
東海山潮音寺です。正面には亀鶴観世音菩薩供養塔
があります。臨済宗のお寺です。

奥にあるのが本堂です。創建は1353(文和元)年、鎌
倉建長寺の末寺、普門院として開山されました。
ご本尊は伝、恵心僧都(源信)作の聖観世音菩薩です。

こちらは亀鶴観音堂(亀鶴山観音寺)です。伊豆に
向かう弘法大師空海が刻んだ観音像を奉ったお堂が
お寺になりました。しかし、観音寺は1880(明治12)
年、廃寺となり潮音寺に吸収されました。
この観音堂には一つの伝説があります。
黄瀬川郷一の長者、小野善司左衛門政氏には子供が
なく、それが唯一の苦悩でした。そこで小野長者夫
妻は霊厳現たかなこの観音像に願をかけました。
そして満願の日に子供を授かったのでした。生まれ
た子供は亀鶴姫と名付けられましたが、亀鶴姫が7
才のとき、小野長者夫妻は二人とも亡くなってしま
いました。
亀鶴姫は成長するごとに美人になり、海道一の美人
と言われるようになりました。そして亀鶴姫は18才
のときに遊女となったのでした。
大磯の虎女伝説ととてもよく似ていますね。実は虎
女伝説と時代背景は全く同じで、しかもこの後、虎
女伝説と繋がりがあったのです。

亀鶴姫のお墓です。
富士の裾野では源頼朝が巻狩り(軍事演習)を行って
いました。
この時、亀鶴姫は頼朝の陣幕にいる工藤祐経に添い
寝をしていました。
これは曽我兄弟の仇討ちの巻狩りです。曽我兄弟の
兄の恋人が虎御前ならば、仇を討たれる工藤祐経の
愛人が亀鶴姫だったのです。この巻狩りで工藤祐経
は仇討ちされてしまいます。
その後、数回行われた巻狩りの度に亀鶴姫は源頼朝
から声がかかりました。しかし、亀鶴姫はそれをす
べて断りつづけました。
天下の将軍のお呼びを亀鶴姫は断りつづけたのです。
亀鶴姫は将軍のお呼びをとうとう断りきれなくなり、
黄瀬川の百沢の滝に身を投じてしまったのです。
それを憐れんで、観音寺は亀鶴姫を手厚く供養しま
した。
また、この故事にちなんで黄(喜)瀬川という源氏名
は遊女の代名詞となったのです。
遊女には階級があります。
花魁、太夫、格子、散茶、局です。一般には格子以
下の遊女が女郎と呼ばれました。
新造、禿はまだ遊女見習いで、客を取ることはでき
ません。禿は花魁の世話役。禿が成長して新造にな
ります。
よく会社で古く在籍する女性のことをお局さまとい
いますが、このお局さまは本来、大奥の局ではなく、
いつまでも出世しない下級の遊女のことをいうのが
本当なのです。
では最高級といわれる遊女である太夫と花魁の違い
はなんでしょう。
それは花魁は遊廓の最高格である吉原にしかいません。
徳川幕府公認の遊廓である島原(京都)、新町(大坂)、
丸山(長崎)には花魁はいませんでした。吉原だけの
ものなのでした。
そして花魁には特権がありました。それは気に入ら
ない客の申し出を断ることができたのです。
この特権が亀鶴姫の源頼朝の誘いを断った故事に因
んで、黄(喜)瀬川という名が花魁でなくては名乗れ
ない源氏名となったのでした。
また、この亀鶴姫の故事は三島女郎を有名にしまし
た。江戸時代の三島女郎は単なる飯盛り女ですが、
鎌倉時代には三島にはそれなりの遊廓があったとぼ
くは考えます。大磯に高麗大明神があったように三
島にも三嶋大明神があったからです。(詳細はこちら)
しかもどちらも人が集まる国府だった場所でした。
でも不思議ですね。三島女郎とはいいますが、沼津
女郎とはいいません。黄瀬川はどちらかというと沼
津ですよね。沼津は駿河発祥の地といわれ国府もあ
ったとされています。だから沼津女郎があってもい
い気がします。なぜ、沼津女郎とはいわないのか、
それは本当は沼津には国府がなかったからなんです。
沼津は駿河発祥の地ではなかったからなのです。
次回はこのことについて語ります。どんとはれ
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