東北地方太平洋沖地震に思う(2)〜「喪失」と「自我」の「抵抗」〜

東北・関東地方で被災された方、また、被災地に親族、友人、知人がおられて心を痛めていらっしゃる方も大ぜいおられると思います。心からお見舞い申し上げます。間接的に、不便を被っている方、怒りや落ち込みといったネガティブな気持ちを感じている方もおられるでしょう。心からお見舞い申し上げます。

私は、東京都心に暮らしていて、今回の一連の地震の揺れの大きさや刻々と変わる原発の状態に動揺してはいるけれど、実際のところ被害はなく、輪番停電による通勤の不便もない、比較的安全で守られた環境にいます。そして、そのことに深く感謝しています。

そんな恵まれたところにいる私が、自分の心の内側をつぶやくことは、はばかられるのではないかという思いもあるけれど、私と同じように、被災なく、でも、事の大きさに動揺している方もおいでかもしれません。そんな方たちと、自分の感じていることを分かち合うことで、この混乱の中でも、少しでも落ち着いて、本来の、自分らしい在り方を見つけていきたいと思います。

TVに映し出される被災者の姿に私が感じるのは、「喪失」の痛みです。もちろん、実際に災害に遭遇した方たちの痛みがわかるわけではありません。痛みのマグニチュードが全く違いますから。でも、一瞬のうちに、それまで積み上げてきたもの、大切にしてきたものが、何か大きな力によって木端微塵にされてしまう、完全に失ってしまうことの、たまらない恐怖や、どうしようもない怒り、こみあげてくる悲しみ、そして、何ともいえない空っぽな感じがして、沈み込みたくなります。

でも、底の見える米びつを思い出し、自分を励ますようにスーパーに行くと、そこには呆気にとられる光景があるわけです。被災地でもないのに、まるで強盗にでも襲われたかのように空っぽの棚、棚、棚。牛乳、卵、水。ここはまだわかる。乾電池、これも仕方ないかもしれない。備えあれば憂いなし、と言うから。でも、普段、4割引、5割引でも在庫がさばけていないような冷凍食品やスナック菓子もきれいスッカリなくなるのか。節電で暗くした店内のスカスカの棚が、被災地でないだけに、よけいにコワい。

東京は、官庁や企業の本部が集中している政治・経済の中枢で、この街の機能が失われると日本の国としての機能がマヒします。だからこそ、電気でも水道でも、通信網においても、日本のどこよりもライフラインという点で、これまでも、今も、優遇されています。確かに、東京は、もはや、モノを生み出し、作り出す場所ではなくなっているかもしれません。だから、流通が滞るとすぐにモノ不足に陥るという構造になっているかもしれません。でもね、自前でヘリも動かせて、3日以内に物資を運び込めるような流通大手のおひざ元です。調達力のある外食チェーンの本部も数多くあります。なのに、そこに暮らす人々は、普段、あまり気に留めていないものまで買い込まないといられないみたい。値段を下げても売れ残るパン屋の棚も空っぽ。いつもお願いしている米屋の女将さんも、「今日はね、すごいのよ」と苦笑い。八百屋のお姉さんも、「ちょっとみんな分け合おうよ」とボヤく。

こうしたちょっとパニック的な行動を、
「衝動的だ」、
「自己チュー」、
と批判したくなるのですが、買いダメしたくなる気持ちを考えてみると、
「自分や家族を守りたい」という切羽詰まった気持ちが見えてきます。

地震や津波という巨大な力の前に、一瞬にして大切なものを「喪失」してしまう様子に、今、誰しも、大きく傷ついているはずなのです。そんなとてつもない、怖ろしい力から、必死に自分と家族を守ろうとスーパーでトイレットペーパーや食料品を買い漁るちっぽけな「自我(エゴ)」。過剰防衛かもしれないけど、コントロール不能な力に対する精一杯の「抵抗」なのかもしれません。

「自分と家族を守りたい」気持ちが悪いわけではありません。当然の想いです。

そして、そんな「自我(エゴ)」の想いこそ、まさに、今、必死で、福島の原発を最悪の事態から守ろうという力の元になっているに違いないのです。

だからこそ、「自我」が守りたい「自分と家族」の中に、どれだけ多くの人を含めて考えられるか、ということが大事なのかもしれません。

まだ、私も、今回の災害をどう受け止めたらいいのかわからずにいます。
ただ、原発の非常事態を引き起こしたのが、津波という形の「海」だとすれば、今、炉心を冷却するのに私たちが頼っているのも同じ「海」の水だ、ということから、学べることがあるのではないかと思っています。



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