グノーシス主義というものが今まで自分も理解できないものであったが、最近、自分なりに何となく分かったような分からないような気持ちになっている。

 キリスト教でグノーシスといえば異端なのだが、原点はギリシャの哲学思想で知識や知恵を指すらしい。

 人間にとって知恵は知識は大切だが、知識の積み重ねだけでは神を知らない不幸者ということもいいたいらしい、ことは分かる。

 どちらかというとグノーシス主義には批判的な考えがキリスト教では神学の流れであったようでもあるのだが、知識や知恵から神を知るようなことをいわんとしているのだろうか?
 人間が知恵や知識で神を知るみたいなことをどうもグノーシス主義ではいっているようでもあるが、知識や知恵だけでは神が分からないので異端なのだろう。

 つまりは人間にとって哲学で知識で神を解き明かしてもそこに神はいない異端のような考えになって人間を堕落させる元凶みたいなものでもあったらしい。

 グノーシス主義というのはキリスト教の世界を反転させたような異端ではあったが創造神デミウルゴスとかもエホバの証人のエホバ神に近いし、マニ教というかゾロアスター教の善悪二元論もまたエホバの証人が好みそうな世界観に近いものだろうとは思う。

 もちろんエホバの証人やセブンスデー・アドベンティストが重んじる『ヨハネ黙示録』もグノーシスの影響が大きく流れているのだろう。

 分かりやすくいえば古代の異端のグノーシス主義というのは今のものみの塔というかエホバの証人のような信仰のようなものなのだろうか?世界の本質は悪であると考えるのがグノーシスの考えでもある。

 もちろんグノーシス主義というのはエホバの証人のように特定の教団ではなくて勝手に唱えていた哲学思想らしいので考え方はばらばらだったのだろう。

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 Christian Gnosticism

 初めはキリスト教の十字架も異端とか異教の考えでもあったらしく、グノーシスの象徴は円に十字であったという。

 十字架の原型はグノーシス主義のシンボルで日本でいえば島津藩のマークににているが中心には十字架だったりする。もちろん
島津藩とグノーシス主義は何の関係もない。

 島津藩が日本の中のユダヤ教のように日ユ同祖論のようにグノーシスと接点があったわけではないのだろうが。

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 人間の知識や知恵はキリスト教でいえばグノーシス主義の異端のようなものではあるが、神であるイエス・キリストの十字架を信じることで本当の救いが到来するのでキリスト教に神学というのがあるのだろう。

 しかし、キリスト教の正統と異端論争とか三位一体とかグノーシスを理解せよ、となれば時間がかかるし、一筋縄にはいかないような気がする。

 旧約聖書はユダヤ教の世界と重なり、新約聖書の世界はギリシャの哲学というかイエス・キリストの新しい時代になったり、ユダヤ教からキリスト教に転向したパウロの話だったり、終わりの黙示録の66巻はマニ教やゾロアスター教の影響が強くなって新約聖書の時代はグノーシスの影響があるのでキリスト教はつかみどころがないような気がして何といえばいいのか?

 ともかくグノーシスといえば知恵や知識で神を知るきっかけのようなものらしいことは分かる。

 人間の知識や知恵はしょせん神の前では異端のようなものではあるが、異端から神を知るきっかけになるというのはいいことだ、みたいなことをいいたいらしい。