唯 識

唯識とは、ただ心だけが存在するということですが、これは、理解、体得するには少なくとも三年は掛かるといわれるほどの難解なものです。
昔、私がこの深遠、峻険な哲理に興味を持ったのは仏教本来の意義である人格の完成、苦の止滅の為というよりも輪廻転生への関心からでした。
仏教では基本的に形而上学的な問いに対しては「無記」つまり沈黙を守るという立場を取っていますが、何故「無記」なのかというと、形而上学的な問題を議論したところで、それは悟りという本来の目的を達成するには役に立たないという理由からだそうです。科学的に輪廻転生の有無についての証明はなされていないようですが、唯識論はこの輪廻転生について、深層の潜在に阿頼耶識(あらやしき)という一切の根源的領域を設けて一応の論理的な説明をしています。
三島由紀夫が阿頼耶識について端的に解説しているのでちょっと下に引用してみますと、
『われわれはふつう、六感という精神作用を以って暮らしている。すなわち、眼、耳、鼻、舌、身、意の六識である。唯識論はその先に第七識たる末那識(まなしき)というものを立てるが、これは自我、個人的自我の意識のすべてを含むと考えてよかろう。しかるに唯識はここにとどまらない。その先、その奥に、阿頼耶識(あらやしき)という究極の識を設想するのである。生は活動している。阿頼耶識が動いている。この識は総報の果体であり、一切の活動の結果である種子を蔵(おさ)めているから、われわれが生きているということは畢竟(ひっきょう)阿頼耶識が活動していることに他ならぬのであった。<略>さて、阿頼耶識には、あらゆる結果の種子が植えつけられる。前に述べた七識が、生のかぎり動きまわるその活動の結果はもとより、そういう心法に伴われて、ここに植えつけられるのである。この植えつけられることを衣服に焚きこめられた香の薫りが移るのにたとえて、薫習(くんじゅう)といい、これを種子薫習(しゅうじくんじゅう)と呼ぶのである。ところで、この阿頼耶識を、それ自体、何らけがれのない、ニュートラルなものと考えるかどうかで、考えの筋道が違ってくる。もしそれ自体がニュートラルなものであれば輪廻転生を惹き起こす力は、外力、いわゆる業力でなければならない。外界に存在するあらゆるもの、あらゆる誘惑は、いや、心の内にもある第一識から第七識までのあらゆる感覚的迷妄はその業力を以て、影響を及ぼさずにはいないからである。しかるに唯識論は、そういう業力、業力のもたらす種子である業種子、間接原因(助縁)と見なし、阿頼耶識自体に、輪廻転生を惹き起こす主体も動力も、二つながら含まれていると考えるのだ。』
by三島由紀夫(暁の寺より)】

三島由紀夫自身、唯識を理解、体得していたのかどうかはわかりませんが、唯識ではこういう訳で輪廻転生するということです。この辺は形而上学なので実に微妙なところです。因みにイスラム教では来世を説かない宗教は邪教と見做しているようですから、仏教がもし来世は無い、つまり輪廻転生は無いと主張すると、ひょっとしたら過激派の攻撃対象になってしまうかもしれませんね。

以下は唯識教学の体系を三十の詩にまとめた唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)というものです。様々な解説書をみながら大雑把に訳したのですが一応紹介しておきます。


唯識…バカデラ住職による唯識解説。唯識三十頌紹介 唯識とは…

唯識三十頌


一頌

由仮説我法 有種種相転 彼依識所変 此能変唯三

我や法は縁起により生起しており、それらは実体的なものではなく、仮の存在である。
我や法は、人、物、自然、言葉等、様々な相として現れているが、それはすべて心の認識に依るものであり、
それらを認識する心には三つの層がある。

 

二頌

謂異熟思量 及了別境識 初阿頼耶識 異熟一切種

一に、悟りや迷いを含め全てを生みだす心の層(阿頼耶識(あらやしき)と、
二に、無意識で自我に執着し自己を慮る心の層(末那識(まなしき)と、
三に、眼・耳・鼻・舌・身・意識によって現象を
認識し思考する心の層(前六識(ぜんろくしき)で、
一の阿頼耶識は心の深層にあり、言動、想い、すべての行為の業が種子となって
この阿頼耶識に蓄積されるといわれる。
ここに蓄積された種子は、外から受ける何らかの縁によって
生起し、新たなる認識を生み出す。

 

三頌

不可知執受 処了常与触 作意受想思 相応唯捨受

深層にある阿頼耶識の働きを知ることはできない。
阿頼耶識では常に,触(物理的、精神的接触)・作意(対象に向かって心が働く作用),
受(作意を受けての苦、楽等、様々な感情の働き)想(触・作意・受を受けた時に浮かぶ印象)思(意志)が働いている。
阿頼耶識に相応するのは捨受のみであるとされるが、
捨受とは苦でも楽でもない非苦非楽の感情をいう。

 

四頌

是無覆無記 触等亦如是 恒転如暴流 阿羅漢位捨

阿頼耶識はもともと、何にも染まっておらず、善と悪からも中立である無覆無記(むふくむき)とされる。
触等によって起こる心の働きも、またそれと同じ。
阿頼耶識は川の流れのように絶えず生滅を繰り返しながら変化し相続しており同一性を保っているわけではない。
そして諸々の修行を進めることによって、阿頼耶識を捨てるに至る。
阿頼耶識を捨てるとは、阿頼耶識が「大円鏡智(だいえんきょうち)」
(大円の鏡があらゆるものを映し出すように、森羅万象を如実に認識する智恵)に変化することをいう。

 

五頌

次第二能変 是識名末那 依彼転縁彼 思量為性相

 第二の末那識(まなしき)は阿頼耶識に依って生起し先天的、本能的に自我に執着する働きであり、
意識されない深層で執拗に自分自分と考え続けているのが末那識の性質である。

 

六頌

四煩悩常倶 謂我癡我見 併我慢我愛 及余触等倶

そこには常に四煩悩(我見、我疑、我慢、我愛)及びそれに伴った心が働いている。
我見とは我執、我疑は無明(道理に対する根本的な無知)我慢は慢心(高慢)我愛は自我への愛着

 

七頌

有覆無記摂 随所生所繋 阿羅漢滅定 出世道無有

末那識の本性は善と悪から中立であるが、末那識では悟りへの障害となる四煩悩によって心を不浄ならしめる働きがある。
修行を進め、また禅定を深めることによって末那識が「平等性智(びょうどうしょうち)」
(一切を無差別平等と観て人々の利益を図る智恵)に変化するとされる。

 

八頌

次第三能変 差別有六種 了境為性相 善不善倶非

第三の前六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識及び意識の六種)は心の表層にあり、
眼識は色・形、耳識は音・声、鼻識は香、舌識は味、身識は触、意識はすべての物事、

といったように、前六識は対象を認識する働きがある。
それは、状況によって善、悪、無記(善と悪からの中立)のいずれにもなりうるものである。

 

九頌

此心所遍行 別境善煩悩 随煩悩不定 皆三受相応

前六識の心理作用は遍行・別境・善・煩悩・随煩悩・不定の六つに分かれ、
また、六識が応じる受け方には苦、楽、非苦非楽の三通りがある。

 

十頌

初遍行触等 次別境謂欲 勝解念定慧 所縁事不同

初の遍行というのは三頌で述べた触・作意・受・想・思の働きで
別境は次の欲・勝解(しょうげ)・念(ねん)・定(じょう)・慧(え)の五つに分けられる。
欲は、悟りや善を欲する心、勝解は、ある対象や状況を確信し決心すること。
念は、かつて経験したことを明らかに記憶して忘れないこと。
定は、心を散乱させないこと。
慧は、事物や道理を識知、弁別、判断する精神作用。智慧のこと。

 

以下未訳。

 

十一頌

善謂信慚愧 無貪等三根 勤安不放逸 行捨及不害

十二

煩悩謂貪瞋 癡慢疑悪見 随煩悩謂忿 恨覆悩嫉慳

十三

誑諂与害驕 無慚及無愧 掉挙与昏沈 不信併懈怠

十四

放逸及失念 散乱不正知 不定謂悔眠 尋伺二各二

十五

依止根本識 五識随縁現 或倶或不倶 如濤波依水

十六

意識常現起 除生無想天 及無心二定 睡眠与悶絶

十七

是諸識転変 分別所分別 由此彼皆無 故一切唯識

十八

由一切種識 如是如是変 以展転力故 彼彼分別生

十九

由諸業習気 二取習気倶 前異熟既尽 復生余異熟

二十

由彼彼遍計 遍計種種物 此遍計所執 自性無所有

二十一

依他起自性 分別縁所生 円成実於彼 常遠離前性

二十二

故此与依他 非異非不異 如無常等性 非不見此彼

二十三

即依此三性 立彼三無性 故仏密意説 一切法無性

二十四

初即相無性 次無自然性 後由遠離前 所執我法性

二十五

此諸法勝義 亦即是真如 常如其性故 即唯識実性

二十六

及至未起識 求住唯識性 於二取随眠 猶未能伏滅

二十七

現前立少物 謂是唯識性 以有所得故 非実在唯識

二十八

若時於所縁 智都無所有 爾時住唯識 離二取相故

二十九

無得不思議 是出世間智 捨二麁重故 便証得転依

三十

此即無漏界 不思議善常 安楽解脱身 大牟尼名法




バカデラ住職より一言・・・
仏教とは学問ではありませんから、その辺を押さえておかないと、頭でっかちの単なる教養俗物になってしまう危険性がありますね、
特にこの唯識は。