「父上様母上様 三日とろろ美味しゅうございました。」に始まり、「父上様母上様 幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許しください。気が休まる事なく御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。幸吉は父母上様の側で暮しとうございました。」で終わる遺書を残して、1968年27歳の若さで自殺した円谷幸吉は、東京オリンピック(1964年)のマラソンで、アベベに続き2位で競技場に現れたものの、ゴール前でイギリスのヒートリーに抜かれ、惜しくも銅メダルとなった。



福島県出身の円谷は、高校卒業後自衛隊に入隊し、配属された郡山駐屯地で同僚と二人で陸上部を立ち上げ、駅伝などで徐々に頭角を現していったという。東京オリンピックのマラソンでは惜しくも銅メダルだったものの、これはこの大会の陸上競技での日本の唯一のメダルであり、しかも初マラソンからわずか7か月で獲得したのだから、1万メートルで6位入賞も果たしていることも考えると、当時の円谷の活躍は目覚しいものだった。

しかし、「今度は金メダル」と期待されたメキシコ・オリンピック直前に持病の腰痛が悪化し、椎間板ヘルニアを発症して、手術を受けるも、かつての走りを復活できず、「もう走れません」という遺書を残して死んだ円谷。その悲痛な遺書は、当時の川端康成や三島由紀夫などの著名な文化人をも感動させたという。彼の風貌、そして自衛官という職業からも窺い知ることができる、きまじめさ、そして強い責任感が彼を自殺に追い込んだことは想像に難くない。

期待された先月の東京マラソンで14位と惨敗に終わり、今日発表されたロンドン・オリンピックのマラソン代表に補欠としても選ばれなかった川内優輝は、その東京マラソンでのふがいない結果にけじめをつけて丸坊主になってみたりと、その異様なまでのきまじめさが、同じ公務員ということもあって、なんとなく円谷を彷彿させる。しかし川内は、今回の選考結果は少し悲運だったものの、これからも常識はずれのペースでマラソンを走り続け、注目されるレースでは必ずといっていいほどゴール後に精根尽き果てて医務室行きなるという、立派な明るい(ちょっと変な)市民ランナーであり続けてほしいと思う。