永遠なる原型・・・・


<幸福と「型」>

 行動があるリズミカルなものになると、ある種の幸福感が生じる。もちろん、行動は意識の現れである。けれども、意識を「型」に当てはめて、ある程度、持続するならば、意識は、その型によって、幸福感を生じさせられる、ということになる。この意味において、動的な幸福とは、行動にと意識を合わせることによって生じ得るもの、とも言える。

 けれども、無論、行動しようという意識もまた、自己が発しているものである。それゆえ、「行動にと意識を合わせる」とは、その行動自体に意識を向ける、つまり、その行動にと意識を集中する、ということである。


<思考における単一性>

 そもそも、人間は、同時に、二つのことを考える、ということができない。よく、散歩をしながら思索するとか、食事をしながら会話をするとか言うけれども、これらなどは、あたかも、散歩をしようとする意識と思索しようとする意識が同時に行われているかのように言われている。

 同様に、食事をしながらの会話もそうであるけれども、より厳密に言えば、これらも、同時に行われているわけではなく、「惰性」を、その都度、利用しながら、歩行、思索、歩行、思索、あるいは、食事、会話、食事、会話という具合に交互に意識を向けているだけである。それゆえ、このような場合には、意識は二つのことに関わっている。


<幸福と集中、惰性>

 これらとは別に、意識を一つのことにと集中する時、例えば、ある行動にと集中する時、そこにある種の幸福感が生じるのである。はじめは、ある一定の行動にと、意識を「合わせる」ことに集中する。そうして持続していると、その行動を意識しなくてもできる瞬間が断片的に生じてくる。

 そうして、それらの断片をつなぎ合わせるように意識を向け、さらに、それを、ある程度、持続すると、「惰性」が形成される。人間は、長い経験のうちに、このようなことを無意識的に行えるぐらいまでに高まっている。散歩中の思索も、食事中の会話も、元はと言えば、特定の行動への集中、という過程を経て、「惰性」を形成した後に自然にできるようになったのである。

 このように、意識を二つのことに向けるのではなく、一つのことに向け続ける時に生じる幸福感のことを「動的な幸福」と呼ぶ。その集中の持続における「惰性」が、確かに、「幸福感」にと変わる瞬間があるのである。よく言われるように、マラソンをする人などにおいて、その最中に、一種の陶酔状態にとなる、と言われている。これなども、「集中」から「惰性」、そして、「幸福感」へのプロセスを経ているようである。


<永遠なる原型>

 このようなことは、マラソンに限らず、あらゆる行動の中に潜んでいる。仕事においても、何らかの勝負ごとにおいても、さらには、「無執着な行動」全般の中にも、今か今かと、芽を出そうとしている植物のように、潜んでいる。

 その種子の原型は、永遠に存在しているかのようであり、あらゆる人間の心の奥深くに、一様に存在している。その種子が発芽する瞬間に出る美しくも荘厳なる輝きは、一瞬、すべての天を照らすかのように、上方に満ちる。その輝き渡る光の中で、淡い幸福な輝きとして、自らに降り返ってくる。その時、聞こえるだろう。

 光の中を自由に舞うあの天使たちの歌声が・・・・。
 さらには、それに寄り添うように、美しく奏でられるあの天上の音楽が・・・・。
 そして、下方には、自らが奏でた過去の様々な人生が・・・・。




【参考文献】






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