lorenzo lotto
科学雑誌の記事のねたになったロレンツォ・ロット ( Lorenzo Lotto ) の自画像。家族も友人も弟子ももたずひたすら放浪を続けた孤高の画家。 ( Museo Thyssen-Bornemisza, Madrid )


今日の記事は16世紀に活躍した画家ロレンツォ・ロット ( Lorenzo Lotto ) に関する記事ですが、出典は歴史雑誌でも美術の書籍でもありません。
夫が買ってきた『頭脳 ( Mente ) 』という雑誌の一記事です。

ロレンツォ・ロットの作品は、私も過去に何度か記事に載せましたがその人となりまでは知りませんでした。

同世代の同郷人に、ティツィアーノ、ジョルジオーネ、セバスティアーノ・デル・ピオンボなどを持ち、ゆえにその才能もあまり目立つことがなかった上、友人にも家族にも縁遠かった一人の男の生涯を精神学者のヴィットーリオ・アンドレオーリ ( Vittorio Andreoli ) が記事にしています。

読んでいたらしんみりとした気分になり、彼の作品を見る目も変わってしまいそうでした。
受胎告知
『レカナーティの受胎告知』と呼ばれるロレンツォ・ロットの作品。聖母マリアと黒猫のびっくり顔は当時としては奇異にうつったようです。 ( Recanati, Pinacoteca comunale )


芸術家にとって正常と狂気の均衡を保つことは非常に難しいことと言われています。
そもそも、他人と同じことをしていたのでは芸術家足り得ないので、日常とはほど遠いところにいなくては傑作など生まれないであろう、というのがわれわれ凡人の考えるところ。

その均衡がうまく取れなかったのではないかと思わせる芸術家がロレンツォ・ロットなんだそうです。
ロットは1480年にヴェネツィアにうまれ、イタリア各地を放浪した挙句1556年にロレート ( Loreto ) で亡くなっています。
現代でこそ、その作品は傑作と認められていますが、彼が存命当時はその作品はほとんど評価されず、18世紀の終わりまで「色遣いがおかしい」「ロットの作品を好むのは奇人ばかり」と言われてきました。
ロットの作品を認めたのはアメリカの美術史家バーナード・ベレンソン ( Bernard Berenson ) で、なんと1894年のことでした。
ベレンソンはロットについて「社会の最下層の人々に目を向けた画家はロット以前には存在しなかった」と述べています。

先にも述べたように、ロットの同時代人にはティツィアーノやジョルジオーネがいましたが、ロットの作風は彼らのそれとはまったく一線を画していました。
そのよい例が1534年ごろにロットが描いたとされる『レカナーティの受胎告知 ( L'Annunciazione di Recanati )』。
この作品の中の聖母マリアは、天使からの告知に背を向けて恐れおののき、その背後では一匹のが天使をまるで悪魔でも見たかのような表情で見つめています。
受胎告知のシーンとは本来、厳かな雰囲気で描かれるのが当時の常識で、ロットのように人間的な恐怖や驚きを描く画家はほとんどなかったのだそうです。

もう一枚、ロットの作風を代表していると言われている作品が晩年に描いた『キリストの神殿奉献 ( Presentazione di Cristo ) 』。
そこに描かれた人々は当時の貧しい庶民をそのまま写したかのようで、聖母もふくよかな母性とはほど遠く憔悴していています。
幼児イエスはその聖母に不安定に抱かれて、司祭はそのイエスから離れて祝福を与えています。

そして注目するのはその祭壇の足。
祭壇を支えているのはなんと人間の足で、まるで20世紀のシューレアリズムを見ているかのようです。
しのぎを削る他の画家たちとの競争心を最初から失ってでもいるかのようなこの画風、当時の注文者を喜ばせたとはとても思えないのですが、そもそもロットの人生そのものが「社会への不適応」そのものでした。


神殿参拝
死の前年1555年の作品。筆の力が弱いのが痛々しい。当時の貧しい人々がモデルとなった『キリストの神殿奉献』。祭壇の足に注目です。このころのロットは視力も弱まり、他者と会話も交わさない状態だったそうです。 ( Loreto,  Palazzo Apostolico )



まずロットが「適応」できなかったのが生まれ故郷のヴェネツィア共和国でした。
同僚がティツィアーノやジョルジオーネではそれも当然かもしれませんが、若いうちにヴェネツィアを飛び出し向かったのはトレヴィーゾ ( Treviso ) 。1506年、画家は26歳でした。
このときから「放浪の画家」の人生が始まります。
トレヴィーゾの後はアーゾロ ( Asolo ) に向かい、1509年には法王ジュリオ二世の招聘でローマに向かいます。
ということは画家としての評判もそこそこだったと想像できるのですが、ヴァティカンでのその仕事は最終的にラッファエッロに依頼され、1512年にはマルケ州のイェージ ( Jesi ) へ、さらにレカナーティ、ベルガモ ( Bergamo ) 、サント・ステファノ ( Santo Stefano ) へ。なにかに追われるかのようにロットはさまよい続けます。
いずれの街においても不動産のひとつも持たず、定住もしませんでした。

また他者ともまったく適応できませんでした。
当然結婚もせず、家族とのつきあいもなく、友達も持たなかったそうです。
ただ一度、友情らしきものを手に入れる機会があったのですがそれも幻に終わります。

その機会とは1546年、ロットがトレヴィーゾ近郊に出向いたときのことです。
ロットはジョヴァンニ・デル・サオン ( Giovanni del Saon ) という男の家に迎えられます。
この家で、ロットは好意を持ってもてなされ、彼が渇望していた家庭愛に出会うのです。
ロットはこう書いています。
「ジョヴァンニ・デ・サオンの家では、ジョヴァンニ自身だけではなくその家族が私のことを敬愛を持って迎え入れてくれた」と。

しかしそれもつかの間の平穏でした。
ロットはまもなく、この家族と絶え間なく衝突するようになってしまいます。
「彼の家族は私が口うるさく、さらに大食いであると避難した」とロットは書いています。
さらにロットは、サオンの家に世話になる際に渡した食費についても言及し、自身はただの居候ではなくきちんと家賃も食費も払っていたことを主張しています。彼の精神状態を考慮すると、被害妄想であった可能性が否定できないのですが。
この家族との関係は結局改善されぬままでした。

ロットの人生にまつわるもうひとつのキーワードは「貧困」でした。
ロットはその76年という当時としては長命な人生において多くの作品を残しました。
1955年、美術史家のベレンソンがまとめたところではロットは389に及ぶ作品を描いています。
それなのに、ロットの人生は食べるにも事欠くことが多かったそうです。
というのも、その独特の画風が当時の注文者たちを満足させず、画料が常に安価であったのがまずその理由だといいます。

生活に困ったロットは1550年、自身の作品46点を競売にかける決心をしました。
ロットの希望は46点まとめて300スクーディ。
ところが買い手がついたのはやっと7点、売上額はたったの39スクーディでした。
というわけで、彼は滞在先の宿にお金が払えず、自身の作品を代わりに置いてくることもまれではなかったようです。
ロットの唯一の常連はドメニコ修道会でしたが、その理由も彼の画料が安い、につきたそうでここでも値切られるだけ値切られたのでしょう。

こんな状態が続いて、死の2年前1554年にロレンツォ・ロットは在俗献身者としてロレートの修道院に身を寄せます。
身よりもなく生活に困った人たちを迎え入れたこの修道院は、サンタ・カーザ・ディ・ロレート ( Santa casa di Loreto ) といい、ロットはここで人生の最後を過ごします。

この時代に、ロットは生活費などについてこまごまとつづった家計簿 ( libro delle spese ) を残しています。
1542年から死の年1556年の出費や収入,注文や自身の移動についてこと細かく書かれたこのメモを見ると、ロットがいかに生活を切り詰めていたか、また食費の確保や画材の確保がまさにぎりぎりであったことがわかるそうです。

1546年に書いた遺書にはこう記されています。

Solo, senza fidel governo et molto inquieto ne la mente ( 一人ぼっちで、支えてくれる人もなく、心はとても不安定だ )


ロットの人生とはこの言葉に尽きるのではないでしょうか。
彼は他者と深い人間関係を持つことができず、環境に順応することも不可能でした。
自身の中に閉じこもり、常に妄想と戦っているかのようなその人生を、この記事を書いたアンドレオーリ氏は「精神分裂症の症状のひとつ」と分析しています。
ゆえに、ロットの作品に描かれたさまざまな背景は実に内観的で非現実的だと。

アンドレオーリ氏はさらに、ロットが固執し書き続けたこの「家計簿兼日記」が、彼を正気の世界につなぎとめる唯一の手段ではなかったか、と自論を述べています。これを書き続けることにより、絵の注文者たちとの最低限の人間関係を保持できたのではないか、と。
ロットにもしこの「家計簿」を記すすべがなかったら、まったく外界を拒否した世界に完全に迷い込んでいたかもしれません。

そして、晩年の2年を過ごした修道院での生活は彼の精神状態には完璧でした。
つまり、毎日規則正しく過ごし、外界からの強い刺激もなく、ゆえに自身をかき乱されることなく過ごせた場所、それがロレートの修道院だったのでした。彼はようやくここで、なにかから追われるという観念から逃れられたのかもしれません。
死の直前、ロレンツォ・ロットはバルトロメオ・カルパン ( Bartolomeo Carpan ) という男性に4スクーディを贈っています。その理由は「ある一日、彼は病の床にある私をを快く看病してくれた。その彼が今結婚しようとしている」からなんだとか。
苦悩した人生の果てに、わずかな安らぎを見出せたのでしょうか。
彼の亡くなった日は不明。葬儀の記録もいっさい残されない静かな死でした。



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ロットが死の年に「結婚祝い」を贈った相手バルトロメオ・カルパンの肖像。ウィーン美術史美術館蔵。


この記事はあくまで医学雑誌の観点から書かれていますので、内容は賛否両論でしょう。
私は今までロレンツォ・ロットの作品を見ていても、非現実的とか内観的とか感じることはほとんどありませんでした。肖像画なんてティツィアーノに比肩するほどのリアリズムだと思うのですが。

ミケランジェロみたいに、常にかんしゃくを起こして外に思いを発散させていたほうが精神は健全に保てるのでしょうか。。
ミケランジェロも苦悩した芸術家、と言われていますが、喧嘩するときも派手でした。彼の才能を早くから見抜いて後援を惜しまぬ人にも恵まれていました。
運もあるのでしょう。ミケランジェロはパトロンに恵またけど、レオナルドはこの方面では恵まれていたとはいえません。パトロンは次から次へと没落してしまう運命にあったのがレオナルドでした。そしてレオナルドも、その残された草稿を見れば常人とは遠いところにいた人だとは一目瞭然なのです。

先日、宮本輝の小説を読んでいたら
「人間にはやはり愛嬌がないと」
というフレーズがありました。
愛嬌、なんてなんだか軽薄と感じましたが、案外ミケランジェロには愛嬌があったのかもしれません。
ま、愛嬌なんて持とうと思ってももてるものでもないので、これも運としか言いようがありませんが。

それにしても、読んでいてつらくなるロレンツォ・ロットの記事でした。













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