monnalisa
毎度おなじみのモナリザです。今回のモデル説ですと、彼女はメディチ家ゆかりの女性だそうです。





実は現在お引越しの真っ只中で、姑の家に居候中です。
というわけで、本はすべてダンボールの中。
それでもなにか読みたくてインターネットの美術欄を開いたらこんなニュースがありました。

日々、ひたすら古文書の研究に明け暮れる学者がひっそりと発表した大ニュースです。


レオナルド・ダ・ヴィンチのもっとも有名な、いや世界でもっとも著名な美術作品「モナリザ ( Monna Lisa ) 」は、そのタイトルどおり「フィレンツェの商人フランチェスコ・デル・ジョコンド ( Francesco del Giocondo ) の妻リーザ・ゲラルディーニ ( Lisa Gherardini ) 」ということになっておりますが、過去にもこのなぞめいた微笑を浮かべる女性のモデル探しは数え切れないほどニュースになりました。
今年の初めにも、こんなニュースをお伝えしたばかりです。

giuliano medici
40歳を前に病死したヌムール公ジュリアーノ・デ・メディチの肖像画。ラッファエッロ作。軍人としてキャリアを積みますが、病弱で肩書きに位負けしていたよう。レオナルドが描いた肖像画は彼が注文主で、そのモデル彼の愛人だったというのが今回の説。













本日ご紹介する学者、というより百科事典の執筆者だそうですがそのロベルト・ザッペリ ( Roberto Zapperi ) 氏によれば、この女性はウルビーノのパチフィカ・ブランダーニ ( Pacifica Brandani ) なる女性だそうです。
そう言われても誰それ?という感じですが、メディチ家の偉大なるロレンツォ ( Lorenzo de' Medici detto il Magnifico ) のの息子で、法王レオーネ十世の弟であるヌムール公ジュリアーノ・デ・メディチ ( Giuliano de' Medici ) の愛人だそうです。
彼女は既婚者であったそうですが、女たらしで有名であったジュリアーノ・デ・メディチの愛人の一人でもあり、さらにその庶子イッポーリト・デ・メディチ枢機卿 ( Ippolito de' Medici ) の母だとザッペリ氏は断言しています。
ザッペリ氏によれば、パチフィカは愛人のジュリアーノ・デ・メディチが兄法王レオーネ十世のローマの宮廷に滞在中に出産しましたが、産褥死してしまったそうです。
一人残されたその息子イッポーリトはローマに送られ、伯父であるレオーネ十世の庇護の下に育ち後に枢機卿になります。
ザッペリ氏によれば、おそらくジュリアーノ・ディ・メディチが母の顔を知らない息子のためにレオナルドにその肖像画を依頼したのではないか、とのこと。レオナルドは当然パチフィカ本人は知らないわけで、メディチ家の人々からの聞き伝えを元に肖像画を創作した、というのが今回の新説。

で、その根拠は?といいますと、年がら年中ほとんど誰の目にも触れたことのない古文書ばかりを読んでいるというザッペリ氏、彼が読んだその膨大な古文書から得た情報を要約するとこうなります。

レオナルドが晩年を過ごしていたフランスはアンボワーズの郊外に、枢機卿ルイージ・ダラゴーナ ( Luigi d'Aragona ) とその秘書アントニオ・デ・ベアティス ( Antonio de Beatis ) はレオナルドを訪ね、さらにレオナルドがフランスまで持参した3作品について尋ねたそうです。
レオナルドはそのうちの一作品について
「偉大なるジュリアーノ・デ・メディチに縁のあった女性」
と答えたのだそうです。

しかし、そのダラゴーナ枢機卿はこの女性について「フィレンツェの女性」とも述べています。
ザッペリ氏説のパチフィカはウルビーノの女性。それについては
「この作品が描かれたと思われる時期、ジュリアーノ・デ・メディチはフィレンツェから追放されていました。つまり1494年から1512年まで一歩もフィレンツェには足を踏み入れていません。もし、ダラゴーナ枢機卿が述べた『ジュリアーノ・デ・メディチに縁のある女性』説を信じるとすればフィレンツェ人であるはずがありません。
なにしろ庶子という身分の母親で出産直後に亡くなってしまったので、彼女に関する情報は当時から正確であったとは言えません」。

ザッペリ氏はこれまでの研究をまとめて執筆したいとのことですが、そのタイトルはもう決まっているそうでその名も『さらばモナリザ ( Addio Monna Lisa ) 』。

実はパチフィカ・ブランダーニの名を挙げたのはザッペリ氏が初めてではなく、レオナルドの研究では名の知られた美術学者カルロ・ペドレッティ ( Carlo Pedretti ) もだいぶ前にモナリザのモデルの一人であった可能性としてその名を著述しています。しかし、その根拠を深く掘り下げることまではしていません。

イッポーリトが4歳になった1515年ごろに、ジュリアーノはレオナルドにこの作品の依頼をしているようですが、ジュリアーノ自身はその翌年1516年に病死。肖像画は依頼主のもとに渡ることなく終わります。
ジュリアーノの兄法王レオーネ十世は、自身の肖像画家としてはラッファエッロを好んでいたためレオナルドはメディチ家から去ります。
レオナルドはこの肖像画をフランスまで持ち込み、最後には弟子でありそれ以上の存在とも言われたサライ (  Gian Giacomo Caprotti detto il salai ) に贈与。レオナルドの死後、フランス王フランソワ一世がサライがミラノで売り出したその作品を購入した、とザッペリ氏は結論づけています。

ザッペリ氏はさらに
「私は美術には興味がないのです。古文書をひたすら読むのが私の仕事。そして出した結果がこれです。それについて人々がなんと批判しようと、私の確信は揺らぎません」
と述べています。


ippolito medici


ジュリアーノ・デ・メディチの庶出の息子イッポーリト・デ・メディチ枢機卿。ティツィアーノ作。父に似て女性関係は派手だったよう。彼が恋した一人がこちら。彼も30代半ばで早逝。法王になることなく終わりました。








レオーネ十世とヌムール公ジュリアーノ・デ・メディチはラッファエッロによってその肖像画を残し、ジュリアーノの息子イッポーリトは後に枢機卿となった姿をティツィアーノに描かせています。
そして、本当にそのイッポーリトの母の姿をレオナルドが描いたとすれば、イタリアの歴史における最高の芸術家によって描かれた家族の肖像画が宮殿に並んだことだろう、と記事は結んでいます。




実はこのザッペリ氏、以前にも「愛人たちの肖像 ( Ritratto dell'amata ) 」なる本を執筆しておりまして偶然にも私はその本を持っております。今はどこかのダンボールに入っているのですが、かすかな記憶をたどると確かに聞いたこともないマイナーな女性たちの名前が並んでおりまして、ああした名前もひたすら古文書を掘り起こして見つけたんでしょう。
引越しが落ち着いたらゆっくり読み返そうと思います。








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