1年半ほど前にブログで綴った辛気臭い話の続きになってしまいますが、私の母は2016年の7月某日に他界しました。
この母がなかなかの曲者でして、実のところ丸8年以上絶縁状態が続いていて、再会のきっかけは姉から母の末期がんの知らせ、最後に会ってくれないか?それがきっかけでした。
再会を果たしたのは2015年の12月某日。
7か月だけの期間でございました。

そんな母でしたが2016年の1月に姉夫婦と旅行に行っておりました。
私へのお土産は何やら神聖な木から削り出され長生きを祈願された長寿箸でございました。

箸をもらった時、正直私は思った。

人の長寿を願うなら自分が1日でも長く生きながらえることを願えよ・・と。

しかしなんでこの箸を渡したのかな?
この箸を使うたびに考える事でした。

そんな大切な箸だったのですが、私の家の箸立ては箸立てではなく箸横っていうのかな?
フォークやナイフを入れるような横置きの籠のような物に箸を入れておりました。
これ、箸を使うたびに下の方に潜って行っちゃうんですよね。
そんなこんなで底の方に潜ってしまっていた長寿箸・・
ふと思い出して今日の晩御飯の時に引っ張り出して使ったわけですが、何故私に長寿箸だったのか?
これが真っ先に思い浮かんでくるわけです。

晩飯を目の前に箸を片手に何故か?を考えていたのですが・・

親の立場になって考えてみる。
はじめてこの発想に至りました。

自分の子供に長寿の箸を渡す。

ハッとしました。

多分ですが、きっと母は自分が長くない、治らないことを悟っていたのでしょう。
私は長生きできなかったけど、お前は長生きしなよ。
そんな思いが込められていたのでは?
そう思わざるを得ない状況は何度かありました。

母には余命の事や病状は一切知らせておらず、きっと治るよ。ネットで調べた権威ある先生に話しに行って見てもらえることになったよ!
こんな話ばかりしておりましたが、時折「まずい・・感づかれてる?」
そんなシーンは幾度とありました。

だから、やはり母は分かっていたんだと思う。
分かっていたからこその長寿箸だったのだと思う。

人は時折「なんで?」といった言動をすることがあります。
これにはきっとその人なりの思いが隠されている。
これからは一歩踏み込んで考えてみよう。

やっとその意味に気が付けて人として一歩大人になれたと思った寒い夜の事でした。