大村益次郎
2011年12月02日
靖国神社は、東京の九段にある神社で、明治2(1869)年8月6日に、戊辰戦争(ぼしんせんそう=明治新政府が、幕府勢力を一掃した戦争)に於ける朝廷方の戦死者を慰霊するために、大村益次郎の献策(建設地を決定後に暗殺される)により「東京招魂社」(しょうこんしゃ)として創建されました(文楽師匠は、戦前の「小言幸兵衛」の音源で、「この段だから伺う訳で、九段なら招魂社」と云うクスグリを入れてます)。
明治12(1879)年6月4日に靖国神社と改称しました。その命名は明治天皇で、孔子の編纂した歴史書と伝えられる「春秋」の注釈書である「春秋左氏伝」の中にある「吾以靖国也」(吾以つて国を靖んずるなり)を出典としています。
戦前は内務省が人事を、陸軍・海軍が祭事を統括しましたが、戦後は、日本国憲法第20条の政教分離の原則により宗教法人となっていて、日本政府との直接的な関係はありません。単一宗教法人で、神社本庁には加盟しておらず、都知事認証の単立神社(単立宗教法人)です。
祭神は、戊辰戦争(1868〜1869)以降の日本が関係した国内外の事変・戦争において、戦役に就き戦没した日本の軍人・軍属を、慰霊・顕彰・崇敬などの目的で祀っています。
祭神の総計は、246万余柱で、その内訳は、大東亜戦争=213万余柱。支那事変=19万余柱。日露戦争=8万余柱。満州事変=1万余柱。日清戦争=1万余柱などです。戊辰戦争以降の戦没者と云う事になっていますが、幕末の吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作、中岡慎太郎、武市半平太、橋本左内、大村益次郎なども、『維新殉難者』として合祀されています。
正式参拝(出典=ウィキペディア)
正式参拝は神道の作法で行われるのが正しい。参集所から参入し、手水を取り、修祓(しゅばつ)を受けて本殿に昇り、玉串を奉げる。その後、二礼二拍手一礼し、退出の時に、御神酒を受け取る。社頭参拝は、鳥居をくぐり、手水を取り、拝殿前で二礼二拍手一礼をする。
なお、首相が参拝する時には、日本国憲法第20条で規定された政教分離(特定の宗教の流儀を実行すると国家がその宗教に援助を与えているとみなされるおそれがある)に配慮して、本殿に昇殿はしてもお祓いも受けず、二礼二拍手一礼も行わない場合がある。
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明治12(1879)年6月4日に靖国神社と改称しました。その命名は明治天皇で、孔子の編纂した歴史書と伝えられる「春秋」の注釈書である「春秋左氏伝」の中にある「吾以靖国也」(吾以つて国を靖んずるなり)を出典としています。
戦前は内務省が人事を、陸軍・海軍が祭事を統括しましたが、戦後は、日本国憲法第20条の政教分離の原則により宗教法人となっていて、日本政府との直接的な関係はありません。単一宗教法人で、神社本庁には加盟しておらず、都知事認証の単立神社(単立宗教法人)です。
祭神は、戊辰戦争(1868〜1869)以降の日本が関係した国内外の事変・戦争において、戦役に就き戦没した日本の軍人・軍属を、慰霊・顕彰・崇敬などの目的で祀っています。
祭神の総計は、246万余柱で、その内訳は、大東亜戦争=213万余柱。支那事変=19万余柱。日露戦争=8万余柱。満州事変=1万余柱。日清戦争=1万余柱などです。戊辰戦争以降の戦没者と云う事になっていますが、幕末の吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作、中岡慎太郎、武市半平太、橋本左内、大村益次郎なども、『維新殉難者』として合祀されています。
正式参拝(出典=ウィキペディア)
正式参拝は神道の作法で行われるのが正しい。参集所から参入し、手水を取り、修祓(しゅばつ)を受けて本殿に昇り、玉串を奉げる。その後、二礼二拍手一礼し、退出の時に、御神酒を受け取る。社頭参拝は、鳥居をくぐり、手水を取り、拝殿前で二礼二拍手一礼をする。
なお、首相が参拝する時には、日本国憲法第20条で規定された政教分離(特定の宗教の流儀を実行すると国家がその宗教に援助を与えているとみなされるおそれがある)に配慮して、本殿に昇殿はしてもお祓いも受けず、二礼二拍手一礼も行わない場合がある。
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2011年03月23日
靖国神社は、東京の九段にある神社で、明治2(1869)年8月6日に、戊辰戦争(ぼしんせんそう=明治新政府が、幕府勢力を一掃した戦争)に於ける朝廷方の戦死者を慰霊するために、大村益次郎の献策(建設地を決定後に暗殺される)により「東京招魂社」(しょうこんしゃ)として創建されました(文楽師匠は、戦前の「小言幸兵衛」の音源で、「この段だから伺う訳で、九段なら招魂社」とクスグリを入れてます)。
明治12(1879)年6月4日に靖国神社と改称しました。その命名は明治天皇で、孔子の編纂した歴史書と伝えられる「春秋」の注釈書である「春秋左氏伝」の中にある「吾以靖国也」(吾以つて国を靖んずるなり)を出典としています。
戦前は内務省が人事を、陸軍・海軍が祭事を統括しましたが、戦後は、日本国憲法第20条の政教分離の原則により宗教法人となっていて、日本政府との直接的な関係はありません。単一宗教法人で、神社本庁には加盟しておらず、都知事認証の単立神社(単立宗教法人)です。
祭神は、戊辰戦争(1868〜1869)以降の日本が関係した国内外の事変・戦争において、戦役に就き戦没した日本の軍人・軍属を、慰霊・顕彰・崇敬などの目的で祀っています。
祭神の総計は、246万余柱で、その内訳は、大東亜戦争=213万余柱。支那事変=19万余柱。日露戦争=8万余柱。満州事変=1万余柱。日清戦争=1万余柱などです。戊辰戦争以降の戦没者と云う事になっていますが、幕末の吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作、中岡慎太郎、武市半平太、橋本左内、大村益次郎なども、『維新殉難者』として合祀されています。
正式参拝
正式参拝は神道の作法で行われるのが正しい。参集所から参入し、手水を取り、修祓(しゅばつ)を受けて本殿に昇り、玉串を奉げる。その後、二礼二拍手一礼し、退出の時に、御神酒を受け取る。社頭参拝は、鳥居をくぐり、手水を取り、拝殿前で二礼二拍手一礼をする。
なお、首相が参拝する時には、日本国憲法第20条で規定された政教分離(特定の宗教の流儀を実行すると国家がその宗教に援助を与えているとみなされるおそれがある)に配慮して、本殿に昇殿はしてもお祓いも受けず、二礼二拍手一礼も行わない場合がある。(出典=ウィキペディア)
靖国神社の歌 作詞=細渕国造 作曲=和真人(海軍軍楽隊) 昭和15(1940)年
一番
日の本の光に映えて 尽忠の雄魂祀る 宮柱太く燦たり あゝ大君のぬかづき給う 栄光の宮靖国神社
二番
日の御旗断乎と守り その命国に捧げし ますらおの御魂鎮まる あゝ国民の拝み称う いさおしの宮靖国神社
三番(この音源では歌われていません)
報国の血潮に燃えて 散りせまし大和をみなの 清らけき御霊安らう あゝ同胞の感謝は薫る 櫻さく宮靖国神社
四番
幸御魂幸わへまして 千木高く輝くところ 皇国は永遠に厳たり あゝ一億の畏み祈る 国護る宮靖国神社
明治12(1879)年6月4日に靖国神社と改称しました。その命名は明治天皇で、孔子の編纂した歴史書と伝えられる「春秋」の注釈書である「春秋左氏伝」の中にある「吾以靖国也」(吾以つて国を靖んずるなり)を出典としています。
戦前は内務省が人事を、陸軍・海軍が祭事を統括しましたが、戦後は、日本国憲法第20条の政教分離の原則により宗教法人となっていて、日本政府との直接的な関係はありません。単一宗教法人で、神社本庁には加盟しておらず、都知事認証の単立神社(単立宗教法人)です。
祭神は、戊辰戦争(1868〜1869)以降の日本が関係した国内外の事変・戦争において、戦役に就き戦没した日本の軍人・軍属を、慰霊・顕彰・崇敬などの目的で祀っています。
祭神の総計は、246万余柱で、その内訳は、大東亜戦争=213万余柱。支那事変=19万余柱。日露戦争=8万余柱。満州事変=1万余柱。日清戦争=1万余柱などです。戊辰戦争以降の戦没者と云う事になっていますが、幕末の吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作、中岡慎太郎、武市半平太、橋本左内、大村益次郎なども、『維新殉難者』として合祀されています。
正式参拝
正式参拝は神道の作法で行われるのが正しい。参集所から参入し、手水を取り、修祓(しゅばつ)を受けて本殿に昇り、玉串を奉げる。その後、二礼二拍手一礼し、退出の時に、御神酒を受け取る。社頭参拝は、鳥居をくぐり、手水を取り、拝殿前で二礼二拍手一礼をする。
なお、首相が参拝する時には、日本国憲法第20条で規定された政教分離(特定の宗教の流儀を実行すると国家がその宗教に援助を与えているとみなされるおそれがある)に配慮して、本殿に昇殿はしてもお祓いも受けず、二礼二拍手一礼も行わない場合がある。(出典=ウィキペディア)
靖国神社の歌 作詞=細渕国造 作曲=和真人(海軍軍楽隊) 昭和15(1940)年
一番
日の本の光に映えて 尽忠の雄魂祀る 宮柱太く燦たり あゝ大君のぬかづき給う 栄光の宮靖国神社
二番
日の御旗断乎と守り その命国に捧げし ますらおの御魂鎮まる あゝ国民の拝み称う いさおしの宮靖国神社
三番(この音源では歌われていません)
報国の血潮に燃えて 散りせまし大和をみなの 清らけき御霊安らう あゝ同胞の感謝は薫る 櫻さく宮靖国神社
四番
幸御魂幸わへまして 千木高く輝くところ 皇国は永遠に厳たり あゝ一億の畏み祈る 国護る宮靖国神社
2009年10月07日
とことんとは、何ぞや? ・・・(^ω^)
しばしば、「とことん、やっつけてやる!」とかって云いますよね。
つまり、日本語で「とことん」と云った場合は・・・最後の最後までとか、徹底的にと云う意味なんです。
まあ、それはさて置き・・・お若い方は聴いた事はないと思いますが「トコトンヤレ節」ってのがあります。
これは、一般的には「トンヤレ節」と云う名前で知られていますが・・・「宮さん宮さん」と云う歌詞でよく知られています。明治維新の際、官軍が天皇旗を掲げて鼓笛隊として行進した時に、このトンヤレ節が演奏されたんだと思います。当時の様子を映画にしたものでは、ほとんどトンヤレ節を使ってます。
宮さん宮さんお前の前に、ちらちらするのはソラ何や、あれは朝敵征伐せいとの錦(にしき)の御旗(みはた)を知らないか、とことんやれ
・・・と云う歌詞なのですが・・・作詞・作曲者は不明とされていますが、作詞が品川弥二郎で、作曲は大村益次郎ではないかと云うのが定説です。
大村益次郎(1824〜1869)と云う人は、幕末の長州藩の医師でしたが、西洋の学問を学び、兵学を極めた人です。戊辰戦争に勝利し、明治の新時代を築く、日本陸軍の創始者と云われています。
明治2年6月、戊辰戦争での朝廷方戦死者を慰霊するため、東京招魂社(後の靖国神社)の建立を献策しましたが、その完成を待たずして暗殺されてしまいました。靖国神社には、日本初の西洋式銅像として、大村益次郎像があります。
しばしば、「とことん、やっつけてやる!」とかって云いますよね。
つまり、日本語で「とことん」と云った場合は・・・最後の最後までとか、徹底的にと云う意味なんです。
まあ、それはさて置き・・・お若い方は聴いた事はないと思いますが「トコトンヤレ節」ってのがあります。
これは、一般的には「トンヤレ節」と云う名前で知られていますが・・・「宮さん宮さん」と云う歌詞でよく知られています。明治維新の際、官軍が天皇旗を掲げて鼓笛隊として行進した時に、このトンヤレ節が演奏されたんだと思います。当時の様子を映画にしたものでは、ほとんどトンヤレ節を使ってます。
宮さん宮さんお前の前に、ちらちらするのはソラ何や、あれは朝敵征伐せいとの錦(にしき)の御旗(みはた)を知らないか、とことんやれ
・・・と云う歌詞なのですが・・・作詞・作曲者は不明とされていますが、作詞が品川弥二郎で、作曲は大村益次郎ではないかと云うのが定説です。
大村益次郎(1824〜1869)と云う人は、幕末の長州藩の医師でしたが、西洋の学問を学び、兵学を極めた人です。戊辰戦争に勝利し、明治の新時代を築く、日本陸軍の創始者と云われています。
明治2年6月、戊辰戦争での朝廷方戦死者を慰霊するため、東京招魂社(後の靖国神社)の建立を献策しましたが、その完成を待たずして暗殺されてしまいました。靖国神社には、日本初の西洋式銅像として、大村益次郎像があります。