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十字軍に参加し負傷したノルマンディー公ロベール二世を迎えるサレルノの医学校の様子。 ( Biblioteca Universitaria, Bologna )




ローマはようやくそれらしい天気になったと思ったらまた曇り空。

降雨量の増加はローマの遺跡にも大きな被害を与えている、と過去の新聞記事にもありましたが、ローマっ子の精神状態にも影響を与えているんじゃないかと思うくらい、会う人会う人、天候についての愚痴がつきない昨今です。



少し前にイタリアで興ったフェミニズムについて書きましたが、そのほとんどが北イタリアの女性が主役でした。

今月号の「 STORICA 」の一記事は、サレルノに古くから存在していた医学学校について詳しく触れているのですが、なんと北イタリアの女性たちに300年近く先駆けて南イタリアに著名な女医さんがいたそうです。

大学について書いた際にも真っ先に登場したサレルノの医学学校、そして解剖学ついて書いた際には外科治療がおろそかにされているような印象でしたが、近代医学にたどり着くまでに努力をした人々が集った学校のお話です。

サレルノ大学の前身といわれるサレルノの医学学校 ( Scuola medica salernitana ) の起源が一体いつなのか、詳しいことはよくわかっていません。

確かなのは11世紀には学校独自の教科書をすでに作っていたこと、さらにフランスはランスのリケロ ( Richero di Reims ) なる人が著作『歴史 ( Historia ) 』の中で、946年にフランス宮廷内でアミアンの大司教とサレルノの医師が論争をしている著述が残っていること、またいくつかの写本から846年にはすでにその存在が確認できるとのことです。

984年にはフランスのベルダンの司教アダルベロン ( Adalberone ) という人が、サレルノの有名な医師団に診断を仰ぐためにサレルノに赴いています。

当時、サレルノは医学だけではなく哲学も盛んで、著名な医師たちの銅像とともにエレア学派の祖である古代ギリシアのパルメニデスの銅像が最近の発掘から見つかったそうです。

「西暦1000年を迎えたころのサレルノは西洋文化のルネサンスを迎えていました」と語るのは、サレルノ文化財保護局長のマリエッラ・パスカ ( Mariella Pasca ) 女史です。

「当時のサレルノは、文化と商業流通の分岐点でした。ロンバルディア王国の首都がおかれ、古典文学の研究が根づき、外国から入ってくる知識を吸収して独自の科学を作り上げようとしていた時期です。自然と調和した人間の健康について哲学の分野から研究が始まり、やがて医学が花開きました」。

サレルノ医学校に残る最も古い「教科書」の著者はガリオポント ( Garioponto ) 。一説によれば修道士であったと言われる彼は、1020年から1050年の30年間、教授としてサレルノ医学校に従事し、著作『 Passionario 』を残しています。古代ギリシアの医学者ヒポクラテスと古代ローマの医師ガレノスの著作を研究し、新たに「癒着する ( cicatrizzare ) 」「 焼灼する ( cauterizzare ) 」といった医学用語を作りだしました。

当時の医学はヒポクラテスが提唱した「四体液説」を基礎としていて、「血液」「粘液」「黄胆汁」「黒胆汁」のバランスが体内で保たれていれば「心身ともに健康」、だったそうで、これについては過去にこちらに記事にしています。

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患者の尿検査をするコスタンティーノ・ラフリカーノ( ラテン名はコンスタンティヌス・アフリカヌス ) 。北アフリカからサレルノにたどり着き、モンテカッシーノのサン・ベネデット修道院で医学書の翻訳をおこないました。 ( Abbazia di Montecassino )





論理のほうは古代ギリシアに依ったサレルノ医学校は、現場での実施はアラブ式だったそうです。伝説によればサレルノ医学校の創設者は「アラブ人」「ギリシア人」「ユダヤ人」「サレルノのイタリア人」の4人だったそうですが、コスモポリタンであった学校の様子が伝わってくる伝説です。

実施にアラブ式が採用された決定的な理由は、ある人物の存在があります。

彼の名はコスタンティーノ・ラフリカーノ ( ラテン名は Constantinus Africanus ) 。11世紀初頭のカルタゴ生まれ。彼は生地で「魔術の使い」と告発され逃亡し、サレルノにたどり着きます。医学校に迎えられた彼は学校の教科書にアラブの書物の翻訳がないことを知り、街の大司教アルファーノ ( Alfano ) の経済的な援助を背景にラテン語への翻訳を始めます。

1070年ごろ、大司教はコスタンティーノをより翻訳に没頭できるモンテカッシーノの修道院に送りました。記録によれば彼はその地で、ベネデット派の僧衣を身につけアラブの医学に関する書物の翻訳に没頭したそうです。そのまま1087年頃、モンテカッシーノで亡くなっています。

この行為は宗教界とその外にあった医学知識に相互影響をもたらすという効果もありました。当時の医療行為は修道士によって行われるのが通常であったようなので、世俗の世界から舞い込んできたアフリカヌスは二つの世界のかすがいとなったのでしょう。

1138年にはサレルノにサン・ビアージョ病院 ( ospedale di S. Biagio ) が設立されますが、その経営はまったく修道院に関係のない人たちの手で行われ、女性も病院内で仕事に従事していたそうです。

12世紀に入ると、学校が作り出すテキストは古代や前時代の書物の翻訳や研究ではなく、現場で培われた知識を盛り込んだ時代の先端をいくものに変わりました。

その代表はマッテオーオ・プラテアーリオ ( Matteo Plateario ) が著した「 De simplici medicina 」でこれは薬草に関する本。この本は14世紀までに爆発的に普及し、パリ大学の医学部をはじめとして薬草を扱う人たちの間で必見の書となります。




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イタリア初の外科に関する医学書『 Chirurgia Magistri Rogerii 』の挿絵から。こちらはフランス語版です。いろいろな部位にけがをした人々が描かれています。 ( British Library )



また十字軍に参加して負傷した人々が運び込まれることが多かったことから外科部門も発展し、さらには眼科・泌尿器科でもサレルノ医学学校は有名になりました。

外科で有名なのは、12世紀の終わりごろに活躍しサレルノ医学校に外科部門を創設したと言われるパルマ生まれのルッジェーロ・フルガルド ( Ruggero Frugardo ) とその弟子グイド・ダレッツォ ( Guido d’Arezzo, 楽譜の表記法を考えた同名の修道士とは別人です ) 。後世には医学のメッカとなるパルマ生まれのフルガルドがサレルノで活躍した、というのがこの時代の医学を物語っています。

この二人により『 Chirurgia Magistri Rogerii 』が書かれました。この書物はイタリアにおける最初の外科に関する著作と言われています。こちらの書物も13世紀から15世紀にかけて、医療に携わる人々の必携の書でした。

書物の内容から当時の最新技術を垣間見ることができます。絹糸による血管の縫合、外傷によって損傷した内臓の治療法、開頭手術、ヨウ素を含んだ海藻による甲状腺の治療、などなど。




高名になったサレルノ医学校は、1231年シチリア王で神聖ローマ皇帝であったフェデリーコ二世の王国法典によって制度化されます。

・医療行為はサレルノ医学校に学んだ者のみに許されること

・医学生は3年間は論理を学び5年間は現場実習を行うこと

・学校での履修の後、最低でも1年間は先輩医師の監督のもと現場で研修を行うこと

さらに、医学を志す若者のために予備校まで設立されました。「 Collegium Medicorum 」と呼ばれたこの寄宿学校の管理もサレルノ医学校の教師たちの手に任されます。

しかしこの時代からサレルノ医学校は危機に突入します。

フェデリーコ二世が創設したナポリの大学の存在が大きくなり、医学学校と運命を分った寄宿学校のほうは宗教色を濃くし、独特の儀式とともに1811年まで存在していました。

医学校のほうは14世紀のアンジュー家の時代に初めて「大学」となりますが、1811年にナポレオンの義弟でナポリ王となったジョアシャン・ミラ ( Joachim Murat ) によってナポリ王国の大学はフェデリーコ二世大学のみ、と定められサレルノ大学は「王国高等学校 ( Real Liceo ) 」に格下げされます。

1944年にようやく大学に戻り、1968年に国立大学として再出発をしております。

現在は医学部をはじめとする10学部を擁する総合大学となっています。



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サレルノ医学校が誇る女医トロトゥラ・デ・ルッジエーロ ( Trotula de Ruggiero ) が著した『 De passionibus mulieum ante in et post partum ( 産前産後の病について ) 』の挿絵。彼女の著作は16世紀までヨーロッパの医学界に影響を及ぼし続けました。




ところで、非常に開かれた精神を持っていたこのサレルノ医学校には女性も学んでいたことがわかっていて、在学生の記録では Abella Salernitana とか Rebecca Guarna といった女性名が残っていますが、その中で突出した存在となっているのがトロトゥラ・デ・ルッジエーロ ( Trotula de Ruggiero ) という女性です。

彼女の生没年は不確かですが11世紀の人物であることは間違いなく、サレルノの貴族デ・ルッジエーロ家の娘でした。夫も代々医家であったプラテアーリオ家のジョヴァンニ ( Giovanni Plateario ) で、二人の息子もサレルノ医学校の教師となっています。

彼女は当時女性たちが頼っていた占星術や祈祷による治療を否定し、当時はまったく見向きもされなかった

・衛生状態の管理

・栄養のバランス

・運動の必要性

を説き「病気の予防」の重要性をうたった先進的な女医さんでした。

彼女の有名な著作は二つ。

『 De Passionibun mulierum ante in et postpartum 』は、産前産後の女性の病気について著したもの。

『 De Ornatu mulierum 』は女性の美容術について言及したものです。

前者は出産、婦人病、子供の養育などなど女性の身体や精神について詳しく研究していて、生理についての病理学にまで及んでいます。

特に注目すべきは歴史上初めて、不妊の原因が女性の側だけにあるのではない、断言したことでこれには様々な反論があった模様です。

トルトゥラはこれを尿検査によって立証しています。

それによると夫婦二人の尿をガラスの瓶に入れて数日おき、ある種の虫の湧いたほうが「不妊」の問題がある、と著述しているそうで、真偽はともかくこれは画期的な発言だったのではないでしょうか。

後者の美容についての本は、女性の肌、抜け毛、歯の重要性などについて詳しく言及しています。曰く「女性の美は心身の健康から」、とまるで現在の厚生労働省のキャンペーンみたいなことを1000年も前にうたっています。



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サレルノ医学校の教科書『 Regimen Sanitatis Salernitanum 』の表紙。王様にもぜひ読んでもらいたい!



ここからはサレルノ医学校に関するこぼれ話です。

この学校の教科書のひとつに『 Rego,em Sanitatis Salernitanum 』という書物があり、こちらも多くの無名の医師たちが現場の経験から情報を収集し、11世紀ごろに編集された本。

この本にはある伝説があります。

1099年、第一次十字軍に参加したノルマンディー公ロベール二世は戦闘中の怪我の治療のためサレルノを訪れます。

高名なサレルノ医学校の医師たちに、ロベール二世は「健康のための必読の書は何か」とたずねたそうです。医師たちの答えは異口同音にこの本だったそうです。

その内容は

「健康でいたいのならば、

・くよくよと物事を考えない

・短気を起こさない

・アルコールは控えめに

・食事はつつましく

・昼食の後も昼寝を避けて

・尿意は我慢しない

・トイレで長くふんばらない

これらを守ればある程度長生きできる。

また、優秀な医師に恵まれなければ

・朗らかな精神

・平静

・軽めのダイエット

が自身の良き医師だと思いなさい」

と記されているそうです。

これは現代社会にも通用する部分が大いにあるのではないでしょうか。




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サレルノ医学校の面影を残すミネルヴァの庭 ( Giardino della Minerva ) 。四つの通路には「四体液説」のそれぞれの文字が書かれています。





ところでこのサレルノ医学校の面影をしのべるのは、現在残る「ミネルヴァの庭園 ( Giardino di Minerva ) 」。ここは学校付属の薬草園があったそうです。

14世紀、マッテーオ・シルヴァティコ ( Matteo Silvatico ) という人がヨーロッパじゅうから植物を取り寄せてここで栽培と研究を行っていたそうです。

現在の庭園から2メートル掘り下げたところから、中世の薬草園の跡が見つかっているとか。

医師で植物学者であったシルヴァティコは、ナポリ王ロベルト一世 ( Roberto d’Angio ) の侍医でもあり『 Opus Pandectarum Medicinae 』の著者でもあります。この書物には487種類の薬草と1972に及ぶ植物の名前が登場し、ラテン語、ギリシア語、アラブ語の表示名も残されています。

植物だけではなく157種の鉱物、77の動物がいかにして治療に利用されていたかの説明もあります。

14世紀の詩人ボッカッチョ ( Giovanni Boccaccio ) は、このナポリ王の宮廷でシルヴァティコと知り合い、その知識を著作の中で生かした可能性もあるそうです。

ボッカッチョが作品中に用いた薬物は「 Spongia Soporifera 」、直訳すると「催眠を促すスポンジ」で、クロロフォルムで気絶させるのと同じ効用があった模様。

その処方箋がモンテカッシーノの修道院に残っているそうです。

「半オンスのアヘン ( oppio tebaico ) , matala と呼ばれる植物の液8匙、ヒヨス ( giusquiamo ) の植物液3匙、マンドラゴラ ( mangragola ) の植物液も3匙、

これらをスポンジに吸わせて良く乾かす。利用する際には熱湯にこのスポンジをつけたのち、相手の鼻孔に近づける。吸わされた人間は長く睡眠することになる。

この人間の目を覚ましたい場合には、別のスポンジに熱した酢を吸わせてこれを鼻孔に近づければ、あっという間に目を覚ます」。

マンドラゴラはマキャヴェッリも作品中に小道具として利用していて、同名のタイトルの喜劇として残っています。

おそらく痛みを伴う治療に麻酔剤のように利用していたのでしょうが、文学者たちのインスピレーションも刺激した医学知識だったんですね。


というわけで、長い歴史を誇るサレルノ大学、ナポリは権力者がころころ変わる土地でその影響を受けて紆余曲折もあったようですが、近代医学が幕を開くまでサレルノで培われた医学の知識はヨーロッパ中に普及していたようです。

「健康でいるためには清潔に」と提唱したサレルノの女医さんの言葉が、その後まったく忘れ去られたようなヨーロッパの衛生状態を思うとちょっと悲しい限りですが。





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