◆大下達也

◇こちらは心理カウンセラー達が作る癒し系サイト「カウンセリングサービス」のカウンセラーのプロフィールページです。
カウンセリングサービス所属カウンセラー。
名古屋地区担当 おおしたたつや 

穏やかな物腰と声の響きから「話すだけで落ち着く」と定評がある。
状況や解説を理解しやすくする的確な比喩表現と、公平な視点に立ちながらお客様のぺースや意見を尊重するカウンセリングスタイルにより、
「状況が整理できてすっきりした」「話したいだけ話せて満足」「何とかなるような気持ちになった」とのお声をいただいている。

昭和51(1976)年生まれ、未婚、趣味は合気道
女系家族の長男として育ったため男女双方の心理に明るい

○得意分野
・自分自身のやりたいことや生き方の発掘
・見失ってしまった自己の探求
・夫婦や恋人との対等な関係構築
・職場での対人ストレスの改善 など

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 自己概念のお話にもなりますが、私が20代だった頃には「自分探し」なんて言葉がありました。

 本当の自分とはどんな人間なのか?

 それを知りたくて色々なことをやってみたり、あちこち旅行に行ってみたり、なんてことをするわけです。
 旅行雑誌とかの表紙にもよくそういう特集記事のタイトルが書いてあったように思います。

 そして迷走することも・・・


 それはそれとして、それでは本当の自分とはどんな自分でしょう?

 今までも何度か書いているテーマではありますが、一つの見方として、それは良くも悪くも「自分が納得できる自分」ということができるのではないかと思います。

 つまりは自分が持っている自己概念に一致する自分です。

 何しろ「これだ!」と思うときというのは納得感があるものだと思うのです。

 何故だか説明はできなくとも、とても納得できる

 その納得感こそが大切なのだと思います。
 そして、納得感があるということは、自分の価値観や観念に一致しているということではないでしょうか。

 例えば、自分が良かれと思ってやったことを誰かに批難されたら、納得できませんよね。
 でも、そこに自分も理解できて筋が通っていると感じる理由があれば納得できたりします。

 それは、自分の価値観や観念に一致すると理解できたからです。


 そうすると、本当の自分というのはつまるところ、自分自身が常日頃から思っている自分像を感じられたときに「見つけた気がする」のかも知れません。

 ということは、です。

 本当の自分も結局のところは自分自身で選んでいるということになるのではないでしょうか。

 私達は人格や価値観の形成に遺伝や育生環境による影響をとても強く受けます。
 が、それぞれに意志もあり、親兄弟とは違う人生があり、その過程で人格も価値観も変わっていきます。

 そして、いつの間にか変わってしまうこともあれば、意志の力で変えていくこともできます。

 だからこそ、本当の自分を選んでいけるのです。


 ということで、タイトルのお話です。

 私達は何になるかを選ぶことができ、何にでもなることができます。
 もちろん、何になろうとするかで難易度は異なるでしょうが、なろうとすることに制限はありません。

 また、一度目指した自分になれなかったとしても、改めて選び直すことはいつでも可能です。

 が、ここにとても大きな問題があります。

 私達の時間は有限で、私達の心も身体も一つしかなく、手が届く範囲は限られていることです。


 服に例えましょう。

 どんなデザインで、どんな素材で、どんな色の服を身にまとうか。
 それは選ぶことができます。

 しかし、同時に身にまとうことができる服の数や種類には限りがあります

 例えば、身につける服の色は3,4色が限度だと言われています。
 それ以上はまとまりが悪くなって、見た目に落ち着かないものになってしまうのです。

 また、キレイめのカシミアコートと防寒性能に優れたダウンを着て、その下にはウールとデニムのジャケットを1枚ずつ、更にそのしたにコーデュロイのシャツとネルシャツと・・・なんて風にひたすら着込んでいくのも無理があります。

 だからこそ、今日は何を着るのか選ぶことがとても大切になってきます。

 もちろん、明日は明日で別の服を着ればいいでしょう。
 明後日は更にまた別のもの。

 でも、同時に全ては着られないのです。

 今日は何を着るのか、選んでいきましょう。


 そして、同じくこの人生では何を選びましょうか?

 日常にある問題を解決するためのアプローチとしてに注目することがあります。

 私達の言動は自分自身が持つ観念に従っていますが、同時にそこには何らかの感情が関係しているからです。

 単純な話では、楽しいことや嬉しいことは好きなことや正しいこととなり、嫌なことや退屈なことは嫌いな事や間違ったことになります。

 しかし、そうも言っていられないのが世の中なので、時には自分にとって嫌なことが社会的には正しいとか、退屈でつまらないことでも誰かの評価を得るためにはコツコツ積み重ねていくしかないこともあります。

 そうこうしていると、知らず知らずのうちにある種の感情がどこかへ追いやられていきます

 例えば、退屈な作業を退屈だと感じながら続けるのはとても辛いので、退屈さを感じないほど集中してその作業のことだけを考えるようになったり。
 好きになれるタイプの人ではないけれど付き合いも大切だからと、心を無にして友好的な接し方をしてみたり。

 ただ、そうこうしていると退屈という感覚や嫌いという感覚がなくなっていきます。
 そして、対比する概念の片方が消えると、少しずつもう片方も消えていきます

 嫌いを感じないようにどこかへ追いやっていくと、好きを感じることに近付くのは悪いことのように感じたり。
 好きなことの後で嫌いなことに再び関わるとなると憂鬱さも増してくるので、そもそも好きなことにも関わらず無心の状態を維持できるように頑張ったり。

 その結果として嫌いも好きも忘れ楽しいも退屈も忘れ何も感じず淡々と日常的な作業をこなす・・・ようになってしまいます。


 そうなってしまうと、そこでは様々な問題が発生してきます。

 その問題の中の一つに「抑圧している感情を刺激するものには関わりたくなくなる」というものがあります。

 これの何が問題かと言えば、例えば退屈さを感じるものにも楽しさを感じるものにも近付きたくなくなるので、ある面では何もしたくなくなるのです。
 何もかもどうでもよくて、5年後や10年後どころか今日の夕飯ですらどうでもいい、とか。

 ひたすら現状維持することで感情の封印が解けないようにしているわけですね。


 そこからは「自分にとっての楽しさや嬉しさを探していきましょう」的なお話になっていくわけですが、この試みは上に書いたように「近付きたくない」の心理も強く働くので上手くいかないことも多いようです。

 何しろ「それ」がどこにあるかを何となく感じていますから、近付くようなことは考えたくもないのです。

 でも、本来であれば楽しいことや嬉しいことには近付きたいものです。
 好きなものは好きとして、思い切り味わいたいのが人情というものです。

 確かに、残念ながら世の中には、それが制限されたり、場合によっては叶わず悲しさに変わる場合もありますが、できることなら近付きたいとも思うものでしょう。

 しかし、この抑圧が強い状態になってしまうと好きなことや嬉しいことにすら近付きたくなくなるようです。
 何故でしょうか?

 それは、「本当はそこにある」と知っている「それ」が好き嬉しいではないからです。

 では何があるのでしょうか?

 想像してみてください。

 あなたがもの凄く楽しみにしている予定があったとしましょう。
 それが直前になって完全に誰か他人の都合で潰れたとしたら。

 何を感じますか?

我慢した分だけ次の機会は嬉しさが大きくなるわ~
 と素直に思える人はそうそういないようです。

 ということは、です。

 退屈を抑圧してきたなら、その退屈さや、退屈さを感じそうなことに近付くと怒り悲しみも出てくるでしょう。
 でも、同じように楽しさを抑圧してきたなら、楽しさを感じそうなことにも怒りや悲しみが出てくるのです。
 そう、本当は怒り悲しさそこにあると知っているから何もかもを抑圧しているのです


 ということで。
 好きも嫌いも分からなくなったとき。

 もしかしたら、好きや嫌いに触れる前に怒りや悲しみに触れていく必要があるかも知れませんね。


 あまりあれこれと考え込まずに行動に出ることが必要な場合は多くありますが、時には立ち止まって考えることが必要になる場合もあります。

 例えば、何度も挑戦して頑張っているけれど上手くいかないとき。

 そんな時は挑戦することこそが自分の傷を増やし、自分自身への評価を下げる原因となってしまったりもします。
 そして、その状態が続くと気力が切れた途端に燃え尽きてしまうこともあります。


 物事が上手くいかないとき。
 そこには必ず何らかの原因や理由があります。

 それは環境の問題かも知れませんし、やり方の問題かも知れませんし、心理的な抵抗感や罪悪感がどうこうという問題かもしれませんし、その先に見ている将来像への期待感の問題かも知れません。

 ただ、どんな原因や理由があるにせよ、何度か挑戦しても上手くいかないなら、立ち止まってその対策を改めて考えることも必要だと思います。

 何故なら、人は時に、挑戦しつづけることや動き続けることで自分の無力感や無価値感など、自分自身への否定的な観念から目を背けようとすることがあるからです。

 しかし、そんなときほど頑張っても上手くいかないことが多いようです。

 あくまでも一つの例ですが、そんなときは心のどこかで「上手くいかないことを信じている」ようです。
 そして、上手くやる能力のない自分に直面することを恐れて動き続け、疲労していくという悪循環にはまりこんでしまいます。


 その観念や恐れはある面では正しいのです。

 過去のどこかで上手くいかず、とても悔しい思いをしたこと。
 そして、今もまた上手くいかないこと。

 この点で考えれば、正しいと言えます。

 ただし、別のある面では明らかに間違っています

 それは上手くいかなかったのは過去のどこかであり、今の自分ではなかったこと。
 そして、今もまた上手くいかないのはやり方や考え方などある種の手法の問題であり、自分自身の価値や能力とは必ずしも一致しないということ。

 例えば、誰かや何かから知識や考え方を取り入れることで流れが変わる可能性は十分にあるのです。

 しかし、懸命に頑張っているときほど上手くやるための情報もあれこれと探すものですが、懸命にやっているが故に自分の価値観の範囲を出ることが難しくなります。

 一生懸命になっているときはどうしても集中する分だけ視野が狭くなるものです。
 だからこそ、強い勢い突破力が生まれたりもしますし、閉まりかけたドアをすり抜けることだってできるようになります。

 しかし、そこで上手くいかずぶつかってしまったなら、その集中や一生懸命さこそが自らを傷付けることもあるのです。


 だからこそ、時には立ち止まってみましょう。

 マナーの問題は置いておいて、駆け込み乗車が必要なときもあります。
 が、それは危険も伴います

 時には一度立ち止まって、深呼吸をして、次の電車を待ってみましょう
 そして、周囲の人達にネタを求めてみましょう。

 それが新しい流れに繋がって行くかも知れません。


 ここ数日の名古屋は日差しが妙に暖かいように思います。

 日の光にあたっているととても暖かいのですが、だからといって油断していると物陰に入った途端に寒くなったり、日が落ちた途端に冷え込んだり

 油断は禁物なようです。


 さて、それではタイトルの通りですが、成熟さってなんでしょう?

 我々がお話する中でもたまに成熟さをもつことがどうこうなんて言葉がでてきたりもします。

 その成熟さって何でしょう?

 これは時と場合によって色々な見方があると思います。

 どれだけ寝かせておいたかとか、どれだけ発酵が進んでいるかとか、何年モノの問題かとか・・・は熟成具合なので別問題です。

 そうではなく、時には自分の怒り悲しみなどのネガティブな感情を誰かに言葉で表現できることであったり、セクシャルな話を大切な人と真剣に話し合えることであったり。
 自分が選んだ結果が上手くいかなかったとしても次に希望を持って向かえることだったり、自分の非を認めて謝ることだったり、逆に自分の意見を曲げずに行動することであったり。

 そういった色々ある見方の一つとして、今回は「善意や愛情からの言動だと解釈できること」について書いてみたいと思います。


 誰かの言動が善意や愛情からのものだと解釈できること。

 これは「何もかもを善意や愛情だと思え」ということではありません
 それこそ本人にとっては「善意や愛情の表現」だとしても犯罪になってしまうことだって世の中にはありますから。

 ただ、「嫌味か?」と思うようなことを「嫌味」と捉えず、「悪気はないのかも知れない」と捉えてみる。
 他にも「冷たい」とか「不親切だ」と感じるところを「相手の都合もあるから」と考えてみる。

 それこそ、もし相手が嫌味や意地悪のつもりでやっていたとしても、です。


 ただ、これには少しコツも必要なようです。

 その一つとして「相手の都合」を許していること。

 それは「相手には相手の都合があるのだから」という捉え方です。
 そこから、「だから自分に悪意があるわけではない」と考えたり、「それぞれがそれぞれの都合に合わせて行動するのは大切なこと」だと思ってみたり。

 これは裏を返せば、自分自身にも同じことを許せているかが大切になります。

 例えば、口下手であったり、言葉が足りなくて、ともすれば無愛想な人や冷たい人として扱われてしまう自分を許せているか。
「私は別に悪気があってやっているわけじゃない。・・・ただ、自分でも下手だとは思う。だから、少しずつでも優しい言葉を増やしていけたらいいな」というように。

 例えば、自分一人だけの予定に合わせて残業や何かのお誘いを断ったりできるか。
「(今日は帰ってビールを飲みながらあの番組を見ると決めているから)すみませんが、今日は用事があるので帰ります!」とか。

 人は自分が禁止していることには攻撃的な反応冷たい反応返しやすくなるところがあります。

 自分が禁止していることを誰かがやっているとイラッとして攻撃的になったり、そういう気持ちを強く抑えて平静を装った結果として冷たくなったり。

 そのため、自分自身に許可が出ていることはとても重要になってきます。

 また、そうして自分に許可が出て、誰かの言動も同じく許せるようになってくると、自分が誰かに対して怒りなどを持たなくなるため、自分が誰かを怒らせるとか嫌われるという恐れも少しずつ小さくなってきます。

 その分だけ、善意や愛情からのものと解釈しやすくなるでしょう。

 ということで、成熟さへ続く道は自分に選択権を認める道自分を許していく道ではないかなと思います。


 さて、それでは過去のどこかで、実際に誰かからの悪意や敵意で傷付いて警戒心が強くなった場合はどうでしょうか?
 この場合は上に書いたことをやろうにも前提条件が違うのでなかなか上手くいかないかも知れません。

 頭では分かっているけれど、どうしても行動に移すのが怖い

 そんな場合も多いようです。

 しかし、それでも先ず自分を許していくことから始める点は同じです。

 その恐がっている自分を許していくこと。
 そして、先ほどとは逆に「あの時の人はその人の都合があったにせよ、確かに意地悪だったかも知れない。」と当時のその誰かに対して自分が感じていた印象を肯定しつつ、少しずつ、今、自分の周りに居る人達との違いを探していきましょう。

 その違いが見つかるほど「別の人」とか「違う状況」という認識が強くなり、警戒心が少しずつ薄まって、気持ちも楽になってくると思います。

 今回は完全に捉え方や感覚のお話です。
 なので、分かりづらかったら申し訳ありません。

 さて、時に気持ちが行き場を無くしてしまうことがあります。

 例えば、不本意ながらパートナーシップが終わりを迎えてしまったとき。
 愛おしさの記憶と愛情が行き場を失ってしまいます。

 そして、多くの場合、最後の悲しさの記憶だけが強く印象に残ってしまったりするようです。

 そのため、カウンセリングではその悲しさや辛さを手放していきましょう的なアプローチをとったりもします。


 ただ、それに伴い、その愛おしさの記憶の扱いに困ることがあります。

 悲しさや辛さを手放すにあたって、ある時点での幸せな記憶はどうすればいいのか?

 持ち続けると次のパートナーシップに進めない気がする
 でも、捨てるのも忍びない

 次のパートナーシップが始まってしまえば少しずつ新しい幸せや愛おしさが増えて、その過去の記憶は薄れていくのかも知れません。
 でも、その次が始まるまでは?

 パートナーシップに限らず、例えば何か目指していた目標を諦めることになったときなどもそうです。

 頑張っていた自分と意欲に溢れていた頃の感覚と記憶。

 それはどうすればいいのでしょうか?


 そういった気持ちは時に弔う必要があるのではないかと思います。

 弔いというのは、これからも生きて進んでいくために気持ちを整理して区切りをつけることでもあります。

 そして、多くの場合、失われたものがただ安らかであるように祈ります。

 心理的に身も蓋もないことを言ってしまうならば、それは失われたものが安らかであるようにと祈り、安らかであるだろうと思うことで、言い換えれば「これも一つの形であって、必ずしも悪いことや不幸なことではないのだ」と捉えることで、自分が抱えてしまった無力感や罪悪感を手放していくことです。


 同じ事は気持ちや記憶にも言えるのではないかと思います。

 例えば、パートナーシップが終わりを迎え、気持ちが行き場を無くし、想いの置き場が無くなってしまったなら。

 そんな時は終わりを迎えた今にその想いを止めるのではなく、例えば過去のある時点、幸せだった時に、気持ちと記憶を置いてみましょう。
 ある時点で感じていた幸せや愛おしさと、その時の記憶が、「これからもずっと一緒に、安らかに穏やかに眠り続けるように」祈ってみましょう。

 これは、ある面では当時の自分や一緒にいた人に対する肯定と承認でもあります。
 また、表現を変えるなら、過去のある時点での気持ちと記憶が、いつまでもその時点での気持ちと記憶としてあり続けることを許すということでもあります。

 もしかしたら、それだけでも何かが変わり始めるかも知れません。


 ということで、夜中にふと思い至った一つの考え方でした。

 それでは皆さま。

 困ったときの神頼みってやったことありますか?
 普段は全然信じてないけど、もう神様とか仏様に祈るしかないってあれです。

 困ってなくても初詣などで願掛けをする人は多いようなので、意外と何かに祈ったり願ったりするという概念は根強くあるのかも知れません。


 さて、その祈ったり願ったりですが、今回はそれの善し悪しや実行性はおいておきましょう。

 ただ、とても自立的な人ほど、この何かに祈るとか願うということが苦手で、どうにかして自分自身の力で物事をどうにかしたいと思うようです。

 例えば、ある人は何も深く考えず気軽に「○○になれますように!」とか「この願いが叶いますように!」と祈れることすら「馬鹿馬鹿しい・・・」と、とても強い拒否感や、場合によっては忌避感、つまりは絶対にしてはならないような忌むべき事のように感じてしまうこともあるようです。

 そこまで強い拒否感を示してしまうということは、心理的に見れば、その人がその事で酷く傷付いたことがあると見ることができます。
 それはつまり、もしかしたら、どこかで本当に神様にお願いするくらいしかないほど苦しいことや悲しいことがあって、願い続けたけれど結局叶わなかったのかも知れません。

 それはとても辛い体験だったのでしょう。

 もちろん、心理的に見れば祈ったから叶うとか、願うから叶うということはありません

 ただ、祈ったり願ったりできるほど、単純に素直に欲しがることができるほど、その対象に近付くことへの抵抗感も低くなりますから、叶いやすくなることはあるかも知れません。

 逆に祈ったり願ったりすることにすら抵抗があるなら。

 それこそ初詣に行って神様や仏様に何を願ったところで自分が誰かに話さなければ誰にも内容を知られることはありません。
 が、そうやって誰にも知られず願うことすら抵抗があるなら、他人に対してその願いを向けることができるでしょうか?

 人が何かを成し遂げていこうと思った時には人と協力していくほうが良いことは沢山ありますよね。


 それでは、本題です。

 そんな困った時こそ神頼みです!

 神様にでも仏様にでも頼んでみましょう。

 ちなみに、宗教的なお話ではなく心理的なお話です。

 何が?どこが?というか何を頼めと?

 とか思いませんか?
 以前の私なら絶対思います!

 まず、何を頼むか?
 何か自分が成し遂げたいと思っていることや欲しいと思っていることの成就ではありません

 自分が抱えている助けてもらえなかった怒りや、思い通りにいかない苦しさ、理解してもらえない悲しさなどなどのネガティブな感情が鎮まることをです。

 日本の神道に和魂と荒魂という概念があります。
 ここは宗教的な概念のお話なので簡略化しますが、単純に言えばある神様の恩恵災害です。
 で、和魂を奉って恩恵が長く続くように祈り、同じく荒魂も奉って災害が起こらぬよう鎮めるのです。

 その荒魂の傍らに自分の怒りや苦しさ、悲しさを置いてもらいましょう。
 で、一緒に鎮めてもらいましょう

 いっそ神社のそういう社に行ってお願いしてみるのもいいかも知れませんね。


 さて、これだけだと信仰のお話になってしまうので、心理的なお話も混ぜておきましょう。

 人の心の不思議ですが、出せない気持ちは溜まっていきますが、それが例えイメージだけだとしても、どこかで出せるとその分だけ解消されるところがあります。
 例えば、とても辛い時期には空想の世界が救いになったりするのもそうです。

 なので、自分ではどう解決していいのか分からない、抜け道の見つからない怒りや悲しさを、何か、例えば神様などの「人間より偉大なもの」という概念に預けてしまうことができると、それだけで少し感覚が変わったりするところがあります。

 また、仮に過去のどこかで何かに祈るしかなくて、でも叶わなくて・・・という思いがあるなら、そこにはとても強い怒りや悲しみがあることでしょう。
 なので、その怒りや悲しみの責任をとってもらうだけです。

 その上で、自分が欲しいものや叶えたいことは自分自身の手で掴みましょう

 そのほうが嬉しさも喜びも大きくなるものですから。

 これも人の心の傾向ですが、それこそ神様や仏様に頼んで叶ったと感じるより、自分で手にしたと思うほうが喜びは大きくなるようです。
 それは自分の影響力を実感できているためです。

 誰しも自分の影響力は実感したいようです。
 褒めたり感謝したりすることが誰かとの関係をより良くすることにもこの心理は働いています。


 ということで、その一歩として、困ったときくらいは神頼みもいいのではないでしょうか。
 と、初詣での願掛けとかくだらないと心底思うタイプだった私は思うわけです。

 この記事をお読みのあなたは如何でしょうか?

 皆さんが思春期の頃。
 思い描いていた将来の夢ってどんなものでしたか?

 そして、その夢はどうなりましたか?

 まだその夢に向かっている途中という人も居れば、どこかで別の道に進んだ人もいるかと思います。
 それぞれに、それぞれの状況や理由があることでしょう。


 それでは、その夢を描いた理由は何だったでしょう?

 例えば、自分にはそれくらいしかないと思った、なんて場合もあるでしょう。
 が、ここで重要なことは、他に選択肢があったかどうかではなく、何故それだったのか、です。


 私の場合であれば・・・私はゲームを作りたいと思っていました。
 特に今で言うオンラインのRPGを作りたかったのです。

 切欠は小学生だったか中学生だったか、とあるアクションゲームを始めてプレイしたときに「これを多人数で、それぞれが好きなキャラクターを操作して、一緒にやれたら面白いだろうな~」と思ったからです。

 結局、その夢にはまったく手が届かずでしたが。

 ただ、その副産物でプログラムなどは多少分かりますので、絵などに拘らなければ単純な初期の頃のRPGみたいなものは作ろうと思えば作れます。

 が、それも大してやる気になれませんでした。


 ということで、その夢を描いた理由を見てみましょう。

 私の場合、求めたのは多人数で一緒に遊べて楽しめる世界です。
 そういう世界を作りたかったわけですね。

 裏を返せば、それだけ孤独感が強く寂しかったのかも知れません!

 しかし、現実は更に寂しいものです。

 そういう楽しい世界だけではお金にならないのです!

 今のオンラインゲームやスマホのアプリをやっている人ならご存知でしょうが、ただ遊びやすく楽しい世界を作っただけではすぐに飽きられて、企業として開発を続けていけないのです。

 と認識するのはあくまで私の投影ですから、私がゲームを作る環境に進んでいたとしても、自分が求めていたものとかけ離れてしまうので、きっとゲームを作ること自体が嫌になって、そう長続きせず辞めていただろうと今では思います

 そしてもう一つ。
 皆で楽しくがポイントの一つだったわけですが、大半のRPGや映画のストーリーというのは争いと殺し合いのお話です。
 雑魚キャラは片手間のボタン連打で虐殺されていく世界です。

 当時から、何かが違っていたのかも知れません。

 なので、最初の就職で上手くいかなくて、その後も暫く粘ったものの、結局は諦めてしまったのもそういう違いを感じていたからかも知れません。

 これらはあくまでも今の私当時を顧みて思う理由付けでしかありません。
 ただ、それなりに納得感はあります

 そして、それらが納得できた今のほうが、気持ちの上ではゲームを作ることに向いていると思います。

 実際に作るかどうかは別ですが、最近は自分用にスマホアプリで昔ながらのローグライクゲームでも作ろうかと思って仕様を考えています。

 ゲームと無縁な人にはよく分からない用語が並んでいて申し訳ありませんが、そういうものがあるんだなという程度に思ってくださいませ。


 さて、私の場合はこんな理由でした。

 それでは皆さんはどんな理由だったでしょう?


 その理由を再認識することは、まだ向かっている途中の人にとっては夢を目指すために必要な気力を高めてくれます。

 そして、既に諦めた人には、今ある生活の中に実はその要素が含まれていると気付く切欠となったりします。
 つまりは、今の自分を肯定する切欠になったりするのです。

 例えば、私の場合であればゲームは作れませんでしたが、みんなで一緒に楽しく過ごすためのお手伝いはカウンセリングという形でできています。
 また、自分の実生活にしても、多少なりともそのための知識や技術は身についています。

 自分が関われる範囲の人間関係はとても狭いものかも知れませんが、少なくともゲームという仮想の世界ではなく、現実世界で実現することができる道を得たのは良いことではないかなと思っています。


 皆さんもそれぞれに色々な理由があったことと思います。

 改めて思い返してみると、何か気付くことがあるかも知れません。

 失ったと思っていた夢も、実は少しずつ実現しながらまだ続いているかも知れないのです。

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