八雲恵美子

2009年03月31日

浮草物語 (無声)

ukikusamonogatari昭和9年公開の松竹蒲田映画。
無声末期の頃の映画である。保存状態は良好で、映し出される文字も幾分見やすくなっている。
一見、音声を加味して欲しそうな映像ではあるが、心配は無用、小津ならではの無声術が冴え渡る珠玉の一作に仕上がっている。

「浮草」とは、不安定で落ち着かない生活のたとえをいうそうである。


監督 小津安二郎
原作 ゼェームス・槇
脚本 池田忠雄

キャスト(役名)は以下の通り。
坂本武 (喜八)
;「木石」「東京の宿」「朗かに歩め」「鶏はふたたび鳴く」「とんかつ大将」「長屋紳士録」 「二人で歩いた幾春秋」「若き日」「マダムと女房」「淑女と髯」「煙突の見える場所」「カルメン〜」他
→主人公。旅回りの一座の座長を務める。兎に角喧嘩っ早くて手が出やすい。
旅回りの生活は、正に浮草稼業そのものであろう。
飯田蝶子 (かあやん(おつね))
;「鶏はふたたび鳴く」「黄色いからす」「若き日」「無法松の一生S33」「東京の休日」「隣りの八重ちゃん」「淑女と髯」「酔いどれ天使」「長屋紳士録」「東京の合唱」「恋の花咲く〜」他
→喜八の来訪を温かく迎える、頼り甲斐のありそうな女将。
三井秀男 (信吉)
;後の三井弘次。明治43年3月6日生誕、昭和54年7月20日没
  「とんかつ大将」「赤ひげ」「カルメン故郷に帰る」「醜聞」「どん底」「天国と地獄」「どですかでん」
  「悪い奴ほどよく眠る」「隠し砦の三悪人」「飢餓海峡」他

→おつねの経営する食堂の倅のようである。勤勉実直。昨年農学校を出て、現在は予備学校に通う身。
八雲理恵子 (おたか);「恵美子」とも。「その夜の妻」「東京の合唱」他。
→喜八の妻にして、旅回りに付いて廻る者の1人。くりっとした流麗なる瞳の裏には、得体の知れない冷徹さと、哀愁が秘められているかのよう。
坪内美子 (おとき);「晩菊」「妻」「戸田家の兄妹」「一人息子」「金環蝕」他。昭和60年11月3日没。
→おたかの子分がごとき存在。ほっそりした和服姿が鑑賞者(筆者だけ?)の目を虜にして離さない。
突貫小僧 (富坊);青木富夫のこと。「落第はしたけれど」「生まれてはみたけれど」他多数。
→旅回りについて廻る小僧。猫の形をした貯金箱を持って歩き、その貯金箱を飼い猫がごとく取り扱っているところに途方も無い可愛らしさを覚える。
谷麗光 (とっつあん)
西村青児 (吉ちゃん)
山田長正 (マア公)
青野清 (立師)
油井宗信 (下廻り)
平陽光 (小屋の男)
若宮満 (駅員)
懸秀介 (古道具屋)
青山万里子 (床屋のかみさん)
池部光村 (村の男)

この他、ノンクレジットの出演者は以下の通り。 
笠智衆  


旅回りの芸者を軸として物語は展開してゆく。
とっつきにくそうな舞台で、初めは敬遠しがちであったが、鑑賞するにつれ、その展開の妙に驚かされ、すっかり映画の虜になる。

文字は随分と読みやすくなっており、旧字体で旧仮名遣いのオンパレードであるものの、次第にそれが深き味わいとなってこちらに伝わってくる。

極力読みやすい台詞にしている工夫が感じ取られ、台詞の読み取りに苦労をすることはなく、映像のみにて何かを伝えんとするため、そこから無声ならではの味わい深さに酔いしれる。

無声でありながら、喜怒哀楽が妙に伝わってくるという不思議な味わい。
映像がただ映し出されるのみ。時折挟み込まれる台詞描写は、旧字体で旧仮名遣いのオンパレードで読みにくく、とっつきにくそうなことこの上ないのに、じっと目を傾け、五感を働かせていると、無音・無声の中に静かに喜怒哀楽が響きあっているのが感ぜられる。
その味わいの妙は、ある種落語に通ずるものがあるようにも感ぜられる。

芸者ならではの悲哀の心境が窺い知れ、ちょっぴりした愛憎劇も挿入せられ、実に有意義なる起承転結の一こまを堪能できた。


冒頭は、至って朗らかで、何事も無さそうな展開である。
とある駅にて、何かを待っている喜八。どうやら旅芸人のようである。

暫くして、汽車から幾名かが駅に降りる。どうやら、旅仲間のようであることがわかる。

一行の演芸の風景は、如何にも間抜けであることは、小僧の失態やその他諸々からわかる。
こんなことでは、儲けは芳しくはあるまい。
このお間抜けな舞台の風景から、旅芸人としての儲かり具合やら、出来具合たるものが見て取れるというもの。暫くすると、雫らしきものがしたたりおちてくる。
どうやら雨らしい。
本降りになってくると、雨が容赦なく舞台の中に滴り落ちてきて、上演どころではない。
雨漏りが半ば常識状態になっているところに時代と言うものを感ぜざるを得ない。

間抜けな舞台を披露して儲けが少なそうな一座に、更なる悲劇が襲ってきた模様である。


ある日、喜八はどこぞの料亭を訪れる。
そこの女将、おつねとは久々の面会であったらしい。感無量である旨が読み取れる。

階上には、子息・信吉が住んでいる。
どうやら勉強三昧の様子。
久々の再開に信吉は感無量の念を隠せない。

将棋をしたり、釣りをしたり、仲の睦まじい様子の二人。
信吉の父親は20年前に役場にて亡くなったことになっているが、どうやらそれは虚偽らしい。
信吉が実父のことを知ってしまえば、どうなることやらと話す喜八とおつね。
一体、如何なる災難が降りかかるのか、この段階では不明。。。


おつねと喜八の関係を不信に思い始めるおたか。
この辺りから歯車は狂い始める。

おつねと喜八に隠された秘密を巡り、おたかと喜八の仲が険悪なるものになる。
喜八はおたかの頬をひたすらにひっぱたく。
ややぶちすぎ。。。

おたかはやり返すことはしないものの、喜八をにらみつける目は如何にも冷徹に満ちており、どことなくおぞましい。それに気づかず、暴力三昧の喜八はやや間抜けな一面が・・・嗚呼。。。


あれだけ頬をぶたれたおたか、黙りこんでいるわけがない。
信吉と喜八の関係を探らんと、おたかはおときを信吉のもとに送り込まんとたくらむ。
信吉を騙して来い、魅せて来いというのだ。そのときのおたかのくるりとした冷徹なる瞳が恐ろしく、如何にも悪意に満ちている。


おときは、「あんな小僧なんて・・・」と如何にも興味ない素振りをする。大人びている一面を見せたがっているようでもあった。
兎にも角にも、おたかの企みを引き受けることになったおとき。
信吉は、勉学一筋らしく、おときにはこれといった興味を示さないふりをする。
約束の時間と場所を告げられると、とりあえずその約束を守らんと告げる信吉であった。

如何にも興味なさげな素振りをしていた信吉、自宅の部屋に戻ると、鏡を手に持ち、髪型を気にしている。茲から、信吉がおときに興味を抱いたんだなということが伺える。
この、髪型を気にする風景はもろに現代にありがちな恋の芽生えの風景といってよい。
どうせ叶わぬ恋に、、、という、ちょっぴりした切なさも感ぜられる。


おときは、信吉を騙さんとし、おたかの策略に乗る意図を以て信吉との付き合いを始めた、、、筈であった。いつの間にやら本気になってしまったおときのようである。。。


その過程は極力省略せられており、要所要所を以てその過程を知らしめる方式を採る。
この省略の妙は、戦後の小津映画にてしばしば見られる方式である。


信吉の、おときにかける一言がまぶしき哉。

本気の付き合いを申し込まんとする信吉に、ためらいの念を表すおとき。
実は、ある策略があってのことであったことを暗示させる発言をするおとき。
その時、信吉は、「初めなんかどうだっていいんだ!今が大事なんだ!」との旨を話す。
この思いもがけない凛々しさに完全にやられてしまったようである。


信吉とおときの仲は次第に色の濃いものとなる。
それが喜八のところに知れ渡った瞬間、喜八は愕然とする。
「こりゃ大変なことになった」とショックを隠せない喜八。

一体、何がそんなに大変なのかは不明。その詳細は明かさない方式で、茲にも小津ならではの省略の妙が発揮せられている。

何が大変なのかは不明であるが、その大変さは、クライマックスにて何となくながらも明かされる。

おときに惚れ込んでしまった信吉に対し、「血は争えない。。。」とつぶやく喜八。
やることなすことは違っていても、根本的な体質は受け継がれてしまうもの。
それも都合の悪いことばかり。。。


喜八は、おたかをしかりつけるだけしかりつける。
そんなことをしても今更どうにもならない。

その後の喜八の表情は、ただひたすらに沈痛。
先ほどまでの怒り狂った表情とは一片、実に悲しそうで寂しそう。
この表情の急転換に驚かされ、喜八の悲哀の情をしっかりとかみしめることになる。

一座の解散如何に付いては、その風景から類推せねばならない方式を採る。
明示せられないだけに、一座の解散に至った結末の寂しさが伺える。
「堅気につけるならば、その方が良い」と告げる喜八。


やうやく帰ってきたおときと信吉。
おときは、ただひたすらに喜八に詫びる。
喜八は、おときの詫びなどおかまいなしにひたすら殴りつける。

おときは、それでも詫び続ける。喜八は殴り続ける。
いてもたっても居られなくなった信吉、止めに入る。曰く、「謝ってゐるぢゃないか」と。
今度は信吉を殴りつける喜八。
信吉は堪忍袋の緒が切れたのか、喜八を殴り倒してしまう。
居てもたってもいられなくなったのか、おつねは洗いざらい秘密を話してしまう。

当然の如く信じようとはしない信吉。
信吉は、「20年も家族を見捨ててきて今更なんだ!」と怒り狂う。

喜八は、信吉には自らとおなじ浮草稼業にはついてほしくなかったよう。
旅回りを真似させまいとして、姿を消し、気楽なおぢさんのフリをしてたまに遊びに来て信吉の成長を伺っていたのである。浮草稼業を通じ、信吉の学費をせっせと出していたのである。

秘密とその経緯をしっかり話すおつねの姿がまぶしい。
本当の声はわからないが、芯の通った、どすの利いた声で、如何にも頼れる女将の空気をかもし出している。
特に泣きじゃくることもせず、感情的にもならず、信吉の説得にあたるおつね。
信吉は、真実を受け入れられず、さっさと部屋に上がってしまう。



筆者の偏見ではあるが、どうも、古参の邦画監督はメロドラマが好きに思えて仕方ない。
どこか必ずメロドラマの要素を入れたがるように思える。

喜八は、信吉が部屋にあがってしまい、寂しい空気溢れる中、そっと立ち去らんとする。真実を話さずして。おときは、自らの過ちを悔いるため、喜八の恩に報いるため、旅回りについてゆく旨を話す。
喜八の一座は解散した。一からの出直しを決意するのであるが、当てがどこにもない状態。
そんな中、旅回りについてゆく決意を表しているおときの心情はどれほど心強かったかわからない。

喜八は、そんなおときの心情にいたく心を打たれた模様。
「聞いたかい、おっかあ」と。

「さっきはぶってしまってごめんよ」と、涙目で心から詫びる喜八。

喜八は、信吉のほか、おときをもおつねが預かって欲しいと告げる。
これは、恋愛成就を意味する。今で言うところの結婚成立、結婚を認めるみたいなもの。
劇中、一番好きなシーンだ。茲はどう考えてもメロドラマになるところ、そうはならない。
メロドラマにしたがる展開ではなかったのである。

恋愛成就を認めてあげるこのさりげない表し方がたまらない。これには実に心を打たれる。


信吉が大急ぎで階下に行ったときには、喜八の姿は無い。
さっと姿を消し去り、消息をも絶ってしまう喜八に、途方も無い哀愁を、旅芸人ならではの哀愁を感ぜずにはいられない。


独りぼっちでついた駅、そこにはおたかの姿があった。
どう考えても仲直りできるムードではない。
どうやらおたかは喜八と同様、ゆくあては特に無いようである。
喜八の向かう先は上諏訪。
喜八のやり直しの決意を一瞬無視したかのように感ぜられるおたか、ふと券売の窓口に向かう。

茲では、はっきりと「上諏訪まで」という台詞を表示している。
喜八にとって、この一言がどれほどまでに貴重であったかが感じ取れる。
茲は、別に「上諏訪まで」という台詞の明示は不要にも思える。
単に、おたかが切符を購入する場面を映すにとどめ、観客に台詞を想像させる方式を採ればこと足りるようにも思える。そこを敢えて、「上諏訪まで」という台詞を「明示」している。

その台詞の明示から、喜八の心に光明が差し、うつむき加減の喜八の表情が明るくなることを感じ、こちらは何ともいえない朗らかな気分になるのだ。

ゆくあてもない喜八とおたかを乗せ、汽車はただひたすらに目的地に向かって突っ走るのみであった。



.03点。

無声という制約のもと、喜怒哀楽、起承転結をしっかり味わわせてくれること、旅芸人ならではの悲哀を感じ取らせてくれること、さりげない恋愛成就、さりげないハッピーエンドを感じ取らせてくれることに鑑み、9点台に位置づける価値があるものと確信してやまない。
旅回りの哀愁を感じさせてくれるまさかの傑作であった。



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東京の合唱 (無声)

chorusdetokyo昭和6年公開の松竹蒲田映画。
世界恐慌の波を受け不況に喘ぐ日本、就職難に喘ぐ世相を、実に「面白おかしく辛辣に」の言葉にぴったりくるほどに小気味良くまとめ挙げられた逸品の一つである。

「辛辣に、軽快に、おどけて」の言葉達がしっくりくる展開の仕方。
昭和4年世界恐慌にあえぐ不況列島ニッポン、空前絶後の就職難といった世相を基本はコミカルに、時には辛辣に描いてゆく。
観ている者は、その小気味良いテンポに笑みを覚えつつも、時折見せる辛辣なる表情にその当時の世相を強く印象付けられる。


助監督:清輔影、原研吉、根岸浜男
脚色・潤色:野田高梧
原案:北村小松

キャスト(役名)をみよう。
岡田時彦 (岡島伸二)
;女優岡田茉莉子の実父。
               結核により、昭和9年1月16日、誕生日を目前に控える形で30歳にて没。
 戦前の小津作品たる無声映画に5本出演し、小津のひいきの俳優の一人であった。茉莉子はそのとき僅か1歳、父の顔など覚えているわけも泣く、後年、小津映画によって初めて父親の姿を見たという。この縁あってか、茉莉子も小津作品に何本か出演している。

八雲恵美子 (妻すが子)
;「理恵子」表記の時もある。「浮草物語」他
       明治36年8月15日生。大正13年に大阪の松竹楽劇部に、大正15年に松竹蒲田に入社して女優となり、五所平之助監督の「初恋」という作品で銀幕にデビュー。昭和7年ごろには田中絹代に主演の座を奪われる形になり、昭和13年引退。昭和54年没とのことである。残念。

菅原秀雄 (その長男)
高峰秀子 (長女)
;当時は子役。芸能生活50周年を迎える昭和54年に引退。
            以後は随筆活動が中心。

斎藤達雄 (大村先生);「落第はしたけれど」他。昭和43年没。
飯田蝶子 (先生の妻);昭和47年12月26日没。
坂本武 (老社員山田);昭和41年、現役引退。49年5月10日没。
谷麗光 (社長)
宮島健一 (秘書)
山口勇 (会社の同僚)



初めは、学生時代の場面から始まる。
このあたりは、ただひたすらにコミカルさを意識しているかのような描写である。
この風景は、今は無き教練(あるいは兵式体操?)の授業風景なのであろうか。


戦争ムードに染まらんとする日本の暗い将来を暗示しているかのような授業風景、さも悲劇が如く描かれるのかと思いきや、そこでやっているのは、「整列!」「何をやっているんだ!!」という罵声が飛び交っているのみ。肝心の授業はいつまでたっても始まらない。
教師が目を放した隙に、教師の悪口を言ったりへんなポーズをとったりと、あれこれ悪戯に勤しむ生徒達が何とも微笑ましい。

遅刻する生徒が居る。遅刻の常習犯らしく、そのことを教師に突っ込まれる。
独り奇妙な生徒が居る。どうも体操服を忘れてきたようで、上半身裸になる。
体操服を忘れてきたが、学ランを着用したまま授業には参加できない。

茲までは、間抜けな忘れん坊という感じであるが、その次が如何にも怪しい。
学ランを忘れてきたのみならず、妙な道具を持ってきており、そのことを教師に突っ込まれる。
その道具が、どう観ても「でんでん太鼓」なのだ。
下部が明らかにでんでん太鼓の形にくりそつ。
上半身裸といい、この学生、ひょっとして全裸を以てでんでん太鼓を打ち鳴らしたかったのではないかとでも言わんばかり。
でんでん太鼓大日本帝国タイプだ。

トルコにて行われたでんでん太鼓パフォーマンスは、この生徒を範として行われたのではなかろうか。
この生徒の思いをかなえる形のでんでん太鼓打ち鳴らしパフォーマンスだ。
このでんでん太鼓のさきがけを狙わんとしていた者が、戦前のスター俳優、岡田時彦であるとのことである。


世は大恐慌というのに、何とも暢気な学校生活。授業が始まるようで、全然始まらない。単に生徒達の注意に始終している教師。


基本は、映像を以て表現せんと努めている姿勢がうかがえる。
身振り手振りだけであり、如何にして怒っているか、如何なる注意をしているか、その具体的事情は不明であるが、台詞がなくとも、何をしているか、如何なる心境であるかがくっきりと伝わってくる。
教師に対し、陰口をたたいている生徒の可愛らしき姿であることよ。

表示せられる台詞は極力抑えられており、台詞に気をとられずにすみ、映像を以て展開を明示してくれるありがたい演出。


この学生生活は、実は回想シーン。主人公は、でんでん太鼓を狙っていた者。
成人後は保険会社に勤める者となっており、幾人かの子供を授かっている。
言ってみれば「マイホーム・パパ」。どこか気弱そうな2枚目姿が何ともいとおしい。
この場面を現代とすると、先ほどの回想シーンは大正時代を意識して描かれたものか。
あの頃は暢気だったが、現在は不況にあえいで何とも世知辛いとでも言いたげのよう。


子供には不況如何などわかりやしまい。
二輪車をほしがる子供。
自転車のことを、「二輪車」と表現するところが如何にも昭和一桁風情を感じさせる。

周りの子供は2輪車に乗っているのに、自分だけは乗っていない。何とかしてほしい長男であった。
この歳になって二輪車に乗らないのは恥じであるとでも言わんばかり。不況に喘ぐ日本列島に於いて、子供達は不況云々などお構い無しに、二輪車如何で盛り上がっている。
これが、60年経つと、「この歳になってコマつき自転車に乗っているのは恥じである」という風潮になり、コマつきであるか否かが話題になってゆく。

父親・伸二は、賞与、すなわちボーナスの日であり、それを目当てにして自転車を購入せんと目論見、「二輪車を購入」とメモしていた。



伸二の勤める保険会社も不況の影響をもろに受けていたようである。

賞与を勘定する姿が如何にも滑稽。
何と、便所の中で一所懸命に勘定していあがる。周りの目が気になってか、伸二はどうにも賞与を勘定できない。二輪車を購入できるほどに稼げたか否かがわからない。困ったものである。

ある社員が、契約に失敗したとかで解雇せられてしまう。その社員の気弱そうなこと気弱そうなこと。
どうも課長らしく、部下のほぼ全員がその解雇に不満の様子。

「ほぼ全員」という言い回しに注目されたい。全員が不満ではない。独り、上司の解雇如何には無関心の者が居た。兎に角自分さえよければ後はどうなってもよい、あとは成り行きに任せるという、自己中心型タイプ。「いまを生きる」のラストでも居たろう、教職を退いた者に対し、ほぼ全員が席を立って見送るのであるが、数人であったか、座ったままの者が。
この時代にもきちんと居るわけである、自らの賞与のことしか頭に無い者が。

一所懸命に賞与の勘定に勤しむ社員。その姿は滑稽であり、無神経であり、失笑モノである。

どうもこの社員、よくよく考えてみるに、賞与の額をトイレットにて勘定している最中、便器に札束を落としてしまったのである。その札束を乾かすのに精一杯で、誰が解雇せられたとか頭を回している場合ではなかったのである。小津ならではの静かな下根多が冴える。


別のとある社員が、社長室に立ち向かわんとするが、逆らうと自らも解雇になりそうで怖く、結局有無を言えない。そのことで伸二は「何故行かないんだ?!」と激しく突っ込む。
そんな伸二の態度にカチンときたのか、「お前が物申してゆけよ!」と突っ込み返す当該別のとある社員。

伸二は、半ば勢いのままに社長室に乗り込む。
茲での社長のやりとりがまた滑稽。だんだん議論がエスカレートしてゆく様子が伺える。
「加トケン」「だいじょうぶだあ」に於ける喧嘩コントにてみられた、次第にエスカレートして過激になり行く攻撃の原型とも言わんばかりの喧嘩を繰り広げる伸二と社長。


熱弁をふるう伸二、どこか気弱そうな社長。これは伸二が優勢かに思われたが、何と、社長は、伸二まで解雇を通告してしまう。
「そんなに不満があるなら貴様もクビだ!」とのこと。
その旨の表示が為されたとき、それまでの張り詰めていた熱気が一気に冷めてしまう。
伸二は、勢いのままに、「こんな会社、こっちから願い下げだ!」との旨の捨て台詞を発し、社長室を後にする。

先ほど、社長に一言物申さんとした別のとある社員の、伸二を蔑むかのような目線が実に憎らしい。
初めから、このとある社員、伸二をはめることを考えていたかのようにも思える。
実は、尤も上司の不当解雇に無関心だったのは、コイツなのではなかろうかと思えるほど。
この場面は、「辛辣」さがにじみ出た場面である。

社長室に於けるやり取りは「滑稽」、解雇のシーンでは「辛辣」。
この滑稽と辛辣が実に巧く絡み合い、鑑賞する者を飽きさせない。

世界恐慌という深刻なる状況を、実に滑稽に描き、鑑賞する者の頭を堅苦しい空気にさせず、それでいて辛辣なる風景も要所要所に挟み込み、深刻なる状況たるものをきちんと考えさせる。


退社の準備中、長男のプレゼントを書き綴ったメモを折りたたむ伸二の姿が何とも物悲しかった。
とばっちりを食らっても、上司に特に嫌味たっぷりの態度を見せない伸二に、妙な心の優しさを痛感することになる。

独り金銭の勘定に夢中になっている者は、結局永久に金銭の勘定に明け暮れるばかり。


自宅に戻ってきた伸二、とりあえずの形で別のプレゼントを長男に授ける。

当然長男は不満げな様子。「話が違う」「父ちゃんの嘘つき」とだだをこねる。
その気持ちがわかるだけに、何とも物悲しい。
伸二に対しても、同情の念が沸く。何とかプレゼントを買ってあげたいという必死の思いがあってのプレゼントだったのに、見事に否定せられたわけである。
父親が、裏で如何に酷い屈辱を受けてきたかなど、子供には知る由もない。
その屈辱を子供に零さない伸二が偉い。

長男へのプレゼントに、妙に夢中になる長女が唯一の救いといっても良かった。


妻に、解雇の知らせを見せる伸二。卒倒する妻。
その解雇の知らせの紙を紙ヒコーキにして飛ばす子供達。

解雇というものの悲惨さを全く理解していない子供達の無邪気さが垣間見られる場面である。



この時代、大卒の就職率も危うかった。「落第はしたけれど」にて描写せられていた通り、大卒の就職難は深刻で、門番に就ければ御の字であった。
中途退職者は是如何。もはや絶望といってもよいくらいの再就職率である。
その絶望の淵へ自ら入り込んでしまった伸二。それについて後悔の念を特に見せていないところに伸二の意地を感ずる。
当然再就職口は見つからない。

再就職を求めて苦戦している最中、長女が病に倒れてしまう。
どうも食中毒にかかったようである。
医師に見せると、どうやら命に別状は無かった。

何とか無事に長女は退院を遂げる。妻は、たんすの中を調べてみる。
中には何も入っていない。一体どうしたことかと妻は伸二に問い詰める。
伸二は、長女を何とか元気にしてあげたいという思いしかなかったとの旨を告げる。

どうも、長女の医療費を払うため、嘗て用いていた会社のスーツを売り払ってしまったようである。解雇せられた今、もはやスーツなど必要ない。はっきり明示せられないため、ひょっとすると違うやも知れない。

どんなことがあっても子供達の命は守り通すという父親の意思の固さ。
茲はちょっぴり泣けるシーンであり、父親の心の優しさが染み渡る場面である。

先ほど、長男に嘘つきとののしられる場面では、やけに頼りなそうに思えたが、茲で一転、父親らしさを再認識することになる。

家族一同、せっせっせのアッサイをして楽しんでいる。家族団欒の風景。
当然ながら、当時は三種の神器の面影などどこにもなかった。その時代ならではの団欒の光景である。


再就職を求めて苦戦中の伸二。職業安定所には、多くの未就職者、失業者が並んでいる。
安定所から出てくる伸二。その背中は、如何にも物悲しげであった。どうやら就職口は無かったようである。背中からにじみ出る無念さは、言葉にてくどくどしく説明せられるよりも遥かに説得力がある。

道中にて、代書屋がある。当時は、義務教育たるものが現在はもとより、戦後よりもっと徹底せられておらず、文字を書けない大人が少なからず存在していた。そうした大人のために代書、代筆業という商売が成り立っていたのである。かかるリアルな時代風景を味わわせてくれると言うのも小津ならではの特徴であろう。この代書屋を根多にした話が、落語「代書屋」である。


伸二が希望を失って彷徨っている最中、保険会社を不当解雇せられた嘗ての上司とばったり出会う。どうやら、門番に何とか再就職が決まったようではある。再就職が出来たということだけでも喜ばしい状態とのこと。

あれこれ彷徨っている伸二、ふとしたところで嘗ての恩師とばったり出会う。
そう、冒頭に出てきたあの教師だ。
白髪が混じり、年老いた感じではあるものの、背筋はピンとしており、幾分穏やかになったとはいえ、口調は相変わらずのようである。具体的に台詞回しが聴けないため、本当に穏やかな口調なのかきつい口調のままなのかはわからないが、その身振り手振りから大体如何なる感じであるかはつかめる。この微妙なる味わい、表情や身振り手振りからわかるおかしみ、無声映画であるからこそ味わえる楽しみであり、奥深さである。

思わぬところで再就職先が見つかった伸二。
嘗ての恩師は、現在、ラーメン屋を開かんとしているらしい。客集めに協力してくれという。
伸二は、「哀れに思って仕事を呉れるのならば断る。教え子なので手伝ってほしいということならば引き受けたい」と、何とも小生意気な台詞を吐く。どんなに苦境に立たされていても、プライドだけは一人前に見せたいのである。恩師に成長しているところを見せねばと無理して背伸びしているのやも知れない。どうしても恩師の再会となると、格好良く見せたいのが人の情というものであろうから。

曲折あって、恩師と共に街を歩き回り、宣伝に勤しむこととなる。
嘗ての保険会社社員が、今ではどこぞの新装開店の宣伝員。
情けないことは情けないが、兎に角仕事が見つかっただけでもありがたく思わねばならないほどの不況列島ニッポン、就職難列島ニッポン。
伸二は、どういうわけか、プラカードをちゃんともてないらしく、重たがっている。
恩師は、「プラカードを持ちながらではちゃんとチラシを配れない。もう一つ持っておくれ」としてただでさえ重いプラカードをもう一つ持たねばならないことになる。伸二の体はボロボロ。

プラカードはそんなに重たいものであろうか。時代が違うとは雖も、そこまで重量は亡き者と考えられる。どうして伸二はここまでして重たがっているのであろうか。
余りの醜態に、恩師に、「学生時代にちゃんと運動をやってこなかったからこうなるんだ!」と叱られる。まるで體操(今で言うところの体育)の授業にタイムスリップしたかのように背筋を伸ばし、プラカードをちゃんと持つよう指示せられる。

冒頭にて示した学生時代の風景は、茲にて有機的つながりを見せる。
伸二は、冒頭、体操服を持ってこず、上半身裸の状態になっていた。恩師の言葉に鑑みると、どうやら伸二は、体操の授業が億劫で、毎日体操服をわざと持ってこなかったものと考えられる。体操服を持ってこないために、授業は受けられず、毎日が見学三昧、毎日立たされているだけの體操の時間。生粋のサボリ屋だったのである。
その、サボっていたツケが今正に来ているというわけである。
「嫌なことを『億劫だ』『面倒だ』として避けていては、とんだ事態に遭遇した時にそのツケを払わねばならないことがある」という伝達事項をさりげなく挿入している。この、ともすれば説教くさくなりがちな伝達事項を、これほどまでにユーモアたっぷりに、日常風情の中にさりげなく織り交ぜる形にて描くとは、出色どころの騒ぎではない。
「っっかぁ〜〜・・・! そう来たか」と思わず打ちひしがれる。

恩師はある種幸せだったやも知れない。一瞬ながらも教師時代の魂を取り戻せたのである。背筋を伸ばしてあれこれ指示する恩師の背中からは、往時の魂を取り戻せた喜び、タイムスリップの懐かしさに耽っているようにも感ぜられる。

偶然、妻はその現場を見ていたらしく、「嘆かわしい」「恥ずかしい」と散々罵られる。
訳を説明する伸二。伸二は、まるで学生が如く恩師から叱られていたわけであり、本人もさぞ恥ずかしく、嘆かわしい思いであったことだろう。耳の痛さは計り知れまい。

どうやら、或る特典が用意せられているらしい。
伸二がラーメン屋の手伝いをしている間、恩師は、再就職先を探してくれるとのことであった。それで、伸二はラーメン屋の手伝いをすることを決意したのだという。

納得した妻は、自らもそこの手伝いを申し出る。


暫く経って、同窓会を催すことになった。
集まってくる生徒達は、冒頭に出てきた生徒達である。皆立派な大人になっていた。
そうかと思えば、遅刻癖の治らない者が居た。頭髪が随分と寂れている。
「君は相変わらずだねえ」と笑い飛ばす恩師。その突っ込み方も、嘗てとは比べ物にならないほどに穏やかになっていた。


四方山話にて盛り上がっている最中、伸二に朗報がやってくる。
席を外し、恩師の下へ向かう伸二。
どうやら、茨城県の、とある英語学校に再就職の口があるという。

伸二は、いつか必ず東京に戻ってくると言い、茨城県へ赴く決意を固める。

伸二が再び席へ戻ると、みんなは校歌の大合唱をしていた。
それは、あたかも伸二に対する祝いの歌かに聞こえた。
思い余って涙を流す伸二と恩師の姿が何とも心に突き刺さる。
大合唱の最中、密かに幕は閉じられる。


校歌は、歌詞が一瞬表示せられるだけで、具体的なメロディは不明で、歌詞の運ばれ方もわからない。わかるのは、みんなが校歌を斉唱している姿だけ。
何の音も無く、校歌斉唱の姿が見えているだけなのであるが、やけに盛り上がっているかのように思え、本当に再就職先の見つかった伸二を祝い、万感の思いを以て茨城県に送り出さんとしているかのようである。無声映画ならではの実に微妙なる味わいである。
音声があると、「単なる校歌斉唱じゃねえか!」でおしまいで、茲まで深い味わいは為しえないやもしれない。


無声ならではの小気味良いテンポ、くっきりした映像、味わい深くて奥行きある表情、、、これらが、鑑賞者を引き込み、心地よい想像力を働かせ、感情移入をせしめる。


9.5点。


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その夜の妻 (無声)

sonoyonotuma昭和5年公開の松竹映画。

小津がアメリカ映画を模して製作したサスペンスで、原作は当時のモダン志向の若者に人気のあったハイカラな娯楽雑誌「新青年」に掲載せられたアメリカのサスペンス小説である。


監督 小津安二郎
原作 オスカー・シスゴール「九時から九時まで」
翻案・脚色 野田高梧




キャスト(役名)は以下の通り。
岡田時彦 (橋爪周二)
八雲恵美子 (その妻まゆみ)
市村美津子 (その子みち子);「マダムと女房」
→病にかかったらしく、まゆみの介護のもと、寝込んでいる。「マダム〜」の時とは打って変わって、この子は実に父親思いで、父の帰りを今か、今かと待っている。
山本冬郷 (刑事香川)
斎藤達雄 (医者須田)
→みち子の病を診察する医者。
 
以後はノンクレジットの出演者。
笠智衆 (警官)
それ以外に付いては不明(例えば牛乳屋など)。



冒頭は暗闇の中、周二があれこれ動いている場面が登場。
どうやら、犯行をしているらしい。
このあたりの場面は台詞が無く、動きのみの描写となる。
夜の描写のため、暗闇が基本でやや見づらい。

暫くして、自宅の風景。
まゆみとみち子が登場。
みち子は危険な状態に在るらしい。今夜が生死の分かれ目らしく、是非とも見取ってほしいとの医者の言葉。父親よ早く帰って来いということなのであるが、その父が中々帰ってこない。

この父は、容易に想像がつくであろう。
先ほど犯罪を繰り広げていた橋爪周二である。
身を潜めながら決死の電話を繰り広げる周二、どうやら警察の手が迫りに迫って帰宅できないらしい。妻は何とかして早く帰ってくるよう頼み込むわけであるが、周二も必死。
何しろ犯罪しているわけであり、おめおめと街中にて顔を出せない。
みち子は父親に会いたいといって聞かず、妻まゆみはどうしようもなく、おろおろするばかり。


やっとの思いで周二は救いの手が差し伸べられる。
親切なる紳士が、自宅まで送ってやるというのだ。
それで周二は念願の帰宅を果たせる。

救いの手を差し伸べる前、受話器を元に戻しておかない周二。
如何にも何かありげな展開をにおわせる受話器。


何故周二は犯罪をやらかしたのか。
答えは簡単で、みち子の治療費を稼ぐため。
この橋爪一家は兎角貧乏で、働くアテが無かった。
さりとて大事な一人娘を放ってはおけない。
子供が助かるならばたとえお縄を頂戴せんとも、、、とでも言わんばかりの周二。

初めは、周二は妻に「治療費を稼ぎに出かける」といって出かけ、犯罪のことは言わなかったようである。帰宅後、治療費のことを尋ね、周二は犯罪のことを打ち明ける。

「かうまでしないと・・・」という周二の言葉に、極貧一家ならではの悲哀の事情が見て取れる。
時は丁度世界恐慌の折であり、橋爪が如き極貧一家にはとりわけ厳しい情勢だったのであろうと考えさせられる。

周二は、冒頭を観る限りは極悪非道に思えるが、帰宅後の姿をみるにそうでもないと思わされる。
実に子煩悩であり、そのさまは、みち子の慕う風景から充分に理解できる。
周二は、みち子の様態が回復したら、自ら進んで自首するつもりらしい。
全てはみち子の容態回復を願ってやったまでのこと。そのためならば手段を選ばない覚悟のようである。そこまで追い詰められた極貧一家の悲劇。
「東京の合唱」とは対照的といってよいくらいに、茲では悲劇のシチュエーションが悉く悲劇に描かれている。


あの救いの手は実は刑事・香川の手であった。
親切なる紳士になりすましていたようである。周二はまんまと引っかかった。

何とか子供の回復を見ておきたいと懇願する夫妻であるが、その願いは警察に届くわけは無い。
まゆみは、決死の手段に躍り出る。
香川から拳銃を取り上げた。子供が回復するまでずっとこの姿勢を保ち続けると言うのだ。
本当にずううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううっっっっっっっっっっと拳銃を向けたまま。
朝・昼・夕食などは一切考慮せず。
その執念深さに刑事は負けた・・・わけではない。
何とかして逮捕するタイミングを見計らっている。


初めは威勢の良さを見せたまゆみであったが、残念ながら睡魔には勝てなかった。
いつのまにやら転寝してしまう。

刑事・香川は、いつの間にやら拳銃を取り返していた。
まゆみを銃殺するのかと思いきや、一眠りを促してやる。余りの子供思いに参ってしまったと言うことか。鬼刑事が透かして見せた人間の心であった。

香川は、ずううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううっっっっっっっと待ち構えている。
子供が回復するまで待ち続けるつもりのようだ。

その間、医者は平然としてみち子を診察する。
さぞやり辛いことであろうが、さすが専門の医者、そのような素振りは一切見せず、平然と仕事をこなしてゆく。
刑事はずっとうろうろしている。

一応、みち子は無事に容態回復したようである。
丁度その時、刑事は転寝してしまった。
魔が差したのか、まゆみは周二を逃さんとする。

一度は悪魔の囁きに乗った周二。
刑事が追いかけんとして外に出ると、逃げたはずの周二が待ち構えている。

周二の次の一言が何とも胸を打つ。曰く、
「刑期を終えればいつでも(みち子を)抱ける」と。


みち子は、てっきりお出かけするものと思い込んで、刑事に連行せられる父に手を振っている。
刑事にまで手を振る有様。


ストーリー自体は至って単純明快。
世界恐慌に置かれた極貧一家ならではのどん底の悲哀を浮き彫りにした印象のつくりである。



7.1点。



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