蛤観音図



え〜、トップを飾る「蛤(はまぐり)観音図」ですが、これは臨済宗(りんざいしゅう)、中興の祖師「白隠」の禅画で、 蛤から観音菩薩が飛び出してくるという実にサイケデリックな作品です。この辺に、 概念に囚われない禅、仏教芸術のユニークさを感じるのですが、これが、単なる芸術作品で留まらない所以は、やはり、そこに深遠な仏教哲理が裏打ちされているということでしょうか。私はこの蛤観音図を見て、「オーソドックスな観音図から掛け離れた妙にポップな絵だなぁ」という印象を受け、これは誰の作品だろう?と思うに至り、白隠を知りました。
さて、白隠とはどういった人物だったのでしょうか。
法華経の真意を理解し、坐禅和讃(ざぜんわさん)の境地に達するまでの精神状態はかなり悪かったようです。





白隠慧鶴・はくいんえかく
1685
年(貞享2 - 1768年(明和5


白隠は、臨済宗中興の祖と称される江戸中期の名僧である。
15歳で出家し、のち諸師を遍歴。信州飯山の正受(しょうじゅ)老人から禅の真髄を示され、24歳で開悟。32歳で松蔭寺に住し、42歳のある秋の夜、コオロギの声を聞いて法華経の真髄を悟り号泣。
生存中は各地を巡り教えを広めながら、著述、書画など精力的な創作活動を行い、臨済禅を復興した。たゆまざる求道精神で孔孟・老荘思想他、広く内外の教典の研究に勤しみ、更に晩年には神道にまで接近したという。
「坐禅和讃」は晩年に著し、この中で、すべての人間には仏性があるということを「衆生本来仏なり」という簡潔な表現で教示している。
坐禅和讃とは、自ら体得した『法華経』の精神を二十二行四十四句からなる短い言葉に集約したものだという。
84歳入滅。

白隠 蛤観音について。白隠 蛤観音…白隠 蛤観音図解説。白隠 蛤観音とは

〜白隠禅師『坐禅和讃』〜



衆生本来仏なり     水と氷の如くにて


水を離れて氷なく    衆生の外に仏なし


衆生近きを知らずして  遠く求むるはかなさよ


譬えば水の中に居て   渇を叫ぶが如くなり


長者の家の子となりて  貧里に迷うに異ならず


六趣輪廻の因縁は    己が愚痴の闇路なり


闇路に闇路を踏みそえて いつか生死を離るべき


夫れ摩訶衍の禅定は   称嘆するに余りあり


布施や持戒の諸波羅蜜  念仏懺悔修行等


その品多き諸善行    皆この中に帰するなり


一坐の功を成す人も   積みし無量の罪ほろぶ


悪趣何処にありぬべき  浄土即ち遠からず


辱くもこの法を     一たび耳に触るるとき


讃嘆随喜する人は    福を得ること限りなし


況や自ら廻向して    直に自性を証すれば


自性即ち無性にて    已に戯論(けろん)を離れたり


因果一如の門ひらけ   無二無三の道直し


無相の相を相として   往くも帰るも余所ならず


無念の念を念として   歌うも舞うも法の声


三昧無礙の空ひろく   四智円明の月さえん


この時何をか求むべき  寂滅現前する故に


当処即ち蓮華国     この身即ち仏なり

〜私訳〜




人々は本来仏である。

それは水と氷のようなもので、
水から出来ない氷はなく
人々の外に仏はない。

人の心の内に仏があるのを知らずに、
外に仏を求めても無駄なことだ。

たとえば、それは水の中にいて喉が渇いたと
叫ぶようなものである。

また、それは裕福な家の子供が
徒に貧しさに迷っているのと同じことである。

迷いの世界というものは自分の無知と愚かさが
作り出している闇の路。

この光無き闇路を乗り越えて、いつかは皆、
光差す彼の岸へと渡らなければならない。

そのためには、心を落ち着け、
物事の道理を明らめること
「禅定」が
大切なのである。

他人への施しや自分自身への戒め
念仏や反省、修行など
様々な善行があるが
それらは皆「禅定」の中に含まれるのである。

ひととき、心を鎮め坐るならば迷いや不安、
積み重ねてきた罪等を滅ぼすことが出来るであろう。

そして、もうそこに地獄は無く
極楽浄土が今ここにあることに気づく。

ありがたいことに、この仏法をたび耳にした時、
喜んで受け入れる人は限りない幸福感を
得ることができるであろう。

ましてや自ら仏事に励み本来の自分を知ったなら、
自性、それは仏性であって、もはや、
なんの説明も言葉も要らない。

そして、人々と仏が一体となった門は開き、
そこに一本の真直ぐな道が通っている。

有るとか無いに執われる事がなければ、
どこへ行こうとそこに安心があるのである。

悪想念を抱かなければ、
謡や踊りも仏の声である。

幼子のような心は大空のように
果てしなく広がり、そこに
智恵の光を放つ月が輝く。

もはや、何を求めるものがあろうか。

悟りの世界が目の前に現れた今、
ここが蓮の華咲く極楽浄土、

この身がそのまま仏なのである。






バカデラ住職より一言・・・
白隠は、42歳のある秋の夜、コオロギの声を聞いて法華経の真髄を悟り号泣したようですが、仏教の面白味はこういったところにあるのだと思います。
ある黄昏時、親父の鼾(いびき)を聞いて仏道の真髄を悟り号泣なんてのもありえそうですね。