東北地方太平洋沖地震に思う(5)〜「怒り」を抱きしめて〜

東北地方太平洋沖地震に思う(5)〜「怒り」を抱きしめて〜

東北地方の巨大地震から10日が経ちました。被災地の惨状は、生存者の生の声が届くようになって、より現実味をもって感じられている方も多いのではないでしょうか。福島原発の事故は、最悪の事態を防ぐための必死の努力が続けられています。私が住む東京でも、いつもは賑やかなデバートやファッションビルが、明かりを落とし、休む店内店舗もあるところを歯っかけ状態で営業していて、嫌でも今が「非常時」なのだ、と知ることになります。

そんな中、記者会見で質問する記者の言葉の端々に、あるいはtwitterで見るtweetの中にも、攻撃的なニュアンスが交ることが多くなっているように思います。空気中にも、イライラが漂っているような、そんな感覚がするのですが、私の気のせいでしょうか。

「こんなに頑張っているのに、どうにもならない」
「どうしてこんなに理不尽なことばかりが起こるのだろう」
「頑張っても甲斐がないではないか」
「どうして誰も助けてくれないのだろう」
「いつも自分ばかりが損をしているような気がする」

言葉にしてみると、こんな気持ちでしょうか。
「頑張ったのに」「頑張っているのに」。でも、「助けてくれないのか」。
「頑張ったのに」何も変わらない悲しみ、無力感、そして、怒り。
どうしようもなく「悔しい」。

いっぱい昔の、「頑張ったのに、思い通りにいかなかった」「大事にしてもらえなかった」「理不尽な扱いをされた」記憶のボタンが押され、もうすっかり忘れたはずの痛みが湧きあがってきます。そのエネルギーの大きさに、びっくり、そしてがっかりします、

「もう、乗り越えたと思ったのに」と。

でも、「怒りを感じられるほど成熟しましょう」と、私は心理学から学びました。どんな感情も存在していい、どんな感情もOKなのだ、と。だから、このイラつきも、狂い立つような怒りも、静かな、凍りついたような怒りも、OKなはず。

「怒り」の感情にとりつかれるのではなく、自分からすすんで「怒り」の中に入っていきます。いったい私は何に「怒っている」のだろう?

そこには、「自分の思い通りにならない」「コントロールできない」と怒り狂っている私(「自我(エゴ)」)がいます。

そして、「コントロールできない」不甲斐ない「自我(エゴ)」を「情けない」「みっともない」「だらしがない」と冷たく糾弾する私(「(超)自我」が、「怒り」に追い打ちをかけます。

そうでなくても「思い通りにならない」ことで、傷ついて、怒っている「私」は、もう一人の「私」に厳しく存在価値を否定されて、ますます孤独になり、「今に見てろ!」と復讐を誓う勢いです。

でも、きっとそれは違うのだろうな、と怒りながらも思う私もいます。

「自分の思い通りになる」「コントロールできる」なら、私(「自我(エゴ)」)は安心できる。安心したいから「コントロール」したい。「コントロールできない」自分は、大嫌い。自分に嫌われた「私」は、もっと孤独で不安になる。その不安がさらに怖れを煽る。でも、「コントロール」できない。雪だるま式に不安が大きくなることにまた怒りがこみあげる。

本当は、信頼できる「大丈夫だよ」の一言が欲しいだけ。
「大丈夫」と言って、安心させて欲しい。

たくさんの人が、いろんな「大丈夫」を言ってくれているけれど、額面どおりに受け取れない。何を信頼していいのかわからない。だから、まわりに「大丈夫」はあるかもしれないけれど、やっぱり受け取れない。

「安心」を探しているのに、「安心」が手に入らないから、怒っているのか。

こんなとき、「不安」なのは当たり前だから、「不安」でもいいのです。
イライラするのもわかります。怒りたくなるのもわかります。
「コントロールしたい」と思うのもわかります。
「コントロールしたい」のにできないと悔しいのもわかります。
だから、そんな「不安」でしかたがない「私」にOKと言ってみます。
「安心」が手に入らないって怒り狂っている「私」を抱きしめてみます。

こんなときだからこそ、「私」は「私」の味方でいよう、と思います。





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