UNIVER~1
ナポリのフェデリーコ二世大学に残る授業風景のミニアチュール。





過去にも大学については
いくつか記事を書いてきました。

今回は中世における具体的な大学生活について過去の「STORICA」の記事から。

 

中世の時代、大学生活が始まるのは14歳から15歳の思春期からでした。それまでは生まれた町で神学の教師や家庭教師から学ぶことが多かったようです。

大学進学を決めると故郷を離れ、大学のある大都市にお引越し。

当時最も権威のあった大学はイタリア半島ではボローニャ大学とパドヴァ大学、イギリスではオックスフォードとケンブリッジ大学、フランスではパリ大学とトゥールーズ大学、イベリア半島ではサラマンカ大学とコインブラ大学であったそうです。

これらの大学にはだいたい四学部があり、教養学部、法学部、医学部、神学部がおかれていました。

現代のように権威ある大学だからといってどこにでも入学できたのではなく、学生のほとんどは故郷から最も近い大学に進学したようです。これは国籍や都市が違うと当時の政治事情から学生同士の口論や暴力沙汰が絶えなかったためで、若者の血が熱いのは今も昔も変わらないといったところでしょうか。

「暗黒の中世」などと呼ばれて西洋の歴史では閉鎖的なイメージのあるこの時代に、ヨーロッパの大学は飛躍的な進歩を遂げています。13世紀のボローニャ大学にはおよそ千人の大学生が在籍していたことがわかっています。彼らの勉強量は半端ではなく、時には深更に及ぶまで大学での授業が続けられました。

生徒は男子のみ、身分は聖職者同様とされ何か罪を犯して裁判にかけられる際も一般人の裁判よりも罪が緩い聖職者の法廷で裁かれたようです。

教授陣ももちろんすべて男子のみですが、12世紀のボローニャ大学には教授の名前の中にベッティシア・ゴッザディーニ( Bettisia Gozzadini )なる女性の名前が残っているそうです。

四学部のうち、教養学部はすべての学部生が基本として学ぶことが義務づけられていました。その内容は二つに分けられていてひとつは「 trivium (三学科)」で文法・修辞・論理を学びます。もうひとつは「 quadrivium (四学科)」と呼ばれるもので算術・天文学・幾何・音楽をさし、このあわせて七学科がリベラル・アーツと呼ばれる教養学部を構成していました。

教養学部と医学部の授業は担当する教授の住居で行われることが多く、月謝も教授に直接払うしきたりになっていました。教授はさらに学生の何人かを自宅に下宿させることもあったそうです。

授業では教授が教科書を声に出して読みながら解説し、ときには授業で朗読した部分を学生たちは丸暗記する必要もあったとか。教科書については繰り返し読むことと内容についての討論が行われましたが、内容を批判することは許されていませんでした。

 

当時のヨーロッパの大学での公用語はすべてラテン語。教室の外でもラテン語以外の言語を話すことは禁じられていて、この校則を犯したものは罰金まで課せられました。といっても、ラテン語でも侮蔑言葉や冒涜語は存在していたのでけんかをするにもラテン語でできたってことでしょうか。

大学の周辺には本に関する工房が多く存在していました。本屋はもちろん、その本を筆記する職人を要する工房が多かったそうです。「 pecie 」と呼ばれた写本は、教授陣が筆記者に書籍を貸し、筆記職人が四つ折にした羊皮紙に細かい文字で筆写したもので細密画も装飾もまったくない代わりに実際の書籍よりかなり安価に手に入れられるものでした。当時の書籍は大変高価なもので、学生の身分ではすべてを購入することは不可能であったからで、大学付属の図書館でも学生たちの求めに応じて書籍を閲覧できました。

中間試験というものは存在せず、試験といえば卒業試験だけでした。ゆえにこの試験は時として数週間に及んだそうです。試験の基本は討論で、ときには10年以上にも及んだ在学中の勉強内容をすべてこの卒業試験で披露しなくてはならずかなり過酷なものであったようです。

この試験に無事合格すると現代の「 laurea (大学卒業資格)」にあたる「 baccelliere 」という称号が与えられました。その後、教師資格を持つ「 magister 」を取得し、さらに万国教授資格と呼ばれて欧州の大学ならばどこでも教授を勤める資格を持つ「 ius ubique docendi 」が授与されました。

Magister のタイトルを取得すると博士( dottore )になるための勉強を続けることができますが、教養学部のそれはほかの学部に比べて短く4年から6年で終了であったそうで、これを終了した後は教師になる者が圧倒的であったとか。

一方、医学部の博士課程ともなると10年はかかりました。法学部は法律家のもとでの修行も含めて12,3年。これを終えると公務員になったり王や貴族の宮廷に仕える人も多かったようです。最も難しかったのは神学部の博士課程での履修で、これは最低でも15年はかかりました。

 

というわけで大学生たちが大学に籍を置くのは10年から20年。経済的にも豊かな学生ばかりではなかったとはいえ、税金も免除されていたうえ将来のエリートとして当時の社会では優遇されることが多かったためか、学生たちはかなり自由な学生生活を謳歌していたようです。賭け事、恋愛、乱闘、酒、などは日常茶飯事。いつの時代も若者は変わらなかったんですね。

というわけで、故郷で息子のために金策に苦労するお父さんは時としてこんな手紙を息子に送ることになります。

「ここ最近、お前はひどく自堕落で生活を送っているというではないか。節度なく賭け事をし、ほかの学生たちが勉学に励むなか下手な楽器を奏でて遊びほうけているという。ほかの学生たちが数冊の本を読み終える間にお前はたった一冊も読み終えていないと聞いた。その所業を反省し、一刻も早くまじめな学生生活に戻るように勧告する。人々の間でのお前のこの悪評が、いずれよき評価に転じることを心から祈っている」。

一方学生の側からは両親に対して生活の窮乏を訴えるものが非常に多かったよう。書籍代の高騰、靴、衣服、シーツの欠乏、収穫不良の年の食事代の欠乏などなど。オーストリアのある学生は感傷たっぷりにこんな手紙を残しています。

「まるで牢獄の底辺にいるようだ。パンはほんのわずか、それさえもカビが生えている。飲む水は私の涙と混じりあい、暗い先行きを思うと気が狂わんばかり」。

 

中世の時代、人々の収入に比べて物価はかなり高く特に大学都市は平均より高めであったそうです。以前、この大学生相手に高利貸しを行い大もうけをした貴族について書きましたが、その借りた金も書籍代下宿代、生活の資であっという間になくなってしまうことが多かったようです。

大学生の多くは地方の富裕な家庭の子弟が多かったとはいえ、なかには仕送りもままならない貧しい学生も存在していたわけで、彼らは親族の援助を乞うて学生生活を続けざるを得ませんでした。この「援助の金」は袋( borsa )に入れられて学生たちに届けられたことから、「奨学生( borsarius )」という言葉が生まれたのだそうです。



現代イタリアにおいて大卒者がほかのEU諸国に比べて大変少ないことは以前にも書きましたが、それゆえか卒業資格を取得した際のお祭り騒ぎときたら結婚式の披露宴みたいです。
私も何度かこの卒業試験や卒業パーティーに招待されたのですが、日本のように一学年全員が一緒に卒業、なんてことは起こらず、単位をとった人が時期もばらばらに卒業試験を受けます。ほとんどが口答試験なのですが、その場には家族、親戚、友人など大人数が立会い、教授陣からの質問に答える主役を見守ります。試験後、いったん全員が教室から退去し、結果が発表されるにいたるとまた全員入室。あれで試験が落ちたらどうするんだろう、といつも思ったものでした。
パーティーともなるとこれまた大げさで、私も一度アブルッツォ出身の友人の卒業パーティーに招待されたのですが、くだんの友人の両親はホテルの披露宴会場を借り一族郎党、友人が集い食べるわ飲むわ踊るわ泣くわの大騒ぎとなります。

中世の大学の様相を読めば、卒業が非常に難しいこと、また試験の大半は口頭で行われることなどなど現代のイタリアの大学に受け継がれた伝統が多いことがわかります。
「大学」のあり方が本当にイタリアと日本ではこうも違うのか、と実感するしだいです。