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メロッツォ・ダ・フォルリー ( Melozzo da Forlì ) が描いた『シスト四世と側近たち』。法王の前にひざまずいているのが「イル・プラティーナ」と呼ばれた人文主義者バルトロメオ・サッキ。彼の大賞賛を受けた料理人が今回ご紹介するマエストロ・マルティーノ・ダ・コモです。



今日の記事も今月の歴史雑誌「 STORICA 」からです。

カーニヴァルの時期にちなんだわけではありませんが、食の話題です。
ルネサンスの料理人と言えば、過去に記事にした
バルトロメオ・スカッピですが、本日ご紹介するのはスカッピよりもわずかに先輩にあたります。

その人の名をマエストロ・マルティーノ・デ・コモ ( Maestro Martino de Como、本名は Martino de Rubeis ) と言います。
スカッピよりも知名度では劣るようですが、遠方の名産品を珍重していた中世の食卓に「地産地消 ( Cucina a chilometri zero ) 」 を持ち込んだ功績者であります。

そのほかにも、現代まで残るいくつかのイタリア料理の発明者でもあるそうで、読んでいて非常に愉しい人でした。

マエストロ・マルティーノの生没年はまったく不詳です。
おそらく、1400年代の後半に活躍した模様。出身はコモのマエストロ、と呼ばれているにもかかわらずコモ生まれではありません。現代ではスイスとなるティチーノ州生まれ。肖像画も残してはおりません。
しかしながら、当時のイタリア半島では最も高名な料理人であったそうです。
教養も高く国境をまたいで多くの貴族、高位聖職者、軍人に仕えました。
その著書「 Libro de arte conquinaria ( 料理術 ) 」 は、ラテン語ではなくイタリア語で記されました。が、現在まで残るのはわずかに4部。
ヴァティカン図書館 ( Biblioteca Vaticana ) とトレンティーノ近郊のリーヴァ・デル・ガルダの古文書館  ( Archivio Storico di Riva del Garda ) 、ドイツはマーブルク ( Marburg ) の古文書館、そしてワシントンの図書館 ( Library of Congress ) の4館に一部ずつ残っていて、ヘッセン大学の
こちらのサイトで内容が閲覧できます。

マエストロ・マルティーノのキャリアはナポリから始まりました。
当時のナポリを治めていたのはアラゴン家。アラゴン家はスペイン系で、当時のイタリア半島では彼らがもたらしたスペインのカタロニア地方の料理が大流行でした。
マエストロ・マルティーノは、ここナポリでカタロニア料理を習得します。
しかし、その後は彼独自の料理を確立していくことになります。

彼の料理の特徴は、当時大流行であった
オリエントの香辛料を大幅に減らし、素材の味そのものを楽しむというものでした。
といっても保存がきかなかった当時のこと、素材の味を楽しむには必然的にご当地の素材を使用する結果になったのです。
またマエストロ・マルティーノは、当時はあまり珍重されていなかった野菜・果物類を多く料理に取り入れました。といっても、当時の宴会には不可欠だった凝りに凝った肉料理が不得手であったわけではないようで、キジをはじめとする肉料理のレシピもたくさん残しています。

1460年ごろ、マエストロ・マルティーノは南のナポリからはるばる北イタリアのアクイレイア( Aquileia ) に移動します。
ここでヴェネツィア貴族で美食家として有名であったルドヴィーコ・トレヴィサーニ ( Ludvico Trevisani ) に仕えました。彼の美食家ぶりはつとに有名で、枢機卿ルクルス ( Cardinale Lucullo ) というあだ名がつけられたほどでした。ルクルスとは古代ローマ時代の美食家の名前であります。

このヴェネツィア貴族が死去すると、マエストロ・マルティーノはミラノに移り、今度は傭兵として有名なジャン・ジャコモ・トリヴルツィオ ( Gian Giacomo Trivulzio ) つきのシェフとなります。
後に余生を、現在もミラノに残るサン・ナザーロ・マッジョーレ教会 ( Basilica di San Nazaro Maggiore ) のトリヴルツィオ礼拝堂の建設にささげたこの貴族は、隠遁以前は徹底して傭兵に徹した軍人であったようで、まずはミラノのスフォルツァ家に、その後はスフォルツァ家の敵であったアラゴン家に、その後はフランスのシャルル八世に雇われており、当時のイタリア半島の混迷ぶりがこのあたりでもうかがえます。

この軍人に仕えている間に、マエストロ・マルティーノは彼のレシピをまとめました。
グーテンブルクの活版印刷技術が普及し始めていた影響もあり、このレシピ本はまたたくまに広がります。
後にこのレシピ集は、シスト四世に仕えた人文主義者バルトロメオ・サッキ ( Bartolomeo Sacchi detto il Platina ) が著した「 De honesta voluptade et valetudine ( 真の喜びと健康について ) 」に編集されました。
レシピ集を盗まれた形になったマエストロ・マルティーノですが、聖省長官まで勤めた当時の有名人バルトロメオ・サッキに紹介された形になり、その名はますます知られるようになりました。

たった4部しか残っていない「料理術」には、野菜・果物の味の再発見に加え、現在まで残るイタリア料理がいくつか記されています。
たとえばイタリア風卵焼き ( frittata )、イタリア風肉団子 ( polpette )、肉の野菜巻き ( involtini ) といった料理名は彼の創作。
またモスタルダ・ディ・フルッタ ( mostarda di frutta ) と呼ばれる果物の砂糖漬けとチーズをともに食す、というスタイルも彼の創作。
ヴェルミチェッリ ( Vermicelli ) という極細のパスタも、ピエモンテ州のフィナンシエール・ソース ( finanziera ) の発案も彼でした。
いずれも、当時の高価な食材ではなく、その土地で産する安価な食材から考案されたレシピでした。

当時は大変珍重されていた
オリエントの香辛料も、国際情勢によっては貴族でも手の届かないほど値段が釣りあがることがまれではなかったようです。
マエストロ・マルティーノはこの香辛料も、身近にあるもので代替しました。それがローリエ、ローズマリー、マジョラム、ウイキョウ、パセリなどで、これらは現代のイタリア料理でも必需品ですね。

また中世に食された料理は、当時「純潔」を象徴するといわれた「白」を出すために、牛乳、鶏肉、米、アーモンド、砂糖、ラード、しょうがを大変多く利用していて、つまり胃にもたれる料理が多かったそうです。
マエストロ・マルティーノの料理はこれらとは一線を画したシンプルなレシピが多く、豚のラードを使う代わりに鶏肉のスープを使い、牛乳の代わりにパンの柔らかな部分を代用する、といったものでした。

そして彼の料理本の特徴は、それまでの時代のものとは違い、材料の量が非常に明確であることに加え、調理時間についてもきっちり明記しております。
とはいっても時計がなかったこの時代、調理時間を何で計ったかといいますと「主の祈り ( Paternoster ) 」の回数なのです!
主の祈り、ならば当時の人々ならば誰でも知っていたからでしょうが、「この野菜の茹で時間は『主の祈り』2回分」なんて書かれているのを想像するのはちょっと愉しくありません?


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