本文抜粋 


「法」は、全人類共通の「普遍言語」である。

「人」の「個別的な部分」における意識の「潜在的な部分」には、すべての「人」が「潜在的に」持ち得ている「普遍的な法」がある。

 古来から、世界に起こっている「宗教対立」は、この「普遍的な法」の部分的な顕在化による「対立」である。

 各々の宗教の「良さ」を観ることによって、その「良さ」を認め合い、互いに「共生」できる方法を模索するべきである。



                                 本文 


  正当な行為  

≪・・・・いかなる行為にもせよ、その行為が、あるいは、その行為の準則に従って、各人の意志の自由が、何びとの自由とも普遍的に従って両立しうるならば、その行為は正当である。・・・・≫



  法  

 「法」は、全人類共通の「普遍言語」である。「法律」より、より根本的な「法」においては、時代や地域を問わず、全人類に「普遍的に」妥当する。それゆえ、本来、全人類は、この「法」において、「人類」というひとつの「種」なのである。



  普遍的な法  

 「人」の「個別的な部分」における意識の「潜在的な部分」には、すべての「人」が「潜在的に」持ち得ている「普遍的な法」がある。否、それは、(個々の人霊が)誕生した時から備わっている。

 この「普遍的な法」を哲学においては、「真理」と呼び、法学系統においては、「自然法」と呼んでいる。また、宗教においては、「真理」と呼ぶこともあれば、直接、「法」と呼んでいる場合もある。

 いずれにせよ、この「普遍的な法」が、「潜在的に」とは言え、すべての人の意識の奥深くに眠っているのであるから、それらを(すべての人が)蘇らせることができるのならば、すべての人が「共通の法」、つまり、この「普遍的な法」のもとに「ひとつに」なれるわけである。



  部分と部分の対立  

 ところが、現状を観ると、この「普遍的な法」を各々「部分的に」顕在化させて、それのみが「絶対的に正しい」とする、というような風潮にある。そのため、「部分」と「部分」が互いに「対立」する構造にと仕立てられている。

 けれども、この「普遍的な法」における「部分部分」は、それ自体は各々「正しいもの」であるけれども、「部分」と「部分」が「世界」に個々別々に顕在化した場合には、往々にして、互いに「対立」し合う、ということもある。

 それゆえ、この「普遍的な法」は、「部分部分」の顕在化という、尚早なやり方ではなく、じっくりと、時間をかけて、「全体的に把握する」ようなやり方で顕在化してゆくのが望ましいことである。



  宗教対立の原因  

 古来から、世界に起こっている「宗教対立」は、この「普遍的な法」の部分的な顕在化による「対立」である。「自分の信じている宗教のみが正しい」とするところに、宗教的な紛争の「因」がある。

 ところが、よくよく観ると、それなりに長く続いている宗教というものは、「悪」にとみられるものにおいても、どちらかというと、むしろ、「善」のほうに入る。

 戒律の厳しい宗教においても、それ自体は、決して、「悪」でもなく、むしろ、「善」である。世界の一部に、こうした「厳しい宗教」が存在していることは、享楽に溺れやすい人間への戒めとなる。忘れっぽい人間がすぐに思い出せるように、「世界」にそうした宗教があることによって、自省しようとする思いが働く。

 もちろん、こうした宗教においても、その厳しさを「他に強制する」ようにまでなると、行き過ぎである。他の人々の視野に入る程度の活動にと留めておくべきである。



  互いに「共生」できる方法  

 このように、各々の宗教の「良さ」を観ることによって、その「良さ」を認め合い、互いに「共生」できる方法を模索するべきである。カントが言うように、「各人の意志の自由が、何びとの自由とも普遍的に従って両立しうるならば、その行為は正当である」のだから・・・・。





-参考文献-

『カント』 坂部恵著〔講談社〕 P341