2021年12月08日

スタバ東西の名所店

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小ネタ 

さの町場にあった店々(昭和37年)大宮町旭町

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郷土史 | さの町場にあった店々

さの町場にあった店々(昭和37年)栄町

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郷土史 | さの町場にあった店々

さの町場にあった店々(昭和37年)春日町新町大西町

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さの町場にあった店々(昭和37年)西本町野出町

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郷土史 | さの町場にあった店々

さの町場にあった店々(昭和37年)元町本町

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郷土史 | さの町場にあった店々

2021年10月22日

(覚書)トマスコール・イヴクライン

トマスコール タイタンの酒杯 建築家の夢
イヴクライン 青のモノクローム

daikumakoto at 09:46 
絵画 

2021年07月28日

旧D食ルネサンス#001

「大工食堂(旧名 大工うどん店)」は、泉佐野旧市街地(さの町場)新町の路地裏に昭和38(1963)年開業しました。
○左戸あり


以来、地元のみなさまにご贔屓いただき半世紀。諸般の事情により開業50年目の平成25年(2013)に廃業しましたが、このほど店舗部分の再活用を図るべく、令和3年(2021)5月、改修工事をおこないました。
といっても、店舗部分を住居棟と仕切り、電気系統を分離するだけで物件自体のたたずまいや内装は今後入居くださる方のセンスにおまかせすることとしてあえて手をつけず、賃貸募集の流れへとつなぐ予定です。

周辺は江戸時代より自然発生的に集落が形成された典型的な南泉州の民家域で、迷路のような路地が入りくみ、D食(大工食堂の愛称)周辺も車輛はいっさい進入できず、カーナビ誘導も途中で終わってしまうため、遠方からたどりつけないお客様からは「まぼろしの食堂(笑)」とよばれていました。

拙ブログではこれから何に生まれ変わるかわからない物件の進化、その進ちょく状況報告を「旧D食ルネサンス」と銘打ち、拙ブログにてシリーズ連載(不定期)いたします。。

第1回は、お披露目として物件の所在地および外観全景をご紹介いたします。

map1
所在地は大阪府泉佐野市新町2丁目。 
最寄りは阪神高速4号湾岸線高架下道「佐野漁港前」または府道堺阪南線「旭町」交差点より北へ浜通り。
界隈は関空マリーナや泉佐野青空市場などを有するシーサイドエリアで、近隣は古民家を再生した民泊や商業施設なども増えてきており、手づくりマーケットで人気の春日町「くらふとや」からは徒歩5分の好立地です。
map3
4号湾岸線「青空市場前」が最寄り目標点。近くには「りんくう北公園」無料駐車場もあります。
○左戸なし
物件は四方を路地に囲まれた古風な立地。築50年超で、古民家としての風格がそなわってきました。
○右戸なし

正面
正面全景。食堂時代は一階部分で営業しておりましたが、今回改修により、二階日本間(床の間付六畳&四畳半)も賃貸部分となりました。(例)一階商業施設、二階各種サークル、スクール等にご活用いただけます。(民泊利用不可。建物の構造上二階部分のみの賃貸不可)

次回は内部の詳細をご紹介もうしあげますm(__)m








daikumakoto at 08:13 
旧D食ルネサンス 

2021年04月08日

旧D食ルネサンス#000

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カーナビも追尾できなかった究極の路地裏 旧大工食堂(愛称「D食」(でぃーしょく)1963年開業2013年閉業)

2021-04-08  8年間の沈黙を経て集いし面々は、いったい何を話し合っているのか?

本日より長期連載記事をお楽しみいただきます。
題しまして
「旧D食ルネサンス」。
通し番号#000(予告編)はここまでw

拙ブログとFBリンク同時進行。
読者の皆さまは「令和さの町場」変遷の生き証人です。

これからはじまる熱く濃い軌跡をご堪能くださいませ〜(^o^)



daikumakoto at 21:17 
旧D食ルネサンス 

2020年08月15日

佐野女子国民学校の記憶(現泉佐野市立第二小学校)


古い時代のことで話者の記憶も薄れ、参考写真も戦後のものしかなく、取材記録と完全に照らしあわせることができませんでした。誤り箇所あるかもしれません。お許しください。
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(話者は昭和11年生まれ。女性。)
●私は昭和11年生まれ。古い時代、幼いころの記憶なので正確でない部分があるかもしれない。
●第二小学校は高松町へ移転する前まで、南海泉佐野駅の山側(南東側)にあった。
私が入学した当時(S17)、男子は現在の第一小学校、女子は「佐野女子国民学校(のちの二小)」へ通った。
●二小の敷地は南海泉佐野駅の山側にあり、駅と学校のあいだには「日通(日本通運)」( 砲良瀉呂挟まっていたので、泉佐野駅は海側(北西側)しか出入口がなかった。むかしは海側が佐野の正面玄関で、山側は今のように開発されていなかった。
●二小の校門は北西角(◆砲砲△辰拭L畋い蠅世辰燭石造りだったかは覚えていない。
校門を入るとすぐに運動場、まっすぐ(東方向)歩いていくと正面に大きな蘇鉄(そてつ)の木が植えられていた。その脇に二宮金次郎の石像、楠木正成の大きな像があった。銅製だったと思う。戦中の金属供出で無くなったかは記憶にない。児童はまずそこで一礼をして各学年の教室へ向かった。
●つきあたりの位置に職員室があり、の位置に高学年の校舎があった。木造2階建てだったと思う。
●私たち低学年の教室はГ琉銘屬砲△蝓中学年と各種教室校舎が┐世辰燭筏憶しているが定かではない。Г鉢┐里△い世砲論个鯢澆い刃下があり、屋根が設けられた屋外渡り廊下だった。
●の高学年校舎には「大廊下(おおろうか)」とよばれる木の廊下があり、磨きこまれて光っていた。
当時、裕福な家の児童はゴムのズック靴をはいて登校し、上履きもおなじようなものを履いていたと思うが、私は上履きはわら草履だった。大廊下はすべりがよくスケートのように滑ることができたが、低学年が遊んでいると叱られたのであまり近づけなかった。
壁面には「陳列」があり、習字や絵のじょうずな作品が掲示されていた。
私たち低学年は高学年校舎に近づくのが憚られる空気があり、その後昭和19年になると学校は閉鎖され、戦後は一小へ移ったので、1、2年の幼い記憶しかない。
●わたしたち低学年校舎(А砲里箸覆蝓学校敷地の外れ(Α砲砲蓮∧欸魘匹了楡澆澆燭い覆發里あった。平屋の粗末な建物であったが、白衣を着た大人たちが出入りしていた。そこも近づくと叱られるので「なにか恐ろしい薬を作っている」という印象で、足を踏み入れることはなかった。
●学校の出入り口は△旅嗣膂奮亜⇔¬腓里茲Δ覆發里呂覆、かろうじてГ里箸海蹇土手になっていた道からくだって敷地に入れる口があった。自然にできた獣道のようなものだった。いまも下り道の風情が残っていて当時のことが思い出される。
●()敷地の西側は運動場に沿って桜が植えられていて、春には美しく咲きそろった。
●古い写真を見ると敷地内右側にななめの道が見えるが、戦前にそのような道があった記憶はないので、戦後敷地が少しずつ削られ民間地になったのではないか。間違っているかもしれないが。(参考写真は昭和30年前半ごろと思われる)
●幼な心にもっとも印象深く記憶に残っているのはイ旅崙押とても大きく立派なもので、当時、界隈でも最も大きな建物だった。
壁は淡いピンクのタイル張りだったように思う。
講堂は学校行事のほか、公会堂のようにも使われ、何か大きな催事があるときはかならず二小の講堂が使われた。
私が入学したころは太平洋戦争戦死者の慰霊式典がひんぱんに行われた。
式典は講堂でおこなわれ、私たち児童は校門から二列に整列して遺族を迎えた。
遺族はみな黒紋付の正装で、白木の骨箱を持って校門から入場した。
出征のときは日の丸の小旗をもつが、私は出征を見送った記憶はなく、慰霊の記憶しかない。
そのときは小旗を持たず、無言で立っているだけだった。
慰霊祭は何度もあり、子供心に(この人たちはいったいどこから集まってくるのか?)と思うほど毎回
大人数だった。
●当時、給食のようなものはなく、裕福な家の子は弁当を持ってきたが、私は昼になると家へ帰って食べた。子供の足では道のりが遠く、昼休みはいつも時間ぎりぎりの往復だった。
正門へ回っていると時間がないので、民家の裏道をすり抜けすり抜け、Г瞭口から学校へ出入りした。
●けっきょく私の年代は昭和17、18年に一年、二年を国民学校(二小)で過ごし、昭和19年になると授業どころではなくなり、学校へ行かず、家の手伝いに明け暮れた。
●戦後、昭和21年になってようやく学校が再開、男女共学となって私は町の区割りの関係で野出町の第一小学校へ移った。
学校も戦後の気風に変わり、5、6年生の2年間は楽しかった。
●今も記憶に残る先生がひとりいる。その方は男性教師だったが、戦後も軍服を着て鞭の指示棒をもって教壇に立ち、教え方は戦前とおなじ厳しさがあった。
●あるとき、ひとりの男子児童のシャツのボタンが取れて無くなっているのを見たその先生は児童を呼び「家に帰ったらすぐにボタンをつけてもらいなさい。おなじボタンでなくてもよい。たとえ違う色のボタンでもきちんとつけてあればなにも恥ずかしいことはない。はずれたままにしておくことがいちばんよくない」毅然と諭された場面に出くわしたとき、自分は子供心に何かとても大切な教えをさずかった深い感銘をうけた。
結局それは自分の生涯をつらぬく教えとして生き、貧しくとも身なりだけは笑われないよう整えて生きてきた。
何十年ののち、小学校の同窓会があったとき、担任の先生にその話をすると「あぁ、〇〇先生ね。立派な先生でしたが、やはり戦後の教育改革のなかで、旧派だった先生は周囲と軋轢(あつれき)を生んでいろいろ問題になってね、、何年か前に亡くなったと聞きました」と教えてくださった。
(以上 令和2年(2020) 匿名を条件に取材)
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daikumakoto at 10:35 
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