本文抜粋 


「絵がうまい人」というのは、「意識」が他の人よりも、特別に柔軟で、対象に対して、極めて「融和的な」関係を容易につくれるような「意識」にとなっている。

 真に「絵のうまい人」というのは、「対象」を「直観的に把握する」ことによって、それを作品にと仕上げている。

 この「直観」が彼らに「個性」を「与えている」・・・・。

 人それぞれの「個性」を知りたいと思うのならば、その当人の「直観力」をみればいい。

「直観力」のある子どもは、普段から、「瞬間的な判断」を何気ない会話の中に織り交ぜている。もちろん、その子にしてみれば、ほぼ、「無意識的に」行っているのであろうけれども、そこは、親がそうした子どもの「きらめき」を読み取ってやらねばならない。

 子どもの「個性」をいち早く見抜き、それを伸ばすのは、「親」の使命である。

 その子が大人になって、「親」のありがたみが分かるのは、子どもの時に、どのように自分を育ててくれたか、ということを知る時に、である。

 子どもが親の偉大さを知る時というのは、自分が右も左も分からない時に、正しく導いてくれていた、ということを知る時に、である・・・・。



                                 本文 


  雪舟の絵の才能  

≪・・・・備中国(岡山県)井山にある宝福寺の和尚は、このところ新しく入った小僧(雪舟)に頭を悩ましている。絵を描くのが好きなのはいいが、肝心の修行のほうがさっぱりだ。

 経を誦んでいるかと思うと、まったく上の空で、あいた手で机の上を指でなぞっている。庭掃きをいいつければ、木の小枝で地面になにやら描いている。

 今日こそは懲らしめてやろうと、和尚は小僧を本堂の柱にくくりつけ、「反省するまで、そうやっていなさい」と叱った。和尚は一日そのまま檀家回りなどして、小僧のことはすっかり忘れてしまった。

 夕方、あたりが暗くなりかかり、和尚はやっと本堂の小僧のことを思い出した。急いでいってみると、小僧は泣き疲れたか、顔や着物をぐしゃぐしゃにして、柱にもたれて眠っていた。

 「やっ、大変だ」、その小僧の足先に鼠が一匹、いましも指に噛み付こうとしている。「しっ、しっ」と追い払ったが、鼠はいっこうに逃げようとしない。なんとそれは、小僧が足の指先を使って、床に溜まった涙で描いた鼠だった。

 和尚は小僧のなみなみならぬ画の才能を知った。

 「この子はこのような田舎の寺に置いておくべきでない」と、和尚は伝(つて)を頼んで、小僧を都の臨済宗総本山相国寺に送った。小僧はそこで等楊と呼ばれ、画僧周文(しゅうぶん)について、北画といわれる墨絵の山水画を学び、画僧としての道を歩みはじめた。・・・・≫



 「対象」そのものにとなっている  

 まぁ、「絵」か「本物」か、ぐらいの見分けは、すぐに、つくと思うけれども(笑)、観るに、「絵がうまい人」というのは、「意識」が他の人よりも、特別に柔軟で、対象に対して、極めて「融和的な」関係を容易につくれるような「意識」にとなっている。

 つまり、自ら自身が「対象」そのものにとなっているかのような状態にとなり、対象の隅々まで、その形象を手に取るように把握している。と同時に、その対象の「全体」をも把握している。つまり、「細部」と「全体」を同時に把握している、ということである。



  直観による把握  

 これは、「直観」による「瞬時的な把握」によるものである。こうした人々の心の中には、描こうとするその「対象」の細部と全体が、瞬間的に把握されている、ということである。

 「瞬間的に」というのは、パッと、一枚の絵を瞬間的に見るようなもので、持続的なものではない。そうした「一瞬」が断続的に現れることによって、徐々に、それを「記憶」してゆき、ある程度の「記憶」にとおさまったら、その「記憶」を元に描きはじめる、ということである。

 それゆえ、その「一瞬」を「記憶」するのに、かなりの時間を要する人もいれば、短時間で「記憶」する人もいるゆえ、「絵のうまい人」においても、絵を描く所要時間は、人によってまちまちである。



  ミケランジェロとレオナルド・ダ・ヴィンチ  

 ミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチなども、こうした「直観」を元に絵を描いていたようであるけれども、ミケランジェロなどは、かなり記憶力がいいようで、その「断続的な一瞬」を短時間の繰り返しで記憶して、作品にとしているゆえに、その作品点数が極めて多い。

 けれども、レオナルド・ダ・ヴィンチのほうはと言えば、あまり記憶力がよくないようで(怒らないでね、ダ・ヴィンチさん〔笑〕)、その「断続的な一瞬」を記憶するのに、ちょっと時間がかかっていたようである。

 それゆえ、彼の作品には、「手直し」が常にほどこされており、なかなか「完成」にと至った作品を見ることができない。とは言え、それらの作品は、常に、「進化」しており、常に、「より良きもの」にとなっており、(ミケランジェロさん、怒らないでね〔笑〕)ミケランジェロの作品よりも、数は圧倒的に少ないけれども、「重みのある作品」にとなっている。



 「対象」を「直観的に把握する」 

 このように、真に「絵のうまい人」というのは、「対象」を「直観的に把握する」ことによって、それを作品にと仕上げている。つまり、「直観的に把握する能力」が、彼らの「個性」を際立たせている、ということである。この「直観」が彼らに「個性」を「与えている」、ということである。



  子どもの教育において重要なこと  

 それゆえ、もし、人それぞれの「個性」を知りたいと思うのならば、その当人の「直観力」をみればいい。子どもの教育においても、その子どもの「個性」を伸ばす上で、その子どもがどのような「個性」を有しているのか、ということを知りたいのならば、その子どもの「直観力」をみればいい。

 「直観力」のある子どもは、普段から、「瞬間的な判断」を何気ない会話の中に織り交ぜている。もちろん、その子にしてみれば、ほぼ、「無意識的に」行っているのであろうけれども、そこは、親がそうした子どもの「きらめき」を読み取ってやらねばならない。

 そして、その子どもが「何に興味を示しているのか」ということに、常に、気を配って、それが良いものであるのならば、それを伸ばしてあげればいい。



 「親」の使命  
 
 子どもの「個性」をいち早く見抜き、それを伸ばすのは、「親」の使命である。「放っておいても、子は育つ」とも言われるけれども、「過保護」になりすぎない程度に、「親」が「子」の「個性」を伸ばすことに手を貸すことは、その子に対して、より合理的な成長を促すこととなる。

 その子が大人になって、「親」のありがたみが分かるのは、子どもの時に、どのように自分を育ててくれたか、ということを知る時に、である。子どもが親の偉大さを知る時というのは、自分が右も左も分からない時に、正しく導いてくれていた、ということを知る時に、である・・・・。





-参考文献-

『日本史 人物逸話事典』 忍足恵一編
〔学習研究社〕 P274~P275







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