「エリアライフバランス」という考え方(Is)

馬場未織『週末は田舎暮らし ゼロからはじめた「二地域居住」奮闘記』
が面白かったです。
週末は田舎暮らし---ゼロからはじめた「二地域居住」奮闘記
週末は田舎暮らし---ゼロからはじめた「二地域居住」奮闘記

東京で暮らす普通の家族が、
週末、千葉の田舎に行き、
二地域に拠点を置いて暮らす。

その過程や、そこでの、それこそ「奮闘記」が
著者の馬場さんが、建築畑の人なので、
都市や建築のあり方をからめて語られていて、
(章末には20年来のご友人の東京R不動産の吉里裕也さんとの
 対談も載っていて)
色々と考えるきっかけになりました。

都市か田舎(農村)か
東京か地方か
いろいろ語られてきたことですが、
「二地域」ってところが、いまの感性なのだと共感しました。
「移住」ではないわけです。
両方欲しいってのが、本音という。

その中で、
「エリアライフバランス」って考え方が何気に出てきてるのですが、
(例えば、週末だけ田舎なら…都会5:田舎2のような。)
これは、発展させて考えられるアイディアだと思いました。
(栄養バランス、ワークライフバランス…、バランスは大事です。)

…というのも、いまのスマホのGPSがあると、
結構厳密に、その人がいた場所を記録できるわけで、
(Nikeのジョギングのプログラムみたいな
 …もうすでにありそうですね)
そうすると、
滞在したエリア時間ごとの住民税課金とか出来ないか?とか、
賃貸も、所在場所・時間ごとでの課金できないか?とか、
もちろん、今すぐは夢物語でも、
(考えてみれば、防犯カメラの解析で犯人特定とか、DNA鑑定とかも
 少し前には夢物語だったでしょうし…)。
健康診断の時は、その人の、エリアライフバランスシートを見せて
「最近、高都市ですね…農村度をもっとあげときましょう」のような。

無意識には誰もが感じていて、
年に何度かの「旅行」という形態で、いまはエリアライフバランスを
整えているのだと思うけれど、
段々と、物事の境界は淡くなっていくのが常なので、
旅行→二拠点居住→移住
というような中間的な選択形態が増えていくのかもしれないですね。

「心を飛ばせる自由と、体は飛ばせない不自由の間で生きていくしかない。」
というつぶやきが文中にあり、
確かにこの20年、IT技術の驚くべき発展で、
(1994年って、まだWindows95も出てないわけで、
 今みたいに老若男女が家の中でも町中でも四六時中、
 超高性能コンピューターを弄って超高速通信しているなんて
 夢物語ですよね。)
意思の疎通はすごく自由になったわけだけど、
身の自由は…どのくらい増えたんでしょうかね?
バブルの頃に比べると、都心の家は買いやすくは確かになったか…。
ただ、ワクワク度ではまだまだ余地がありそうで。
馬場さんの二地域居住は、そんなワクワクのひとつだと思いました。

ピカソの天才さ(Is)

(すごく久々の投稿ですが…)

『ピカソは本当に偉いのか?』 (新潮新書) 西岡文彦著、
ピカソは本当に偉いのか? (新潮新書)
ピカソは本当に偉いのか? (新潮新書)
クチコミを見る

良書でした。誰もが思ったことのある「ピカソの絵って美しいのか?」に
美術史から大変分かりやすく教えてくれます。
ずばり「美しくない」とバッサリ答えます。
しかし「驚異的に上手い」と。

ピカソの偉大さは、
宗教革命と市民革命によって教会と王侯貴族というスポンサーを失い、
権威を表現するという実用性を失った
(そして写真の登場により写実でも勝ち目を無くした)近代絵画が、
ちょうど20世紀初頭、
経済大国化したアメリカの新興富裕層の顕示的消費による
投機性に着目した「画商」という新ビジネスと相まって、
まさに時代の寵児として生まれたものだと
(そして、何より、その時代的要請をピカソ自身が天才的に応えた!)

プロ野球の長嶋茂雄や,漫画の手塚治虫のようなもので、
用の美から追放され自己言及的な前衛を表現する為の
「近代絵画」というジャンルに対応するスターがピカソだったのだと。

天才とは時代のなかで生まれることを痛感する著書でした。
(他にも、ピカソの生育環境や女性遍歴、
「美術館」の誕生や、ダーウィンの『種の起源』の出版とのラップなど、
かなり感動的でした!)

先日お亡くなりになった
宇佐美圭司さんは『20世紀美術』 (岩波新書)で、
20世紀美術 (岩波新書)
20世紀美術 (岩波新書)
クチコミを見る

20世紀前半のパリ美術の豊かさと、
20世紀後半のニューヨーク美術の不毛を嘆いてましたが、
21世紀は一体どんな時代として語られるのでしょう…。

「新作」って必要なのか?(Is)

『もしドラ』岩崎夏海さんの『小説の読み方の教科書』
良かったです(装丁も美しい)。
小説の読み方の教科書
小説の読み方の教科書
クチコミを見る

”この3作”として
ドンキホーテ→百年の孤独→ハックルベリーの冒険が素材に。
ドンキホーテは「史上最高の文学百選」でも第1位

小説を読むときに絶対にしてはいけないこととして、
「ストーリーの結末を予想しながら読む」ことと言っています。
そうしないと弊害が2つあると…。

ひとつ目に、読書というものを
「解けるか解けないかという作者との勝負」に堕してしまうこと。
(推理物というジャンルもあるが小説の本質ではないので
「ゲーム」のようなより合ったメディアが現れると、そちらに持って行かれる。
あたかも写真が出来て写実画が廃れ印象派が絵画の主流になるように。)

二つ目に、「作者に勝つこと」が目的となり、
結果として作者のあら探しになり、意外性のない結末だとダメなものとする
=面白く読まないことが目的となるという本末転倒になる。

結果的に一番存しているのは読者。
優越感を得たいが為に、成長するチャンスを逃している。
成長するために最も必要な謙虚さや素直さを無くした。
(このあたり、批判することが自己目的化して,
創造性を無くしてしまったポストモダニズムの哲学を思い出しますね)

本書の主張を大きく二つあげれば
1,岩崎さんは様々なエンターテイメント(映画、漫画、ゲーム…)
 を渡り歩いてきた中で、小説がエンターテイメントの王者ではないかと。
 なぜなら、全ての表現活動(芸術、エンターテイメント含め)は
 描くものを通して描かれざる部分により伝達することにポイントがある
 (あたかも書道は、墨を書いて、墨の載らない白紙の余白で訴えるように)。
 …この点は,最近のゲームや映画のCG技術の発達とか見てるとナルホドと思います。
 小説は言葉の芸術。原理的に「テクノロジー進化による表現の衰退」を免れると。

 また、小説は「物語」での伝達を用いる点も優れている。
 人間は直接的表現での動機づけよりも間接的なものにより心動かされるものだと。
 …この点も,納得ですね。
 近代小説の登場を待つまでもなく、神話や伝承など「物語」による伝達は
 ずっと行われてきた。

2,岩崎流、読書論(芸術論?)は、
  「問いを発生させる読み方」が最も正しいとする。
  「問う」という姿勢(スタイル)が「解答する」ことより重要と。
  (この辺り、近代的な常識とは逆ですね。学校教育とか。)
  かつてより、哲学者の役割のように、
  既存の価値や、根源的価値を「問い」により鮮明化させる=光り輝かせる
  ことが「問う」ことの価値であり、
  冒頭に戻り、そのために、小説を読むときに絶対にしてはいけないこととして、
 「ストーリーの結末を予想しながら読む」ことに×をつけるわけです。

で、面白いのが、そうしたダメな読み方から逃れる最善の読み方は…
…「再読」なのだと
(このあたり、ガクッと一瞬思いながらも,よく考えると深いです。)
二度、三度、複数回読むことで,読めば読むほど、
結末やプロット、ストーリーなどが背景に退き、
いわゆる「行間」が読めるようになってくる。
そこで、小説を読む本望たる「問いを発生させる読み方」が出来るようになる。

いわゆる「古典」ってのは、
数百年の時を超えての再読に耐え、
その時代毎に新しい解釈を誘うような魅力的な行間、
隙間に溢れているんでしょうね。

…そう考えると、
読むべき本って限られます。
月に一冊の小説読めれば上出来として,年に10冊前後。
あと50年生きても、500冊か〜。
クダラナイ新作読むよりは
「史上最高の文学百選」あたりを5回再読する方が
何か豊かなのかも知れない。
(小説は書き手以上に読み手の方がすごいのではないか!?
と思ったものとして、最近ではコレ↓)
村上春樹の短編を英語で読む1979〜2011
村上春樹の短編を英語で読む1979〜2011
クチコミを見る

…しかし、ココまで考えると、そもそも、
「新作」って必要なのかとも思えてくる。
「新作」って概念自体が近代的な商業主義のたわものなのかも。
>このあたりは、過去ログ「大人の同じ事言う比較社会学」参照
古典、旧作を繰り返し繰り返し,時代に応じて再読していくってほうが、
なんとなく成熟した時代にはあってる気もしますね。
(…クラシック音楽って、そういうもの?)

訳した>「完ぺきになるの、やめてみませんか」

ライフハッカーのこの記事(「完ぺきになるのをやめて本当の人生を歩こう、いや歩いてください」)で紹介されていたので、興味をもって原文を読んでみたところいい文章だったので思わず訳してみました。

もとは卒業式の「贈る言葉」です。
このスピーチの面白い所は、上の元記事でも触れられていますが、普通は卒業生を激励するような内容が多い中、この作家Annaさんは「あきらめてください」と伝えていることです。
どういうことか?気になったならば訳文を読んでみてください。

スピード勝負で訳したうえにけっこう意訳しています。難しい文もありましたので、間違いなど発見された場合はぜひ教えてください!(&人の協力も得ました。Thanks!)

以下翻訳文。

ANNA QUINDLEN'S COMMENCEMENT SPEECH
MOUNT HOLYOKE COLLEGE
MAY 23, 1999
原文:http://www.mtholyoke.edu/offices/comm/ope/Quindlen.shtml

本日こうして皆さんを見ていますと、25年前にバーナード大の卒業式に出席していた自分のことを思い返さずにいられません。とはいえ私は彼女と、つまり当時の私とほとんど共通点がないような気がします。スターバックスの入り口や飛行機の通路ですれ違う見知らぬ人との関係くらいにしか感じられません。あの日、彼女がどんな服を着ていたのか、日々なにを感じていたのかもまったく覚えていません。だけど、一つだけ彼女について確実に言えることがあります。

彼女は「完璧だった」のです。

こういうことです。あの頃の私は朝目が覚めたらというもの、それはもうありとあらゆる面で完璧であろうとしていました。試験があれば勉強して、論文の課題があればきっちり仕上げました。寮の廊下ですれ違うみんなに笑いかけました。人当たりがいいのは大事でしたからね。人を背中越しにからかったこともあります。気の利いたことが言えるというのも大事だったからです。

しかし完璧であり続けるのは大変でした。しかもしんどいことに、ルールがころころ変わるのです。1970年、私は完璧なプリーツ・キルト、完璧なモノグラムのセーターをトランクに詰めて入学しました。ところがクリスマスになる頃にはまったく別の装いになっていました。オーバーオール、タートルネック、ドクターマーチン。ニューヨーク・バーナード大の影響もしっかり受けていました。インテリ気取りで、ちょっと倦怠気味な雰囲気を装ってね。本当にしんどかった。サルトルもサッフォー(注:ギリシャの女流詩人)も読み終えたことがありません。あんなに退屈で寝そうになったことはありませんでした。

というのも気付いちゃったんですね。自分が世界一賢い女の子じゃないってことに。
月日が流れ、何年もするうち完璧でいることがまるで煉瓦でぎっしりのリュックを背負って歩いてるみたいな気がしてきたんです。内心ではそんな重荷、さっさと降ろしたくてしょうがなかったのに。

だから、本日あなた方にお伝えしたいのはこういうことです。

いまお話しした若い頃の私のことが、もしどんな形であれ少しでも身近に思えたのであれば。
つまりあなたがありとあらゆる面で完璧であろうとしてきたのなら、今日という日を、あなたの荷物を下ろす日にしてみませんか。なにしろ今日から取らなきゃいけない単位もありませんし、顔をあわせるクラスメートもいませんから。
私たちみたいな人種が、完璧であろうとしてしまうのは仕方ありません。なにしろ賢くて、野望に満ち、世界のことや良い意見というものに興味を持ってしまったりする我々ですから。
だけど完璧であるというのは、ある面では物凄く大変なのですが、ある面では安易で、たやすいことでもあります。

完璧であるためにまず必要なことは、「何がいつどこで起こりそうか」という世間の常識を読む、つまり空気を読むことだからです。いつどこでどうあるべきか、という空気を読むことが必要になります。そしてその場の常識に沿って一番必要な仮面がどんなものかを当てなくてはいけません。たしかに空気やら常識といったものは刻々と変化しますが、あなたが賢ければそんなものは読み取れますし、そして空気や常識が求める通りに取り繕うことができるでしょう。

でも、そうやって取り繕ったところで何ひとつ大事なものは生み出せません。意味のあるものも、美しいものも、面白いことも、そして素晴らしいものもそんなものからは生まれてきません。
本当に大変なのだけど、本当に素晴らしいこととはいったい何でしょうか。それは完璧であろうとしないことです。そして、あなた自身になろうとすることです。

これはさらに難しいですよ。というのも、読まなきゃいけない空気もないし、見本もなければ、かぶる仮面もありません。友人の期待には沿えないし、ご両親や知人の望みもカヤの外です。この文化が発しているいかなるメッセージも、いったん忘れましょう。なにしろ文化というものは広告やらエンターテイメントを通じて、あるいは何かを軽蔑したり認めなかったりすることで、あなたがどうあるべきかについてメッセージを送ってくるものですから。女は家を守り、男は外でリーダーたれ、などという古臭い考えはもう捨てなさい。ついでに、男社会の抑圧に対抗するスーパーウーマン、なんていう新古典風な図式もね。

ゾッとするでしょうけど、まっさらな白紙から始めるんです。
そして毎日、自分がなにを選んだのか見つめるのです。なぜそれを選んだのか自分に問いかけて、答えを探すのです。あなたが選んだものというのは、あなたがいったい何者なのかを表しているからです。自分が何になろうとしているのかを体現しているのです。
自分で何かを決めること、これは人生で一番難しいことです。
ありのままの自分でいること、それは内気だったり、ひょうきん者だったり、控えめだったりする自分であること。あるいはおバカさんだったり、思索家だったりする自分とともにあることです。

これからは、あの「素晴らしい彼ら」に合わせることのないように、意思を曲げぬよう強く持たなくてはいけなくなるでしょう。彼らが吹くパイプやフルートのマーチに合わせて踊ったりしないように。何しろ彼らときたら、あなたが専門課程に進むことを期待しているし、軍人になればいいのにとか、おへそにピアスをあけたらいいのに、などと言ってきます。つまり魂を譲り渡せと言っているのです。よくあるやり口です。彼らの奏でる音楽なんて、よく聞いてみれば実に安っぽいものです。自分の心に注意してごらんなさい。あなたの心から奏でられる、あらゆる音楽に耳を傾け、それに合わせて踊るのです。それは協奏曲であり、それ以外はすべて雑音です。

21歳だろうと、51歳だろうと、自分の内なる声に従うことが大変なことに変わりはありません。私はそれを経験で知っています。かつて、母親業に専念しようとニューヨークタイムズを辞めたとき、世界中から馬鹿者と言われました。小説家になった時にもう一度辞めたときも、やはり馬鹿だと言われました。
だけど私は馬鹿者ではありません。幸せ者です。私は、私の定義で成功しているんです。
というのも、もし自分の成功を自分で定義できなかったとしたら、それは結局成功とはいえないでしょう。傍目にはどんなに上手くやっているように見えたとしても、自分が心から満たされていないのならね。女流コメディアンのリリー・トムリンの言葉を覚えておいてください。
「競争社会で勝ったって、あんた所詮は競走馬よ」

ご自分の手をごらんなさい。顔の前で広げてみて。みんなそれぞれ、ぼんやりした形を授けられていて、みんなまったく違う形をしています。ここにいる誰とも、この国、世界にいる誰とも違っているのです。
その手指が、あなたという存在のメタファーです。
あなた方一人ひとりは、指紋のように異なっている。なのにどうして、横並びで、窮屈に行進しなきゃいけないのでしょう?
横並びはラクです。だけど、だからこそあなたは並んで行進すべきではないのです。なぜなら、人に合わせたり、人の顔を伺ったって良いものは一切生まれないからです。

若い作家が手紙で、私たちみたいに名詞やら動詞やらをひっかきまわして生きている連中の後に続きたいのですが、と相談してくることがあります。そういう時、私はいつもこんなことを伝えてあげています。
どんなお話だって、もう書かれてしまっています。あなたが一度でもアンナカレーニナや荒涼館、響きと怒り、アラバマ物語、あるいは五次元世界の冒険なんて作品群を読んでしまったら、もうこれ以上小説を書く理由なんてこれっぽっちもないとわかるでしょう。ただし例外があるとすれば、その作家志望の彼女にとって歴史上まだ一度も書かれたことのない何かのことでしょう。それは、彼女自身のことであり、彼女の人格のことであり、彼女だけの声のことなのです。もし彼女がフォークナーの真似ごとをしようとしているなら、家で寝てた方がいいです。あるいは彼女が読者が読みたいだろうと思えることばかり考えて書いて、自分が何者かを書かないのだとしたら、もう書くのはやめたほうがいい。

だけどもし彼女自身が本に反映されていれば、彼女が何者かがそこに書かれているのであれば、きっと彼女はいままでにない、素晴らしい贈り物を読者に届けたと言えるでしょう。彼女自身にも、ですけどね。
それが、音楽や芸術の真実です。最近、こんなことが書いたTシャツを送ってきた人がいました。「ソツのない女は歴史に残らない」。そんな人はきっと、いい弁護士にも、いい医者にも、いいOLにもならないでしょうね。人真似や、空気を読んでソツなくこなす人なんて世に溢れています。人は自分が望んだものになるのです。

こんなことはとっくにご存じのことでしょう。だから私は、念押しに来ただけです。立ち戻って考えましょうって。

1年生か2年生のころを思い出してみて。その頃あなたは、あなたの頭に響くあなた自身の声に耳を傾けていたでしょう。あなたはとても純粋で、空想的で、まわりの期待に応えて周囲に溶けこんでいかなきゃいけないなんて思わなかったでしょ。作家のCatherine Drinker Bowenが、半世紀も前にこう言っています。「ほとんどの男は、10歳の頃には自分が何者かを知っていたはずなのに、30歳になる頃にはそれをすっかり忘れてしまっている」。ほとんどの女でも、そうでしょうね。

それを忘れてしまうのは、あなた方だけではありません。私たちのような親だって、自分が何なのか分らなくなります。これはとっても愛はあるけどよくヘマをする、3児の母として申し上げます。あなた方がそれぞれ生まれたとき、ほかのどの赤ちゃんともまったく違う存在なんだと思うことが、それはもう幸せなことでした。あなたはこの世にたった一人しかいない奇跡なのだということを、今まで一瞬たりとも忘れたことはありませんよ。

でも私たちだってただの人なのです。親でいるということは何よりも大変なことです。さらに大変なことに、子どもという他人に、人としてどうあるべきかを教えるようになっていきます。しかしそれは、とても傲慢なことですよね。
何年も経つうちに、私たち親はあなた方子供たちが望んではいないようなことを、あなた方が望むように仕向けることが当たり前になってしまいました。私たちは大学への入学という道しるべに従って来ましたが、それはまっすぐで偏狭な道でした。そんな、実際にはどこにもたどり着けない道をあなた方にも望むようになりました。なにしろ私たちはそれが子供たちの人生をより良くしたり、楽にしてあげられると信じこんでいたものですから、そんな道をなかば強制することもあったでしょう。親というものは、いったいどこからが自分の人生で、どこまでが子どもの人生かが分からなくなってしまうものです。

だから、あなたが完璧を目指すべきでなく、自分自身でいなければならないもう一つの理由がこれです。
いつか、あなた方だって親になりたいだろうと思うからです。
あなたが自分の子ども達に、マナーだのマンネリな説教だのをごちゃごちゃと押しつけたりせず、またあなたが自身を外界から守るためにこれまで築き上げてきた予感だの恐れだのを彼らにも植え付けたりせずに、ただ「あなたが本当はどんな人間なのか」を伝えることが出来るのなら、それは子ども達にとってなによりも素晴らしい贈り物になることでしょう。

思い出してごらんなさい。若くて荒っぽくて乱暴だった、直線というよりは書き殴った線のようだった日のことを。自分のいいところも悪いところも全部思い出して。カール・ユングはこう書いています。「もし自分の中の目を覆いたくなるような部分も見られるように教育できるなら、仲間をもっとよく理解して好きになる方法も学べるはずだ。いい人ぶるのを少しやめて、自分に少し寛容になれば、他人を尊重できるようになる。なぜなら私たちは皆、自分自身を苦しめる不正や暴力をすぐに他人に転嫁しようとするからだ」。

大抵の卒業式のスピーチというのは、たいていあなた方に、何かに取り掛かれとか言うのでしょう。未来への挑戦をうながしたり、21世紀への展望を語ったりしてね。
だけど私はそんなことを伝えるかわりに、あなた方に「あきらめる」ということを知ってもらいたいのです。
その背中の重荷を投げ出してください。
完璧さを求める冒険、それは馬鹿げていて辛いばかりの道のりです。なのに私たちのほとんどの人が、人生のほとんどをそれに費やしてしまいます。この冒険を続けていると、私たちは自分を疑うようになり、そして卑屈になっていきます。本当の自分というものや、自分の癖や弱点、そして未知に飛び込もうとする姿勢を自然と軽視するようになっていきます。こんなひどいことがあるでしょうか。

でももっとひどいことがあります。
そう、きっといつか、今日みたいな天気の日に、あなたは世界のどこかにいるとしましょう。そこはバーモントの池が見渡せる土手の上や、夕日の沈むグランド・キャニオンの崖っぷちかもしれませんね。そしてその時、なにか良くないことが身の上に起こっているとしましょう。たとえば愛する人を失っているかもしれないし、何としても成し遂げたかったことに挫折しているかもしれません。
そのときそこに座りながら、あなたは自分の中心部分に入っていくことでしょう。自分をなんとか支えている核を探すためです。
そのとき、もし、あなたがずっと完璧で居続けたのなら、家族や友人や社会の期待に応えることばかりに必死な人生を送ってきたのなら、あなたの核があるべき場所には、ぽっかりと真っ暗な穴が広がっているばかりでしょう。どうか、決してそんなことにならないようにしてください。人生経験を一般化することばかりが得意で、幸福な人生を測るものさしをさも知っているかのようなことを聞かせてくる耳障りな合唱には耳を傾けてはいけません。

あなたの中から聞こえる、小さな声に耳を澄ませてごらんなさい。

きっとそれはあなたに、別の道を歩めと伝えてくれることでしょう。ジョージ・エリオットはこう書いています。「きっとこうだ、と思う自分になることに、遅すぎるなんてことは決してない」。

そして、早過ぎる、ということも決してないのですよ。そうすれば、世界はきっと、まったく違うものになるでしょう。
誰かに背負わされた荷物なんて、もう置いていきなさい。羽が生えたみたいに身軽な日々が待っていますよ。
<了>

震災後、言語化の要求水準が上がった?(RYM) (Re: ”目標”についての一考察(Is))

http://blog.livedoor.jp/daiyoji/archives/65981442.html
へのコメントです(コメント欄にはいらなさそうなので記事にしました)

上記記事で、Isの出した「目標」という話題で面白いなと思ったのは下記の個所です。

(引用開始)
大澤真幸さんの新刊『社会は絶えず夢を見ている』のあとがきに、震災に触れ、資本主義の終わりが決定的になったと書いています。
先の岡田斗司夫さんも資本主義ゲームの魅力が薄れてきていることをあげて、
(IT革命により、経済戦争に核爆弾が落とされたのだと。
もはや経済競争も世界戦争が意味を成さなくなったと)
『評価経済社会』が始まったといいます。

…震災から2ヶ月以上が経ちました。
何かが変わってきているのでしょうか?

(引用ここまで)

目標の立て方、といういたってパーソナルな行為に、たとえば、時代状況の変化が影響を与えうるか?という問い。
なんか与えるような気もするし、与えられないような気もする。どっちだろう…と考えさせられたので、その続きを書いて見ました。

目標の立て方にとって重要な要素は「自分にとって正確に言語化されているか」と考えます。その原則だけについては、時代状況は関与しないかもしれません。
1,000万という数字を持ちだす人も、本当にそれが心からほしい人には立派な目標になる。
だけど実は、その金額の提示を通して別のことを言いたい場合もある。本当は、家族とちょっとだけ贅沢がしたいな、とか好きな時間に働きたいなあ、と言いたかったのかもしれない。
つまり、いわゆる目標の立て方を下支えしているのは純粋に言語化の技術である。
自分をとりまく状況(家族、会社、個人的な欲望・・・)をできるだけ正確に言語で把握し、整頓し、できるだけ的確に表現する。

これはべつに左脳的で超具体的になっていくというわけではないのでしょうね。
自分にとっての正確さを追求した結果が、「20**年までに税引き後収入が****万円」みたいに数字になる場合もあれば
「夏の朝顔の匂いだけを求める一生」みたいな詩的言語になる場合もある。(例なので、自分でも意味はよくわかりません)

共通しているのは、自分とそれを取り巻く世界を自分なりに、可能な限り正確にとらえようとした結果であるということです。

例に挙げられていた岡田斗司夫さんがスマートノートの目的の一つに「語彙を増やす」ということを書かれていた。けっこうさらっと書かれているので無視されそうだけど、あそこはかなり重要に見えました。語彙が増えないと、我々は自分が本当のところは何を考え、何を感じているのかを理解できないから。

なので、震災前後でその原則は変わっていないのでしょう。あいかわらず、目標の設定にも、あるいは他人の説得にも正確な言語化が求められている。

もし震災前後で変わったことがあるとすれば、言語化の正確さの水準だと思います。
自他を取り巻く状況が要求する言語化水準が、はるかに高くなった、とは言えそうです。
多くの人をとりまく環境や、いままで気にもしなかった判断材料が急に頭に占められるようになった。

なにしろ、3月頭まで「原発」「住むべき町」「組織の腐敗」なんて真剣に言語化して検討していた人とかごく一部でしょうから。
少なくとも僕は、原発のことなんて半年前は脳内になかったです。考えざるを得ない状況になってしまったのは悲しいことですが。

それだけ変数が増えると、自分の人生の目標の表現に「1000万」みたいなざっくりした言語化が、もはや自分でもそぐっているとは信じられなくなってくる。それはもはや目標の意義をもたず、街の隅に刺さっている「世界人類が平和になりますように」の標語くらいの意味しかなくなってしまう。

震災後、「どうしたらいいのかわからない」という混乱した気分に襲われました。

未曾有の危機に混乱しているのは当然かもしれませんが、その混乱の一部は、いままでの自分の言語体系が、さっぱりアップデートされていないという感覚です。
住むべき街とは何か。家族と自分が生きていくにはどうしたらいいのか。仕事マジどうしよう。水飲んでいいの。俺の足元の地層大丈夫か。そんな個人的な話がまずある。あるいは、組織にとって腐敗とはなにか、国は国民を本当に守るのか、といったすこし広い話まで。
それだけのトピックが、脳内で「更新が必要です」ポップアップみたいに一斉に立ち上がった。
程度の差こそあれ、そういう人は多かったんじゃないでしょうか?

それをさばき、精神に平穏をもたらすのは、大まかに二つ手段があります。思考からの逃避(拒否)か、さらなる正確な言語化です。
一斉に襲ってきた懸念事項に対し、自分なりに納得した回答を、自分にとって理の通った解答を出せる能力が後者を選択した者はいきなり必要とされた。
そんな状況に今まで通り、大した混乱もなく言語化できた人は、よほど訓練された人だけではないでしょうか。自己弁護かもしれませんが。

その急な変化に対し、けっこうな混乱に襲われた自分は、考えているようで考えていなかったのでしょう。言語化の訓練が万全ではなかった。もうこればかりは、鍛えていくしかないのでしょうね。

ちなみにもうひとつの対処方法、思考を拒否するという選択肢。脳内に立ち上がった、「状況を再判断せよ」というアラートに目をつぶるという道も、間違った選択ではないと思います。

人には感じる時間が必要だし、それは人によって違う。即応すればいいというものでもない。変に結論を急いでも、二流の陰謀論の片棒を担ぐだけかもしれません。だから、まったく判断しない、混乱は混乱にまかせるという選択肢も、すぐれた見識だと思います。混乱をありのまに受け入れる度量が必要とされますが。

ただ自分は俗っぽいというか、悟りを開いた人間じゃないので、「言語化なんて幻想。混乱して当たり前、ありのままを受け入れ給え。let it be」みたいな発想にはまだ至っていません。いつか至るのかもしれませんが、いまはきちんと正確な言語化が必要だと感じています。

※ちょっと話題それて、言語化の不安につけこんだカルトが席巻するのも時間の問題かもしれません。ただそれは、必ずしも宗教という形を取らず、たとえばヒーリング本とか、悟りきった顔した詐欺師とか、反原発を装った利益団体の情報商材とか…といった気がします。ほんと関係ないけど。

で、最初の話題にもどると…目標の立て方は時代変化によって影響されるか?今回の震災前後で何か変わったか?という話ですが。

・目標は状況の言語化であり、それが必要とされている原理原則に変化はない
・ただ、状況の変化があまりに急であり、取り扱うべき対象が多岐にわたり、逼迫したものが増加した
・そのため、言語化が要求する水準が短期間に急激に高くなっており、それに対処できる者とできない者とで影響が全然違う

なんだか当たり前のことになってしまいました。

あの震災とそれからいまも続く状況は、我々にいやおうなく感じることを迫ってきました。
感受性の強い人ほど、それをなんとか言語化しようとしてもがいている印象です。感じるままに任せるか、より自分にフィットした言語化を行うかは人によって違い正解はありませんが、少なくとも後者の道を選ぼうとする者の多くには、いままでの水準の甘さを認識させられた数か月だったのではないでしょうか。少なくとも自分にとっては、そんな時間でしたし、これからもそれは続くと思います。

コメントにしては長くなったな〜。これももうちょっと正確な言語化が必要ですね。やはり修行が足りません。

”目標”についての一考察(Is)

「目標を持って生きる」
「成功の法則」
…自己啓発臭がプンプンにするセリフですが、
最近の仕事の中で、ふと思ったので書き留めておきます。

この1〜2年思い返すと、
目標や目的がはっきりしている仕事に関しては、
ほとんど目標を達成できた気がします。(+α付けて)
いついつまでに何するとか、月に何件何するとか、
数値化・具体的に正否が分かるものです。
逆に、漠然とした目標
「いずれは、こうしたらいいな〜」とかみたいなのは、
ほぼかなってないですね。
…というか、叶ったか叶ってないか判定できない。
結果、張りがなかった気がします。

子供の頃を思い返すと、
僕の場合、周囲に教育ママや教育パパのような人はいなかったので
(温かい放任主義だった)
特に、勉強を強いられた記憶はありません。
ただ、高校に関しては、小学校の終わり頃に
たまたま友達のお姉ちゃんの話を聞いて、
直感的にその高校に行きたい!と思い、
しかし、そのためには、それなりに勉強しなければ行けないと知り、
しかし、目標が明確だった分、3年間着実に勉強し、
ストレートに受かりました。
逆に、大学は何も考えていなかった…
が、故に、時期的に追い詰められてから、
急遽考えたのを覚えています。
それで、大学院は、また明確に行きたーい!と
思ったところが出来たので、これも、思ったことは実現しました。
『思考は現実化』してきたわけです。

男だと、勉強や仕事について思う人多いのかも知れませんが、
女性で見ても、明確に結婚したいと思ってる人はやっぱり
数年の誤差あってもしてる気がします。
逆に、明確に思ってない人(いつかは…)って人は、
やっぱりいつまでも…してない気がする…。

こういう話をすると
ソフトバンク・孫正義社長を思い出します。
孫さんのお金の話はほとんど分からないけど、
本人のキャラは相当好きです。多くの芸人より面白いと思います。
孫さんは、しばしば「登る山を決める」って言いますね。

こういうのは、昔から、ある程度知られてたことなんでしょうね。
ワタミの渡邉美樹さんなら「夢に日付を」って言うんだろうし、
中学陸上部員に驚異の成功をさせた元・体育教師の原田隆史さんは
「成功は技術だ」って言い切ります。
紙に書くのがいいのだと。

なるほど、たしかに、人生に「目標」や「成功」は大事だと思います。
そして、それはある程度テクニカルに再現可能なのでしょう。
そのプロセス自体、独特の緊張感や高揚感があり素敵です。

しかし、他方で、
それで満足できれば苦労しない!
と思ってしまうような複雑な気もします。

今、ポストモダニストとしてとても有望視してる
岡田斗司夫さんは『スマートノート』の中(p190)で
あなたを天才にするスマートノート
あなたを天才にするスマートノート
クチコミを見る

“大目標”を立てない理由として、
『7つの習慣』のようなものを、今はその効果を信じていない。と。
「なぜなら、「大目標」であればあるほど、
運や周りの状況による影響が多すぎ、
具体的なスケジュール管理は無理がある。」として、
具体的に、大道具さんの女の子が、
キムラクのドラマのダイアログ・ライターに偶然が重なってなった例を出しています。
「自分の夢や行動に効率を求めても仕方がない。
…自分の夢に縛られて生きることになる。」のだと。

社会学者・見田宗介さん的に言えば、
「明治維新以来の立身出世主義」(『現代日本の感覚と思想』)
が終わった。すくなくとも皆に共有されるようなゲームが終わったのでしょう。現代日本の感覚と思想 (講談社学術文庫)
現代日本の感覚と思想 (講談社学術文庫)
クチコミを見る


正直、「年収1000万円を目指す!」って(←目標の数値化!)
100%信じ切れて、周りの多くの人もそう思っている
時代は、ある種の幸せな時代なのだと思います。

大澤真幸さんの新刊『社会は絶えず夢を見ている』のあとがきに、
社会は絶えず夢を見ている
社会は絶えず夢を見ている
クチコミを見る

震災に触れ、資本主義の終わりが決定的になったと書いています。
先の岡田さんも資本主義ゲームの魅力が薄れてきていることをあげて、
(IT革命により、経済戦争に核爆弾が落とされたのだと。
もはや経済競争も世界戦争が意味を成さなくなったと)
『評価経済社会』が始まったといいます。

…震災から2ヶ月以上が経ちました。
何かが変わってきているのでしょうか?

追伸:この歳で改めて、《小目標》
(数年で実現可能くらいの明確に数値化・具体化できる目標)って
いいなと思いました…ってことが言いたかったのです。
…資格試験でも勉強しよっかな(笑)

首都圏住民の震災(Is)

3/11の大地震から、3週間経とうとしています。
自分は当日、たまたま九州出張中で、
直接の揺れも帰宅の困難も経験せず、都内に戻ってきました。

実際に被害にあわれた方の悲劇は、想像も出来ません。
…なので、ここでは、
この3週間の首都圏住民にとっての備忘録的のようなものを記したいと思います。
後に読んで、のんきなこと言ってたな…とならないことを願いつつ。

■まず1週間目は、
何より「買い占め」現象ですね。
(→これについては後述)
コンビニや、スーパーの棚のスカスカさは、
さすがに経験したことない光景。
(生鮮食品は、それなりにあった)
意外と、外食系は正常だった。こんな時期に寿司食った。
トイレットペーパーがないのはこれは国民性なのでしょうか?
今はウォシュレット普及してるし、最悪何とかなる気もするが…。
(1週間程度で解消してました)
で、ガソリン。車がすごい行列で、制限あったり。
これは、都内より、車ないと生活できない地方の方がひどかった?

で、土日開けて、仕事始まってまたひどかった。
「計画停電」。
電車の本数が数割間引かれて、
時刻表通り動かない生活が日常化するのは初めてなのでは?
電車もさることながら、
この時、飛行機乗ろうとしたら、
幼い子連れた家族が多く、すごい時間おしていた。(疎開!?)

ちなみに、買い占め(特に電池とか)は、全国的のよう(送ったりかな?)。

■2週目は、東京は3/22火曜日が雨で、
翌日、水道水がとうとう放射能汚染
(乳児の摂取量を超すレベル)で、
今度は、ミネラルウォーター不足!
これは、さすがにショックでした。
自治体が配ったりしてた。
近くのスーパーで懸命な判断だと思ったのは、
入荷はあるけど、店頭には出さず、
母子手帳持ってきた人に優先販売をしてた。
(水も、数日後には基準値を下回った。
水は、いぜんとしてあまり売ってないが…。)

この時期、都心の企業も節電就業で
18:00には帰るようになんてのも多かった。

被災地の報道が落ち着きだし、
遠隔地の被害も伝わり出す。
東京に近いところも、埋め立て地の液状化現象がひどいと。

テレビCMは、未だに自粛ムード。
公共広告ばかり。わずかながら解除されてきたけど。
3/24木、静かに都知事選が始まる。選挙カー控え。

■3週目。
死者1万人、行方不明合わせて、3万人に近づく。
街のデパートなど、ひどいもの。
場所によっては、2〜3割の売上と(7〜8割減!)
(とはいうものの、二子玉ライズの開店はそれなりに賑わっていた。
ユニクロの試着に30分並ぶ…ので止めた。新宿店はガラガラ。)

原発の収束がよく分からなくなってくる。終わるの?
作業員募集、日当40万とか、
国有化?株価減?社長入院!
大きなものが倒れ、大きく価値観が変わる、僅かな時間に。

3週間経って、直接被害はない首都圏住民としての感想。
影響は上記の程度(!?)
…しかし、ボディーブローのように、
普通の生活する人たちにも、澱のようなものが貯まってきてる気がする。
この「自粛ムード」ってのは、
阪神淡路の震災の時もあったのだろうか?
自分はまだ学生だったから、会社や街中についての鮮明な覚えはないが。

テレビは影響大きいですね。実際、子供にはあまり見せるなとか言われてる。
大人にも、少しずつ影響あると思う。
3/30水・石原都知事の花見禁止令は…どうなんじゃやろ?
気分転換大事です。「バカ番組」とか重要と思う。
ラジオ、比較的よく聞いた。

「買い占め」…もそうだけど、
実感としてそんなにヒドイ人見なかった
(スーパー色んな時間帯に行ったけど)。
しかし、テレビやラジオでは判で押したように
「買い占め止めよう」「節電しよう」が連呼されて、
3週間眉間にしわ寄せてシリアス顔で過ごすのは、
けっこうしんどいと思った…それで、被災者の人に
どのくらいプラスがあるのか?
(経済活動の萎縮による悪影響の方がある気もする。)
ホントに節度ない行動は、現場レベルで注意すればよいので、
大きなとこでは、あまりにマジメ・自粛モードを煽るのは
(ぜったい、そんなつもりはないんだろうけど!)
これは考えものだな…というのは今回の教訓。

生活に潤いをと思い、花を買うようになりました。
青山フラワーマーケットじゃないけど、
「Living With Flowers Everyday」です。これは積極的変化。

その他に考えたこと。
■エネルギー、原発、放射線とか。
これが、直接被害は少ないけど、間接的影響を受けた
首都圏の人にとっては、一番身につまったことだと思う。
しかし、現実問題、どのくらい死活問題なんだろう?
(これから夏のエアコンの時期になると死活問題化する可能性あるが…)
むしろ、結果的には省エネ化を進める荒治療の効果もあると思う。
住宅の断熱だ、省エネガラスだ、太陽光発電だのイニシャル(最初の)導入費は
結局、(毎日の)ランニングコストとの比較なので、
電気代上がれば普及は進むわけで。

原発、何も知らなかった。
というか、放射線の発見から100年の歴史を振り返り勉強する機会になった。
原発の危険性の結果を知っての価値判断だから
バイアスかかりまくりだけど、
科学すごいと思いました。
結果だけ知ってる素人が、その歴史的努力を一刀両断したくない。

「価値観が変わる」って簡単に言ってしまうけど、
何か象徴的な出来事で変わるというより、
30〜50年単位の大きな変化が既に起きていて、
その間に、それを象徴化しやすい出来事があるのだと思う。
草食系や、嫌消費、シェア、FREE、自転車とか
若い人の生活スタイルって、確実に
エネルギー必ずしもかからないものに移行してきてると思う。
そっちのほうが、いいと。

■一極集中について
ただ、東京一極集中は、この20年くらい、
むしろ進んだように思う(…データとしても言えるかな?)
この転換点になるかどうかが興味ある。
やはり電車で1時間以上かけて通勤するスタイルは、
象徴的には帰宅難民だけど、
毎日往復で2〜3時間がなくなって、
家族とか過ごせれば、これはすごい変化。
このあたり、「道州制」への進むきっかけになれば、出来れば、
ただの悲劇ではなく、歴史的な意味とできる。

■科学や専門家、信じることについて
これもすごい変化というか、意識化した。
「科学」的に、まったく異なる見解がある。
「専門家」ってのも、
「御用学者」という嫌な言葉も覚えてしまったが、
立場上言えないことがある。…給料もらってるし。
もちろん、理念的には、科学者がこうあってはならないのだろうが、
科学者もまた、子を持つ一人の親、
生活を守る義務がある…みたいな。
すごく考えた。誰が悪いのだろう?
村上春樹の「システム」のスピーチを思い出した。
結局、最後は、「信じる」ことのみが意味を持つように思った。

■著名人の対応
ツイッターやブログが威力を発揮した、
著名人の日常的な息づかいが分かった。

佐々木俊尚さんや岡田斗司夫さんの
一見不謹慎な(佐々木さんは「不謹慎ディナー」と言ってた)
日常生活を変えないスタンスは魅力的に見えた。
集団的なムード、空気がつくられ、
それになびく自分を感じた。
近くに、不謹慎な大人が居ることは心強い。

糸井さんは、めずらしく「非常時モード」になっていて、
こちらはこちらで驚いた。
でも、自称、「町人」としての
出来ることをする態度は、自分が目指す方向と思った。
自分は、出来ることしかできない。
人に強制もしたくない。


まあ、とにもかくにも、
今は、原子炉の沈静化を祈るのみです。
直近の現場で作業されてる方には、ホントに感謝します。
被災された方に対しては、
自分は日常の職務を全うし、
小さな協力(節電や募金や)する程度しか出来ないですが、
日本を端で持ち直す塵のような努力をするだけです。
数年後に、いろんな「一体感」は強まった時だったと思いたいです。

メメント・モリ

ちょいと、保険のことなど考えなきゃナーと思い、
でも、実際、どのくらいの確立で自分は死ぬのかな?
と疑問に思い調べていると、
「年齢別死亡数及び死亡率」という統計が出てました。

それでは、年代別の1000人当たりの死亡数が出てるのですが、
それをみると、
30代〜40代はそれほど変わらず、だいたい1000人当たり一人が一年間に亡くなる確率です。
これは、実感としてもそうかなーって感じだと思います。
「1000人」って数字は、顔の見える範囲は超えてますよね。
一つの学校や、大きな企業、
一応、同じ組織に属してるなーとは思えても、
一人一人人間的な深みの持った関係を築ける範囲ではないです。
はっきり言って、他人事です。
…なら、保険なんか必要ないかとも思ったのですが、
1/1000×20年(30〜49歳)=1/50と考えると、
30〜40代、子どもがいれば頑張って働かなきゃいけない期間ですが
その間全体で考えたときに亡くなるのは50人に一人
…これは、結構リアルな数字ですね。
クラスや部署で、顔の見える範囲で人は亡くなります。
…他人事ではない、自分にも降りかかりうるとリアルに思える数字です。
やっぱり保険入った方がいいのかな…。

さて、その上は、ちょっと先のことですが、
50代あたりから確率は上がり、
50代は毎年1/200だから、10年で見ると、20人に一人。
60代は更に上がり、毎年1/100だから、10年だと10人に一人
…結構ロシアンルーレットくらいの感じですね。
でも、実際、定年後同窓会の話とかを聞くと、
クラスの数人は亡くなっている(名簿に※印がついていたり…)
するって聞くので、そうなのでしょうね。

…格言で「メメント・モリ」(=死を思え)と聞きますが、
とかく、医療と福祉が発達し、核家族化の進んだ近代社会は
死の遠ざかった社会だと言われます。
でも、こうして統計的な数字からは、
死は決して遠くないとも言えます。

なんとなくですが(握り拳するほど、力説する気もないですが)
「死」が今生きていることを逆説的に輝かせるってのは、あると思います。
死をスマートに隠蔽する近代社会ならではのメメント・モリってのを
顕在化させる仕組みとかを考えたいです。

…例えば、毎年正月に、1/100サイコロをふって、
その、死の偶有性を体感するとか…
1の目が出たら、ヒェー!みたいな。

経済成長か共同体か

漠とした不安、将来への展望の無さ、…
それが日本人で20,30代くらいより若い人には、
(超超超一部の、日本人としてではなく生きていけるような人以外は)
なんとなく多かれ少なかれ感じてるのが今日この頃だと思います。

で、その最大の原因は解決策を共有していないこと。
(戦後の焼け野原や、昭和30年代が、今の数百、数万分の一の生活レベルでも
 いくらか明るいところがあったとすれば
 それは、解決策が明確に共有されていたからでしょう。)

で、いろんな人のいっていることを色々聞いていると、
それで明快になるかというと、むしろ余計こんがらがってくる。
たちが悪いことに、自分の割と信頼のおける先人同士が対立的な立場だったりする。
これは、混乱を招きます。

その典型が、「経済」。
「景気回復すれば…」っていうお題目が、
…よく分からん。
もう日本はダメだ、財政破綻するんだ…
なんて、半分諦めモードなのが、
山崎養世さんや、鈴木亘さん。
どちらも、僕はかなり中立的な論者として読んできたので、
この数年の悲観論はドキリッとさせられる。

と思うと、上念司さんは、絶対、日本の破綻はありえないと。
なぜなら、日本は変動相場制だから。無理に破綻させようとすれば、
極端に円安になり、こんな技術力有り優秀な国民をこんなに安く仕事頼める
…と言うことで、仕事に溢れV字回復すると。
また、戸堂康之さん(←教えてくれた友人のYくん、ありがとう!)
も経済成長、特にグローバル化が重要!という立場。
その点では、野口悠紀雄氏もそうで、
氏は、日本企業の脱工業化を主張。
伝統的な日本企業の水平統合型(社内で全てまかなう)から
垂直分業型(企画設計などは先進国で、組み立ては賃金の安い国で)へ。

藻谷浩介さんは、やや立場が違って、
デフレだとか不景気に脅えるのは止めましょう。
原因は、そんなことじゃなくて、「人口の波」という単純な事実ですよという立場。

さて、他方で明快なのは、浜矩子さんで。
浜さんは、明確に、経済は2番と言う。
経済成長するなとは言わないが、しても現在の問題は解決しないと。
浜さんは解決は二点。「地域主権」と「市民主義」だといいます。
つまり、自分たちの問題を自分たちの顔の見える範囲で主体的に解決できるような
社会になることが第一。そうすれば経済もついてくると。
逆にそうでないなかで、いくら景気よくなってもちっとも幸せにはならんと。
その点は、宮台真司さんも同様で、
宮台さんも、テーマは「共同体の再構築」。
しっかりしたベースとなる共同体がある人が、
その愛すべき共同体を守り、還ってくるために、
メチャクチャ激しいグローバル競争に乗り出せるのだと。

…なるほどと。
こうして議論を見ていくと、なんとなく実感が出てくるのとして、
ある人は、あることを前提として、それを言わず、
その先の議論をしてたり、それで、反対の主張に(一見)見えたりする。
でも、実は、俯瞰すると、そんなに主張は対立しないようにも思える。

まず、結論として、
今、一番足りない、解決の第1位に重要な解決は、
僕は、「共同体の再構築」だと思いました。
内田樹さんの言葉を借りれば(2010.1.8内田樹blogより)
 資本主義は口が裂けても「共同体の再構築」と言うことは提言できない。
…共同体に帰属していれば、耐久消費財のほとんどは「買わずに済む」からである。
…経済的に互恵的・互助的な共同体を形成すると、
資本主義的な消費活動は一気に鈍化する。
…(けれど)資本主義社のみなさんにご配慮いただきたいのは、
限界を超えて「原子化」した人間はもはや消費活動さえ行わなくなるということである。


経済的な解決は、やっぱり第2位だと思います。
でも、そのことを、多分誰も否定はしないんじゃないかな?
だって、経済成長論者の方も、皆、
「日本」(という共同体)がグローバル化市場の中でどう生き残るか?
って設定が前提にあるのですから。
誰も、日本が消滅しても良いとは思ってない。

大澤真幸さんの「ナショナリズム論」によれば、
グローバル化が進めば進むほど
(グローバル化以前には想定していなかったが、反対に)
ナショナリズムが勃興したと。
その理由は、「ナショナリズム」とは
グローバル化による根拠消滅化への防衛機制なのだと。
(これは分かる気します。
 自明生が崩れるほど、根拠〜仮にそれが虚構だとしても〜を求める。
 ママの腕の中では、必要ないものです)

ただ、論点は次の段階で、
その「共同体」の想定が人によってまちまち。
何となく、今の1億超だと大きいんだろうな−。
それを1000万人くらいの範囲とする道州制のようなものなのか、
もっと数万人くらいの(東浩紀さんのルソー論のような)
小さな町レベル(漠然と誰々の友達、家族でつながりのある)なのか、
(ちなみに藻谷さんも「コンパクトシティ」による観光振興を挙げてます。)
「家族」(あるいは岡田斗司夫さんのような、
ペットや、ネット縁のような、メタ家族)なのか、
その辺の【共同体の規模】の議論は第二段階としてあるのでしょう。

しかし、もう一度まとめて、
第1位に重要は「共同体の再構築」による
安心や、価値の根拠の拠り所をつくること(何、誰のためにがんばるのか)。
その上で、今の生活レベルを維持するためにも、
先進国なりの経済の在り方
=賃金の安くできる国とダンピング合戦=デフレ化するのではなく、
先進国ならではなの頭脳労働や、感性、脱工業化し、
グローバルマーケットで高い価値のある商品に特化する
「産業構造転換」((c)野口悠紀雄) すべき。

〈明るい未来〉のない生活は意外と苦しい
…と言うことが最近分かってきた気がします。

追伸:そういえば、ワタシの修論は「コミュニティ論」(のようもの)でした。
ぐるっと回って、原点に戻ってきたような…。

物語化できない共同体

社会学者・大澤真幸さんの新刊
『「正義」を考える 生きづらさと向き合う社会学』
「正義」を考える―生きづらさと向き合う社会学 (NHK出版新書 339)
「正義」を考える―生きづらさと向き合う社会学 (NHK出版新書 339)
クチコミを見る

を読んで、最近、自分が感じてたこととかがまとまる感じがしたので、まとめてみたいと思います。

まず、タイトルの「正義」ってのは、
最近のサンデル・ブームにちょっとあやかって(…NHKの新書だし)ってことで、
本質は、「生きづらさと向き合う社会学」の方にあります。

第1章で、角田光代さんの非常に評価の高い『八日目の蝉』から入り、
なぜ、それが高い共感で受け入れられたかを分析し、
現代社会は、「物語化できない人生」に満ちているからではないかと問題提起します。

それは、哲学者マラブーの「新しい傷」概念を援用すると、
従来の精神分析のように、仮に辛い体験があったとしても、
それを受け入れることで、悲劇かも知れないけどそれが人生の一場面に
統合されるようにする手法が効かない
=「解釈学的内面化の出来ないリスク」が現代社会に蔓延し始めたのだと。

そして、その理由として、
(ここで=第2章でサンデルを援用し、
功利主義→リベラリズム→コミュニタリアン…→アリストテレス主義)
共同体が成り立たなくなってきているとします。
人間は共同体の中で役割を与えられることで、
自らの生に「物語」を与えられ生きていきます(コミュニタリアンの立場)。
しかし、現代社会では〈資本〉(=それは狭義では経済の資本主義ですが、
より広義には近代の、
欲求を先送りする態度全てに当てはまるダイナミズムな運動を指します。
第3章)

今や〈資本〉の徹底化により、
共同体が崩壊、
それをベースにしたアリストテレス主義→コミュニタリアンの足場もなくなる。

そこで、どうするか、
第4章以降、大澤理論社会学が全開します。
キー概念として「普遍性」を出します。
なぜ、「プロジェクトX」に我々は涙するか、
それは、単に一個人、一企業の利益を超えて、
日本人、日本社会への貢献が、それらにはあるから
(他方、ホリエモンの成功には国民的な普遍性はない)。

けれども、ここが大澤のアクロバティックなとこですが、
第5章、
普遍性にはふたつあるとします。
ヒントは、なぜ、我々が古典に感動するか。
ダメな解説は、古典作品と現代社会の文脈の共通性を探そうとしますが、
それでは、ダメだと。
むしろ、全く共通点などないにもかかわらず感動する点に古典たるゆえんがある。
そこでは、どんな文脈化からも逃れる残余の部分
その普遍化・文脈化との葛藤・違和こそが〈普遍性〉となるのではないか。
そうした〈普遍性〉、つまり「私が何であるか」という文脈化に回収されない残余
=「自己に対する否定生」
(=自分は日本人であって、男であって、○○の社員であって…に
 回収しきれない残余…それらだけではないという否定生)
による連帯こそがあり得るのではないかと結んでいます。

さて、ポイントは、
「共同体(個を包む中間集団)⇔資本(無限の拡大運動)」
と読めます。
そもそも純粋無垢な〈個〉というのは、多分幻想で、
現代社会は、安定的な個を生む「共同体」が資本の運動(グローバル化)により
弱体化している。だから、個人も相関的に「生きにくい」わけだと考えられます。

ここまで分析を固めると、
そうした現代社会で、皆、それぞれの解答を模索してると分かります。

例えば、
社会学者宮台真司さんは、
丸劇トークオンデマンド 第507回(2010年12月30日)「課題ははっきり見えてきた」の中で、
「共同体の再構築」を今年のテーマにすると言っています。

また、岡田斗司夫さんの、新しい家族に対する提案
も、ペットや、アニメのキャラも家族とみなしてOK!という立場で、
ハードルを下げた共同体主義だと言えます。

また、ソフトバンクの孫正義社長が「志!志!」と言うのも納得できます。
孫社長の周りだけは、昭和30年代的な普遍性を求める希望にに満ちた空気に溢れています。

ライフネットの岩瀬さんが、『日本の論点2011』の中で、
友人たちのなかで誰もがうらやむようなキャリアの人でさえ、
「自分にもっと合う理想的な職業があるのではないか」と転職を繰り返す様を
描写しています。

僕の感覚だと、
大澤さんの議論は、理論的に徹底させたもので、
いずれ、〈普遍的〉連帯を考えなければ行けない地点まで行くのかも知れないけど、
当分の間は、資本主義と共同体の再構築との均衡が課題だと思う。
その中で、岡田的な新しい家族像が模索されたり、
伝統的な家族や地域、はたまた、孫さん的な志共同体たるカンパニー(会社共同体)
のようなこれまであったものを時代に合わせて再構築していくことになると思う。
あるいは、村上春樹さんじゃないけど「物語」をつくる力を再度付けるとかね。

…こういう話になると、最後は、「経済」に対して、
どう僕らが態度を決めるのか?
それが問われているようにも感じる。
「景気」「デフレ」…どのくらいの人がどのくらい真剣に考えてるのかな?

価格破壊の現在と未来

『武士の家計簿』の著者を先日、爆笑問題のテレビ番組で見て、
とても面白かったので、本読んだら、こちらもすごくよかったです。
武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新 (新潮新書)
武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新 (新潮新書)
クチコミを見る


ちょうど、明治維新をはさんでの武士の凋落の中での
家計が分かり、なんだか、今とあまり変わらないなってとこと、
やはり、その当時ならではのことが分かり、良かったです。
例えば、当時は、武士階級であるがための出費が多いですね。
お笑い芸人が後輩におごってやるの何倍も「交際費」が出てます。

さて、この数か月、岡田斗司夫さんの
「金融経済から評価経済へ」というフレーズがずっと気になっていて、
あたかも、核爆弾の登場で世界戦争が終結したように、
IT革命により、金融経済が集結したのだという考え方が、気になります。
ビットはフリーに、アトムは原価にってのも、実感としてすごく感じる。

実際、この10年くらいを振り返っても、
まさに「価格破壊」したものってたくさんあります。
・衣料品 ユニクロ(ファストファッション)
・定食(250円の牛丼は安すぎる!くらいに感じる)
・通信料 (ブロードバンド)ヤフーBB
・パソコン 登場したころは10万円どころか20万円。今そんなの使うの専門家だけ。
・出版… 電子出版、Amazon、中古流通Book Off
・宅配… 80円から本送れる。
・CD(音楽ダウンロード)…3000円は相当高い。
好きなアーティストへの応援料みたいな感じ。AKBとか?
・ネット生保 ライフネット
・自動車 カーシェアリング(ニコニコレンタカーが半額。一日2500円くらい。オリックスも猛攻撃)
・航空料金 LCC

一度、この値段になれてしまうと、それ以前の価格がバカのように思えてしまう。

それで、逆に、未だ高いなと思うものも考えてみました。
・映画…の1800円はちょっと高いな。レギュラー1000円で、割り引いていくと500円くらいだと価格破壊と感じる。レンタルDVDとかは安いかな。
・JRも、私鉄に比べるとやや高いか?
・国内旅行…海外旅行と比べて、宿や食事の質に過敏になるので、必然的に高く感じる。
 でも、これは松竹梅の世界ですね。格安狙いなら、国内でも安く旅行は出来るか?

それで、最たる未だに高いものとして、ぼくは次の3つがあると思います。

A,住居費(=a.土地の未活用、b.建物の短寿命とLCC)
B,教育費 >>>学習費ではなく、学歴費…いずれ就職費になる?
C,行政費(税金)

この3つの価格破壊が、次の時代の仕事かな?
そうすると、本当に、お金で悩むことのない世の中になるのだろうか?

追伸:これ、未だに高いな~というもの(ジャンル)あれば教えて下さい。

量子論的な現代

村上春樹『1Q84』を読んで、
(過去記事→「村上春樹の新作を読んで」2009年06月16日
     →「『1Q84』再読」2010年03月10日
「他であり得た世界」についていろいろ考えていたところ、
まさに確信をついてくれる本が出た。
大澤真幸『量子の社会哲学』。
量子の社会哲学 革命は過去を救うと猫が言う
量子の社会哲学 革命は過去を救うと猫が言う
クチコミを見る

大澤の主張としては、
1、科学の大転換として、17世紀ニュートンの万有引力の定式化により
いわゆる近代科学が生まれたように、
20世紀初頭に、もう一度大転換が起きた。それが量子力学の発見だと。

2、科学と社会は相関的なものである。
科学の発見により、自己意識や、絵画・音楽など芸術含め、社会も変容する。
(あるいは社会の潜在的な変容が、科学の大転換として現れる)
例えば、無意識の発見『夢解釈』1900年。
社会学を学たらしめた古典マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』1905年。
キュビズムの萌芽「アヴィニョンの娘たち」が1907年(さらにその前にはセザンヌ)…などなど。

量子力学は、
近代的な常識(観測する主体が明確にある)には全く理解できないものだ。

確信である波動と粒子の二重性/相補性
(観測するまでは波動のように振る舞い、
いざ観測し始めると粒子になる!)

有名な思考実験の「シュレンディンガーの猫」の
「50%生きており、50%死んでいる猫」という、
我々の常識的な想像力からはイメージ出来ない状態、
それが比喩的な意味ではなく、50%50%が客観的な実在性があるというところに、
量子力学の不思議さがある。
(…キュビズムは、こうした感覚を絵にしようとした。)

…さてさて、
しかし、よく考えてみると、
こうした感覚
つまり、他であり得た可能性に実在性があることや、
50%50%で存在するってことは、あるような気がする。

例えば、僕らは、目の前にした人に
他ならぬ深みや、ただならぬ感覚を抱くことがある。
よくよく話を聞いてみると、
実は生死をさまようような経験をしていたり、
今と全く異なる生き方をしていたような経験をして
たまたま今の職業や、生き方をしていたりとか、
すごいチャレンジをして今の地位にいる人と、
単に与えられている人と、
社会的な(近代的な意味での)ステータスとしては同じでも、
何か「違う」重みや深さを感じることは、”ある”
…まったく、不思議なことではない。
常識的に、人を見る目があるか無いかというレベルである。

…見田宗介『現代社会の理論』の主張ではないが、
現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)
現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)
クチコミを見る

「現代」という時代(具体的には20世紀のどこかで、
国により異なるが、主に、高度消費社会化したあたり、
日本だと80年代あたり?)は、
近代社会の先端として現れながら、
近代社会の原理を反転するモノのように現れる。
「個人」という概念も、前近代の身分や家などに縛られた時代から
独立して個別な存在として独立して現れだした。
しかし、その徹底の先に、量子的な、あわい存在として
今、いくつかの感性に感じ取られ始めている。

評論家の岡田斗司夫さんの
昨今の主張の様々なもの
(金融経済の終焉と評価経済の誕生
 スナフキンとして生きるなど)
も、こうした社会変化を先鋭的にあらわしたものに思える。
「国民スナフキン化計画〜新世代のための人生のリ・デザイン」
(辻ちゃんexという新しい家族論とか笑える。)

岡田氏曰く、
真の「岡田斗司夫」というものはいないと。
Aさんにとっての岡田像
Bさんにとっての岡田像
…その総和
(そのなかでは、岡田斗司夫自身にとっての岡田像もその一部にすぎない)
こそが、しいていえば真の岡田斗司夫なのだと。

…こうした科学の発見と関係する
社会の変化、自己意識の変化は
良い悪いではないと思う。
(どの時代にも、その時代なりの善・悪、幸・不幸がある
…ただ、移行期の歪みとかを多く受ける、軽く乗り切るとかの差はあるか?)
しかし、確かに今、
固く分け隔てられた「個」とは異なる
新しい時代の個人の生き方が芽生えだしている
(また、その時代の移行期のひずみで苦しんでいる)
ように思える。
こうした試行錯誤の時代には、
色々、「意見交換」とかして、
幸せな生き方を模索していきたいです!

日本の行く末を思い悩む教育論(Is)

森嶋通夫『なぜ日本は没落するか』。1999年の本だが最近、岩波現代文庫に入った。2050年の日本を予測し提案している。
なぜ日本は没落するか (岩波現代文庫)
なぜ日本は没落するか (岩波現代文庫)

今では当たり前だが、アジア共同体を1995の段階で提案している。範囲については、文化の近似性から「東北アジア共同体」としている。

森嶋史観では、社会の下部構造は経済ではなく人間だと。そこで、教育について重視している。考えさせられるのが、10年以上に書いたものなので、いわゆる「ゆとり教育」推奨論になっている。…詰め込みすぎで考えることをおろそかにしてきたので、科目数を減らせと。(p134-)

賛成なのは、専門教育を教養課程より先にせよって部分(p139)。しかも、森嶋氏は大学定員を減らしたいらしく、専門コース2年修了で出たいやつは学士をやると。そうして残った人(そこで大学進学率10%〜20%くらいになる)に対して教養課程をやりたいらしい。
…このことは、僕自身、すごく納得させられる。実際、自分はそれに近いように学ばせてもらった気がする。今確立されている「専門性」っていうのは、いつでも現実の今から数歩遅れている。手にした専門性を、実際の現場で軌道修正できるようにするためにも「教養」は有効だと思う。専門性はヘタをすると、「専門性マニュアル君」や、専門性の盾に閉じこもる「専門性ひきこもり君」を増産することになる(…そんな現場をしばしば目にした)。

「教育」談義って、教育を純粋な意味で全く受けてない人はいないと思うので、誰でも議論に参加できて、
皆、それぞれ意見を持ってる気がする。

ちきりんblogでは、
6・3・3・4制に代わるものを提案している。
>「自分に絶望→他人に期待」(Chikirinの日記 2007-09-2)
僕自身は教育の一つの役割に「社会化」があると思い、
かつ、今は社会がどんどん複雑化している
(いわゆる成熟化。目標や幸福の多様化)
と思うので、もう少し早めに
一度、「社会」に触れさせるってのもアリかなと思う。

また、教育の役割として他にも「連帯」ってのも結構重要だと思う。
いわゆる集団生活の作法を学ぶって意味もあるし、
あと、他者への想像力獲得の場。
それでいうと、
自分は「60歳からの義務教育」ってけっこう良いのではないかと思う。
今の60歳≒団塊世代くらい
にとっては、まだ余生と言うには長い時間があり、
なんか、もう一仕事した方が、
本人にも、社会にも良いのではないか?
そこで、小学校的に(6年もなくても良いけど、2〜3年)
一斉に集まって同じ時と場所を過ごす。
これで、かなり、「孤独」にまつわる
社会保障の出費が減る気がする。
改めて、机並べた同級生に
今までテレビや新聞でしか知らなかったような
様々な社会問題が溢れていて、それを近くで感じることは、
「他者への想像力獲得」には有効だと思う。
現役時の肩書きは口にしない…とかマナーが出来たりして(笑)。
何より、…なんか、楽しそうだし。

…とかなんとか思ってたら、
熊本のケア施設で
そんな試みがあることが今朝テレビでやっていた。
>おとなの学校

「学び」や「学校」って
子供のことや、日本の経済力を
とかって議論だけでなく、ケアや生き方含め
もっともっと多用なひろがりを持てると思う。

…、むりやりまとめると、
戦後民主主義教育のなかで作られた制度が、
半世紀以上経って、
1,社会の成熟化
2,長寿命化
などの根底的な社会変化に伴い
教育も変化する必要があるんじゃないかということです。
(…こんなさっぱりまとまる話じゃなくて、
考え出すと、延々、続きそうです…)

東京は面白い(Is)

東京は面白い→日本は面白い→世界は面白い。
この順番なんだと思う。
小学校の頃、自転車で急に行動範囲が広がる。
せいぜい自転車で行けて、晩ご飯までに帰ってこれる範囲だったけど、
山があって、川があって、駄菓子屋があって、プラモデル屋があって、
学校があって、友達の家があって、塾があって…
そこはとても充ち満ちていたと思う。
今現在が退屈だから「ここではないどこか」へ行きたいと思いはしなかったように思う。
(そういう思いは、もう少し、大きくなってから出てきたのかも…)

最近、あらためて、身の回りの面白さに気づく。
要は「見方」の問題だと。
拡げる喜びがあると同時に、
掘る(選り分ける、入り込んでいく)そういう喜びがあることが、
いまさらながら改めて気づく。

東京の主要な街をリストアップするだけでも50をゆうに超える。
(23区の鉄道駅が400だそうです)
毎週末の休みを充てても、1年はあっという間に過ぎてしまう、
そこに毎年事のイベントなど重ね合わせれば、
この身一つには余りある贅沢さである。

僕たちの生きる基底的条件たる「地球」は有限である。
そして、僕たちの一生もまた有限である。
それに比べて、よのなかは面白いことで満ち満ちている。
それは、糸井さんや、みうらじゅんや、タモリを見ていればそう思う。

中2のCD(仮)(Is)

数日前のツイッター…
 「シェア」とか「レンタル」ってやっぱりポイントな気がする。
 【わざと借りる口実つくるために持たない】って振る舞いが一般化するのでは?
 僕も昔から好きな女の子に対してとか、今だと実家に対して、そうしてるかも…笑

>>RYMが以前から注目してる「持たない暮らし」のコンセプト。
何のため?ってのがまだ積極的には言えなかった。
この題目だけだと、まだ中野孝次『清貧の思想』的、疑問が残る。
清貧の思想 (文春文庫)
清貧の思想 (文春文庫)
クチコミを見る

ホントは欲しいんじゃないの〜、ガマンしてんじゃないの〜って、

しかし、「借りる(=関係性を創る)ための口実づくり」…のために
あえて積極的に「持たない」ってのは、腑に落ちた。
これだと、物質的な豊かさを目指す成長時代から、
コミュニケーションの豊かさを目指す成熟時代へってのにも合致する。

友人や家族関係だと、これは成り立つし、昔からたくさんあったのだと思う。
実家から、米だ味噌だ醤油だ送ってくるのも、一種のシェアのような気もする。
(醤油足りないからお隣さんから…の遠い版)

そう考えていくと
「ダンパー定数」の示す「親密な関係性の上限はせいぜい150人程度」
ってのがリアルに思い出される。
人間の生きられる時間の上限は思ってる以上に有限である。
休日が忙しいってのは、ある意味で幸せなことである。
忙しくて休日が取れないってのは、
ある程度はシステムの皺みたいなモノでしょうがないけど
それが、10年、20年と続くと、考えざるを得なくなる。

思い返すと、子供の頃はモノをよく貸し借りしてた気がする。
マンガ本や、ゲームカセット、
中学生くらいになると、異性意識してCDとか(笑)。
それが、バイトできるようになり、社会人になり…
いわゆる「大人買い」できるようになり、
気づくと、モノの貸し借りするより、買っちゃうほうが早い生活になっている。
アリエッティ…「借ぐらし」ってなんかいいですね〜。

幸福は「つながり」にあり(Is)

「パラサイト・シングル」「希望格差社会」「婚活」
というコピーの生みの親、社会学者の山田昌弘さんと電通の共著
『幸福の方程式 新しい消費のカタチを探る』より。
幸福の方程式 (ディスカヴァー携書) (ディスカヴァー携書 44)
幸福の方程式 (ディスカヴァー携書) (ディスカヴァー携書 44)
クチコミを見る


はじめに、これまでの分析。
戦後の日本は、70年代までは「家族消費の時代」。
核家族化が進み、並行して、3種の神器(テレビ、冷蔵庫、洗濯機)、
新・3種の神器(カー、クーラー、カラーテレビ)を、核家族で消費することで駆動した時代。
80年代以降、家電が「個電」化し(NIESや量販店…ダイクマとかありました。により安くなる。)、
またコンビニの普及で、深夜でもお腹が減れば買うことが出来る。
その果てに、「ブランド消費」(情報差異を消費する)ようになる。
で、現在は、それらの耐用年数が来ていて(期待が持てなくなり)、
また、グローバル化だ世界不況だ、人口減少だで、素朴に景気回復・経済成長をのぞめなくなっている状況。

それで、色々分析が進む中で結論として、
「つながり」が、今の時代の幸せを実感するキーワードだと言います。
前近代のような、伝統的なつながりと違い、自分で選んだつながりだと。
今後の消費は、そうした「つながりをサポートする消費」となるだろう
例として、ディズニーランドのお土産の缶のお菓子を挙げてます。
あれは、事前に行くことアナウンスした人と、
思い出話をネタにつながりを深めるためのアイテムだと。

そいえば、「菓子折」って社会人になってしょっちゅう買うようになって、
駅前にそれらしき店が多いことを再発見し、自分じゃあんな高いお菓子絶対買わないものが
すごく売れてる、これが「つながり消費」なんだろうと。

…いろいろ、考えること誘発されました。
で、やっぱり、「仕事」の領域が、重要なんだろうな−と思いました。
「つながり」の為の仕事として、
ワーカーズコレクティブみたいのが、もっと一般化するとか。
岡田斗司夫さんが、社員から社長が給料をもらうというオタキングexってのをやりだしたのは、まさにそう。

例えば、毎日、夕方4時〜5時には職場から解放されて、20分くらいで通勤出来たら、
確実にライフスタイル変わりますよね。(文化的支出は増える.毎日、美術館や演劇見に行ったり出来るし)
でも、今日日、マイホームは
「夜遅く帰って寝るだけ」というような仕事してる人じゃないとローン組めないものな…。矛盾してるけど。

…「つながり」に関して、こんな分類となるのだろう。

1:自分ー自分(自分の中の未知の部分とのつながり。探求。芸術・創作活動など)
2:自分ー他人(家族、友人、同僚など)
3:自分ー社会(公共性や、制度構築、カイシャへのつながり。地位・名誉・お金moneyを稼ぐこと)

近代過渡期(成長期)は、1と2を疎外して、3の割合が強かった。
それは、貧しかった成長期故に、分業により生産量を増やすことが(=社会化することが)
誰にとっても、貧しさを抜け出すために、優先順位強かった。
子育ても家族や地域でやるより公的な制度でまとめていくほうが
誰にとっても幸福戦略だった。
物質が行き渡った成熟期になったので、
方法としての社会システム化が、逆に、壁やくさびのように負の側面として感じられるように。
今後は、お金や社会分業(世界分業)を否定しない程度に、
3の分量をソフトに減らしていき、1と2を増やしていくのではないか?

分水嶺は、
例えば、日曜日、子供の運動会と会社の接待が重なったとき、
前者を優先することが一般化するような時代にいつ来るかな−?
…実は、子供・妻レベルでは既に移行していて、お父さんだけ前時代に生きてたりして。
誰もそんなにがんばってなんてのぞんでねぇよ!…みたいな。

…ちきりんblogでも、
「自立するよりも、他者との濃い関係性」が重要と提案してる。

「ダンパー数」という実験結果があって、
人間が深いつながり維持できる限界数は約150人程度だという。
お金は無限だけど(概念だから)、
生きて、起きて、動ける時間は、実はかなり限界があり稀少資源。
これを、親愛なる者たちと贈与し合うってことが、
もっともっと意識されるのではないか?
(親戚の集まりとか、大事ですよね。
細田守監督の映画『サマーウォーズ』みたいなのが、
今の時代に作られるのって潜在的なニーズがあるんだろう)

シャレとしての目標(Is)

人生の小休止。
少し腰掛けて、昔読んでた本を読み返す。
気流の鳴る音―交響するコミューン (ちくま学芸文庫)
気流の鳴る音―交響するコミューン (ちくま学芸文庫)
クチコミを見る


自分が生まれた頃に書かれた本なのに、
今でも、とても光り輝いて読める。
それだけ、問題意識が純粋なものなのだろう。

問題意識の基本モチーフは、
近代社会で生きる人間の問題。
どうしても、未来志向になり、今がないがしろにされる。
「今、忙しい。それどころじゃない!」は近代人の基本フレーズ。
では、〈その時〉はいつ来るのか?

比較社会学的に、前近代に生きる人や、
文化人類学のフィールドワークの成果を参照する。
そこで、松尾芭蕉が出てくる。
芭蕉の「奥の細道」、
面白いのは、「芭蕉は松島を目指して旅立つ、
…数々の名句を残して…松島に着く。
しかし、松島では一句も残していない。
…松島はただ芭蕉の旅に方向を与えただけだ。
芭蕉の旅の意味は、『目的地』に外在するのではなく、
奥の細道そのものに内在していた。」

芭蕉のような、〈今・ここ〉を楽しめる人でさえ
(ぼくはこういたった人の理念型は、
ちびまる子ちゃんの友蔵じいさんだと思ってます…笑)
「目標」は必要だったと言えます。
何らかの毎日の行動を秩序づける目標は必要だった。
しかし、その目標のために、〈今・ここ〉を味わうことが
阻害されては本末転倒。
家族のための幸せを思い、新築の家をローンを組んで買うが、
ローンの支払いのために、ほとんど帰れないくらい忙しく働く
…ってのは、まんざら笑い話でもない。

だから、「目標」設定は二重に必要なわけです。
目標ナシに日々を秩序づけるのは難しい。
けれども、設定した目標は注意しないと主客の転倒を起こしやすい。
だから、設定した目標が、仮のもの、目印に過ぎない、シャレのもの、
であることを、日々確認しないといけない。
松島は、そこにいたる旅を楽しむための準拠点にすぎない。
そのことを忘れ、目標達成の効率化だと、
新幹線やヘリコプターで行ってしまうのでは、
芭蕉の人生はないに等しい…。

同様のことを、つい最近の著作で言ってる方もいました。
弾言 成功する人生とバランスシートの使い方
弾言 成功する人生とバランスシートの使い方
クチコミを見る

「生きる目的」は手段。
長期的な目標を立てることを勧める本や人は少なくない。人生の目標や目的はどう考えるべきか。
突き詰めて言えば、人生は、目標や目的ではなく、過程です。
「人は何のために生きるのか」なんて考えはじめる人もいますがそんなの根源的なようでいて、 一番アホな質問。
しかし、〈目的〉や〈目標〉というのはすごく役に立ちます。
「目的」があると、過程が楽になるんですね。
目的を設定することで、〈視野は狭く〉なります。これが重要です。
…「目的」は自分の視野を狭くするためにあります。
人生という過程を楽しみたいなら、目的を立てるという手段無しでは難しくなります。
「ちょうど良い狭さ」というのは確かにあります。
重要なのは、「目的を立てる」のは人生充実させるための手段としてあるということ。[p61より]


生きること自体が、ひとつの〈ゲーム〉みたいなことなのかもしれない。

「革命テレビ」は何で面白くないのか?(Is)

TBSのソフトバンク提供「革命テレビ」つまんないっすねー(笑)。
他方で、ユーストはじめ、ネット配信の面白さは分かってきた。
テレビとネットが水油なのは、限定性と無限性の問題なのでは?と思う。
あと、大衆的かとニッチかという?

ユーストで面白いコンテンツって、孫さんの「光の道対談」とか糸井さんと矢沢永吉のトークとか、
…いわゆる【講演】の規模のものなんですよね。講演だとせいぜい数百から数千人。
それが全国(全世界)配信なので、だいたい1万人くらいが見ている。

僕は、専門性の高い、業界モノや、学問モノやの「講演」ってすごく好きなので
よく出かけますが、現実的に行ける限りはある。
それが、会場の臨場感とか別にすれば、とりあえず内容を見られるのは
すごく価値がある。今無料放送多いけど、
実際、入場料に近い課金あっても、見たくても時間の都合上見れないのは見ると思う。

一方、テレビ番組の特徴は、
(自身、すごくテレビっ子で、テレビ番組好きだけど、あえていえば)
…「タダ(無料)な割には面白い」ってことだと思う。
今やってる放送の大多数は課金には耐えられないレベル
…というか、これは棲み分けで、
CM方式で無料放送がゆえに大衆的な視聴(数百万〜数千万人レベル)という領域と、
金払ってでも見たいコンテンツ(ただし、規模は数千〜数万レベル)の領域。
(NHKのドキュメンタリーとかは例外的なコンテンツだと思う。)

もうひとつは、「尺」の有無で、
テレビは秒単位で超神経質に時間が限られている
…それゆえの洗練さやテンポの良さは長所で、
短所は、人間の自然なコミュニケーションを汲みきれないこと。
講演や座談会などは、目安の時間しか無く、1時間くらい延長は常識。(ライブのアンコールとか)
先日の孫さんのユースト対談も、4〜5時間くらい
(通常、人が集まって、飲み食いしながら、本気で説明したり説得したりしたらかかる時間
…つまり、「人間の自然なコミュニケーションの時間」)
グダグタだったり、仕切りも何もないけど、
でもこれ見れる人数、ネットの技術無ければ多くても数百人とかが
数万人単位に見られている。
これは革命的なことだと思う。

まとめ。
革命テレビは、テレビの周りに無数に広がる
「専門性高いが故にテレビの大衆放送には向かないが、
そこにあつまる数千人はお金払ってでも見たい」…というコンテンツの評価・紹介番組みたいにして
大衆性のなかに、専門性を取り込んだら面白いのではないか?

以前、セガの最後のゲーム機ハードとなった「ドリームキャスト」の宣伝のプロデュースで 
天才・秋元康が「2万人を500領域集めて1000万という数をつくる」と言うようなこといっていて
10数年経って、それが技術的に出来るようになったのかと思う。

「革命テレビ」本放送の30分は、
「続きはネットで」だらけで、
1週間、数百万の視聴者は、自分の関心領域外の専門性の扉をドンドン示されて、
それを時間制限無く堪能。そこで、あらたなムーブメントなりを
また、次週のテレビ本放送で評価、再レコメンドって流れ。
「革命テレビ」という管理主体がいないと
ただ、同好の士にしか届かない、数多のマニアック(でも濃い)領域(=ネット特有の)が、
偶発的に交差する。

今は徐々に「大衆時代」が終わってきて、
本のベストセラーとか特にそうだけど、
「売れてるが故にツマラナイ」とかが多くなってきた。
マスをコンテンツの良い悪いで見るのではなく、
偶発的な出会いのきっかけみたいに利用すること出来ないかな?
(王様のブランチとかって、割とそんな感じする。)

追伸:昔、「電波少年」出たときって、
すごい”革命”を感じた!
あれは、素人感(ほぼ無名の芸人)とアドリブ感が革命だったと思う。
「あいのり」とかもそうだったのかな?

移動をフリーに(Is)

岡田斗司夫の評価経済論の私的解釈まとめ。
…経済(business)自体は、定義を「交換による関係性の変化」と考えるなら無くなりはしない。

しかし、将来価値を先取り(金利だ、ローンだ)する貨幣貸与による「金融経済」は衰退する。

原因は、「IT革命」。IT革命により、金融経済の速度が極大化し、
一人勝ちしても、続かず。ビットはフリーに、アトムは原価に…なる速度がどんどん早くなっている。

結果、富者と貧者の差は”時差”程度のものとなり、成功は”偶然”性に左右されるものに。
=ギャンブル性が高くなり、人生をかける価値に疑問が…。

核爆弾により世界戦争が終結したように、IT革命により金融経済が終焉する。

金融経済後の世界は、「評価経済」が主流となる。
そこでは、”影響”を受けて、”評価”を返す。
技術の進歩により、交換の関係性を「お金」を介在させなくてもできるようになる。

このあたりから、自分の解釈。
金融経済=money=匿名の関係性。他者への無関心。(…お金さえあれば子供だって何でも買える。)
ゲーム性、ギャンブル性、遊びの要素が強い。
評価経済=Love=愛の関係性=記名の持続的な関係性。
さらに、評価経済には二領域あると思う。
評価経済A領域は、1000年以上前からある家族や地域といった身体の近因性をベースとする関係。
評価経済B領域は、IT革命により距離が遠くても、記名で持続的な関係構築が可能になった。

岡田議論を敷衍させていただければ、
金融経済から評価経済に完全移行するのではなくて、
なぜなら、金融経済の”遊び”の要素は、それはそれで「楽しい」からだ。
人間は匿名で無責任がゆえに出来るゲーム的な快楽も好きだ。
最低限のルールつくり犯罪化しなければ、金融経済による「本能の狂ったような欲望」も多分に残るだろう。

しかし、同時に、金融経済による生活の全域を覆う今の社会状況は確かに不安定すぎる。
アメリカの金融危機で、日本の実体経済が脅かされるのを僕らは経験した。
世界中の分業で超高性能のコンピューターが格安に買える街角に孤独にたたずむ姿は想像にがたくない。

なので、金融経済と評価経済の両方の交換の関係性が併存する、そのバランスを
ライフコースによって自由にとれるのが、次の時代の目標となる。

そこで、昭和30年代の血縁と地縁だけの不自由な人間関係にもどるのではなく、
評価経済B領域による、IT革命のおかげで出来た空間を超えた人間的な(記名で持続的な)交流の
より充実した実現こそを目指すべきだ。
ブロードバンド化や、光の道と同時に、「移動費」をフリー化すべきである。
民主党の高速道路無料化が骨抜きになっているけれど、
こうした文脈で考える必要がある。

アイディアの発祥の山崎養世氏によれば、
(地方の)高速道路無料化は、第1段階に過ぎない。
日本の流通・交通・移動システムを20世紀型から21世紀型に移すためには、
その後、電気自動車化+自然エネルギーの自動充電によるエネルギー・フリー化と
自動運転による自己ゼロと移動中の自由時間の確保(個人電車のイメージ)が必要。
技術的にはほぼ実用化レベルにあり、あとは政治的決断の問題。

…これってまさに〈未来〉ですよね。
タダ同然で、自動運転で移動できれば、
東京と九州を寝てる間に勝手に移動できる。
キャンピングカーみたいなお部屋化した自動運転電気自動車で、
日に日に日本中好きなところへ行ける。
別荘や、マルチハビテーションもすごく進む。
昼間東京で働いて、夕方仕事しながら、ご飯食べて、夜には地方の親の介護して、
深夜寝ながら都内に戻るとか、ぜんぜん出来ちゃう。
実質的に、ドラえもんの「どこでもドア」に近いこと出来る。
(深夜の睡眠時間を移動時間に充てるというスキームで。
その移動の空間が車というより部屋なのでアメニティ高い。しかも移動費フリー。
…どこでもドア出来たら地価って概念がほぼなくなるだろう…。)

僕らは日々想像力の柔軟体操してないと、
やれ結婚だ、30年ローンだ、教育費だ、35歳限界説だ、
お受験だ、親の介護だ、年金が足りないだ、相続問題だ…と、
「常識という名のレール」にどんどん振り回されていく。
…とはいうものの、やっぱり未来が明るくないと、
気持ちはうっ屈してくるし
…いやはや、岡田斗司夫さんの想像力には
『ぼくたちの洗脳社会』(1995)以来、常に刺激を受けています。

孤独な近代人(Is)

竹田青嗣+西研『超解読!はじめてのヘーゲル「精神現象学」』を読んだ。
超解読! はじめてのヘーゲル『精神現象学』 (講談社現代新書)
超解読! はじめてのヘーゲル『精神現象学』 (講談社現代新書)
クチコミを見る


ヘーゲル『精神現象学』(1807)
今から200年以上前の書物だけど
今の僕らにも切実な問いとして迫ってくる。

なぜなら、帯にもあるように、『精神現象学』の問題意識は、
「共同体から切り離されたい自由な個人となったときに、
人は、他者・社会・自己に対してどのような態度をとっていけばよいか」
にあるからだ。

日本において「共同体から切り離された自由な個人」が全域化したのは、
考えてみれば最近のことだ。
150年前の明治維新においても、
60年前の敗戦後民主化においても、
日本はムラ社会の原理を延命してきた。
(前者の近代化は国民の一部だし、…1965年においても第一次産業が過半。
 後者は「カイシャ」共同体において)
そういう意味では、
今の団塊Jr.世代あたりでは、定年まで同じカイシャを信じられる人は少数だろうし、
また、今定年を迎える団塊世代も、寿命が延び、第二の人生において
はじめて「自由な個人」の問いが切実な問いになってきた!

近代社会に生きる人間の「欲望」の本質は
「自己価値欲望」だと。…「みんな僕のこと認めてよ!」ってことだろう。
人間は社会的生活を営んでいるゆえ
「他者の承認」なしに実現することは原理的に不可能。
ゆえに、「承認獲得のゲーム」が近代的な闘争の焦点となる。

そして、こうした「自由の欲望」のせめぎあいが、
どのような条件によって克服しうるかの可能性として、
つまり、人間同士がいかなる条件下で
「自由の相互承認」の度合いを深め社会的に実現してゆけるかの原理として、
二つ、「事そのもの」と「良心」という概念を提案している。

「事そのもの」とは、まずは芸術・学問といった文化的な表現の領域を考えて良いと。
ある感動的な作品に出会い、「これぞ、ほんとうの文学!」「これぞ、ほんとうの音楽!」
(ひろく、「これぞ、ほんとうの教育!」や「これぞ、ほんとうの看護!」などまで広く考えられる。)
「事そのもの」とは、
第一に、そうした「これぞ!ほんとうの…」という目標とすべき〈理念〉のこと。
第二に、そうした理念を絶えず生み出している〈制度〉(…〈領域〉?)のことだと。
ポイントは、こうした制度は、
作品をつくる個人に対して外在的なものでもなく、
(そうした制度があるからこそ、個々の表現行為が成り立ち得るのだから)
個々人の根本であり、個々人を支えるものであり、個々人の「実体」でもある。
「さまざまな試行とと相互の批評が生き生きと行われることによって、
なにかしら『真実なるもの』が人びとのあいだに信じられる」。
「事そのもの」を経験することで、
自由な個人は他者や制度に対する感度を変えるだろう。
他者は上下関係の競い合う相手だけでなく、
ともに「真実なもの、真に意義あるもの」を求め実現しようとする仲間(ライバル?)
としての意味を持ち、
ただ私が評価されたいというだけでなく、
「自分が良い仕事をしたことを承認され評価されたい」と変わる。
…ヘーゲルはこうした「事そのもの」の思想を
共同体から切り離された自由な内面を持つ個人が
不安や孤独におびえ、どこにも真実なものなどないという
ニヒリズムの絶望に陥る危険性を十分予見し警戒し、その対抗策として構想していた。

ふたつめの条件として、「良心」というアイデアは、
宗教的倫理に代わる近代人の倫理思想としてのカントの「道徳」を発展させたもの。
「道徳」だと、神は超え得ても、社会で衝突する。
皆が自らの善きものを「道徳」として主張すれば、闘争となる。
そこで、
「良心」は、「全知」はないという認識にたち「善の多様性」を自覚することだと。
「良心」における新しい対立は、
複数の「理想」同士の対立(=イデオロギー対立)ではなく、
個別的なほんとうと、普遍的なほんとうの対立なのだと。
つまり、それは
「実存的存在」としての私と「社会的存在」としての私の対立として意識されるのだろう。

…なるほど、
ちょうど同じ頃、岡田斗司夫さんの話
「これがヒトの生きる意味だ」で、
ヒトは、ある時期からか
(言語を獲得→農耕化以降、急激に生存の不安から解放→文字の獲得→…
以降、産業革命や、グーデンベルグの活版印刷、メディアの発達、IT革命…)
メディアとして生きる存在になってきて
その観点からは、人生の意味は
 1,受け取る
 2,考える
 3,マネする
 4,伝える
に集約されると言っていたことと付合した。

また、岡田氏は、
そうした人間は、
「孤独な死を恐れるし、誰にも理解されないことを恐れる」と言っていて、
これは、
孫正義ソフトバンク代表が「新30年ビジョン」でも
人間にとって最も悲しいことは「孤独」と言っていたのとも呼応する。

…近代社会の問いは、まだまだ始まったばかりなのかもしれないと思った。
twitter(Is)
Categories
訪問者数

    twitter (RYM)
    Recent Comments
    訪問者数

    • ライブドアブログ

    トップに戻る