心の中のプラネタリウム

一ヶ月間の抗がん剤治療が終わって明日退院する。癌が見つかってから二ヶ月少し。入院時はあと一週間持つかどうかの状態だったのだが、最新治療はたいしたものだ。今はとりあえず三ヶ月ほど延命して貰った。酸素ボンベなしでは生きられない状態だが、それでも呼吸が出来る事がこんなにありがたい事だとは思わなかった。酸素が供給されれば仕事は出来る。執筆中の「愛情乞食のたれ死」はあと一ヶ月で脱稿するつもりだ。自分の心の中を覗いてみた小説である。いつも何となく自分というものと曖昧に付き合ってきたが、こうして改めて内面と向き合って見ると、思いもよらない自分と出会ったりする。
 その一つが心にある宇宙観だろう。眠る前電気を消して目をつぶる。闇の中にプラネタリウムが浮かぶ。いや、はっきりと見える。一つ一つの星々の輝きまで、毎晩目を閉じる瞬間が楽しみになった。いつの間にか俺は天空の中を漂いながら、自分が宇宙の元素の一粒になったような錯覚に陥りながら意識を失っていくのだ。元気で若かった頃、あの世があるのかないのか、議論した事もあるが、今はどっちでもいい。人は死が近くなるとお迎えが来ると昔は言われていたのだが、病院で死ぬようになってからはとんとそんな話はなくなった。終末治療と称して薬で無理矢理延命するからだ。
 多分死ぬ時期が来ると生命体は受け入れ体制に入るのではないのだろうか。だんだん物を食べなくなり、やがて水分も取らず饑餓状態になる。脳にβエンドルフィンという麻薬物質が出る事はよく知られている。もちろん痛みや苦しさを和らげる物質なのだが、同時に幻覚を起こし、幸せな気分にさせてもくれるらしい。その時にお迎えを見るのだ。大抵は死んだ母親や親族であるらしいが、たまに菩薩様だったりする例もあるようだ。もちろん幻だが、死ぬ本人にしてみれば、ああやっぱりあの世はあったのだなあ、と安心して死ねるのではないか。ほんとうにあの世があるかないかなど関係ないのである。本人が痛みもなく幸せな気分で死んでいけることこそが最も大事な事だと思う。
 俺の心の中に見つけたプラネタリウムは夜ごと広がりづけている。死は恐怖と苦痛に満ちている、というこれまでの死生観を百八十度変えて。明日生きていたら何か上手い物でも喰おう。 

残り時間

昨日死刑執行日を医者から宣告された。末期の肺がんだった。余命一ヶ月から長くて三ヶ月。非常に進行の早い癌で、四月四日のCT画像で見た時から二週間で1,5センチも成長していた。左肺に直径15センチ、肋膜まで達して三日前から激しい痛みが始まった。俺はもともと間質性肺炎肺線維症と言う難病があり、手術はもちろん、放射線治療も一種類を除いて抗がん剤も使えないそうだ。その一種類も癌を抑制する確率が25パーセントとはなはだ心許なく、副作用だけは一人前にある。吐き気、脱毛、筋力低下による歩行不可などだ。先月の診察では全く癌の影さえ見えなかったのに、一ヶ月でこれほど巨大になるとは医者もその進行の早さに驚きを隠せずにいた。選択は二つ、肺生研をやって抗がん剤治療をするか、ホスピスで緩和治療をしながら死を迎えるか。普段死を覚悟していたつもりでも、いざ本番となると体が重力を失い、死の実感そのものが失われる。つまり何が起きたのかよく判らない。怖くはない。むしろ人生における重荷をやっと下ろせるのだ、と言うホッとした気持ちも混ざっていて複雑だ。自覚症状はある。呼吸が絶えず苦しい。背中が以上にだるく時折激しい胸を貫かれるような痛みもある。でも違うのだ。これまで経験してきた痛みや苦痛とは何かが違う。ああ、こうなると人間は死ぬのだな、死への段階はこんな風な感じで進むのだな、と言った、言葉では教えられない不思議な感覚の中に折れは存在する。
 あとわずかで折れがこの世から消える。しかし実感は依然としてない。もっと痛みが激しく、意識が飛ぶほどの窒息状態になれば実感があるのだろうか。まあいずれにしても死はそこにいる。あの世や来世を信じる訳ではないが、何かに祈りたい。何を祈るのかは判らないがとにかく祈っていたい。そして今書きかけの小説だけは何としても完成させたい。完成させることに意味などないかも知れないが、とにかく書き続けたいのだ。書きたいという激しい衝動があるからだ。意味はない。完成された作品にも書くという行為にも何の意味もない。多分書きたいという衝動だけが俺を今までこの世に止めていた理由かも知れない。でも本当は何も判らない。判らないから書き続け、書き続けるから深淵は深まるばかりだ。夕べレストランで若者相手に一人で持論を語る親父がいた。そいつも何も判っちゃいないのだ。1時間ほど話を聞いていたら、いつの間にか最初に言っていた事と矛盾した事を得々と話している。何にも判っちゃいない。無駄な労力だ。人間は何かを表現する時、激しい情動に駆ら、話さずには、書かずには、演じずには、歌わずにはいられない。情動もなく表現するのは時間の浪費だ。それに早く気がついた者だけが本質に辿り着き、多分感動をうみだすのだろう。偽物が多すぎる。酒を飲んで語るやつに本物はいない。これだけは俺の拙い人生経験からも推測出来る。
 ああ夜が明けた。命が削られる。俺はどんな死に様をさらすのか、それだけは見る事が出来ない。


 

置き去りにした自分

人が「昔」と言う時どんなイメージを頭の中に描いているだろうか?
 後悔それとも懐古? 前者ならやり直したい、出来れば消し去りたい、と思っているかも知れないし、後者なら懐かしく、まるで歴史を振り返るような感慨深さがあるのだろうか。いずれにしても過去はもう戻っては来ない。
 万物は絶えず変化をし、現在もまた次々と過去を生み出しているのだ。
「あなたは今何をしていますか?」
 仕事?、それとも誰かと電話?、コーヒーショップで物思いに耽っているかも知れない。行動はそれぞれ違っていてもひと呼吸する度に過去が生まれ、見る見る遠ざかる。
 人はよく前向きに生きろと言う。だが前を向こうが後ろを見ようが誰もが未来へ進んで行くのだ。いやでも必然的に過去を生み出してしまうのだ。それならばあとで振り返ってみた時、それが懐かしいものであって欲しい。懐かしさの中には必ず幸せな自分が生きているものだ。
 逆に辛い過去ならどうか。「思い出したくない!」でも思い出さずにはいられない。何故なら過去と今の時間は繋がっていて、絶えず情報のやりとりをしているからだ。とてもそのシステムから逃れるのは不可能だろう。いやでも過去から電話がかかって来るからだ。
 今何かを決断しなければならない時、必ず過去の経験から未来を予測するのが人間なのだ。
 例えば誰かにプロポーズされたとしよう。過去に悲しい訣れを経験していれば、必ず躊躇うだろうし、縁談を断って後悔している人なら、今度は乗り損なわない様にと考えるだろう。
 後悔する過去は辛くせつない。そこには置き去りにして来た悲しい自分が存在しているからだ。過去を振り返った時そんな孤独な自分と出会わなければならないのはひどく辛い事だ。
 俺の変化も最終コーナーを回ってしまった。今こそ過去の自分、寂し気に窓から日本海を眺め続けている二十五歳の俺に会いに行こう。そして謝りたい。答えが出ぬままお前を置き去りにしてしまった事を。 
プロフィール

たつ

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