2005年09月30日
「イサム・ノグチ展」東京都現代美術館
イサム・ノグチ展
地球を彫刻した男。日系アメリカ人彫刻家。
この展覧会で一番に胸を打たれたのは実は音声ガイドから流れてきた若き日のイサム・ノグチ自身のコメントだった。
会場入り口を入ってすぐのコーナーに、初期の彫刻が並べられている。抽象彫刻の第一人者ブランクーシに師事をして「Leda」を創り上げていた20代前半の作品群。その場所でガイダンスにしたがって音声再生をすると、以下のような主旨の(はっきりと内容は覚えていませんが同主旨です)イサム・ノグチが語った言葉として流れてきた。
「私は若くして抽象に挑んだが、抽象を創り得るに充分な内面を持っていなかった。それに気付いた私はまず自分を磨き上げることに力を注ぎ、確固とした内面を性急に築きあげなければならなかった」
それを聞いたとき、私は一瞬わけもわからず胸がつまり、泣きそうになった。抽象を創る創り手の内面が未だ未熟であれば、出来上がったものは抽象は薄っぺらいものでしかない。決して新しい発見ではないかもしれない。それが登りつめた人の言葉としてこうした形で言葉になると、ストンと胸の奥に言葉がおちた。
[0930追記]
具象であれば、「創り手の感性」と、それを作品にするために選んだ「手法」と、作家自身が技巧として持っている表現上の「技術・テクニック」の3つが比較的わかりやすく目の前に現れているものであるけれど、抽象となると、「何を狙ったのか」、「何でこの手法なのか」、「このどこまでがテクニックでどこからが偶然なのか」というところが、作品によっては漠然としてくる (というか、多くは観る者の感性に委ねられる。逆に言えば、それこそ抽象のオモシロサなのだと私は思う) のだが、抽象は作家の腕の鍛錬にっよってなるところの技巧・テクニックを必ずしも見せ筋として出していかなくても勝負できる分、若くしてカタチとなるものを創れてしまうし、その分浅いものも深いものも創れてしまう。そんな気がします。
トラックバックURL
この記事へのトラックバック
この記事へのコメント
抽象性と内面性ですか。。。
僕は音声案内聞いてないので
へーとか思いました。
なんか彫刻ってもっと唯物的な
つまり
実際的な技術や作業の積み重ねだと思ってたので以外です
はじめまして。コメントありがとう。技術の積み重ねにくわえて内面性もあるのではないでしょうか。でも「内面性」って何?って考えていくと、まあその人が創ったものであれば、その人の中の技巧以外の「何か」が作品に反映されちゃうのだろうと…。
よく人の「器」という言葉がつかわれます。器の深さと内容物の豊かさが内面性といわれるものかもしれません。
なるほど。深いですね。
内面を豊かにするには、まず豊富な内容物を貯えられるだけの「器」を作り、そこに内容物をせっせと貯め込んでいく、というイメージですかね。
TBありがとうございました。
ブランクーシに師事していたこと
はじめの頃の作品を見るととても
よく分かりました。
モエレ沼公園にどうしても
行きたくなってしまう展覧会ですね。
コメント有難うございます。
そうですね。
モレエ公園にはいかなくちゃ。