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ファブリツィオ・コロンナの紋章。コロンナ「柱」が目印














今日6月2日はイタリアは祭日です。共和国記念日というのだそうで、王政を捨てた記念日とされています。フォーリ・インペリアーリでは毎年記念行進が行われますが、今年はあいにくの曇り空。ここ数日、大雨が続くローマです。





ローマの貴族と言えばオルシーニ( Orsini )とコロンナ( Colonna )を外しては語れません。しかし長い歴史を持つだけに、把握するにも一苦労。本日ようやくコロンナ家の歴史を読み終わりましたがまだ混乱気味です。著名な貴族とはいえ歴史を手繰れば、近隣貴族との小競り合い、法王とのけんか、時には泥棒行為、かなりマフィア的です。さまざまな封土の名前が登場しますが、ラツィオ州に点在するこれらの街を現在訪れてみても平和な小さな町があるだけで、これらの街を争奪すべく時には腕力で、時には外交戦で火花を散らしたなんて信じられないくらいです。


コロンナ家がローマの歴史に登場するのは12世紀の終わり。その起源はよく分かっていませんが、おそらくローマから南に下ったトゥスコロ( Tuscolo )を出とする家系と言われています。18世紀の子孫の一人ジュリオ・チェーザレ( Giulio Cesare Colonna )によればその起源はギリシャ神話までさかのぼってますがいくらなんでも大げさな話。


名字のコロンナは11世紀に登場するピエトロ( Pietro o Petrus )という人のあだ名が、de colonnaといったことから始まったと言われます。彼は本拠地のコッリ・アルバーニ( Colli Albani )を拠点に次々と領土を増やしました。特にパレストリーナ( Palestrina )は後にコロンナ家の本拠となる宮殿が建てられます。1101年、法王パスクアーレ二世( Pasquale sedondo )は、彼に姪を妻として与えたにもかかわらずその横暴を憎み財産を没収しました。法王との紛争がコロンナ家のお家芸となる祖を作った人でもあります。


コロンナ家がローマの中枢に登場するのは1192年、ジョヴァンニ( Giovanni il Vacchio )が枢機卿になるのがきっかけです。彼は熱烈なサン・フランチェスコ( San Francesco )の信奉者でこの宗派の規律の制定に尽力したほか、アマルフィ( Amalfi )に貧者たちのための病院を建てています。


1212年、このジョヴァンニの甥の(これまた)ジョヴァンニ( Giovanni il Giovane )が枢機卿になります。彼は外交手腕を買われ、1217年に法王特使としてエルサレムとコンスタンティノーポリに派遣されます。122年にローマに帰還した際、いかにもコロンナ(「柱」の意)にふさわしい聖遺物、キリストが鞭打ちにあった際につながれていた柱、を持って凱旋したそうです。胡散臭さぷんぷんですが。


12世紀のイタリアは皇帝派のギベリンと法王派のグェルフの抗争の舞台となります。コロンナ家はガチガチの皇帝派で、ライバルのオルシーニ家は法王派。それでもジョヴァンニ枢機卿はその外交手腕を駆使して当時の法王グレゴリオ九世( Gregorio Nono )とホーエンシュタウヘン家のフェデリーコ二世( Federico Secondo )の調停に努めます。これは実を結ばず、結局ジョヴァンニは皇帝の側につき、彼の法王庁でのキャリアは1244年に終わりました。当時の年代記には「最大の所領をもつゆえに枢機卿一の絶大な力を持つ彼は、皇帝と法王との不和の最高の推進者」と揶揄されました。


当時のコロンナ家の所領はフラミニア街道にそってローマの中心に向かい、トライアヌス帝のメルカート( Mercati Traianei )からフォロ・ロマーノ( Foro Romano )周辺、現在のコルソ通り周辺からアウグストゥス帝の霊廟( il Mausoleo di Augusto )まで広がっていました。この霊廟を城塞としても使っていたのです。さらに現在の国会があるモンテチトーリオ( Montecitorio )周辺、のちにコロンナ宮殿が建てられるサンティ・アポストリ広場( piazza di Santi Apostoli )、つまり現在のローマの中心をほぼ網羅していたわけです。このころのローマの街中は建物もなく、家畜が放牧されているような無法地帯でした。コロンナ家の僥倖は、彼らの領地にローマ時代の遺産であるヴィルゴ水道がわずかに機能していて、ゆえにブドウ畑や修道院を運営できたことにもあります。


ジョヴァンニ枢機卿の寝返りが高くつき、1240年以降のコロンナ家は法王庁から干され、ライバル、オルシーニ家に水をあけられます。オルシーニ家は勢いに乗り、アウグストゥス帝の霊廟の要塞、ローマ郊外の要塞にも大きな被害を与えました。1278年までコロンナ家は一人の枢機卿も出さず、鳴かず飛ばさずの状態が続きます。


ところでジョヴァンニ枢機卿には二人の兄弟がいました。ここからコロンナ家は枝分かれしていきます。長兄のジョルダーノ( Giordano )の子孫はコロンナ―パレストリーナ( Colonna-Palestrina )という家系、弟のオッドーネ( Oddone )はガリッカノ( Colonna-Gallicano )と名乗ります。すべてローマ近郊の領土からとった命名。さらにジョルダーノの曾孫のランドルフォ( Landolfo )がリオフレッド( Colonna- Riofreddo )に枝分かれしました。その後の世代にもうひとつガナッザーノ( Colonna- Ganazzano )家が生まれます。


コロンナ家の法王庁への復帰を実現させたのは、皮肉にも敵のオルシーニ家出身の法王ニッコロ三世( Niccolo` Terzo )でした。平和主義であったこの法王はジョルダーノの長男ジャコモ( Giacomo )を枢機卿に任命。このジャコモはサンタ・マリア・マッッジョーレ教会( Basilica di Santa Maria Maggiore )のモザイク装飾を製作させたほか、アウグストゥス霊廟の近くに病院も設立します。この時代、コロンナ家はなぜか文雅の道を選び、一族の何人かがボローニャ大学に学んだり、ジャコモの甥ピエトロ枢機卿によって法学についての図書館を設立したりしてます。ジャコモの弟のジョヴァンニ( Giovanni )はローマの司法長官。妹のマルゲリータ( Margherita )は早世しますが、熱心なフランチェスコ派の信者で1847年に列福されています。ジャコモはこの妹の影響を受け、若い貴族女性のために修道院をたてています。





このジャコモの次の世代は「大けんか好きの( Sciarra )」とあだ名をつけられたもう一人のジャコモをはじめ、向こう見ずのコロンナ家が本領を発揮します。


1297年、ローマの司法長官を務めたジョヴァンニの子供たち、ステファノ( Stefano )、アガーピト( Agapito )、そしてジャコモ( Giacomo detto Sciarra )は、なんと法王庁の金庫から相当な金額を横領します。のちにボニファーチョ八世となる当時枢機卿のベネデット・カエターニ( Benedetto Caetani o Gaetani )は烈火のごとく怒り、その代りに(ここが宗教人らしからぬところですが)法王チェレスティーノ五世( Celestino quinto )の法王選挙の際の不備を掘り起こし、退位に追い込む策謀に手を貸すよう要請します。


コロンナ兄弟が横領した金を返金した後も、ボニファーチョ八世の嫌がらせと服従を求める強硬な態度は続き、こちらもけんか好きなコロンナ兄弟は「Manifesto di Lunghezza」とよばれる文書とともに法王への心中を派手に拒否。これはボニファーチョ八世の法王選挙の無効を訴える文書で、法王の出身であるカエターニ(ガエターニともいわれます)家とコロンナ家の闘争でもありました。


法王は怒り狂い「十字軍」と称した軍隊をコロンナ家の領土に送りこみます。同年5月にはコロンナ家は破門。パレストリーナの要塞は破壊され、一族の何人かはティボリに幽閉。またコロンナ家内でも分裂し、コロンナ―リオフレッド家は法王側につき、ステファノ兄弟はフランスに亡命します。


フランスのフィリップ四世は法王と対立していたため、コロンナ家の亡命者を受け入れジャコモを指揮にイタリアに軍を送ります。ボニファーチョ八世は生まれ故郷のアナーニ( Anagni )に逃げ込み、そこでとらえられ3日間の囚人生活ののち、アナーニの住民により釈放されましたが3週間後、憤死。これが「アナーニ事件」と呼ばれる中世のスキャンダルです。


1306年、三兄弟はローマに帰還しますが、皇帝派と法王派の紛争は激しくなるばかりで、粗暴なジャコモはウルトラ皇帝派を自称し粗暴な行動を繰り返します。


1309年、法王クレメンテ五世はローマの惨状に愛想をつかしフランス王の意向もあり法王庁をアヴィニョンに移してしまいます。なぜかステファノはアヴィニョンに簄従し、文学の世界に身を引いてペトラルカ( Francesco Petrarca )のパトロンになったりしています。アヴィニョンでは優雅な文学のサークルが花盛りとなりますが、ローマは法王不在が封建領主たちの凶暴化に拍車をかけました。1347年、ポルタ・サン・ロレンツォ( Porta San Lorenzo )の戦いでコロンナ軍はコーラ・ディ・リエンツォ( Cola Di Rienzo )から手痛い敗北を喫します。


1350年、コロンナ家の総帥はステファノの孫、ステファネッロ( Stefanello )は一族の屈辱を晴らすべくコーラ・ディ・リエンツォを虐殺します。この時代、ローマはペストが流行し、ローマ帝国崩壊後最悪の時代と言われました。コロンナ家も有能な舵取りが不在で、教会分裂のこの時期を悪評の中に過ごします。ステファネッロの息子ニッコロ( Niccolo )とジョヴァンニ( Giovanni )は、ナポリ王のもとで相変わらず反法王の気炎を上げていましたが、相手の法王ジョヴァンニ二十三世( Giovanni ventitoredicesimo )はその彼らにチヴィタ・ラティーナ( Civita Latina )、フラスカーティ( Frascati )などの領土を認めました。





コロンナ家が回復し始めるのは、別系のコロンナ家から法王を出したことに始まります。「向こう見ず三兄弟」の二番目アガーピトの家系から出たオッドーネが、1417年マルティーノ五世の名で法王となります。彼はローマ法王庁をアヴィニョンからローマに戻した法王として知られていますが、そのローマは荒廃がひどくマルティーノ五世はまず法王の住居から整備をしなくてはなりませんでした。道路の整備、街の治安の回復、教会の修復、またマサッチョ( Masaccio )などの芸術家もローマに呼び寄せます。


この法王の出現によりコロンナ家はさらに領土を広げます。ナポリのジョヴァンナ女王と結び、法王の弟ジョルダーノ( Giordano )はアマルフィ( Amalfi )とヴェノーザ( Venosa )の侯爵となり、法王の甥プロスペーロ( Prospero )は枢機卿に、一族を次々と有力貴族と結婚させたのでした。











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