五十嵐博臣の不羈奔放なブログ

カテゴリ: 時局

また、久々の更新となつてしまひました事、申し訳御座いません。

 扨、日ソ中立条約の事を、時に不可侵条約といふ方がゐるが、それは⑤で書いた通り誤りで

ある事を述べ、昭和十六年四月に締結された、その条約の内容を此処に記す。

                  日ソ中立条約
                  昭和十六年(西暦一九四一年)四月十三日 モスクワニ於テ署名
                  同年四月二十五日両国批准

大日本帝国及ソヴィエト連邦ハ両国間ノ平和及友好ノ関係ヲ鞏固ナラシムルノ希望ニ促サレ中
立条約ヲ締結スルコトニ決シ左ノ如ク協定セリ
第一条
両締約国ハ両国間ニ平和及友好ノ関係ヲ維持シ相互ニ他方締約国ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊
重スヘキコトヲ約ス
第二条
締約国ノ一方カ一又ハ二以上ノ第三国ヨリ軍事行動ノ対象ト為ル場合ニハ他方締約国ハ該紛
争ノ全期間中中立ヲ守ルヘシ
第三条
本条約ハ両締約国ニ於テ其ノ批准ヲ了シタル日ヨリ実施セラルヘク且五年ノ期間効力ヲ有スヘ
シ両締約国ノ何レノ一方モ右期間満了ノ一年前ニ本条約ノ廃棄ヲ通告セサルトキハ本条約ハ
次ノ五年間自動的ニ延長セラレタルモノト認メラルヘシ
                                                     [以下略]

此の条約は、上記の通り、第一条で両国の領土保全及び不可侵を約束し、第二条で戦争の中

立を誓ひ、第三条では、同条約が五年間有効である事を確認し、廃棄する場合は満了一年前

に通告を義務付け、無ければ自動的に五年間延長となる事を互ひに認めた。

 然し、結果は如何であつたのか。それを知る者として、矢張りこの日ソ中立条約こそが、我が

国の失敗であつた事を痛感せずにはゐられないのである。

~続く~


  では何故、北方領土(南樺太・全千島列島、四島を含む)は、現在ロシアが領有してゐるの

か。それは、愚生が今更述べる迄も無く、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄して、怒涛の如

く北方領土や満州を侵略し、北方領土に於てはそのまゝ不法占拠してゐるからである。

  この日ソ中立条約について、極簡単ではあるが同条約締結迄の流れを記述させて戴く。昭

和十四年(西暦1939年)、独ソ不可侵条約締結。その直後、ヒトラーはポーランドに侵攻し、第

二次世界他大戦の火蓋がきつて落とされた。張鼓峰(昭和十三年)・ノモンハン(昭和十四年)

と、ソ連軍と衝突した我が国は、そのソ連軍の威力を知り、軍事衝突を防止する為、満州国とソ

連、蒙古の国境線を画定させる必要に迫られた。

  昭和十五年七月、東郷茂徳駐ソ大使は、ソ連外相モロトフに対し、日ソ基本条約を確認して

日ソ中立条約を結ぶ事を提案した。モロトフは、基本的に賛成であつたが、日ソ基本条約の中

で、ポーツマス条約の有効性を規定してゐる条項を破棄するやう要求してきた。

  同年十月、建川美次新駐ソ大使は、モロトフに対し日ソ不可侵条約の草案を提示。然し、モ

ロトフは、「南樺太と千島のうちの北の方の島数個」の返還を要求、もし日本がそれを呑まない

のであれば、不可侵条約は結ばないが、中立条約なら締結してもよい、と解答してきた。それに

対し、我が国外相松岡洋右は、北樺太の購入を提案したがソ連はそれを峻拒し、日ソ間の条約

締結は断念せざるを得ない状況となつた。

  翌年(昭和十六年)、膠着状態にあつた日ソ関係は、ソ連の独裁者スターリンの鶴の一声

で、日ソ中立条約を締結する事になるのであるが、歴史の結果を知る者としては、この時中立条

約を結ぶ事無く北方の防備をきちんとしてをれば、満州での地獄絵図のやうな悲劇や同じく樺

太千島での惨劇、シベリヤ抑留、そして満州残留孤児に現在の北方領土問題など、果たして起

きてゐたのであらうか。そればかりか、ドイツ連合軍による東部戦線(独ソ戦・昭和十六年六月

~)の開始と共に、ソ連を挟み撃ちにし(ソ連は、それを最も恐れてゐたといふ)潰滅させてゐた

ら、支那大陸に於ける共産政府の出現、朝鮮・ベトナム戦争、米ソ冷戦、東欧諸国となつた国民

の悲劇、世界同時革命などといふ共産主義者による無差別テロ、またスターリン、毛沢東、ポル

ポト、北朝鮮金一族など独裁者による粛清は、有り得なかつた筈だ。

  歴史に、もし、はないのでこれ以上共産主義、共産主義者らによる悪行を書いてゐても詮無

い事なのでやめてをくが、ヒトラーのユダヤ人虐殺は絶対に許される事ではないが、それ以上の

虐殺を行なつてきたのが、共産主義者である事を忘れてはならない。そして、日独伊三国同盟

が我が国の一番の失敗だつたと戦後言はれてきたが、一番の失敗は矢張り日ソ中立条約の締

結である。

~続く~

  ③で述べた通り、日露間に於ける法的且つ最終的領土の確定は、明治三十八年(西暦1905

年)締結の日露講和条約(ポーツマス条約である)である。

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※上の写真は、明治神宮絵画館駐車場の草叢に、ひつそりと建つ樺太国境画定標石。愚生も偶々発見し、直ぐカメラに収めた。菊の御紋章まで刻印してある斯様な大事な物が、殆ど放置に近い状態で置かれてゐる事に、怒りを禁じ得ない。

 この通り、我が北方の領土は、樺太の南半分及び全千島列島と国際条約に仍て確定し、以降

日露間に於て領土割譲などに関する条約は一度も結ばれた事は無い。大正六年(西暦1917

年)、この地球上で始めて誕生した赤色国家ソヴィエトも、大正十四年(1925年)に締結した日ソ

基本条約で、ポーツマス条約の法律的有効性を明確に承認してゐる。

  ロシアがこのソヴィエト時代、北方領土領有の法的根拠としてヤルタ協定(昭和二十年・西暦

1945年)をよく引合ひに出してゐたが、御存知の通りこの協定は三カ国(アメリカ・イギリス・ソ

ヴィエト)の密約であり、それによつて我が国の領土が法的に割譲されるものではない。その証

拠に、このヤルタ協定論では北方領土領有の法的根拠にならない事を弁へたからこそ、今では

それを言はなくなつたのであらうが、然し「第二次世界大戦の結果」といふのは、もつと乱暴な論

である。何れにせよ、ロシアによる北方領土領有の法的根拠などは一切存在しない事を、我が

国もロシアも知るべきである。

~続く~



 愚生は、北方領土の無条件一括返還の為の交渉及び、ロシアが過去我が国に対し行なつた

数多の蛮行を謝罪するといふ以外は、日露の首脳会談など行なふ必要は無し、と断言する。ま

して、①で述べた様に、ロシアの看過出来かねぬ妄言を、我が国自身が肯定するかの様な九月

二日にロシアで会談を開く必要などあつたのであらうか。歴史を無視し、ただ(領土を)返す返さ

ないとの事務的なかけ引きのみ行はれてきたのが、この北方領土交渉で、それが故に七十年

間も未解決で、この領土問題に於ける我が国民意識の低下を招いてゐるのである。

 扨此処で、弊塾発行機関紙「月刊 誠」第七十三号の今月の主張から、一部抜粋して北方領

土の歴史を極簡単ではあるが付させて戴く。

 

 江戸末期、御存知の通り我が領海に多数の異国船が出没し、威嚇を加へながら、我が国との修好を求めてきた。実に、修好とは名ばかりで、彼らが勝手に創つた近代国家の概念で、それに疎い有色人種の国家土地人民を搾取する事がその目的である。支那に於ける阿片戦争などの、白色人種の横暴に危機感を抱いてゐた我が国人は、その覆轍や侮りを受けんが為に攘夷運動に火が点くのであるが、如何せん国力無く、外国の恣にされてしまふ状況であつた。その国の中の一つに帝政露西亜があり、露西亜は当初より我が領土に食指を動かし、英国が対馬占領の用意があると、態々御丁寧に老中安藤対馬守と長崎奉行に警告しながら、実に対馬に不法上陸し乱暴狼藉を働いたのは、その露西亜であつた(文久元年・西暦一八六一年)。此の時、事の重大性を認識しながら幕府は傍観し、堪りかねた対馬藩主は国替へを願ひ出る始末であつたといふが、島民は老人や女子供を後方に退け侵略者(露西亜)と戦ふ姿勢を示し、また本土筑前の領民らが、対馬の惨状を知り、海を渡り応援に駆け付けた者が、三百名もゐたと云ふ。結局、この対馬の騒動は、自国の国益の観点から、ロシアの行動は条約違反とし、軍事行動寸前まで行なつた英国の力によつて解決した。幕府などは、端からロシアに全く相手にされぬ存在で、同年五月に起こつた水戸浪士らによる英国公使館襲撃事件(品川・東漸寺)で負傷した同国書記官オリフアントは、「当時、日本政府(江戸幕府)の臆病だつた事は甚だしいもので、ロシアと紛糾する事を恐れ云々」とある。また、当時ロシアが触手を伸ばしてゐた我が領土は、何も対馬だけではない。南下してきたロシア移民により、度々騒乱が起きてゐた樺太もさうである。日露の国境は、安政元年(西暦一八五五年)二月七日に締結された日露和親条約によつて、千島列島に於ては択捉島と得撫島の間に境界が引かれたが、樺太は折り合ひがつかづ、日本人と移住してきたロシア人との混在の地となつた。これは、その二年前の嘉永六年(同一八五三年)に長崎に来たプチヤアチンと、また同条約締結から四年後の安政六年(同一八五九年)ムラビヨフと幕府との談判でも分かるやう、樺太の境界を北緯五十度と定めるやう主張する幕府と、斯様に端から多大な譲歩を示す幕府を組やすしと見たロシアが、樺太全島領有の野望を捨てなかつた結果である。然し、抑々全千島列島も樺太全島も、全て我が国の領土である。侵略者に寸分足りとも領土を分け与へる必要など何処にもないのであるが、これも国力無き故の結果である。因みに、幕末の志士高杉晋作は、この決定に国辱と激怒してゐたといふ。

 慶応四年(同一八六八年)、御一新により、明治元年と改元、内に維れ新たまり、外に近代国家として第一歩を踏み出した。然し、幕末期に徳川幕府が結んだ諸外国との数多の国辱条約はそのまま引き継ぐ事になり、その条約改正が明治政府の関心事となる。樺太は、和親条約締結以後、露人の移住が加速し、次第に露人優勢の状況となり、度々衝突事件が発生した。明治二年、開拓使が設置され、現地調査を行なつた官吏などから、樺太出兵の建言がなされたが、政府の容れる所とはならなかつた。因みに、この時の巡見復命書によれば、樺太における日本人数は内地人二百八十九名、土着人三千百七十七名に対し、露人約二千八百名、また同年の英国士官の報告によれば、アニワ湾沿岸のみだけでも兵員を含む約千名の露人がゐたとされてゐる。そして、頻繁に起こる樺太での騒動に、当時早くから〝樺太放棄論〟を唱へてゐた黒田清隆(開拓使長官・第二代内閣総理大臣)ですら、樺太出兵建議をするに至つた(明治六年九月)。然し、この明治初期の外交三大懸案事項(対韓・台湾・樺太)の一つ樺太問題は、明治八年(同一八七五年)八月の樺太千島交換条約により、一先づ解決する事になる。これは、樺太全島を露西亜に譲り、宗谷海峡を境として占守島から得撫島の千島列島を露西亜が譲る、といふ条約であるが、正に「我物ヲ以テ我物ト交換シタルノ観」である。これも、国力なき故の悲劇的な屈辱条約でしかない。

 この我物である樺太の南半分を、条約により取り戻したのは、同じ明治三十八年(同一九〇五年)のポーツマス条約である。同条約は、日露戦争の講和条約であり、我が国としても大変な苦労をして締結した条約であるが、その事は割愛させて頂く。もし、興味のある方は、「ポーツマスの旗」(吉村昭著)を参照されたい。

 以上、江戸時代より露国の侵略行為と我が国力の無さに変転してきた北方領土は、ポーツマス条約を最後に「南樺太・全千島列島」を以て、我が領土と確定したのである。

~続く~

  扨、そんな九月二日に開催された日露首脳会談であるが、その際我々からみれば大変看過

出来ぬ事態が発生してゐた。それは、両首脳の記念品の交換、その品物である。
 
 我が国は、総理安倍が鎧甲を贈つたさうであるが、ロシアプーチンからは、何と驚愕すべき

事に、先帝即位の大典の際用ゐられたといふ、名刀一振りを寄越してきたさうである。この記事

を読み、我が目を疑ひ何度も読み返した人も沢山ゐた事であらう。如何してそのやうな宝刀を

ロシアが保有し、それを丁重に返還するのではなく、記念品の交換物として用ゐられたのか。

仮の話で大変申し訳ないが、若し愚生がその場に立ち会ひをしてゐたならば、斯様な宝刀を差

し出された時点でで顔は蒼褪め、申し訳無さや何やらで膝から崩れ落ちるであらう。そして、何

故それをロシアが所持するに至つたかその経緯とまた真贋の調査と、その宝刀を返還するので

はなく、記念品の交換として渡してきたロシアの非礼に抗議すべく、少なくとも今首脳会談の延

期ぐらい其の場で通達したであらう。

 然し、結果は如何であつたのか。首脳会談の延期どころか、プーチンが「これ(鎧甲)を身に着

けて仕事しやうか」と言へば、此の度対露経済協力相なる余りに国民を馬鹿にした担当大臣に

就任した世耕某が、「首相がこの刀を職場で使はないやうにしてほしい」などと吐かしたさうであ

る。見よ、これが政治家共の実態なのである。もしこれが、本当に先帝即位の大典の際に用ゐ

られた十二振りの内の一振りであれば、それは国家の宝物であり、畏れ多くも皇室の所有物で

ある。斯様な大事な我が国の宝物を、事も有らうかロシアから記念品の交換として差し出され、

それに驚愕せぬばかりか軽口を叩く―この日本人としての矜持を失ひ、臣下としての責務を全う

せぬ軽佻浮薄の輩が世を跋扈するから、我が国は亡国の一途を辿るのである。

 その一振り、真贋の程愚生では全く分からないが、如何やら戦後アメリカ、オランダに流出した

ものを、それをロシアが入手したらしいが、何れにせよ、占領軍として来た白人が、戦後のどさく

さに紛れ窃取していつたのであらう。白人による、他国のものに対する強奪窃取行為は日常茶

飯であり、云ふなら北方領土もさうである。何はともあれ、政府はこれを機に、国家皇室の宝物

をきちんと把握し、もし海外に流出してゐるものがあれば取り戻すべきである。嘗て、朝鮮の貢

物で当時宮内庁の所有物であつた朝鮮王朝儀軌を、恰も我が国が奪つたかのやうに云ひ、韓

国にあげてしまつた馬鹿総理がゐた。これなどは、事実誤認で皇室の所有物を勝手に政府が

譲り渡した悪しき例であるが、「文化財は元の国へ」がユネスコの精神である。渡すだけでなく、

取り戻す努力を政府は果たすべきである。然しながら、今回の様に、「我がものをもつて我がも

のと交換する」行為は、我が国が譲渡したもの以外、言語道断である。

~続く~

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