは、そこに込められた僕を思ってくれる気持ちや、そこにいなくても、ふと僕のことを考えていてくれる気持なのですね。
何か、繋がっている感じがします。

きっと、あなたのことを、ふとした瞬間に思い出したり、気にかけたり、考えてくれている人が必ずいると思います。
ご両親かも知れないし、友人かもわかりません。お子さんかも知れません。近所のおばちゃんかも知れません。あるいは、カウンセラーかも知れません。

多分、あなたが誰かのことをふと思い出すように・・・・。

写真は左からパッケージ、大皿に盛りつけたところ(左が鯖寿司で、右が鰺寿司です)、そしてじゅんさいのお吸い物(母親特製?)を添えたところです。

鯖は身がとても厚くて脂が乗っていました。
しかし、しつこい脂っぽさではなく、エレガントな味わい、風格のある味わいでした。
鰺もとても身が厚いのですが、鯖よりもあっさりとした味わいで、少し甘めな酢飯とのコラボレーションが鯖とはまた違った鰺の美味しさを引き立てていました。
いずれも、有名になった事が理解できる逸品ですね。
機会がありましたら、是非お召し上がりください。

鯖寿司の箱鯖寿司大皿盛鯖寿司とお吸い物

愛って難しい??

愛って、難しいですね。
人により様々な定義があるのではないか、と思います。
でも、おそらく、多分、全ての人間の本質ではないかなぁ、と僕は最近つくづく感じています。
カウンセリングをさせていただいたり、ワークショップに参加したり、あるいは日常生活で。

僕が学んでいる心理学は、「ヴィジョン心理学」で、創始者は、チャック・スペザーノ博士です。
その名著に「傷つくならば、それは愛ではない」という本があります(著者:チャックスペザーノ 翻訳:大空夢湧子 発行所:株式会社ヴォイス)。

この「傷つくならば、それは愛ではない」という言葉、とてもよく「愛」を定義していると思うのです。大好きな言葉なのです。

例えば恋愛のワンシーン、私たちはパートナーに「こうして欲しい」というニーズ(欲求)や、「こうあるべき」という観念を押しつけがちですね。
そして、それがうまくいっている間は、全く問題になりません。

しかし、そうならなくなった時に傷つきます。
そんなことは、恋愛経験をお持ちの方であれば、当たり前だと思うのです。

ニーズや観念を持つことが悪いことでは決して無いと思うのですね。
あくまで、問題になったときの事なのです。

その時に、初めて愛を見詰め直せばいいと思うのです。
「どうして私は傷ついているのだろう?」と。
そうでないときは、問題は無いのですから。

傷つくことは、一見相手に傷つけられたと感じるかも知れません。

でも、実は自分の内側の問題なのですね。
満たされないニーズ、自分の観念やルール、決めていない気持、そしてそれらが絡み合って自分を責める気持、etc・・・。

パートナーシップは、自分をとてもはっきりと、くっきりと見せてくれます。
鏡のようですね。

なぜ、そのようなニーズがあるのか、どうして、いつからそんな観念やルールを持ってしまったのか、そしてそれらの目的は何なのか?

僕は、パートナーシップは自分を高める(=楽に生きる)とても良いチャンスだと思います。
だって、一番近い他人ですから、「人=自分(投影:自分の心の内側が他人にスクリーンのように映し出されること)」に対する様々な問題や感情が出てきて、全ての問題を見せてくれるのですから。

もし、問題を抱えたら「傷ついているのは自分のどのような部分が反応しているのだろう?」と考えられると良いと思います。

これが、あなたが本質的に持っている愛に気づいたり、愛を呼び起こすきっかけになるのではないかと思います。

今日も飛ばしている酔っぱらいの戯言(たわごと)でした。

明日のジョー〜カウンセリングの現場から感じること〜

昨日書いたブログ「M〜もう一つのラブストリー」は、多分多くの方々に読んで戴いたようです。
反響もいただきました。
で、戯言(敢えて言うなら酔っぱらいの”たわごと”)なのですが、明日のジョーを思い出しました。
あの、リングサイドの丹下段平が、リングに突っ伏した矢吹ジョーに
「ジョー、立つんだ、ジョー」
と叫んでいる姿です。
そして、矢吹ジョーはふらふらになりながら立ち上がるのですね。

カウンセリングをさせて戴いていて感じるのは、人の強さです。逞しさです。
どんなに悲惨な状況でも、どんなに痛みが激しい状況でも、殆どの方が何とかしようとされています。
その姿って、とても美しいなぁと思います。
思うように事が進まないかもしれません。焦るかも知れません。あきらめかけるかも知れません。

でも、本当はこうありたい自分と、しかしそうなれない自分と根気よく戦っておられるのですね。
だから、悩みが生まれる。
だから、問題を抱える。

問題を切り離すこと、感情を切り離すこと、これも逃げではありません。
それぐらい、辛いことなのですね。

僕は、人間の本質は光だと思っています。
みんな、この光の本質を持っているが故に、悩んだり、問題を抱えるのです。
顕在意識(頭で考えてわかる意識)では、そうではないかも知れません。なぜならば、考えることは自身を守るためで、怖れからの行為なのです。そのフェース(相)では、怖いのです。とてつもなく怖いのです。

でも、本質は光なのです。無意識の最も奥深くにあるもの、人間の本質は、光なのです。そういう意味では、顕在意識からは一番遠い距離にあるかもしれません。

この光があるが故に、人は悩むのです。問題を抱えるのです。
でなければ、「あっそう!」と罪悪感や無価値感なんて感じないはずですから。

人間の心、本質ってとても尊いですね。

誰かの問題に接したときに、人はその問題に引きずり込まれます。
そして、あたかも自分自身の問題であるように感じたり、自分の中に幼い頃に仕掛けられた時限爆弾に触れてしまったりします。
そして、本当はそんなことはしたくない行動、例えば、怒りをぶつけるとか、依存的になってしまうとか、人を嫌ってしまうとか、をしてしまいます。
でもそれは、仕方がないことですね。
しかしその中にある光は、心の何処かで、そんな自分は嫌ということを感じます。感じています。
だからこそ、問題となるのですね。
そして、そこから、抜け出し、立ち上がろうとするのです。
逞しいですね。

さてさて、明日のジョーから話がそれました。
酔っぱらいは、回りくどいのです。ごめんなさい。

このブログを読んで戴いている皆さん、皆さんは前向きなのですよ。
逞しいのですよ。
強いのですよ。
何とかしたい、というお気持ちがあるのですから。
そこは、どんな状況においても自信を持ってくださいね。

酔った勢いでの戯言でした。

執着を手放す〜 M〜もうひとつのラブストーリー〜

友人から、「M〜もうひとつのラブストーリー」(アーティスト:RSP)という曲を教えてもらいました。
CD発売は7月になってからとのことですが、携帯電話の着メロではもうすでにダウンロード出来るようですね。
有名な「いつも一緒にいたかった 隣で笑ってたかった♪」のPRINCESS PRINCESSの「M」をベースとしてそこにもう一つのストリー展開をした曲になっています。
僕は、「M」もとても好きな曲なのですが、この、「M〜もうひとつのラブストーリー」もとてもいい曲だなぁと思いました。
パソコンでもここで無料試聴できます。
携帯では、各社のダウンロード窓口があるようですね。

で、久しぶりに恋心が芽生えて(?)、今日は執着について少し書いてみようかと思い立ちました。

執着・・・男女関係や人間関係もさることながら、人は様々なものに執着しますね。
仕事、環境、考え方、やり方などなど。

何かに執着することがいいとか、悪いとかではないのですよ。
執着が問題になったときの事なのです。

執着は、動機を変えれば、同じ事をやってもコミットメント(深く本気で取り組むこと)になります。こだわりになります。
実は、この「動機を変えれば」がミソなのですね。

では、コミットメントと執着の動機の違いとは一体何なのでしょうか?

執着は、自分のニーズを満たすために誰かや何かにしがみつくことです。
ベースにあるのがニーズなのですね。満たされない気持ち(与えてもらっていない気持ちや自分自身でそれが手に入らない気持ち)が動機であれば、執着になります。
何かが不足している感覚ですから、それを手に入れようと必死になりますね。入らなかったらどうなっってしまうのだろう・・・と怖いわけです。
そして、それを満たすためにしがみついている状態です。
このとき、私たちはそのニーズが満たされない事を怖れて必死にしがみついています。両手でぐっと握りしめている状態ですね。「離すもんか!」という感じです。
もし、執着しているものが恋愛関係であれば、そんな「何かおくれ〜」と近づいてこられると、重く感じたり、あるいは怖くなってしまったりします。
殆どの場合、そんな関係というのはうまくいきませんよね。

一方、コミットメントやこだわりは、べったりとしたニーズが動機ではありません。
状況をみて、状況を考えて、或いは人間関係であれば相手の事をしっかりと思って行うものです。
自分の不足感を満たすためのものではないのですね。
だから、ある意味爽やかです。

コミットメントすることは一時的にとても苦しい状況を生むかも知れません。
場合によっては、成就しないかもしれません。

でも、自分のニーズを満たすことが目的ではないので、たとえ成就しなくても、その結果を容易に受け入れられるのですね。
これは、奪い取るニーズが動機ではなく、与えることが動機だからです。
両手は、常に暖かい感覚で満たされています。

さて、では執着を手放すには、一体どうすればいいのでしょうか?
なかなか難しいかも知れません。なぜならば、重たい自身のニーズが動機になっているからです。怖いからです。

でも、苦しみから脱却するには・・・先ずはそのニーズ、自分の不足感が自身を苦しめている事を認めてください。
そして、その執着している物事や、人間関係であれば相手を神様(神様がいるかどうかは別にして)に預ける事です。
この感覚が、執着を手放す感覚です。
委ねる感覚です。
そして、泣いてください。
ネガティブな感情は、感じると溶けてしまいます。場合によっては、誇張して感じて戴いた方がより効果があるかも知れません。

恋愛関係でご相談を受けるときなど、僕は
「執着を手放しましょう。でも、相手を愛することは構いませんよ。遠くから、相手の幸せを祈ってあげてください」
と言うことがあります。
それは、執着を手放すことが、自分の感情を切ったり、相手を恨んだり、悪者にしたりすることではなくて、相手の意志を受け入れたり、状況を受け入れたりすること、すなわち与えることや愛につながることだからです。
愛は、相手を見る事です。愛は、自分を認めることです。
これは、執着ではありませんよね。

執着を手放すと、今までしがみついていた両手が自由になります。
この自由になった両手で、幸せを是非掴みたいものですね。

酔っぱらいの戯言でした。










辛いとき、苦しいときこそ愛を選ぼう!

辛いときや苦しいときの対処法の一つです。
これも僕の経験的に楽になる方法なのですが、そんな時には、「愛を選ぼう」なのです。
愛・・・奥がとても深いですね。
愛って何?
人によってその答えは千差万別だと思います。
それぞれに、様々な愛の形、やり方があると思います。

では、僕が愛をどう考えているかというと、「相手の事を考える(相手を見る)」という事だと思っています。
辛くなっている原因の特定の誰かでも良いですし、自分の感情が動く誰かだったり、或いは、自分より痛みを抱えている誰かだったり、何処かの難民キャンプの子供達でもOKです。
これって、でもとても難しいですね。
正直、僕もまだまだその領域には達していません。

しかし、
「この人をどうやって愛してあげようか」
「この人はどんな気持ちなんだろう?」
「とっても、辛いよね。よく頑張っているよね」
そんな事を思っている時って、心がとても温かくなって、自分の痛みが消えるのですね。

「自分が辛いときに、そんなこと出来ない!」
そうだと思います。
でも、逆もまた真なりで、そんな時だからこそ、敢えてそうしようとしてみるのです。
そうすると、摩訶不思議、自分の痛みが無くなっていくのですね。

酔っぱらいの戯言でした。

楽になろう(^o^)〜自分を受け入れること〜

楽になる方法って、いくつもあると思うんですね。
例えば、どこかへ旅行に行ったり、友達と話しをしたり、美味しい物を食べたり、温泉に浸かったり、マッサージを受けたり、馬鹿騒ぎをしたり・・・。
どんな方法でも、気持ちを緩めることは出来ると思うのです。
でも、深刻さを持っていると、ともすればそれらの方法は、問題から逃げているような、問題に向き合っていないような感じがしてしまいますね。
その結果、楽にならないどころか、お先真っ暗という感じになってしまいます。

そんな時には、自分と向き合って自分を受け入れるという方法があります。
自分を受け入れるって、実は問題にはまっている時には一見、一番やりにくい方法なのですが、でも、先に書いたような方法では楽にならない人たちには適している方法なのかなぁと最近思っています。

では、自分を受け入れるとはどういうことかと言うと・・・

先ずは、自分が人間であって神様ではないと認めることなのです。
人間だから、何事も完全にはできないのです。
失敗もします。間違いもします。自分のことをついつい考えてしまいます。
人間とは、そのようなものなのです。

また、人は自分に対して優しく、人には厳しいという幻想を抱きがちです。
本当は反対で、多くの場合、人に優しく自分にとても厳しいことが多いのですが。

例えば、今、あなたが自分に対して何かハッパをかけていることがあったとしましょう。
「こんな事では駄目だ」とか、「もっと頑張らないと」とか「こんな事では幸せになれない」とか、人によって様々だと思いますが、そんな事です。
それを、仮に大親友の誰かに同じようにしてみたとしてください。
頑張って、頑張っている友人に、「まだまだ頑張らないと駄目だ!」と厳しく言ってみたとしてください。

そうしたら、果たしてどなんな状況になるでしょうか?
その大親友は、どんな気持ちになるでしょうか?

大親友は、あなたと決別するかも知れませんね。
大親友は、あなたをその辛さから攻撃するかも知れませんね。

こんなことを、私達は自分自身にしているのです。
どれほどご自身を酷く扱っていることか。

友人にはどんな風に声を掛けるでしょうか?
「十分に良くやってるよ。それは仕方ないんじゃない?」
とか
「まぁ、そんな事もあるけど、仕方ないんじゃない?」
とか、様々だと思いますが、その友人の事情を受け入れてあげる言葉ではないでしょうか?
もし仮に、そうでなくて「頑張れ!」という言葉を掛けるとしたら、それはシュチュエーションにもよるのですが、多くの場合あなたがとっても頑張っているということを現しています。

さて、神様ではない人間の自分は・・・
間違った事をやっても当然なのです。
人に迷惑をかけることもあるでしょう。
失敗することもあるでしょう。

人間とは、そのようなものなのです。
それは、決して重大な問題ではありません。
なぜならば、じゃぁ、それをどうしていこうかと取り組むことがとても重要だからです。
でも、ここで自分を責めているとそちらにばかりに気を取られてしまい、どう取り組むかに気が回りませんね。

繰り返しますが、間違う自分を責める事ではなく、そのようにしか出来なかった自分を先ずは受け止めて、では、どうするかということがとても大切なのです。

心のパターンで自分を責める「クセ」をお持ちの方もいらっしゃると思います。
でもそれって、冷静に考えて前に進まないですよね?
責めている時は、必ず時計が逆回りして、過去の自分を責める、換言すると、何かに執着しています。
執着とは、握って決して放さない事です。
過去の何かに囚われていることです。
自由が全くないですね。

だらだらと書いてしまいましたが、
人間は、間違う=自分は間違う
間違いは責めるものではなく、その都度訂正するもの
ということを受け入れて頂ければ、多くの方々に今の自分を受け入れて頂けるのではないでしょうか?

戯言でした。


問題を少しでも楽にするには・・・・

僕の経験からですが・・・。

問題を抱えているときって、その問題に対してすごくナーバスで、深刻に受け止めているのですよね。

そして、そのナーバスさが様々な問題を、余計な問題を、芋弦式に引き出してくる感じがします。

ナーバスになるには、ナーバスなる理由があると思います。

未来が見えていなかったり、怖かったり、自分が嫌だったり・・・問題によって、或いは同じ問題でも人によって様々なのですよね。

ここで、問題を見つめて「どうして私はこう感じるのだろう?」と深く掘り下げていくのも一つの方法ですし、それは行き着けば問題解決に対しては絶大なる効果があると思うのです。
問題に向き合おうと本当に決めさえすれば、それは自動的に問題解決に進んでいくのですが、様々な感情が出てきて辛かったり、辛いが故に感情を切り離してしまったり、「だってそうなんだもん!」と逃げを打ってしまったりしがちになります。
勿論、「本当に」決めさえすれば、それさえも自動的に乗り越えられていくのですが、場合によってはというか、ほとんど多くの場合「本当に」決めていても行き着くのに時間がかかりますね。

時間がかかるのが決して悪いわけではないと思うんです。
時間がかかる度合いだけ、怖かったり、辛かったりするのだから、そえれはそれで認めてあげる事が必要だと思うんです。これが、自分を本当に優しく扱う一つの例でもありますね。

でも、そこで焦りを作るより、自分を責めるより、とりあえず少しでも気持ちを軽くする方法だと思うのが、
「私はナーバスになる癖を持っているのだ」
と自覚する、認めることなのですね。
問題に浸り込んで、自分を見る癖(自分の痛みに入る癖)があるということを認識することですね。

自分自身が、
「また癖が出ている」
「そういうパターンなんだ」
と認めることです。
これを認めることで、本当に苦しい自分自身を責めることを回避することが出来るようになります。

これは一見、問題からの逃げにも思えてしまうかもしれませんね。
でも、真実はそうではありません。
なぜならば、自分を責めることは問題解決にはならないからです。
自分を責めることは、浸り込みなのです。

問題解決には、先ほど書きましたように「私は、どうしてこう感じるのだろう?」と自分のそう感じる「原点=思いこみや心の傷など」を辿っていくことなのですが、それは自分を責めることを求めている訳ではなく、むしろ真実を理解し、真実を受け入れる客観的な行動なのですね。

浸り込みと真実の追求を分離されると少しでも楽になれるのではないか、と思います。
そして、自分の浸り込みパターン(ちょっと言葉は厳しいですが)を受け入れることと真実の追究の2つを同時並行して行うことで、相乗的な効果があるのではないか、と僕は思うのです。

酔っぱらいの、戯言でした(笑)



楽になる方法〜まず今の自分を認めませんか?〜

問題を抱えたときには、深刻さと相まって、今の自分あるいは過去の自分を心のどこかで責めていることがとても多いですね。

「俺ってとんでもないことしたよなぁ」
「こうしようと思ったのに、そう出来てない」
「う〜ん、決められない」
「怖いよう〜」

その他にも問題のタネは尽きませんが、いずれにしても、どうやら、そうありたくない自分がそうなってしまっている事もとても辛い原因の一つなのですね。

まぁ、問題が問題を呼び込むというか、1つの問題を抱えることで、次々といくつもの問題を抱えてしまうことも多いようです。
そしてどんどん深みにはまっていく・・・・。

だとしたら、問題のわずか1つかも知れませんが、そして付随的な問題かも知れませんが、問題の1つでも手放した方がとても楽になりますよね。
そして深みから抜けるきっかけにされてはいかがでしょうか?

その筆頭に是非とも挙げて欲しいのが、この状態に陥っている、あるいは過去にその状態に陥ったということを責めることです。

とかく人間は、良いとか、悪いとかで「判断」をしてしまいます。
この判断があると、どちらかのカテゴリーに全てのことを押し込まざるを得なくなりますので、今の自分は「いい」か「悪い」に分類をせざるを得なくなるのですね。
問題を抱えている時にはとかく「悪い」と感じてしまいますから、何かにつけ「自分は悪い」というカテゴリーに押し込んでしまいます。

でもここで、ちょっと考えてみてください。

例えば、赤ちゃんの頃、我々は歩くこともままならず、お漏らしも結構したわけです。
「ママごめん、歩けなくて」
「ママ出ちゃった、ごめん」
と、赤ちゃんの時には言わないのですね。
赤ちゃんの時にはそれが仕方ないことであり、それが当たり前だった訳です。

時として我々は、自分がそうしてしまった事情というものを考えもせず、自分を責めてしまいます。
自分がそうせざるを得なかった事情や背景というものが必ず存在するのですが、それは考えもしないのですね。
まるで、赤ちゃんが
「ママ、歩けなくてゴメン」
と言っているようなものです。
歩けるようになった子供が、
「ママ、生まれたての頃に歩けなくてゴメンね」
と俯いているようなものです。

皆さんが抱える問題の背景には、きっと何らかの事情があったはずです。
それを横に置いておいて、自分を責めるのは、やめてみられたらいかがでしょうか?

もし、それを邪魔するものがあるとすれば、それはご自身がお持ちになっている「観念」や「ルール」といったものではないでしょうか?
「こうあるべき」「こうしなければいけない」というものですね。

「観念」や「ルール」は、親や兄弟、友達、先生など周りにいる人から教わったものかも知れませんし、色々な経験を通して自分自身で身につけたものかもわかりません。そして、それらは、かって自分を守ってくれたものかもしれません。
でも、我々は成長し、それらの観念やルールを見直す時期にきているのかもわかりません。
一般論になりますが、観念やルールは少なければ少ないほど、とても楽に生きていくことが出来ます。
また、人の心理として、自分の持っている観念やルールは自分を縛るだけでなく、誰かをも縛る道具になっています。

さて、少しでも抱えている荷物が減ったら、前に歩き出すことが出来ますね。

良い悪いはひとまず置いておいて、
今の、あるいは過去の自分を認めてあげること、そうするしか仕方なかったことを認めてあげることをお勧めします。

ビールを片手に戯言でした。



カウンセラーにできること

カウンセリングを受けられる皆さんは、カウンセリングに様々なものを期待されていると思います。

この期待は、人により様々だと思いますが、
・当面の問題を解決したい
・この問題に対して、どう行動したらいいかわからない
・自分の心の癖をなおしたい
・自分の内面を整理したい
などなどが代表的ではないかと思います。

さて、カウンセラーは何ができるのでしょうか?
カウンセラーができることは、僕の個人的な意見としては、
・気持ちを受け止めて、一緒に感じる(わかる)
・問題の根底にある心理パターンの気づきを与える
・問題の対処方法を心理学的な見地からお伝えする
・問題の奥に潜む傷ついた感情を癒すお手伝いをする
など、サポーター的な事ではないか、と思っています。

例えば、誰か好きな人がいて、その人に告白したいからと言われて、カウンセラーが直接その相手の人に告白することはできません。
もちろん、本人が告白するお手伝いをするサポートは、前述のごとくできますが、本人に成り代わって何かをすることはできないのですね。
だって、それって全く意味がありませんよね。
もしあなたが、告白代行業の人から告白されても、しらけてしまうと思いませんか?

だから、本人が意思を持ってやろうと決めないことには、やらないことには、物事は動かないのです。

ちょっと厳しく、無責任に感じる方もいらっしゃるかもしれません。
でも、そうなんです。

ちょっと下品な例になりますが、誰かのおしっこを代わりにしてあげられないのと同じなのですね。

「自己責任」という(厳しい)言葉があります。
自分が腹決めをしないと、物事は変わっていかないのです。
そのお手伝いは、様々な角度からします。
全力を尽くします。

今が苦しいから受け止めて欲しい、少しでも状況を変えたい、どうしたらいいのか指針が欲しい・・・などなど、自分が心地よく生きたいと少しでも思ったら、先ずはカウンセラーとコンタクトを取ってみてください。
スポーツジムに行ってみるような、映画を見に行ってみるような、そんな気軽な気持ちで勿論いいのです。カウンセラーは、それを受け止めます。

カウンセリングサービスには、多くの、様々な個性を持ったカウンセラーがいます。みんな、優秀だと僕は思っています。勿論、人間と人間ですから、相性はありますね。だから、色々なカウンセラーと話をしてみてください。
プロに限らず、ボランティアにもいいカウンセラーは一杯いますよ。

きっと、あなたの背中を押してくれるカウンセラーやカウンセリングが見つかると思います。

今日の戯言でした。

問題解決の第1歩

人は、みんな問題を抱えます。
だから、人間なのだと僕は思います。
問題がない、という人がいたとしたら、
それは、問題を感じないようにしているだけなのかもしれません。
それは、問題に気づいていないだけなのかもしれません。

問題の本質は、大雑握に言ってしまえば、執着です。
執着とは、正しさや、観念や、ルールなどです。

それはネガティブなものかもしれません。
それは、一見ポジティブなものかもしれません。

でも、仮にポジティブと感じられるものであったとしても、それは自分の執着なのです。
たとえば、誰かのためかもしれません。
たとえば、自分のためかもしれません。

やり方、考え方に固執しているのです。
そこから先に進む変化を怖れているのです。

問題があるとしたら、その下側には必ず、何か執着しているものがあります。

それに気づくことです。
そして、その執着を手放してみることです。
自分自身や今の状況の変化を望んでみることです。

これが、問題解決の第1歩かなぁ〜と。

戯言(たわごと)でした。









カウンセラーの気持ち

カウンセラーの気持ち、なんて大々的なタイトルを付けてしまいました(汗)
カウンセラー大谷の気持ちなのですが、たぶん、おそらく、いや絶対に、
ほとんどのカウンセラーの気持ちなのですが・・・。
ご相談いただくクライアントさんに、一杯、一杯お伝えしたい事があるのですね。

今は、何となくしかわからないことがあるかもしれません。
今は、腹がたつこともあるかもしれません。
今は、全くわからないことがあるかもしれません。

でも、できるだけ多くのことをお伝えしたいのですね。

カウンセラーが言ったかどうかわからない話でも、心のどこかに残っている事があったりします。
「私ね、これに気がついたんですよ!」
それでも、もちろん、OKなのです。

なぜならば、僕たちは、クライアントさんが楽になっていただくこと、楽しく人生を歩んでいただくことが願いですから。

そんな話を聞いたとき、僕の大きな喜びなのですね。

人の心は、人それぞれに様々な過程(プロセス)を歩みます。
心理学が統計的な学問と言われます。
それは物理の法則が単純ないくつかの法則に帰結するのと同じく、帰結する問題はいくつかしかないからです。
しかしながら、現実に生じる問題は、抱える問題は、多岐にわたっています。

目の前にある問題は、当事者からすれば迷路のように絶望的かもしれません。
でも、そこにある真実は、ごく限られたものでしかありません。

だから、乗り越えられるのです。
だから、カウンセラーはアドバイスができるのです。

問題を抱えること、問題に直面すること、それはもちろん辛いことです。
でも、それを乗り越える勇気を持ったとき、乗り越える選択をしたときに、
人はそれを自分が前進するための糧にできるのです。
人はそれをチャンスと受け取れるのです。

そうは思えないかもしれませんが、実はそうなのです。

そして、それをお手伝いするのが僕たちカウンセラーの喜びなのです。

戯言(たわごと)でした。











戯言〜怖れを正当化するもの達〜

人が、前に進む時、怖れを乗り越えている時だと思います。
怖れを乗り越える・・・怖いですね。
乗り越える事自体が怖い(>_<)
でも、怖れが怖れを作り出しているパラドクスに気づいてくださいね。
パラドクス、とは、換言すれば、迷路のようなものです。
怖れが怖れを作り出して循環していることに、気がついて欲しいんです。
我々は、この正体をエゴと呼びます。
(エゴについて知りたい方は、カウンセリングサービスのHPでの検索を使ってみてください。随分と書かれていると思います。)
怖れ=エゴを正当化するものは、山のようにあります。
ここにはまっていないか、要チェックですね!
例えば、思考=考える事。
「考える事」というと、全てが悪いようですが、そうでもありません。○か×しか存在しない世界ではないので。
論理的に考えて説明する事は必要な場合があります。特に仕事の上とか、相手に理解してもらうときには必要ですね。
でも、感情的な部分で、特に怖さから逃れようとする時に考えている事は、怖れを正当化するための事が多いですね。
彼が私の事が好きだったら、こういう行動をするはずがない、とか。考えてしまいます。だから、彼には告白しないでおこうとか。
これは、怖れを正当化することによって、行動を起こさないための理屈をつけているだけのことなんですね。
そんなこと、誰が決めたの?
人間は、傷つかないために、様々な理由を考えつきます。
考える事は防衛の一種になります。
かって、地雷原を歩いていた自分を想像してください。
何処に地雷があるか、統計的に、経験的に一生懸命考えている。
そして、結局、歩かないのが地雷を踏まない一番の方法だと・・・。
今いる場所が地雷原に見えるのは、傷付いた自分の投影(投影についてもカウンセリングサービスのHPの検索を使ってみてください)なのですが。
もう戦争は終わって、平和な世界なんですが、自分が戦争モードにいると、そうは見えない。攻撃される。そんな感じですね。
観念≒判断
観念は、大きな障害です。今までの経験や、様々な人から教えられた事がそのまま、「こうだ」という理解になっています。今まで自分を守ってくれた観念もあると思います。でも、もし、何か問題があるとすれば、この観念もチェックした方がいいと思います。観念は、自立的な人ほど強いように感じます。観念に基づいて、人は様々な判断を下します。そういう意味では、観念≒判断なんですね。
例えば、「人間とは、こうだ」とか「私がこう感じるから、人もこう感じているに違いない」とか。典型的なのは、男女間の問題ですね。女性が「こんなに表現しているに、彼はわかってくれない」なんて、日常的です。女性が、そんな事が・・・と思う事でも男性はわからない事多いですね。「男は泣いちゃだめ」とか、子供の頃からアンテナ鈍らされているから、感情はわからないし、とても恥ずかしい。だから、わからないし、わかっていても、恥ずかしさが邪魔して、逆の態度を取ったりします。まぁ、女性も「大好き」を「大嫌い!」と言ってみたりしますが。そういう意味では、「恥ずかしさ」も怖れを正当化しますね。
さてさて、これらを乗り越えて、自分の本当の気持ちとつながれると、いいですね。素直にね。
人は、どんな行動をとろうとも、基本的には、人と繋がりたい生き物、という観点で色々な人を見てみると面白いですよ。人の行動はバラバラ、現れ方は様々ですが、感情に着目すると、人の、そして自分の事がよく理解出来るのではないでしょうか?

カウンセリングって

感情を共有する事なんだぁな〜と思います。
時に一緒に怒ったり、時に一緒に涙を流したり。
基本はそうなんですね。
でもね、クライアントさんが見えてない事を言いたくなったりもします。
それは、時にクライアントさんを傷つけるかも知れませんね(>_<)
わかってくれてないとか、違うとか、クライアントさんの感性で捉えられるかも知れません。
でも、カウンセラーは、僕は、いつか思い出したりしてくれるのではないか、と思っています。
一番嬉しいのは、自分が自ら気がついたように、「こんなん事に気がつきました」といって頂ける事。
もう、随分前に、それは伝えてあった事なんです。
でも、その時は受け取れなかっただけなんですね。
それを受け取ってもらった時、僕たちカウンセラーは、クライアントさんがそこまで進まれた事、凄く嬉しいんです。
酔いどれカウンセラーの戯言でした。

戯言〜人を見る〜

人を見る事、できたらいいなぁ〜と思います。
自分の痛みに入らずに、人の事を見る事。

人間は、ついつい、自分を見たり、自分の痛みを見たりしますね。
それも、仕方ない。
だって、自信がなかったり、傷ついていたり。
余裕ないんですもんね。

でもね、人の気持ちや、贈ってくれているエール、感じられたらいいですね。
そうすると、俯いて自分ばかりを見ていた顔を上げる事が出来ますね。

そんなとき、すっ〜と、暖かい気持ちになりますよ。
自分の存在意義を感じたり、自分の価値を認められたり。
許しの瞬間ですね(^_^)v


戯言〜怖れ〜

怖れは、我々の前進を阻む。
怖れは、ときに我々が怖れと気づかない方法で我々に近づき、寄り添っている。
怖れを発見するいい方法の一つは、どうしてそう感じるのか自問自答を繰り返すことだ。

戯言〜問題〜

問題は、学びのチャンス。
人は、問題があって初めてそれに真剣に向き合う。
人は、真剣に向き合って初めて学ぶ。
人は、学ぶことにより成長できる。
人は、成長の結果、その問題に隠されていたギフトを受け取り、そして才能を開花させる。
だから、問題は学びのチャンス。

戯言〜人間嫌い〜

人が好きだと感じるとき、暖かい気持ちになれる。
人が嫌いだと思うとき、嫌な気持ちになる。
人が、誰かが、嫌いな人って、きっといつも嫌な気持ちなんだろう、と思う。

戯言〜アンカー〜

人は、過ぎ去った心の痛みにアンカー(錨)を打ち込んでいる。
そしてそのことを無意識に葬り去って、今の問題に直面している。
そのまま前に進もうとすると、葬り去ったはずのアンカーに連れ戻される。
しかし、アンカーを抜きさえすれば、流れは自然と前に運んでいってくれる。

戯言〜癒し〜

自分の心の中で、自分を責めているときに痛みが起きる。
それは、自分自身を直接的に責めているかもしれないし、誰かを使って間接的に責めているかも知れない。
一方、癒しが起きると、心の痛みが溶けていく。
だから、癒しとは、許し。

戯言〜神と人間〜

人間は誰しも、神ではない。
人間の人間たる所以は、間違いを犯すことだ。
そして間違いは、それにこだわらず、ただ訂正すればそれだけでいい。
自分の、あるいは誰かの間違いにこだわったときに、それは問題と化す。

戯言〜気づき〜

気づきは、その扉を大きく開いて、あちこちに散りばめられている。
ただその扉は、予めそのありかを知っていたにもかかわらず、必要なときに偶然を装って見えるようになる。
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