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矢通り(旧しみず道)の旧鈴木与平邸の前から始まる
通りは「次郎長通り」です。この先に次郎長の生家
があるため、そう呼ばれます。

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次郎長通りは商店街ですが、見ての通りシャッターストリート
です。

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次郎長通りの途中に妙慶寺というお寺が右側にあり
ました。このあたりは旧くは仲町といい、渡世の旅
から帰った次郎長が、初代お蝶と住まいを構えたの
が仲町だったといいます。現在はここも清水町になっ
ています。それでは妙慶寺に寄ってみます。

円教山妙慶寺は今川義元が娘の冥福を祈り、開基壇
越(一番初めの檀家)となって大永年間(1521〜28年)
に開山したとありました。最初の住職は清水区村松
にある日蓮宗本山海長寺(当時は海上寺)から僧侶
を呼び開山としたそうです。(日蓮宗静岡県中部宗務
所HPを参考)
でも、なんかおかしいのです。たしか今川義元は筋
金入りの臨済宗徒なんです。駿河国全ての寺院を臨
済宗にしようと目論んだ位なんです。それ故に静岡
県には臨済宗のお寺が多いのです。
また、今川義元は1519年の生まれです。つまり、3
〜11才の子供に子供がいるというのも考えられません。
今川氏は代々家督争いが絶えない一族でした。本来
今川宗家は三河今川氏でした。その宗家の座を駿河
今川氏が奪っています。
また、伊勢盛氏(北条早雲)は、今川氏の家督争いに
介入しようとする太田道潅を阻止するために、今川
氏の後見人として、駿河国に遣って来ました。(盛氏
の姉が今川氏に嫁いでいたため。)
そして堀越公方足利氏を下剋上して、伊豆国の戦国
大名となりました。それ故に今川と後北条は同盟が
結ばれたのです。
義元の話に戻りますが、今川義元は五男であったた
め、家督争いを避けて善得寺の太原雪斎に預けられ
ました。号を栴原承芳という臨済宗の僧侶だったの
です。しかし、17才の時に家督争いに巻き込まれ、
還俗し、花倉の乱に勝利して家督をつぎました。そこから考えても、その僧侶
時代に子供がいることはおかしいのです。
それはさておき、現代の話をします。
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こちらは妙慶寺の鐘楼です。肝心な鐘が見辛い画像
となっていることが残念です。
この鐘は1795(寛政7)年に鋳造されたものですか、
太平洋戦争の最中、鉄不足のために政府に献納され
たものです。しかし、鉄として溶かされることはな
く、戦利品としてアメリカに持ち帰られました。ところ
が昭和63年、アメリカのカンザス州トピカ市より外務省を通
じて、返納したいとの申し出がありました。そして
平成3年に返ってきた鐘のために鐘楼が再建されま
した。

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こちらは妙慶寺の山門です。この山門は旧鐘楼が地
震で倒壊したものを解体し、山門として建て直しし
たものということでした。

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妙慶寺の先、今度は左側。鍵に長の字の紺の暖簾が
懸かる家が「次郎長生家」です。
では次回は「次郎長生家」に行きます。