なぜワッカー社はこれまで困難とされてきたγ‐CDを製造できるようになったのか?

 環状オリゴ糖であるシクロデキストリン(CD)は1900年頃に自然界の中に存在する糖質であることが発見され、それから70年後の1970年代に入り、日本の食品関連会社の数社(日本食品化工、塩水港精糖、東洋醸造(現旭化成)、三楽(現メルシャン)など)がCDの1つであるβ‐CDの製造技術を開発し、それからβ‐CDは食品医薬品分野を中心に広く利用されるようになりました。

 尚、β‐CDはグルコース7個が環状になったオリゴ糖です。グルコース6個のものはα-CD、グルコース8個のものはγ‐CDと呼びます。自然界の中の糖質におけるCDの位置付けは下記ブログをご参照ください。

 http://blog.livedoor.jp/cyclochem03/archives/29988664.html

 CDはシクロデキストリングリコシルトランスフェラーゼ(CGTase)というシクロデキストリン生産酵素でトウモロコシやタピオカなどのデンプンから製造できることが分っています。しかしながら、この酵素の特徴はCDの生産もしますが、一方でせっかく生成したCDを分解もする作用のあることが厄介で、α‐CDを生産する酵素(α‐CGTase)やγ‐CDを生産する酵素(γ‐CGTase)を使っても最終的には3種CDの中で最も安定なβ‐CDが選択的に製造されてしまいます。

 1980年代、日本のCDメーカーの一社である三楽は、酵素反応によって生成したγ‐CDの空洞にぴったり合う相性のいい(このことを“結合定数が大きい”といいます。)ゲスト分子であるグリチルリチン酸ジカリウム(GZK2)を包接させて、γ‐CDの酵素による分解を抑えることでγ‐CDを選択的に製造しようと試みました。

 大変いいところに目をつけ、収率は向上したのですが、100%選択的に製造できる方法とまではいきませんでした。結論から言うと、GZK2とγ‐CDが水溶性の包接体を形成するために、酵素によるγ‐CDの分解を完全に抑制できなかったからです。

 そこで、そのことに気付いていた私の友人であるワッカー社のゲーハート・シュミットは、γ‐CDの空洞にぴったり合う相性のいい(結合定数の大きい)ゲスト分子の中で、水に不溶な包接体を形成する分子を探索しました。そして、1990年、ついに目的に叶ったゲスト分子を見つけました。ムスク香料の5-シクロヘキサデセノン(CHD)でした。なんと幸運にもワッカー社の香料製品の1つだったのです。

 トウモロコシデンプンとγ‐CGTaseによる酵素反応において、CHDを添加すると、CHDのγ‐CD包接体が形成され、その包接体が不溶性であることから固体相に移動します。酵素は液体相にいますので、固体相に移動したγ‐CDを分解できません。その結果、100%選択的にγ‐CDを生産できることに成功したのです。

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 その研究室での検討から10年後の2000年、ゲーハートは原料となるとうもろこしの最も安価なアイオア州で10,000トンの生産能力を持った工場において、γ‐CDの工業生産を始めたのでした。

文系のための有機化学講座(その5. 有機化学の発見から未来まで)

 いよいよ最終章です。文系の方々にとっての有機化学の難しいイメージを払拭するための有機化学講座の最終章・・・・・(その5)です。


 (その1)では、植物が生産するグルコース、(その2)では、有機化学の発展に寄与した石油、(その3)では、石油から作られる私たちの生活を大きく変えたプラスチック、(その4)では、医薬品など私たちの生活や健康に役立つ有機化学品について解説してきました。


 (その5)では、有機化学の発展から未来まで、今、注目されている有機化学技術、そして、これからの有機化学について解説します。繰り返しになりますが、この小さなシクロケムという会社もこの有機化学に関わっていることを、文系の方々を含めてシクロケムグループの社員全員に知ってもらうことが、このシリーズの目的です。(赤字はシクロケム関与


 では・・・・


 有機化学はフランスの化学者ラヴォアジエが18世紀末に元素を提案し、燃焼は物質と気体(空気)の結合、動物の呼吸も燃焼、つまり、炭素(物質)と酸素(気体)の結合であることを見つけたことから始まります。19世紀に入り、有機化学は確立していきました。20世紀にはいると、有機化学に石油が利用されるようになります。そして、20世紀半ば、1957年にドイツのワッカーケミー社は石油から精製した物質であるエチレンと空気を人工的に結合させて、酢酸という有用物質の合成に成功します。(この合成法をワッカー法と言います。)現在、酢酸は石油化学製品、プラスチック、医農薬品、液晶ディスプレイなど様々な物質の合成に利用されています。


 一方、有機化学の発展とともに、20世紀には、2つの問題がクローズアップされました。


 その1つは、土壌中で分解されない大量生産されたプラスチックによるゴミ問題、地球環境の悪化です。


 そして、もう1つは、異性体(鏡像体、同じ形ではあるが鏡に写った偽者の有害物質)を含んだ医薬品や機能性食品によって人の体に悪影響を与えるという問題です。


 これらの問題は、現在でも完全に解決されたとは言えません。そこで、もう少し、これらの問題とその解決策について触れておきます。


 先ず、一つ目の地球環境問題・・・・・・


 現在、土壌中の微生物に分解される、ポリ乳酸などの『生分解性プラスチック』の開発と利用、リサイクル技術、難分解性のプラスチックや有機化学品の微生物活性化によるバイオレメディエーション技術の確立など、様々な対策が検討されています。


 特に、バイオレメディエーション技術に関しては、シクロデキストリン化学修飾体の利用が注目されています。また、チューインガムベースとして使用されている酢酸ビニル樹脂は様々なプラスチックの中でも生分解性の高い高分子です。酢酸ビニル樹脂は、半世紀以前からよく知られたワッカー法で作られる経済的な高分子ではありますが、ポリビニルアルコールなどとともに高生分解性に着目され、様々な用途に向けて難分解性プラスチックの代替プラスチックとして検討されるようになっています。

 そして、人体に悪影響を及ぼす鏡像異性体の問題・・・・・


 鏡像異性体とは、同じ種類で同じ数の元素からなるにもかかわらず、違った性質を持つ分子で、姿は同じですが、鏡に写った関係にある分子をいいます。睡眠薬のサリドマイドの鏡像異性体によって奇形児の誕生を起こす『サリドマイド事件』を知っている方も多いと思います。異性体が含まれるために人体に悪影響を与えた事件です。そのため、目的の分子だけを作り、その異性体は作らない手法が日本の野依教授らのグループで開発されました。野依教授(名古屋大学名誉教授)はその手法開発でノーベル化学賞を受賞しています。


 しかしながら、現在でも、異性体を含む医薬品や機能性食品が製造されています。特に、食品の場合は摂取制限がないので危険です。


 シクロケムでは、機能性食品素材の一つであるαリポ酸を例に取り上げ、異性体がどんなに危険なものであるか、有識者だけでなく、一般の方々にも理解してもらおうと天然型のR‐αリポ酸のみを用いたγシクロデキストリン包接体(RALA-CDを安全な機能性食品素材として開発しています。

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 有機化学の発展と共に浮上した問題を解決していく一方で、超分子や有機ELといった次世代の有機化学製品や技術が開発されています。

 超分子とは、分子と分子を組み合わせることで1つの分子では実現できない複雑な機能を有する分子の集合体であり、様々な超分子が開発されています。たとえば、狙った分子だけを認知するセンサー、微量の医薬成分を包み込んで患部に届けるカプセル、車に傷がついても自己修復できる塗料など、さまざまな応用が可能となっています。


 傷を自己修復できる塗料に利用されている超分子はαシクロデキストリンを用いた車輪型の超分子『ロタキサン』で、大阪大学の原田教授が基本技術を開発し、東京大学の伊藤教授が応用開発したものです。

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 また、次世代のディスプレイ技術として有機エレクトロルミネッサンス(有機EL)技術が注目されています。既に携帯電話には実用され始めています。有機ELは電気を流すと自ら発光する有機分子で作られていて、液晶よりもあざやかで薄型のディスプレイが可能として期待されています。奈良先端科学技術大学院大学ではシクロデキストリンに発光材料を結合させ発光性を高め、扱いやすいフィルムの作成に成功しています。

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 これまでに、有機化学者たちが報告した化合物は4500万種以上であり、いまだ増え続けています。しかしながら、そのほとんどの化合物は、炭素、水素、酸素、窒素などの限られた元素の組み合わせなのです。天然の石油から得られたエチレンやプロピレンの空気酸化物(ワッカー法)を基礎原料として、また、光合成で植物が作り出すブドウ糖から誘導されたシクロデキストリンを利用するなど、有機化学の可能性は、明るい未来に向けて、これからさらに広がっていくと思われます。

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文系のための有機化学講座(その4. 医薬品開発も有機化学)

 有機化学というと難しいイメージがあって「自分は文系だから・・・」となかなか読んでもらえそうにないのですが、このシリーズでは、文系でも知って得する“まめ”知識、興味の沸く内容を“わかりやすく”解説していきます。(その4)です。


 (その1)では、植物が生産するグルコース、(その2)では、有機化学の発展に寄与した石油、(その3)では、その石油から作られる私たちの生活を大きく変えたプラスチックについて、有機化学を学んでいない人にも読んでもらいたい、シクロケムという小さな会社でも、これだけ有機化学に係わり、こんなに世の中の役に立とうとしているんだ、ということを社員全員に理解してもらいたいという思いで、解説してきました。


 (その4)では、医薬品などのヒトの生活や健康に役に立つ有機化学品がどのように生まれてきたか、について説明していきます。少しだけ、これまでよりハードルが高くなるのですが、挑戦です。(ただ、出てくる構造式は覚える必要がありません。話の流れで記載しているので、そこは気にしないで文章だけを理解してください。なんとなくでもOKです。)尚、次の(その5)“有機化学の未来”で、このシリーズは終了予定です。


 では・・・・


 人々は太古の昔からさまざまな薬草を利用してきました。そして、19世紀には、人による薬草の栽培が開始され、20世紀に入ると、有機化学の発展から、薬草に含まれる薬効成分の有機化合物(もちろん、天然物)の構造が分かるようになり、研究室でそれらを合成できるようになっていきました。


 その初期の代表例が、鎮痛剤のアスピリンです。アスピリンは古くから利用されてきたヤナギの樹皮に含まれる鎮痛成分であるサリシンの構造を元に開発された鎮痛薬です。サリシンは1828年にヤナギの樹皮より抽出され、19世紀には医薬品として利用されていたのですが、胃腸が荒れてしまうという問題がありました。そこで、サリシンの構造を少し変えていくことで、その副作用を抑えたのがアセチルサリチル酸、つまり、アスピリンです。アスピリンはドイツのバイエル社が1897年に開発し、今でも医薬品(鎮痛剤、抗血小板薬)として用いられています。
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 インフルエンザ治療薬で有名なタミフルは、スイスのロシュ社が開発した医薬品です。日本では、現在、ロシュグループ傘下の中外製薬が製造輸入販売元となっています。タミフルはハッカクというダイウイキョウというシキミ科の樹木の実から抽出されたシキミ酸を原料として、10ステップの化学反応を経由して合成されています。
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 このように医薬品は植物に含まれる天然成分をヒントに、また、原料として合成されています。しかし、その一方で、石油から得られるエチレンやプロピレンを原料として経済的に合成する技術も開発されてきました。


 その医薬品をはじめ、数々のヒトの生活や健康に役に立つ有機化学品の合成に有用で、最も安価な原料が石油を精製して得られるエチレンなのです。ドイツのワッカー社はエチレンの空気酸化によるアセトアルデヒド合成法(ワッカー法)を見出し、さらに様々な有用有機化合物合成に、有用なエチレン誘導体を開発しました。そのエチレン誘導体の1つにクロロアセトアルデヒドジメチルアセタール(CADMA)という物質があります。


 CADMAはエトキサゾール(商品名はバロックといいます。)という現在大変注目されている殺ダニ剤の合成原料として利用されています。


 エトキサゾールは中堅化学会社の八洲化学によって開発されました。エトキサゾールの開発は日本の薬学者である竹本常松らによって、1962年にテング茸から発見されたイボタン酸の構造がヒントになっています。イボタン酸の環構造に着目し誘導体のデザインと合成が行われたのでした。CADMAはその重要な原料となっています。
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 エトキサゾールはダニの脱皮を阻害します。ダニに対する半数致死濃度は僅か1ppbで、極めて低く、つまり、殺ダニ活性が強く、その一方で、ラットに対する急性経口毒性値(半数致死濃度)は5000mg/kgであり、皮膚や目に対する刺激性もなく、人に安全な物質であることが分かりました。また、ミツバチなどの訪花昆虫にも無害であることも確かめられています。このエトキサゾールの成功は、大企業でなくても新製品は開発できることを示した、すばらしい成果として注目されています。現在、この殺ダニ剤、人には安全でダニだけに効く、そして耐性(ダニの方が強くなって効かなくなること)が出ないことから、住友化学をはじめ、多くの日本の大手化学、農薬メーカーで広く使用されているのです。


 次回は最終章になります。最終章まで読んでもらえば、有機化学の発展の過去から未来まで、全体が見えてきます。お楽しみに。


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