被差別の食卓 上原善広



いつだったか、大阪のキタのお初天神通りのあたりを出張仕事の帰りにぶらぶらしていると、「あぶらかすうどん」という文字が目に入った。

この「あぶらかす」というのが初めて目にする言葉であったので、物珍しく思い、今時なヘタウマ筆文字で書かれた看板のその店に入ってみた。
うどんにのっているカリカリとした油の風味がする味の濃いトッピングが、そのあぶらかすというものらしく、実際それはとても美味しかった。

この「あぶらかす」という食べ物についての隠された(・・・といっても俺も含めて皆知らないというだけなのだが)物語を知ったのは、この書籍を読んだ最近のことになる。




筆者の驚きは、この「あぶらかす」という自分にとって馴染み深く家庭料理のひとつとして味わってきた食べ物のことを、まわりは知らないということだったという。
その食べ物は、関西で精肉業に従事する被差別部落特有の食物だったからである。

もともと食肉としては商品にならないような、牛の腸をディープフライして味をつけた「あぶらかす」を日常に食べてきたということは、すなわち被差別の「むら」の人間である証である。それに気づいた高校生の筆者は衝撃を受ける。

それだけではない。
ビーフジャーキーのような牛肉の天日干しの保存食である「さいぼし」。
「むら」の男たちの酒のつまみに供された、スジ肉の「こうごり」。
ゆらゆらと血の流れる川に面した屠場の横手の食堂で出されていた牛の肺臓「フク」の天ぷら。

そうした食べ物は、せいぜい500メートル四方の「むら」と、そして差別されるがゆえに同じ被差別の「むら」同士でしか結婚が出来ないゆえに、関西の各地にある同じ「むら」同士が血縁が交通されていき、その文化内でのみ流通され食べられていったのである。



つまり、日本の「ソウルフード」




この書籍は、こうした被差別の人たちによって作られた食文化を、世界に求めて歩く旅の紀行である。



アメリカでは黒人奴隷がつくってきた食文化を探し歩く。
「ソウルフード」の言葉の場所だ。

豚のモツ煮の「チトリングス」。
コーン粥の「グリッツ」

今では、満面の笑みを湛えて店先に立っているカーネル・サンダースのおかげで、日本人の自分たちが、あたかもアメリカの白人料理のように思い込んでいる「フライド・チキン」。
白人の奴隷主は、手羽を食べずに捨てていた。それを黒人奴隷は、油でしっかりと揚げて骨まで柔らかく食べれるようにしたのが、フライド・チキンの原点だ。

フライド・チキンはもう「ソウル・フード」とはとても思えない。
いつも、白人はロックもダンスビートも黒人から盗んだと言っていたマイルス・デイビスなら、白人はフライド・チキンまで自分たちが始めたような顔をして売り捌いていると憤慨していることだろう。
マイルス・デイビス自叙伝という、とてもダイナミックであり、チャーミングでもあり、エキサイティングでもある偉大な音楽家の自叙伝を彩るひとつ暗いトーンは、黒人の差別に彼がどのように苛まされてきたか、そして戦ってきたかというものだ。その自叙伝には、食べ物の話はいたるところに書かれている。チキン・フィンガー、豚の耳のサンドウィッチ、スイート・ポテトパイ、ヤムの砂糖煮。マイルスのしゃがれたあの語り口で「あれはたまらなくうまかった」という声が聞こえてくるようだ。


南部では、なまずのフライ。ザリガニの塩茹で。オクラと臓物の煮物。

豚足を煮た「ポーク・フィート」を食べた町は、今でもKKKの創始者の銅像が今でも建っている。その銅像が立てられたのは最近のこと。その町で初めての黒人市長が生まれた年である。銅像を立てたKKKのメンバーは町にいる。





ブラジルでは逃亡奴隷の「むら」のフェジョアーダ。
フェジョアーダは、豚の内臓や耳、鼻、足、尻尾などを豆で煮込んだ料理のことだが、逃亡奴隷のむらでは、豚肉が手に入らないために豆だけの汁の料理だ。それを米にかけて食べるのだが、その米も週に一度食べられるような貧困だ。

ブラジルの人口比率は、白人が過半数を占め、残りを混血のムラートと黒人が占める。だが、われわれはサッカーでしかブラジルを想像し得ないから、その実態がよく見えないのだが、黒人のほとんどは貧困層に位置している。
いつだったか、ブラジルの銀行のパーティーだかに忍び込んだ時も、そこにいたブラジル人は全員白人系だったことを自分は思い出す。



ロマというのは、「ジプシー」で呼びならされているインド系の非定着民のことだ。
彼らはヨーロッパから中東の至るところに集落をつくりながら移動しつづけている。
ブルガリアのロマはハリネズミを食べる。しかし、それを外のものには韜晦して決して教えようとしない。

イラクのロマは悲惨な境遇にある。
サダム・フセインの国民国家政策により、定住地を与えられ保護されてきたロマの人たちは、イラク戦争でフセイン失脚後、シーア派の住民により略奪され土地を追われた。だからもちろんロマの人たちはフセイン支持派である。

筆者はこう書いている。

「イラクのロマたちについて、心配している点があった。戦争などの人災も含めた大災害の状況下では、被差別民への虐待が激しくなる傾向があるからだ。日本でも関東大震災時の朝鮮人虐殺はよく知られているし、また第二次世界大戦末期に広島へ原子爆弾が投下されたとき、その夜のうちに広島市内の被差別部落を、憲兵や軍隊が包囲したという事件があった。
 これらは天変地異を利用して、被差別民たちが反乱を起こすのではないかと恐れた住民や政府のヒステリー的行動であるのだが、それもこれも、一般住民が彼らを日常的に差別していたからに他ならない。」


そして、イラクのロマの人たちは、実際に家を追われ、商売道具の楽器を略奪され、子供は誘拐され、廃墟となった工場に仕方なく身を寄せ合っている。



ネパールでは、ヒンズー経で禁じられた精肉を生業とし、食肉しているがゆえに被差別民とされてきた人たちの「むら」で、差別を乗り越えるためにその風習をやめてきた人たちにせがんで牛肉を料理してもらう。
彼らは差別されるがゆえに、そのむらの外の人からは決して触られることがない。店で買い物をすれば、肌が触れないように投げるように品物を渡されるような人たちだ。

筆者は、そのむらの中で足を悪くして職につけない青年にこう語っている。

「俺は日本のサルキ(不可触民/被差別民)だけど、日本のサルキも牛肉食べて差別と戦ってきたんだから、君も誇りを持てばいいよ。病死牛はやめたほうがいいけど、牛肉があるときは食べたらいいよ。」

差別と障害という境遇の彼は、足さえ悪くなければ毛沢東主義者のゲリラに入って戦いたい、という。




話はそれるが、中上健次の小説群は、「路地」という名の空間、つまりこの「被差別の食卓」でいうところの「むら」をめぐって書かれた物語である。
彼の小説でも、たくさんの「ソウル・フード」が出てくる。
「茶粥」は、路地の食物で物語と物語を連結するブリッジのようにどの作品にも出てくる。彼の小説の中でも自分が特に好きな「日輪の翼」では、路地が再開発でなくなり、そのために立ち退きを余儀なくされた老婆たちを乗せたトラックがジプシーのように日本中を旅する。老婆たちは、至るところで浮浪者のように道端で茶粥をつくる。老婆たちは最後に新宿の街で消えていくのだが、その消えていった場所に、その老婆たちが生まれ育った「熊野」の名前がついた神社があることを発見したのは四方田犬彦だった。(「貴種と転生」)
「路地」そして「むら」は世界中至るところにあるのだ。









この「被差別の食卓」は、グルメ本とはひたすら遠いところにありながら、それでも魅力的な食の本である。暖かい食べ物と冷たく苦い差別の実態が、見事にルポタージュされている。

筆者はまだ若く、これからひりひりとやけつくような差別の現場や戦地で、どんなものを食べ続けていくのだろうか。大変興味深く思い、この人の名前を覚えていこうと思った。




被差別の食卓