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無名の画家によるクラリーチェ・デ・メディチの肖像。メディチ家の直系の一人として誇り高く生きた女性でした。



メディチ家についての本はかなり読んだつもりですが、やはり長い長い歴史の中では縁の下の力持ちの役を果たした地味な人物も多かったようで、改めて読んでいると「あら、こんな人もいたんだ」とびっくりすることがあります。

今日はその縁の下の力持ちの一人であった女性が亡くなった日です。
女性の名はクラリーチェ・デ・メディチ ( Clarice de' Medici ) 。
彼女の祖父は偉大なるロレンツォ ( Lorenzo de' Medici ) で、父はその長男のピエロ・デ・メディチ ( Piero de' Medici ) 。
兄がウルビーノ公爵となるロレンツォ ( Lorenzo de' Medici, duca di Urbino ) で、おじさんが法王レオーネ十世、姪っ子がフランス王妃カテリーナ・ディ・メディチ ( Caterina de' Medici ) という布陣です。
母はローマの名門オルシーニ家のアルフォンシーナ ( Alfonsina Orsini ) 。

フィレンツェの名門メディチ家に生まれながら、彼女が生まれた時代のメディチ家はちょうど没落の時期でした。
激動のメディチ家を支えたある女性のお話です。
filippo_strozzi
政略結婚ながら夫婦仲は非常によかった二人。夫のフィリッポ・ストロッツィの肖像。ベネデット・ダ・マイアーノによる作品。当時のストロッツィ家はイタリアでも有数のお金持ちでした。 ( Skulpturensammlung, Staatliche Museen zu Berlin, Germany )

彼女の生年は実はよくわかっていません。
1493年と言われていますが、これですと兄とも弟ともいわれるのちのウルビーノ公爵ロレンツォとは同年の生まれになってしまいます。
最近の古文書の研究では1489年という説もあり、この説ですとウルビーノ公爵ロレンツォは弟と言うことになりますね。

クラリーチェという名は、偉大なるロレンツォと呼ばれた祖父の妻、つまり彼女の祖母であったクラリーチェ・オルシーニ ( Clarice Orsini ) から受け継いだものであったそうです。

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弟のロレンツォ。ウルビーノ公爵となった彼の肖像画を描いたのはラッファエッロ。父親譲りのぼんくらな感じがよく出ています。彼の娘がフランス王妃となるカテリーナで、早くに孤児となった彼女を養育したのはクラリーチェ。1515年ごろの作品。


彼女がまだ幼少の時代、1494年にクラリーチェの父ピエロの失策が原因でメディチ家はフィレンツェを追放されます。
というわけで一家はイタリア中を放浪するのですが、1503年に父のピエロが亡くなるとクラリーチェと弟のロレンツォは母の実家があるローマに定住します。
そのころ、メディチ家の総帥の役を果たしていたのは枢機卿のジョヴァンニ・デ・メディチ ( Giovanni de' Medici )、のちの法王レオーネ十世です。 クラリーチェの父の弟であったこの枢機卿は、メディチ家の復権のために一族の子女の結婚に周到な配慮を見せます。
ロレンツォ・デ・メディチの外孫であったカテリーナ・チーボも彼の駒のひとつで、過去にこちらに記事にしています。

そのクラリーチェの相手に選ばれたのは、フィレンツェではメディチ家の好敵手であったストロッツィ家のフィリッポ ( Filippo Strozzi ) でした。
財力もメディチ家と遜色なかったストロッツィ家は、メディチ家がフィレンツェから追放されたのち、行政長官として権力を握っていたソデリーニ家とは犬猿の仲で、枢機卿メディチが目をつけたのもこれが理由でした。

共和制となったフィレンツェの状態に不満を持つ貴族は多く、その一人ベルナルド・ルチェッライ ( Bernardo Rucellai ) が、メディチ家と縁戚関係を持つことに不安を抱いていたフィリッポ・ストロッツィの母セルバッジア ( Selvaggia Strozzi ) を説得します。
この空気を感じ取った枢機卿ジョヴァンニ・デ・メディチは、法王ジュリオ二世にメディチ家の追放解除とクラリーチェのフィレンツェでの挙式挙行を願い出ます。
フィレンツェの議会はもちろんこれを拒否。
クラリーチェの結婚相手は、母の実家オルシーニ家の縁でローマの貴族からも候補者が多かったようですが、ジョヴァンニ・デ・メディチはとにかくもメディチ家の復権のために有利な結婚しか考えていなかったようです。

こうして、ソデリーニ家の大反対を押し切って婚約の調印がなされたのが1508年7月。
クラリーチェは19歳になろうとしていたわけで、婚約に持ち込むまでのジョヴァンニ枢機卿の苦労が垣間見えます。
持参金は7000フィオリーニ。
この婚約のニュースは、共和制に飽きあきしていたフィレンツェ市民にももろ手を挙げて歓迎されました。
しかしフィレンツェ議会はこれを認めず、二人が結婚した1508年12月、議会はストロッツィ家に「8人委員会」からの追放と、ナポリへの10年間の追放、500フィオリーニの罰金、という罰則の使者を送ってきます。
そしていかなる理由があっても、フィレンツェの貴族はストロッツィ家を支援してはならない、という指示まで議会から発せられました。
しかし法王ジュリオ二世はこのフィレンツェ議会の決定をよしとせず、フィレンツェ議会の権威は失墜します。

フィレンツェの貴族を右往左往させたこの結婚ですが、主役の若い二人はおそらく同い年で、この結婚は政治的意義にとどまらず、人間的な意味においても成功しました。
二人は終始仲むつまじかったそうで、20年間の結婚生活において10人の子供をもうけています。
この実子の10人に加えて、将来クレメンテ七世の名で法王となるジュリオ・デ・メディチ ( Giulio de' Medici ) の庶子アレッサンドロ ( Alessandro de' Medici ) 、偉大なるロレンツォの三男ヌムール公ジュリアーノ・デ・メディチ ( Giuliano de' Medici ) の庶子イッポーリト ( Ippolito de' Medici ) 、そして弟ロレンツォの子カテリーナ ( Caterina de' Medici ) もフィリッポ・ストロッツィとクラリーチェの庇護のなかで育ちます。
また、ルネサンスの宮廷でもぴか一だったメディチ家に生まれたクラリーチェは教養もあったようで、子供たちの教育も彼女が直接たずさわりました。
地味ながらメディチ家を影から支えるこのクラリーチェの姿が、のちのフランス王妃となるカテリーナにも影響を与えたことでしょう。

1525年、思春期を迎えたアレッサンドロとイッポーリトはメディチ家の復権がかなったフィレンツェへ、法王となったクレメンテ七世の要請で去ります。
同族とはいえ、このクレメンテ七世とクラリーチェはあまりしっくり行かなかったようで、クラリーチェは庶子である二人をメディチ家の代表としてフィレンツェに送ることに不安を感じていました。
またそれを知ったクレメンテ七世は、クラリーチェの息子に枢機卿の地位を許しませんでした。

1527年には、クラリーチェの夫フィリッポ・ストロッツィが法王によってナポリに人質として送られてしまいます。
クラリーチェは夫を解放するために法王からも身代金をせしめたそうで、このへんはなかなかの豪腕ですね。
そして親族のオルシーニ家やドーリア家の後援を得て、オスティアから夫とピサに向かいついにフィレンツェ入りを果たします。
幼少時に追放されて以来の故郷の地を踏んだクラリーチェは、感傷に浸るまもなく政治に目を向けます。
仲の悪いアレッサンドロとイッポーリトを操り実権を握っていたシルヴィオ・パッセリーニ ( Silvio Passerini ) 枢機卿を強く非難し、夫とともにこの枢機卿をフィレンツェから追放しました。
若き権力者となったアレッサンドロとイッポーリトに対し、フィレンツェ市民の不満も当時高まっていたようでクレメンテ七世が構築しようとした新たなメディチ政府は1527年のローマ略奪による法王の権威の失墜も手伝い、1929年に瓦解。

そして1528年5月3日、クラリーチェ・デ・メディチは死去。
死因は流産と言われています。

彼女の死により、夫のフィリッポ・ストロッツィはメディチ家との緩衝材を失い、1532年には唯一のフィレンツェの公爵となったアレッサンドロからヴェネツィアに追放されています。

二人の間に生まれた子供たちです。

・ピエトロ ( Pietro Strozzi ) 、傭兵となりラウドミア・デ・メディチ ( Laudomia de' Medici ) と結婚。塩野七生著『メディチ家殺人事件』に登場するロレンツィーノの妹がこのラウドミアです。

・ロベルト ( Roberto Strozzi )、コッラート ( Collato ) の領主でローマ貴族。マッダレーナ・デ・メディチ ( Maddalena de' Medici ) と結婚

・マリーア ( Maria Strozzi ) 、フィレンツェの貴族ロレンツォ・リドルフィ ( Lorenzo Ridolfi ) と結婚

・レオーネ ( Leone Strozzi ) 、マルタ騎士団の騎士となる

・ジューリオ ( Giulio Strozzi ) 、詳しいことは伝わらず

・ヴィンチェンツォ ( Vincenzo Strozzi ) 、精神を病んで死去

・アレッサンドロ ( Alessandro Strozzi ) 、詳しいことは伝わらず

・ルイジア ( Luigia Strozzi ) 、フィレンツェの貴族ルイージ・カッポーニ ( Luigi Capponi ) と結婚。毒殺されたと伝えられています

・ロレンツォ ( Lorenzo Strozzi ) 、枢機卿


フィレンツェを追放されたこの一族、子供たちはみなフランス寄りで生きたようです。
父の財力を受け継いだ長男のピエトロは傭兵として高名でしたが、それはまたいずれ調べてみたいと思います。 


 






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